『かぐや姫の物語』アニメに反逆する、おんな【レビュー下巻】

 

【レビュー上巻】『かぐや姫の物語』「生命を吹き込む魔法」では、作品の表現方法における革新性について述べた。
本稿では、主にシナリオ面において、「竹取物語」という、日本文学史上の偉大なテキストに対し、高畑監督らがどのような意匠を加え脚色したのか、『かぐや姫の物語』の意図と哲学を探ってみたい。

kaguyahime05

「竹取物語」は、平安時代初期に書かれたものとされるが、詳しい成立年代も、作者も不明である。
内容の描写が非常に簡潔であることは前にも述べたが、それ故に、「何故かぐや姫が地上に降りたのか」、「何故月に帰らねばならなかったのか」についても謎に包まれている、ミステリアスな作品でもある。
写本が確認される室町時代までに改変された可能性もある物語だが、漢文によって書かれた原文はもとより、これ以前のものが現存しないことから、一般にこれを基本のテキストとして考えるのが一般的である。だから、高畑監督の『かぐや姫の物語』も、これを参考に脚色されるということになる。

今回の脚色において追加されている描写は、目につくものでは以下のとおりである。その他は細やかな修正を抜かせば、概ね「竹取物語」に忠実である。

■ かぐやの(超人的)成長と、翁・翁女とのふれあいの詳述
■ 都と山里との対比(「竹取物語」に、都に居を移す描写は無い)
■ 「わらべ唄」と「天女の歌」のモチーフ(新たな作詞)
■ かぐやの「罪と罰」についての言及
■ 山里の青年(捨丸兄ちゃん)との恋愛

本編では、「竹取物語」ではほとんど描写の無い、かぐやの赤ん坊時代の場面において、手を叩いて姫を呼び、待ちきれずに自分から走り寄って抱きしめてしまう翁の愛情豊かな姿が印象的に描かれている。
だが、ここまで共感を持って翁を描いておきながら、姫を授かった竹林で新たに黄金(こがね)を発見するあたりから、姫の心を考えずに貴族社会のお仕着せの価値観を押し付けて、私欲にとらわれてしまう心情の移り変わりというのは、見ていておそろしくもあり、またもの悲しさすら感じる。
「竹取物語」では、「おのがなさぬ子なれば、心にも従はずなむある(私の実の子ではないので、思うようにはならないのです)」と、貴族の求婚者達を牽制している場面があるし、また後にかぐやに結婚を勧めるのは、自分が死んだ後の、かぐやの生活を案じてのことであった。
周囲の貴族達はいざしらず、翁までもここまで冷徹に描いてしまうというのは、人間という存在が、美点と醜悪さを併せ持つものであることを強調するためだと思われる。
ここから、欲と邪念に支配される人間と、そのような煩悩の多くから距離をとる天人の、本質的違いが分かりやすく示されている。

kaguyahime04

ここで対照的に描かれ、人間よりも高度な存在とされる「天人」とは、どのようなものだろうか。
日本には、地域によって異なるいくつもの「羽衣伝説」という伝承が存在する。
これは、天から地上へ水浴びに来た天女=天人が、その美しさを地上の青年に目撃されたことから、羽衣を隠されて天界へ帰れなくなり、青年と夫婦として暮らすことになるというものだ。ここでは、天女の羽衣は、天界と地上を行き来するアイテムとされている。
結末は伝承により異なるが、比較的よく知られているのは、人間の妻になった天女が羽衣を見つけ、「竹取物語」同様、天界へと帰ってしまうという筋だ。
おそらく、かぐやが月の世界=天界で目撃した、地上の暮らしを懐かしむ「天女の歌」を歌う天人の境遇には、そのような経緯があったのではないだろうか。

ただ日本には、古来の神道と、海外から伝えられた仏教が混在した文化を持っているので、「羽衣伝説」や「竹取物語」で描かれる天人というものの定義が、どういった概念によるものなのかが、よく分からないところがある。
つまり、多神教における神の使いとしての存在なのか、または仏教でいうところの、仏の世界から切り離された、天に住む人のことなのかということが、いまいち判然としない。これは、天人が月に住んでいるという描写からも、疑問に感じる点である。

『かぐや姫の物語』において、この天人の定義に指針が与えられているのが分かるのは、高畑監督と、共同脚本の坂口理子による「わらべ唄」と「天女の歌」の詩の存在である。
これを抜粋すると以下のような記述が見られる。

まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ
まわって お日さん 呼んでこい
鳥 虫 けもの 草 木 花
春 夏 秋 冬 連れてこい
咲いて 実って 散ったとて
生まれて 育って 死んだとて
風が吹き 雨が降り 水車まわり
せんぐり いのちが よみがえる

※「せんぐり」順繰り、順番に

これは明確に、仏教思想による、死と生を何度も何度も繰り返すという生命の輪、「輪廻転生」の概念を、詩として表現したものだ。であるならば、本作においてはこの「輪廻転生」を基とした仏教の世界観にスポットがあてられているということが分かる。
「輪廻転生」を簡単に説明すると、仏教でいう「涅槃」=「一切の煩悩から解放された永遠の世界」に至るために、人間はその世界への鍵である「悟り」を拓くまで、何度も何度も死と生を繰り返すというものだ。
仏教思想では、輪廻転生の法則に支配された宇宙を、永遠の世界である「涅槃」以外の六つの世界から成っていると考える。

●「天道」寿命の長い天人の住む世界
●「人間道」苦楽が共存する人間の住む世界
●「修羅道」争いの絶えない阿修羅の住む世界
●「畜生道」本能に従って生きる、人間以外の生き物の世界
●「餓鬼道」鬼となった者が飢えに苦しめられる世界
●「地獄道」罪を犯した者が苦しめられる世界

これを総称して、「六道」という。

天道に住む天人は、人間を超越した存在であるが、仏教思想においては、その天人すら衆生の一部と考えるため、人間よりはよほど高等で神通力が使えるとはいえ、煩悩に悩まされることは変わらず、いずれ来る死からは逃れられない。
そして、仏教の教えに触れることができる人間界に住んでいないために、悟りを拓くこともできない、つまり永遠の世界である涅槃へ至るチャンスがないという。
よって、天人は死後、輪廻転生の理(ことわり)に従って、六道のどれかに転生することを余儀なくされるし、さらに死に際して、地獄をはるかに超える苦痛を体験せねばならない(天人五衰)。
ブッダという人間の悟りによりもたらされた、このような救いのない仏教の死生観は、天の享楽を楽しむ天人の側から考えると、自らの存在や価値観を否定される性質を備えたものであり、認め難い教えであるということが考えられる。
だとするならば、「輪廻転生」を表した「わらべ唄」、そこから派生した「天女の歌」とは、天人達にとって忌むべきものであっただろう。

かぐやは翁女に、地上に送られる前に「天女の歌」を聴いて地上に興味を持ったという、忘れていたはずの過去の記憶を話す。
かぐやはその歌を聴いたとき、地上に行くことを望んでしまった。そしてこのような望みを持つことは、天人の世界においては禁じられていたのだと思われる。
おそらくかぐやは、この「罪」によって地上に落とされたのだろう。天人にとって、苦しみのある地上に落とされること自体が厳しい「罰」だったのではないか。親心としての、黄金や十二単などの経済的援助はあったものの。

kaguyahime07

小さな変更点であるが見逃せないのは、かぐやに「夜這い」をかけた帝の描き方だ。
「竹取物語」でも、確かに帝は、かぐやに袖にされているのだが、天人から姫を警護する兵を供出したことで、姫から感謝の手紙を受け取ったりするなど、待遇が一段違う。
だが『かぐや姫の物語』における、天人達の月に帰る御行を見守る帝は、皇子達と同一のフレームに収まっていることから、彼らと同列と見なした演出がなされていることが分かる。
この部分からは、高畑監督の政治性をいくらか感じるところだ。
しかし、この原作にある皇子と帝の差異は、天人と人間の相克を描くには、確かに不必要な要素であるといえる。
また、もともとの「竹取物語」に、体制批判の精神が宿っていたことも事実だ。
かぐやに求婚した五人の皇子達は、その名を見ると、それぞれ史実に基づく人物であることが分かるからである。

未遂に終わった帝の「夜這い」があってのち、かぐやは、月に帰らねばならなくなったことを告白する。その理由は、「月へ帰ることを望んでしまった」からだという。
「地上=人間界に行くことを望む」ことで天界から追放されたかぐやは、「月=天人の世界に帰ることを望む」ことで月に帰される。
これはどういうことかというと、人間の世界にあこがれを持って地上に降り立ったかぐやが、反対に「人間の世界は悪である」ということを認め、天人の教えに従ったということになるのである。このことで、かぐやの罪は赦され、月への迎えが来たという理屈が成り立つ。
ここで驚くべきは、高畑監督らの脚本が、仏教思想を足がかりに、論理の積み重ねによって、疑問の多い「竹取物語」の設定を、きわめて明確に、あっさりと説明してしまったことだろう。

それでは、天人であったかぐやが、地上の暮らしをした経験は意味がなかったことなのだろうか。彼女が人間の世界において何を経験し、何を考えたのか考えてみたい。

かぐやが新しい屋敷で自分の居場所とした、以前に住んでいた農家を思わせる炊事場と、村里を模した小さな築山は、フランス王妃マリー・アントワネットが、日常の暮らしの逃げ場として使用した離宮「プティ・トリアノン」と、そこに建造した小さな村里を思わせる、おままごとのような「偽物」の世界である。
それでも、かぐやがこのような偽物に見出した小さな自然は、愛する野山や山里を離れ、都に住むことを余儀なくされた自分の、生きる意味のささやかな象徴であった。
何故、かぐやはそれほどまでに山里の自然を求めるのだろうか。それは、山里のわらべ唄と天女の歌にあった、「鳥 虫 けもの 草 木 花」が息づく、順繰りに繰り返される生命の豊かな奔流こそ、天人の世界に存在しないものだからである。

かぐやが、自分に求婚する皇子達に望んだ宝は、「燕の子安貝」「龍の頸の五色の玉」「火鼠の皮衣」「蓬莱の玉の枝」「仏の御石の鉢」であった。
これらの宝物は、「わらべ唄」にあった、鳥は燕、虫は龍、けものは火ねずみ、草・木は玉の枝、花は、花を植える鉢としてそれぞれ対応する。
宝物の内容は、「竹取物語」ですでに描かれているものなので、ここでの「鳥 虫 けもの 草 木 花」とは、高畑監督らによって、もとのテキストから逆算し作詞されたものであるだろう。
ここで登場した宝とは、自然を模しながらも、あくまでこの世にあり得ない形而上のもの、つまり「偽物」である。
かぐやは、偽物に囲まれ、偽物の暮らしをしていることに耐え難い絶望を感じ、彼女にとっての「プティ・トリアノン」である築山を「これは偽物だ」と打ち壊す。
そもそもかぐやは、天界の暮らしにないものを求め、地上にやって来た。しかし、屋敷での裕福な生活や、貴族や帝との恋愛、姫としての教養・作法の習得には、そのような価値のあるものは見出だせなかった。
しかし山里での暮らしには、確かにこの手応えがあった。前半で描かれた、鳥、猪、山里の植物などは、「偽物」に対し、意識して配置された「本物」の要素である。
だからかぐやは、山里での生活をすんなりと受け入れることができたし、都の全てを拒むという態度をとり続けていたということが分かるのである。

このかぐや姫という、人間外の存在の視点はまた、本当の生の実感を持って生きるという、人間の本来の願望が、人間自身が作った取り決めや価値観によって、希薄になりがちだという事実を、あらためて認識させるようなものになっている。
そして現在、そのような価値観がさらに形骸化され、同時に書籍やインターネットなどの知識が蔓延する社会に生きる現代人にとっては、さらにそれが得難いものになってしまっている現状があることを示唆もする。
このような考え方は、翁が貴族からもらってきた竹籠の鳥や、パタリロのような女童(めのわらわ)が手折ってきた桜の枝のような、ミニチュアの世界として、象徴的に描写されている。
宴の席で、御簾の外から「本物の姫ではない」と揶揄されたかぐや屋敷を飛び出して山里まで全力で疾走するのも、この絶望が根底にあったからであろう。

kaguyahime09

それにしても、この疾走シーンの、ただごととは思えない激しさというのは、何だったのだろうか。
それまでの落ち着いた華やかでやさしい印象の作風までも変質させてしまうような荒々しい線描で、画面は暴力的に揺れ、カメラワークは素早いティルト・ダウンを見せる。
このことから、おそらくこのシーンの前には、前述したような絶望以上の何かが描かれていたことになるはずだ。

祝いの席で酔客が翁に「姫の顔を見せろ」と絡んでいる声が、御簾の中にいるかぐやに聞こえる。
この不作法なかぐやへの美醜の興味から、貴族の男たちの身勝手な欲望が露見していることは言うまでもない。
そもそも貴族文化にあって、その価値観の中で庇護されているはずの貴族の男達が、酔っているとはいえ、慣例を破ってまで姫の美醜を確認しようとする行為は、不作法を通り越し、女性の意志を無視し「物」のように扱おうとする横暴な態度だといえる。
今までかぐやが「高貴な姫」としての訓練を積まされてきたのは何のためだったのか。美しい着物で身を着飾るのは何のためなのか。その本質に、御簾の中のかぐやは気づいてしまう。
それは、女性は男性の見栄や欲望によって搾取され、また女性はその価値観の中で美しくなろうと努力し、幸せを感じなければならないという、男性優位社会の現実である。
御簾という小さな枠の中に姫が置かれ、その周りを男達が取り囲むといった舞台装置において、かぐやが屈辱を受けるというのは、高畑監督による、優れて繊細で象徴的な演出だといえよう。
皇子の求婚を全て断るというかぐやの選択を目の当たりにして、目的を失って邸を出ていく教育係の相模の行動は、いままで全ての教育が、高貴な男との結婚のためにあったことを示している。

「私は物と同様だ」とかぐや自身がのちに漏らしたように、女は商品であり消耗品であるという事実について、かぐやは烈火のごとく怒り狂い、おそろしいスピードで疾走し、都を後にする。
これは男社会を否定した逃走であり、パンクロック的な精神を感じさせる、おそろしくも痛快な場面であり、ものすごくかっこよく作画されている。

このようなジェンダー論的な視点は、日本のアニメーションの現状をも示唆しているという見方もできる。
日本のアニメーションにおける、いわゆる二次元女性キャラクターへの「萌え」文化というのは、美少女を意識的に源流を遡れば、東映アニメーションの『白蛇伝』(1958年)における美少女キャラ、「白娘(ぱいにゃん)」に行き着く。
このキャラクターは、高畑勲と同じく東映動画に在籍していた宮崎駿が、大ファンだったと発言しており、この作品を観たことがきっかけで、アニメーションの仕事を志したという。
白娘(ぱいにゃん)は白蛇の化身であり絶世の美少女であるという設定もあって、このキャラクターは、可能な限り魅力的に表現されている。
それにしても、国策アニメーション作品『桃太郎 海の神兵』以来となる、長編アニメーション黎明期となる作品の時点で、既に観客が夢中になれるような美少女キャラクターを想像しているという事実は、日本アニメの業の深さというのを感じさせる。

hakujaden01

『かぐや姫の物語』におけるかぐや姫というヒロインからは、高畑勲監督の東映動画での初監督作『太陽の王子 ホルスの大冒険』のヒロイン、ヒルダを思わせるところがある。
ヒルダは光と影の面を持った性格で、心は絶えず正義を望みながら、如何ともし難い状況によって、悪事を行わなければならないという、アンビヴァレンスに苦しんでいる。
これはまた他の高畑監督作、『アルプスの少女ハイジ』の精神や『おもひでぽろぽろ』などの状況とも一致する。

そもそも、ヒルダの原型を求めれば、ロシアのアニメーション作家、レフ・アタマーノフの作品『雪の女王』のヒロイン、ゲルダにたどり着く。
東映動画在籍当時、高畑勲は宮崎駿に、ユーリ・ノルシュテインの作などを含めた、ロシアの名作アニメーションを紹介していたという。
それ以来ゲルダは、高畑・宮崎両監督のなかで、完璧な絶対的ヒロインとなり続けた。
ゲルダは、「スパシーバ(ありがとう)」という言葉を忘れない素直さと可憐さで、周囲の人々を好きにさせてしまう魅力を持ったキャラクターだが、彼女も、正しさの中に暗い情念を秘めた存在である。

二面性は重要なキーワードではあるが、私がここで指摘したいのは、ゲルダやヒルダ、ハイジ、じゃりン子チエなど、その他高畑監督作のヒロイン達が持っている、「高潔な精神」という共通項だ。
彼女たちは、私欲のために男に媚びることがない。主体性を持って、自分の力で前に進んでいく強さを持っている。
その姿勢は、観客に対する態度としても同様である。

日本の男性の観客向けに作られた、いわゆる美少女アニメは、観客・視聴者の欲望を、あらかじめ意識して想像されたヒロインで溢れている。
彼女たちは、男が喜ぶ服装で、可愛さを強調した媚びた声色で、画面のなかで媚態を晒している。
美少女キャラが、結婚や恋愛を禁じられている作品も多い。これはやはり、観客・視聴者がキャラクターに対し恋愛をするという前提に立った判断である。
これは、作中のキャラクターの自主性が剥奪された状態であり、『かぐや姫の物語』のヒロインが置かれた、自分の意に沿った恋愛が禁じられ、「本当の生を生きていない」状況に酷似している。

押井守監督も、『イノセンス』において同様の表現をしている。
『イノセンス』は、セクサロイドとして製作された、魂を宿した人形が、主人を惨殺するという事件が、物語の中心となっている。
ここでの「魂を与えられた人形」とは、声優に声を吹き込まれたアニメキャラのことに他ならない。つまり、そのような人形を性的な欲望の対象としているような醜悪さを風刺しているということだ。
そして、アニメーションという媒体が、観客の欲望を表面的に満たすだけの、ただの「商品」であり、「消費物」に成り下がってしまったことを弾劾するのである。

kaguyahime08

かぐや姫は、与えられた男性優位のシステムから必死の逃亡をする。
「わたしはわたしの価値観で生きる、おまえらのものになんか、なってやるもんか」
かぐやは、与えられた十二単を脱ぎ捨てながら、都の大路を、野山を一気に走り抜ける。
これは、現在のアニメーション表現を見続けてきた、高畑監督の心の叫びであるだろう。
アニメーションはただの商品でも消費物でもない。アニメーションとは、全ての表現に勝る芸術である。
この宣言が、凶暴な怒りの疾走表現に宿っている。
だからこそ、この場面は、きわめて感動的なのである。

 

さて、かぐやはこのような、欲望の穢れに満ちた地上を離れて正解だったのだろうか。
確かに、女性にとって生きづらい社会のなかで、意に沿まない生き方を強いられることは耐え難いことだ。
しかし『かぐや姫の物語』では、里山で幼なじみの捨丸兄ちゃんと暮らすという、もうひとつの生き方の可能性を垣間見せる。そのときにかぐやは、天人の世界に存在しない生の実感を見出した。
この罪深い穢れた世界のなかで、土や泥にまみれ這いつくばり、「鳥や虫や獣、草・木・花」とともに、互いを食い合い殺し合い、または慈しみ合いながら生きてゆく。
人間は翁のように、くだらない価値観に振り回され間違いも犯すが、反対にその情愛は、愚かだからこそ深くもある。
かぐやの心は、天人の世界よりも、そしてややもすると仏の世界よりも、人間の穢れのなかに「生」を見出すのである。
しかしかぐやは、自分が見出した本当の「生」を実際に生きることはなく、月に帰ることになってしまった。

本作の音楽は、高畑監督作には初めて曲をつける久石譲が担当している。
劇中の音楽でもっとも印象的なのは、やはり天人がかぐやを迎えにくるときの「天人の音楽」であろう。
久石譲は、インタビューにおいて黒澤の『野良犬』に代表される「対位法」を利用したと述べている。
劇伴における「対位法」とは、劇中のムードや意味とは、あえて逆の効果の音楽を流すことによって、かえって意味を強調し、観客の感情を揺さぶらせるものである。
天人が地上に降り、そしてかぐやを連れ去ってゆく場面は、おそろしく、また悲しいものであるのに、音楽は楽しげで軽やかなものになっていることで、非常に強い印象を、観る者に与えている。

かぐやが人間に転生しても覚えていた「わらべ唄」に続く「天女の歌」は、このように続く。

まわれ めぐれ めぐれよ 遥かなときよ
めぐって心をよびかえせ
鳥 虫 けもの 草 木 花
人の情けをはぐぐみて
まつとしきかば 今かへりこむ

ラストカットで月に映った赤ん坊の頃のかぐやは、天人としてではないかぐや、人間のかぐやである。
天人は、その長い寿命を終えたのち、またいつか人間へと生まれ変わる。だから、人間のかぐやに、翁や捨丸兄ちゃん達は、何度も生まれ変わり、またいつか会える希望がある。
この今までにない大きなスケールで、大上段から作り直した「あたらしい古典」ともいえるアニメーションは、高畑監督が望むように、真の芸術にアニメーションを昇華させている。

『かぐや姫の物語』は、百年以上の視聴に耐え得る、映画史、アニメーション史に刻まれるべき傑作であることに間違いない。

 

【レビュー上巻】『かぐや姫の物語』「生命を吹き込む魔法」




記事へのコメント: “『かぐや姫の物語』アニメに反逆する、おんな【レビュー下巻】

    名も無く地位無く姿無し へ返信する コメントをキャンセル

    メールアドレスが公開されることはありません。