『グスコーブドリの伝記』の隠された裏を読む

1985年に制作された『銀河鉄道の夜』と同じように、ベテランアニメーション監督、杉井ギサブローによる、宮沢賢治作品の劇場用アニメーションが『グスコーブドリの伝記』だ。

童話(小説)「銀河鉄道の夜」は、日本を代表する作家・宮沢賢治の、厳しい死生観や、静謐で謎めいた、かつロマンティックな魅力に溢れた代表作なのは言うまでもないが、アニメーション版は、この奥行きのある原作に加え、それを意外にも猫のキャラクターに置き換えた世界観を考案した、ますむらひろしのキャラクター原案(漫画による)はもちろん、作画の精緻さ、前衛的な美術の美しさ、細野晴臣による実験的な音楽…ちょうど電子楽器でアンビエントなど幻想的な曲作りをしていた時期にうまく適合していた…など、子供のための映画ながら、その総体的なクォリティの高さに、幅広い層に根強いファンがいる、アート・フィルムとしても非常に人気の高い作品である。

というわけで、自動的に今回の映画、『グスコーブドリの伝記』にも当然期待が集まるところだが、制作途中に、制作会社のグループ・タック(『銀河鉄道の夜』も作った)が破産し、手塚プロダクション(かつて杉井が在籍していた)に企画が移ったというようなトラブルや、制作費など、いくつかの事情から完成を急いだというような外部的な要因や、そもそも『銀河鉄道の夜』が、当時のアニメーションとしてはとくに例外的に大きなバジェットであったことを勘案すると、両者にクォリティ面での差が出てしまうことは仕方がないことなのかもしれない。
実際、『グスコーブドリの伝記』は、作画が終始不安定で、そもそもキャラクターのデザインも、同じくますむらひろしのキャラクター・原案を使用しているにも関わらず、オリジナリティに欠け、センスをあまり感じない。
また美術も、CGのエフェクトやフィルターの使用が多い割には、近年の日本のアニメーションにありがちな、ただ無計画に描きこんでいるだけの、凡庸で創造性の無い出来になっており、音楽も保守的で、取り上げられるような部分が見つけづらい。また、今回は主題歌を用意したことで、神秘性も大きく損なっているように感じられもする。
よって、純粋に作品の出来を見た限りでは、『銀河鉄道の夜』と同等にはとても比べられない…というのは確かなところではある。

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しかし、だからと言って『グスコーブドリの伝記』に見るべき点が全く無いかというと、そうとばかりもいえない。

『グスコーブドリの伝記』には、それでもなにか非常に奇妙な印象があって、ただ凡庸な作品と切り捨てるには、無視できないゴロッとした違和感を感じるのである。
その違和感の多くは、原作と映画が、いくつかの点で大きく描写が異なっていること。そして、それらが原作の持っている美点を、明らかに殺しているように見えることからきているだろう。
しかし、原作と大きく異なっているならば、そこには何らかの制作者の意図があるはずだ。
漏れ聞くところによると、制作が困難ななか、監督は完成していた後半のシーンをあえてカットしたという。その理由のひとつには、「噴火描写は、東日本大震災を連想させる」という配慮もあったようだ。
しかし、ここではそれ以上に、原作とは異なる「何か」を表現しようとする意思があるはずである。
それをちゃんと突き止めるということをしなければ、作品の公平な評価自体が出来ないということになる。

原作「グスコーブドリの伝記」は、グスコーブドリという少年が、過酷な環境のなかでも、優しさと向上心を持ち続け、人々のために献身的に働き、犠牲になって飢饉を止めようとするまでの一代記である。
映画の筋との相違点を明らかにするため、あらすじを紹介したい。

イーハトーヴ地方(岩手をエスペラント語風に賢治が呼称した架空の場所)のある森に、グスコーナドリというきこりの家族が住んでいて、グスコーブドリはその家の息子だ。ブドリにはネリという妹がいる。
森を含めた地方一帯に、寒波による飢饉が襲ってきて、ある日、衰弱した父親が「おれは森へ行って遊んで来るぞ」と言って出て行ったきり帰らない。母親もその後父親を探しに出かけたきり帰らない。
すると、「私はこの地方の飢饉を救けに来たものだ」と、「籠をしょった目の鋭い男」が現れて、ふたりきりのブドリとネリに食料をくれる。
男はうまいこと言ってネリを籠に入れると、「おゝ、ホイホイ、おゝ、ホイホイ。」とどなりながら連れ去ってしまった。男は人さらいだったのだ。
ひとりきりになったブドリは、食べるために、てぐす飼いの男や、オリザという穀物を栽培している、山師の赤ひげを手伝うなど、数年にわたり農業に従事していたが、不作のため赤ひげの家が落剥しブドリを雇えなくなったことと、ブドリが学問に目覚めたことで、中心都市「イーハトーヴ」へと出かけ、そこで大学校のクーボー博士の授業を受ける。
そして、その知識を認められたブドリは、イーハトーヴ火山局のペンネン技師に紹介され、そこの研究職に就いた。
ある日、地震をきっかけに、サンムトリという火山が噴火する様子を見せる。サンムトリ市に被害が及ばないよう、火山局は決死隊を編成、そのかいあって熔岩流は海の方へと流れ、町は救われた。
数年にわたり火山の仕事をこなしていくブドリは、農家のために窒素肥料を散布したことで、農家の人々に袋叩きに遭ってしまう。肥料の入れ方を間違って農家に教えた農業技師が、オリザの倒れたのを火山局のせいにしてごまかしていたためだ。
治療のため、病院に入院しているブドリの部屋に、なんと生き別れになっていた妹ネリが噂を聞きつけてやって来る。
連れ去られた当時、彼女は、面倒くさくなった人さらいに捨てられ、その場所の近くの牧場の主人に拾われ、3,4年前にとうとうそこの牧場の一番上の息子と結婚したのだという。
ブドリは、それからの5年間、赤ひげの家に礼に行ったり、生まれた男の子を連れてネリがブドリの家に泊まりに来たり、楽しい日々を過ごしていた。
てぐす飼いの男が、当時ブドリの父の亡骸を見つけ、ブドリには知らせないようにその場に埋め、樺の枝を立てて墓標としていた…ということも人づてに聞いた。そこにブドリは石灰石の白い墓を建てた。
ブドリが27の歳の年、また寒波がやって来るということが分かり、酸鼻をきわめた飢饉を経験しているブドリは、「カルボナード火山島を人為的に噴火させることで、大気中の炭酸ガス(二酸化炭素)を増やし、地球の温度を上昇させる」という対抗策を講じようとする。
ペンネン技師によると、その作戦を完遂するためには、どうしてもひとり島に残って犠牲になるしかないという。
ブドリは、ペンネンがそのひとりになろうとするのを押しとどめ、自分がその身を犠牲に、カルボナード火山を爆発させる。
そのとき、イーハトーヴの人達は、青空が緑色に濁り、日や月が銅(あかがね)色になるのを見た。
その年はいつも通りの作柄になり、たくさんのブドリの子供時代の家族のような家庭が、その冬を楽しく過ごすことが出来たという。

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ここで描かれる物語は大体、「ブドリの立身出世」、「自然の厳しさ、農作業、冷害・飢饉による悲劇との闘い」、「妹ネリとの別れと再会」、「火山の研究、災害防止と有効利用」、「自己犠牲の精神」などに分けられる。

大きな流れにおいては、映画もそのストーリーを踏襲してるといえるが、まず気づかされるのは、世界観の大きな変更である。
映画の冒頭、冷たい氷のような、敷き詰められた玉のような世界から、グスコーブドリのいる世界を覗くように物語は始まる。
ここで提示され、劇中において何度も出現する「もうひとつの世界」は、原作には無いものだ。

原作では、グスコーブドリが眠る場面が何度も出てくる。
彼は働き者だか、てぐすを投げたり、オリザを植えた沼畑を耕したり、火山の研究所で働くときに、決まってしっかりと睡眠をとっている。
賢治は、働くこと、そしてその前によく眠ることを、セットとして考えていたようだ。
映画では、この「眠り」の箇所に、「もうひとつの世界に足を踏み込む」という、新たな意味付けが成されている。
ここではむしろ、「銀河鉄道の夜」における、眠りや夢の使用法と酷似しているといえる。
実際にこの夢の中では、『銀河鉄道の夜』に登場するキャラクターがふいに現れたり、「銀河ステーション」に足を踏み入れるというように、ここでは意識して『銀河鉄道の夜』の世界とのリンクが行われていることが分かるだろう。
そして、さらにそれ以外にも、この夢の世界には妖怪変化、魑魅魍魎、裁判所、ノスタルジックな町並み、芝居小屋などが登場する。

じつは、賢治の「グスコーブドリの伝記」には初期稿が存在する。それが「グスコンブドリの伝記」である。
そして「グスコンブドリの伝記」には、さらにその前身となった、「ペンネンノルデは今はいないよ」という創作メモ、さらにそれ以前に、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」という物語が存在する。
「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」は、ネネムという森の化け物が主人公の、立身出世の物語だ。そのあらすじはこうだ。

これは「化け物界」の物語である。
森に化け物の家族がいて、ネネムはその家の息子だ。ネネムにはマミミという妹がいる。
森に飢饉が襲ってきて、ある日、衰弱した父親が「おれは森へ行って何かさがして来るぞ。」と言って出て行ったきり帰らない。
母親もその後、同様に出かけたきり帰らない。彼らは「ばけもの世界の天国」に行ってしまったという。
すると、「私はこの地方の飢饉を救けに来たものです」と、「目の鋭いせいの高い男」が現れて、ふたりきりのネネムとマミミに食料をくれる。
男はうまいこと言ってマミミを籠に入れると、「おゝ、ホイホイ、おゝ、ホイホイ。」とどなりながら連れ去ってしまった。男は人さらいだったのだ。
ひとりきりになったネネムは仕方なく、昆布を取って生計を立てている強欲な男の下で10年間手伝い、やっと三百ドルため込んで、大都会「ハンムンムンムンムン・ムムネの市」へと出かけ、そこで大学校のフゥフィーボー博士と出会う。
フゥフィーボー博士の授業に出席して、その知識を認められたネネムは、世界裁判長に就任する。
世界裁判長の仕事は二つあって、ひとつは「化け物界を巡視して廻る」ことと、「裁判」である。彼が裁くのは、「出現罪」という、化け物が、化け物界と人間界の境界を超えてしまうという罪に対してである。
優秀な仕事ぶりにたいへんな評判となったネネムは、同時にマミミを探し始める。
「奇術大一座」が怪しいと睨んだネネムは、一座を巡視し、とうとうそこで「スタア」として出演するマミミと再会し、かつてマミミを連れ去った男と話をつけ、マミミを救い出すことに成功した。
成長し、30人の部下を従え貫禄がついたネネムが次に目をつけたのは、「サンムトリ」と呼ばれる、青く光る火山だった。
ネネムが、「どうも僕の計算だと、気圧の関係から、そろそろ噴火すると思われる」と言ったそばから、やはりサンムトリは黄金色の溶岩を高く噴出した。
判事たちはネネムの卓見に驚き賛辞を送った。「いまや地殻までが裁判長の神聖な裁断に服するのだ」、「裁判長は超怪である。私はニイチャ(ニーチェ?)の哲学は、おそらく裁判長から暗示を受けていると思う」と。
火山が噴火しているのを見ながら、ネネムの自尊心は絶頂に至り、思わず歌い、踊り出してしまう。部下たちも歌い踊り狂い、「ブラボオ、ペンネンネンネンネン・ネネム、ブラボオ、ペンネンネンネンネン・ネネム」と誉めそやす。
いい気になって踊り走り回っていたネネムは、うっかりして人間界との境界を超えてしまったことに気づく。
「ああ、とうとう僕は出現してしまった。僕は今日は自分を裁判しなければならない。ああ僕は辞職しよう。それからあしたから百日、ばけものの大学校の掃除をしよう。ああ、何もかにもおしまいだ」
ネネムも部下たちも大声で泣いた。火山は燃え続けている。

賢治の「グスコーブドリの伝記」は、この物語を雛形にしてるといえるが、「化け物」、「人間界との境界」、「化け物の裁判」、「奇術大一座」などの要素が消え、化け物が人間の一青年の話に置き換えられ、比較すると、かなり現実的なものに変わっていることが分かる。
そして映画では、同様に一青年の物語としながらも、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」の要素を、別の世界の物語として同時に描いてしまっている。
これはかなり奇異な方法だと思われるが、じつは今回に限り、それほど意外なものではない。
「グスコーブドリの伝記」の前身、「グスコンブドリの伝記」は、ほとんど同じ内容の作品だが、「グスコンブドリの伝記」には、「グスコーブドリの伝記」には無い、奇妙な場面が存在する。
それは、グスコンブドリが沼畑からイーハトーヴの街へ向かう列車の中での、紳士との問答だ。

「なんだ、きみはヒームキアのネネムではないのか。」
「えゝぼくはブドリといふんです。」
「ブドリ? 奇体な名だねえ。わたしはきみを山案内人のネネムと間ちがへたんだ。うしろかたちがあんまりそっくりだったもんだからね。」

ここでは、「山案内人のネネム」という名が出てくる。しかし、「グスコンブドリの伝記」の作品の中で、これが物語上で何らかの意味を持っていたり、伏線として回収されるというようなことはない。
ここで宙に浮き上がっている、作品の内容と全く関係の無い、無駄な「ネネム」という名前の出現は、やはり「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」との関連を疑わざるを得ないだろう。
「グスコンブドリの伝記」の主人公であるブドリが、「ネネムという名の者」と誤認されている、つまり、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」の物語に、何かしらリンクが存在することを暗示している、という解釈が出来そうだ。
ちなみに、「ペンネン」という技師が、「グスコーブドリの伝記」にも、「グスコンブドリの伝記」にも登場している。


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では、映画『グスコーブドリの伝記』で描かれる、グスコーブドリとネネムの「ふたつの世界」にはどのような意味があるのだろう。
原作から映画への、物語上の変更点で最も驚くのは、妹ネリと再会する描写が無いこと、そして人さらいが、現実のものではない、なにか超常的な存在として描かれているという点だ。
それらのことと、ネリが連れ去られる直前、おなかを空かせているはずなのに、食事をとらず眠ってしまう描写をあわせて考えると、ネリは連れ去られる時点で死んでいると考えるべきだろう。
つまり、ネリを連れ去ってしまう男は、死の世界の住人であり、ブドリが眠るときに現れる世界は、「ブドリの夢の世界」であると同時に、「死の世界」を意味していることが分かる。

「夢の世界」と「死の世界」が同時に描かれるという描写で思い出されるのが、「銀河鉄道の夜」だ。
映画『銀河鉄道の夜』に登場した「銀河ステーション」や、出演したキャラクター達が、ブドリの夢の中に現れることを考えても、その世界観は、原作「グスコーブドリの伝記」や、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」の世界にさえ存在しなかった「死と夢の世界」、『銀河鉄道の夜』の世界観が、これらのリンクされた2作品をさらに外側から包括する…といった構造になっているという結論が導き出されてくる。
つまり、ここに至って、映画『グスコーブドリの伝記』を理解するためには、『銀河鉄道の夜』というテキストが必要だった、ということが分かるのだ。
このような、他の作品世界が、パロディにとどまらず、作品の内容までも包み込んでしまったというのは、脚本も書いた杉井監督の、ある意味で暴挙ともいえるだろう選択である。
ともあれ、『グスコーブドリの伝記』が、『銀河鉄道の夜』に内包されている以上、『銀河鉄道の夜』の内容を、改めてここで検証するしかない。

そもそも、『銀河鉄道の夜』における「死と夢の世界」とは、何であったのだろうか。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は、ジョバンニという少年が、夜空を走る「銀河鉄道」に乗って、自分の想像の世界と、死の世界が融合した場所(銀河)を、友人のカムパネルラと旅する物語だ。

少年ジョバンニの父親は、北の漁に出て帰ってこず、母親は病気で寝たきりだ。
逼迫した家庭のために、ジョバンニは活版所で写植の文字盤を集める仕事をしているために、いつも体は疲れ、学校の授業でも眠りがちで、教室の仲間からも最近は孤立し、悪口さえ言われている。
ジョバンニは、ケンタウルの星祭りの夜、ひとりで丘に寝て、夜空を見上げる。
そして、そこから彼は、「死と夢の世界」に旅立つのである。

このときジョバンニの心を支配していたのは、本人もはっきりとは意識していない自殺願望であろう。それは以下の描写からも類推される。

ところがいくら見ていても、そのそらはひる先生の云ったような、がらんとした冷いとこだとは思われませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のように考えられて仕方なかったのです。

ジョバンニは、死を願ったからこそ、その日に死んだカムパネルラと、幻想と死の交錯する世界で出会えたのであろう。

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ちなみに、原作「銀河鉄道の夜」にも、複数の稿が存在する。
決定版として扱われ、映画のベースにもなったのが、最後の稿「4次稿(最終形)」と言われるものだ。
初期形と呼ばれる1~3次稿と、これが大きく異なるのは2点、「カムパネルラが死んだ川に行く」場面の有無と、初期形のみに登場する「ブルカニロ博士と会話する」場面である。
初期形では、ジョバンニの幻想空間への旅は、ブルカニロ博士の実験だった、という設定になっている。
おそらく、興がそがれるために、賢治は最終形にブルカニロ博士を登場させなかったのだろうが、この初期形を併せて読むことによって、原作をもっと深く理解することが可能になるのである。
ブルカニロ博士とジョバンニの会話は、おそらくは作品のテーマになっているだろうやりとりになっている。

「おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてさうなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行かうと云ったんです。」
「あゝ、さうだ。みんながさう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあふどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」

「お前が会うどんな人でも、みんな何べんもお前と一緒に汽車に乗った」というのは、どういう意味だろうか。
これは、賢治の仏教思想に根ざした、「輪廻転生」の考えをモデル化したものだ。
「輪廻転生」とは、「悟りを啓き、仏となって涅槃(天国)に至るまで、何度も生と死を繰り返して、生命の循環を繰り返さねばならない」という概念である。
つまりジョバンニは、何度も何度も死んでは蘇り、別の人間になって、また別のカムパネルラと出会い、「ほんとうの天上(涅槃)」へと向かい、いつまでも一緒に行こうとするのである。
そして、悟りを啓く困難についても、この会話の中で語られている。

「あゝごらん、あすこにプレシオスが見える。おまへはあのプレシオスの鎖を解かなければならない。 」
そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。「あゝ マジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」ジョバンニは唇を噛んでそのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。

「プレシオスの鎖」とは、旧約聖書に書かれた、「プレアデスの鎖」のことである。
ヨブ記に、「あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるか。オリオンの綱を解くことができるか。」という文章がある。
銀河にあるプレアデス星団とは、青白い高温の星の集団で、それが「神の知恵の輪」のように見えるという意味で、ここでは「プレアデスの鎖」と呼ばれている。
つまり、「人間の力では解くことの出来ない難問」がプレアデスの鎖であり、賢治はそれを、仏教における悟りの境地と結び付けているのだ。
ブルカニロ博士は、「科学と宗教の理想的な合体」について話すが、賢治の考える「悟り」とは、まさにこれのことである。
そして、「科学と宗教の合体」は、「グスコーブドリの伝記」にも通底するメインテーマでもある。

映画『グスコーブドリの伝記』では、何故、原作の内容を変更してまで、妹ネリが死ななければならなかったか。
それは、ジョバンニとカムパネルラの関係を、もう一度ここで描きなおそうとしているからである。
ジョバンニは、何度も生まれ変わり、グスコーブドリとして生まれ、カムパネルラは、何度も生まれ変わってネリになったのだ。だからネリは、カムパネルラを想起するようなキャラクター・デザインとなっているのだろう。
そして、かつてジョバンニであったグスコーブドリは、「みんなのしあわせ」のために、火山とともに爆発し、「ほんとうの天上(涅槃)」へと向かう。
『銀河鉄道の夜』が問題の提示であるならば、『グスコーブドリの伝記』はその答え、「プレシオスの鎖」を解いたことになるのである。

「銀河鉄道の夜」には、タイタニック号の沈没事故のために命を落とした姉弟の姉、かおるが語る、自己犠牲を意味する「蝎の火」の挿話が登場する。

「むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。
するとある日いたちに見附かって食べられそうになったんですって。
さそりは一生けん命遁げて遁げたけどとうとういたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。
そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。
どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。
そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんとうにあの火それだわ。」

映画『銀河鉄道の夜』では、原作のジョバンニのセリフが、ラストでリフレインされる。
「ああ、ぼくはあのさそりのように、ほんとうにみんなのしあわせのためなら、ぼくの体なんて百ぺん焼かれてもかまわない」
これはグスコーブドリの言う、「大循環の塵になってもかまわない」というセリフと同義だ。
ジョバンニはグスコーブドリとして、ほんとうのみんなのさいわいのために、本当にその身を焼かれ、さそりのひかりになったのだ。それが映画のラストで輝いた閃光であろう。
『グスコーブドリの伝記』は、原作の映画化としてはたしかに不完全なものかもしれない。
しかし、原作を改変してまで、『銀河鉄道の夜』を、完全に終結させるラストシーンを描ききったことは、賞賛に値すると、私は思う。
宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」は、たしかに偉大な作品だが、それをそのままうまくアニメーション映画にするということに、どれだけの意義があるだろうか。
この考えは、『銀河鉄道の夜』にも通底していたはずだ。公開当時、キャラクターを猫として表現しただけでも、多方面から強い反発があったのである。

ちなみに、『銀河鉄道の夜』の、かおるとタダシらが登場するシーンは、関東大震災で崩れた、「浅草十二階」と呼ばれる、「凌雲閣」だ。
「浅草十二階」といえば、江戸川乱歩の「押絵と旅する男」にも登場し、望遠鏡で幻想の女性を探す場面でも使われていることで有名である。
『グスコーブドリの伝記』には、このような江戸川乱歩のパロディ部分もあって、この箇所はかなり遊んでいる。

凌雲閣内部の、チベット人形による舞踊は、ストップモーションによる実写映像である。

 


 


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