『それでも夜は明ける』高層ビルから俯瞰する奴隷の歴史

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スティーヴ・マックイーンという、往年のスター俳優と同じ名前の監督。これは、映画の神が仕掛けた運命のいたずら…というわけではなく、そもそも俳優スティーブ・マックイーンにちなみ、つけられた名前であるらしい。
そんなマックイーン監督の前作『SHAME シェイム』は、彼がヴィデオ・インスタレーションのアーティストでもあることから、非常に清潔な印象の画面で、美学的に撮られているとは思うが、私には理解し難い映画だった。
マイケル・ファスベンダー演じる会社員の男は、自分が異常に強い性欲を持っており、ナンパして女性を部屋に連れ込んだり、コールガールを呼ぶことをやめられず、 プライヴェートな時間のみならず、会社でまでポルノ画像を収集してしまうくらいのセックス依存症であることを苦悩しているという内容だった。
この主人公のやっていることは、全くいいことだと思わないし、自分がそのような立場だったら、やはり悩むだろうな、と思わせるのは確かではある。しかし、こんな程度の異常性というのは、世間にゴマンとあるわけで、いちいちこんな、法律にふれるわけでもない、ありふれた悩みを描くにしては、この美学的な映像が、あまりに思わせぶりなで鈍重に感じられてしまうのである。
例えば、ファスベンダー演じる男が、小学校に忍び込んで子供の水着を着用して、朝まで踊り狂い、用務員に見つかって住宅地を逃げ回るような内容だったら、本当に異常性欲だし、本当に「シェイム=恥ずかしい」と思うし、緊急に何とかしなきゃならない切迫感が生まれるけれど、そのはるか手前の地点で、「悩んじゃってる僕を見てください…」みたいな中途半端な態度で、表面的な芸術性を振りかざし強調している甘さ、浅さに、マックイーン監督の作家としての圧倒的な未熟さを感じ取るのである。
なので、奴隷制時代のアメリカにおける、アフリカ系の自由市民が、誘拐されて十年以上も奴隷労働をさせられるという実話を基にした内容で、アカデミー作品賞を獲得した、『それでも夜は明ける』に対して、私は鑑賞する前から懐疑的な目を向けていたし、これを観た上でも結局、その予感は当たっていたと言わざるを得なかった。

簡単に『それでも夜は明ける』のストーリーを振り返ってみよう。
1841年、ニューヨーク州で、自由黒人として家族と暮らしていた音楽家ソロモン・ノーサップは、白人の詐欺師達に騙され、南部の綿花農園に売り飛ばされてしまう。
ソロモンは犯罪の犠牲者になりながらも、自分を商品として購入した主人達から身を守るために、誘拐の被害者であることを訴えることができない。
過酷な労働に12年従事する間、ソロモンはあらゆる方法で脱出の機会を伺うが、農園の奴隷は厳しく管理されており、その都度断念せざるを得なかった。
そんなある日、たまたま奴隷制度撤廃論者である、カナダから来た白人労働者と出会うことで、状況が一変する。彼によって当局に、誘拐による犯罪が告発されたことで、ソロモンはあっさりと助け出され、懐かしい自宅に帰ることができたのである。
人種差別の壁により、裁判で加害者の犯罪を立証することはできなかったが、ソロモンは、自身が奴隷にされた経験から、南部の奴隷達を助ける活動を始めたという。

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何故この作品が、アカデミー会員達に広く支持されたのだろうか。
奴隷制時代のアメリカを描いた、差別意識や歴史を断罪する様なモチーフは、それ程数は多くないものの、今までに撮られ続けてきた題材ではあった。
差別の恐ろしさを圧倒的描写で強烈に示した傑作『マンディンゴ』は別格だし、奴隷船の過酷な環境を描いた『アミスタッド』、さらにアフリカ系同士の男尊女卑的な保守性を批判した『カラー・パープル』、近年では、奴隷制廃止以降のミシシッピの田舎町における、驚くべき差別社会を描いた『ヘルプ 心がつなぐストーリー』があったし、同年のアカデミー賞でノミネートできなかった、リー・ダニエルズ監督の『大統領の執事の涙』もあった。
これらは、全てアカデミー作品賞を受賞していないが、これらの作品と『それでも夜は明ける』を比べたときに、異なる点がひとつある。
それは、同じように差別や社会の被害に遭った主人公達の中で、『それでも夜は明ける』のソロモンだけは、もともと自由な市民として、アメリカ国内での社会的地位が与えられており、アフリカで拉致され奴隷にされた人々や、生まれながら奴隷として、まともな教育を受けず育った人々とは、決定的に立場が異なるということだ。
ソロモンが売買される前に拉致誘拐されたことは、当時の法律においても、明らかに違法である。もちろん、奴隷制という背景があってこそ、彼は長年の労働を余儀なくされたのは確かだが、彼が誘拐されたことと、奴隷として売買され過酷な労働を強いられたことは、状況としては密接に関わりながらも、本質的には別の話なのではないだろうか。
それを裏付けるのは、ソロモンが法律に助けられ、いともあっさりと脱出できたという事実である。
つまりここでは、誘拐されるという異常な状況と、奴隷制という歴史的に異常な状況が、それぞれ個別に機能し、主人公を苦しめるということになる。
このことから本作は、突然誘拐される恐怖と絶望、または奴隷制への糾弾の、どちらに主眼が置かれているのか、テーマが曖昧になってしまっている。

もちろん、これは実話を基にしているので、できるだけ原作や事実に忠実に映画化しようとすれば、自動的にテーマが限定されてくるのは確かだが、マックイーン監督は、原作を読んで、映画化することを自分で決定しているので、この物語を描くこと自体が、監督自身のねらいであるのは間違いない。
そのねらいとはおそらく、「突然誘拐される恐怖と絶望」という、現代の誰にでも降りかかるような事件を描くことにより、この作品が、アフリカ系以外の人種にも、強く感情移入を促す扉になるというものだろう。そして、奴隷農場で展開される行為を、より臨場感を持って体験できるという効果をねらう。つまり、広い評価を得やすいものにしようという意図を感じるのだ。
そして、アカデミー作品賞を獲得した事実が、この目論見が成功したことを裏付けている。
だが同時に、そのことで差別問題や奴隷の歴史問題とは、ズレたものになってしまっているのも確かだ。
では逆に、この作品を純粋に一人の男が経験した誘拐事件を基にした「スリラー映画」だと思って鑑賞したらどうかというと、これも奴隷問題という深刻な要素の側に引っ張られ過ぎてしまうだろう。

私は、もちろん実在のソロモン・ノーサップ氏に敬意を払うし、彼が自身の経験を著書に書いたことは貴重なことだと考えるし、その執筆活動に全面的に賛同する。だが、それを映画化したマックイーン監督の判断には疑問がある。
何故なら、理不尽な犯罪に巻き込まれ、それでも救済されるというレアケースを体験したソロモン氏以上に、当時の南部農園の、多くの一般的な奴隷達の方が、さらに理不尽な目に遭っており、救いがないからである。そのことでノーサップ氏の苦痛が和らぐわけではないし、同様にけして許されない犯罪であることはもちろんではある。
これを題材に選ぶことが、奴隷制の悪を描くという意味においては、生まれながら奴隷として扱われた人間達を主人公にするほどには強くないことに、マックイーン監督自身も制作している間に気付いてしまっているのだろう。だからラストシーン後に字幕で、ノーサップ氏が生還した後に、奴隷を手助けする運動をしたことを強調しているのである。
ソロモンが助かる経緯を見ても、「世の中にはいい白人も、悪い白人もいる。いい白人のおかげで、悪い白人から逃れられて良かった」「人それぞれだ」という印象を、映画からは受けてしまう。
それは、グローバル的な視点としてはよく理解できるし、確かに実際にあった事実なんだろうけれども、これを映画として全面的に肯定して描いてしまうというのは、同じアフリカ系である監督の立場からして、当事者意識が薄いというか、冷静さを通り越して、あまりに冷たい客観的態度を感じてしまう。

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危険なのは、『それでも夜は明ける』が、「時代が悪かった、法律や社会環境、あくまで出会った個人個人の人間性が悪かった」というメッセージを与えるということである。このことから本作は、観客に対して、いまの時代に生きる自分には関係のない話だと安心させてしまうところがある。
差別意識とは、我々の無意識下で絶えずうごめいている、完全に消し難い「ものの見方」である。差別問題を扱った作品であれば、そこに触れることは不可避ではないだろうか。
例えば、映画の中のソロモンは、他の、教育の無い生まれながらの奴隷とは、自分は違うという意識を持っている。そのあたりの感情の負の部分には、この映画は踏み込んでいかない。
このように、「悪意ある白人」のみを悪の象徴として描くことで、善意ある人間には、このような差別意識が無いのだと誤読させる要因となる。奴隷問題が生まれたことの核となる、差別意識の本質部分が、しっかりと描写されていないのである。
このことは、むしろ歴史問題におけるアメリカ人の責任を軽減し、現代における差別意識を曖昧にすることにつながってしまうように感じる。つまり、加害者にとってある意味で都合の良い部分があるということである。だとすれば、本作を撮った意図が逆の効果も発揮していることになる。

リチャード・フライシャー監督の『マンディンゴ』は、差別問題に深く踏み込み、人間の心にある歪んだ差別意識を暴き出した傑作だ。
映画では、南部で農場を営む富豪家族による、黒人奴隷への強烈な差別的蛮行が描かれる。恒常的軟禁状態での苛烈な労働、性的奉仕、格闘(ローマ時代を想起させる格闘奴隷「マンディンゴ」同士の殺し合い)、鞭打ちや逆さ吊るしなどの拷問、宗教・教育の禁止、子供の虐待、増資のための出産などである。
食卓の会話のシーンでは、給仕をしていたアフリカ系の使用人に、富豪の家族が「お前らに魂なんて無いよな」と聞くと、「当たり前です、旦那様、私たち愚かな黒人に魂があるもんですか」と答えさせられる。
これは、彼らがふざけた笑い話として言っているのでなく、実際に当時の南部では、このような理論が、白人の間で流布され信じられてきたという事実があるのだ。
「黒人は魂が無いから奴隷として扱ってもよい」という、宗教にも根ざした、奴隷制を正当化する理論というのは、南部では大学教授などの知識層が相次いで発表していて、それは例えば、「黒人は元来自由には適さず、我々は彼らに衣食住を提供し保障している。聖書にも奴隷制度への批判は見られないことから、神が認めている制度である。」というような、身勝手な内容のものであった。
そのような「黒人劣等人種説」は、1930年代頃まで、一般的な説としてアメリカの多くの市民に信じられてきた。
ここから分かるのは、差別意識というのは、必ずしも悪の感情から生まれているわけでなく、無知蒙昧が原因になっているという事実だ。
もっといえば、現代人のものの見方にも、そのような間違った考え方があるのではないかということだ。それは人種差別だけでなく、様々な領域の差別につながっていく。
『マンディンゴ』からは、「どんな善人にも差別意識の醸成はありうる」ということが、差別・奴隷問題の本質だという真実に気づかされるのである。

スパイク・リー監督や、リー・ダニエルズ監督などの作品も同様に、甘い見通しは持っていない。白人個人に対して、部分的に共感する場合はあっても、全面的に信用するようなことはない。だから、彼らはあえて『それでも夜は明ける』の原作著書を映画化するようなことはしないだろうし、したとしても、部分的に異なる内容や演出をしたはずだ。
とくにスパイク・リー監督による差別を題材にした作品の主軸は、基本的にはあくまで同じ黒人同士の意識の成長や改革を促すものだ。
彼らの、ある意味では排他的な反発的態度は、ときに頑迷に映るかもしれないが、これが彼らの中の、異人種間に横たわる断絶のリアリティなのであろう。
もちろん彼らだって、できればそのような溝は埋めたいだろうし、よりグローバル的な理想を語りたいときもあるだろう。だが、それができない、させてくれないというのは、歴史的事実や、いまだに社会にはびこっている差別意識や貧困などの社会問題が、とりわけ差別者側の意識が本質的な意味で解決できてない、改善できていないという状況では、現実的には、彼らはカウンターに徹しなければならない。だからマックイーン監督のような、「人種は関係ない、人間それぞれ」のように寛大さを見せる余裕がないのだ。
彼らが直面し、自身の頑迷さを露呈させながらも告発しようとする深刻な現実的問題に対し、マックイーン監督は、あくまでただ善人を善人として単純に描写し、泥沼に足を突っ込むことすらしないで、簡単に理想論を語り、『SHAME シェイム』同様に、きれいなビルの一室の大きな窓から世界を俯瞰して、深刻ぶっているような印象を受けるのである。

『それでも夜は明ける』において最も光っていた部分は、ソロモンがロープを首に巻きつけられ、死に直面する場面だろう。
人間一人が死にかけている状況で、子供が無邪気に走り回っている、のどかな農園の風景を背景とすることから生まれるギャップは、いつも奴隷が置かれている状況の異常さを強調する、雄弁で見事なカットだった。

 


 

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