『思い出のマーニー』米林作品の「反創造」姿勢とは

以前、ブログ記事『借りぐらしのアリエッティ』 脅威!不毛の煉獄アニメーションを書き、かなり悪し様に言葉を尽くして、米林宏昌監督をののしった。そのくらい、米林監督の初監督作『借りぐらしのアリエッティ』のつまらなさというのは、人智を超えたものだった。
そもそも、テーマやストーリー以前に、何を見せたいのか、何を感じさせたいのかが不明瞭なほど、演出のレベルが低くセンスも無いために、作品としての体(てい)を成していなかった。
仮に、目一杯好意的に見て、スタジオジブリ作品で初監督を務めることのプレッシャーや現場の意思疎通不足、混乱などを加味しながら、演出の不備を最大限に看過し擁護するとしても、それでも最も失望し驚かされたのは、作品から感じられる個性や野心の欠如、創造性の欠如、知性や主義主張の欠如、ユーモアと観客へのサービス精神の徹底的な欠如という、あまりにも根本的な資質や姿勢が欠如していたことであり、その事実ははっきりと、「映画監督」や「アニメ作家」への適正に、米林監督があまりにも欠け過ぎていることを示していた。もっといえば、ある種の情緒的な病理すら感じさせるレベルだった。このことは、スタジオジブリ作品で最も失敗作だと思われた、同じように拙い演出だった『ゲド戦記』すら、まだ見どころがあると感じさせるほどだった。『借りぐらしのアリエッティ』からは、義務的姿勢以外に、作家の意志も熱意も人間性すらも感じなかったのである。

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このような、おそらく歴史的にも最悪な前作を前提として新作『思い出のマーニー』を観ると、これがそれほど悪くないのに驚かされる。
まず、箇所によって落差は感じるものの、とくに人物の作画の繊細さは、宮崎・高畑監督作品以上に目を見張るものがある。
そして懸念材料である、前作にあった、奇妙とすら言えた演出の著しい失敗がかなり少なくなっていて、意外にも映像作品として、違和感なく物語を享受することができるくらい、改善の跡が確認できる。
前作のように、キャラクターが家族の危機を無視して先を歩いて行ったりしないし、脈絡なく「お前の種は滅びる」など、意味不明なことを言い出したりしない。登場人物の感情を、それなりに納得しながら観ることができるのである。そればかりか、杏奈とマーニーの別れのシーンなど、クライマックスでは感情的にグッとくるような箇所まであるのだ。
「なんだ、普通のことじゃないか」などと言ってはいけない。この、最低限安心しながら鑑賞できるということが、ほぼ全ての演出に疑問を感じ、全ての快楽的感覚から遮断され、ただ砂を噛む思いで煉獄に幽閉されるような前作と比較すると、それだけで奇跡のようにありがたく素晴らしいことだと感じるのである。
これでやっと米林監督作品を、通常の映画として、俎上に載せて丁寧に論じることができるということになる。

ただ、やはり軽減されてとはいえ、米林宏昌監督作品なので、前作同様、設定や脚本に、不必要に奇妙な点や、明らかな致命的失敗が、かなり多く存在することはたしかではある。気が重いが、はじめにその諸々を挙げる作業をやっつけておきたい。

本作において、今までスタジオジブリ作品になかったチャレンジングな部分は、ヒロイン杏奈(あんな)のキャラクターだろう。
陰気で口数が少なく、陰で「太っちょブタ」や「トド」、「山羊」のような、「おしゃべりクソ野郎」的ひどいあだ名を他人につけているような、いやらしい人間性であり、自分のことを心配する、育ての母親も邪険にしている。プライドが異様に高く、人と会うのを避け、不平不満をいつも漏らしているし、さらに、そのような自分自身すら嫌いだという。
作品のなかで最終的に成長し、これらの多くが改善に向かうことが予想されるにしても、ここまでマイナスの要因にあふれた主人公というのは珍しい。
そういった面ではたしかに面白いと感じる杏奈の内面の造形だが、少しやり過ぎてしまっているきらいがある。

例えば冒頭、写生の授業で杏奈が孤立して公園の風景をスケッチブックに描いていると、教師がその絵を見せて欲しいと言う。
しつこく請われ、やっとはにかみながらスケッチブックを見せようとすると、公園で遊んでいた幼稚園児が遊具から落下するという事故が起こる。それに反応し、教師は杏奈を放っておいて園児のもとに向かう。
ここで杏奈は、非常なストレスを感じ、これをきっかけとしてぜんそくの発作を起こしてしまう。
これは杏奈が、目の前の幼児の安全よりも、自分の気持ちを優先させるエゴイストだということが分かる箇所である。
作品を最後まで鑑賞した上で考えれば、この出来事は、杏奈がこれまで保護者達から見捨てられてきたという記憶を呼び覚ますものであったということは理解できる。
だが、それで本当に観客が納得できるだろうか。そんなこととは関係なく、目の前で幼児が危ない目に遭うという状況に反応できない、この教師の行動の優先順位を一片の余地なく正当だと感じることができないというのは、あまりにも人間味が薄くはないだろうか。

杏奈は、ぜんそくの治療のために滞在した海辺の村でも、自分を気にかけて友人の輪に入れようと努力してくれる女の子・信子に対して、「いい加減、ほうっといてよ!太っちょブタ!」と、周目の中でひどい暴言を放ってしまう。
原作では、主人公が郵便局で意地悪をされた仕返しとして、その場で暴言を吐くことになっている。だが映画では、害意の無い相手を、一方的に攻撃することになっている。
ここでは、瞳の色を注目されたことで、自分の出自を詮索されたように思い、無意識のうちに口から飛び出てしまった言葉ではあるのだろうが、それだけに、信子のことを心の中でそう呼んでいたことが明らかになってしまっていて、余計にひどく感じてしまう。
おそらくは前のシーンで、信子が自分のきれいな浴衣を友達に自慢しているとき、後ろで「太っちょブタがきれいな服着たって、しょうがねえんだよ!」と密かに思っていたに違いないのだ。
信子は、善意を与えた代わりに受けたこの暴言を一生忘れることがないだろう。頭では許すことがあったとしても、心の中の片隅に沈殿し、この嫌な出来事の記憶を完全に消し去ることはないだろう。
彼女は折にふれこのことを思い出すかもしれないし、夏祭りが来る度に嫌な思いが蘇るかもしれない。
エピローグのワンシーンでは、杏奈が信子に謝ることでチャラになったような描写があるが、そんな簡単な謝罪で、このような蛮行を作品自体が許してしまっているのは、ちょっと信じられない。これでは、杏奈の心のわだかまりが取れただけで、信子の傷は残り続けるじゃないか。この作品は、杏奈のトラウマに同情はするが、信子が与えられたトラウマはスルーしてしまう。
信子を親切なキャラクターに改変したことで、親切な女の子に対し心を開かない杏奈の身勝手さが強調される。
そして、杏奈はわざわざこのことを、彼女の家に行って謝ったわけではない。帰る途中でたまたま出会ったので、「ついでに」謝っただけなのである。

さらに、家に抗議に来た、ひたすら親切にしてくれた信子の母親を、手のつけられないクレーマーのように表現してしまっているのもまずい。
楽しい夏祭りの日に、目一杯着飾ってやったかわいい娘が「ブタ」と辱められ、目の前で大泣きされたら、怒鳴り込んでやろうと思うのも無理ないだろう。
戸口に隠れていた杏奈を、おじちゃん・おばちゃん夫妻が励まし、同情的に演出されるが、明らかに全ての元凶は杏奈であるのは疑いない。
これは、脚本があまりに鈍感過ぎるのではないだろうか。信子が意地悪でなかったのなら、突き飛ばし、信子の自慢の浴衣を泥水で汚してしまうくらいが妥当なところではないだろうか。

とくに子供向けのエンターテインメント作品において、観客を主人公に感情移入させることは、最低条件だ。たとえ性格が悪くても、「心根はいい奴なんだ」というところは見せなくてはならない。そうでないと、観客は「所詮は他人事」として、杏奈のことを見るようになってしまう。
杏奈のトラウマが、彼女の積極性を奪い、他者への優しさを失わせていたとしても、それと関係なく、本当は利他的な彼女の優しさを、できれば早い段階で観客に見せなければならなかった。
心底性格の悪い人間が、過去を乗り越えて立ち直ったところで、嬉しくもなんともない。それだったら、暴言を吐かれても何とか度量を見せ、杏奈の立場を取り繕ってくれた信子のようなキャラクターが立ち直るところを見せて欲しい、ということになってしまう。

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ちなみに、原作にも主人公が幻想を見て何度も倒れるシーンがあるが、この行き倒れの描写があまりに生々しいために、「夢見がちな少女」の範疇をあまりにも超え、事件性を感じさせるものになってしまっている。
そんなことが続いた時点で、世話をしている夫婦は杏奈を厳重な監視下におかなければならないだろうし、通常ならこのような意識不明の徘徊が続けば、入院が必要な事態だろう。この事態を看過している夫妻の不気味さが際立つ箇所である。

脚本において最もがっかりするのは、マーニーの子供時代の親友だったおばあさんが、結末部分で事情を全部長々と説明することで真相が分かるというつまらない展開である。
映像作品の脚本において、この構造はスマートさに欠け、作品全体を野暮ったい印象にしている。
マーニーが海辺の村を出て、年老いたところまで、このおばあさんが事情を熟知しているのはやり過ぎだし、家庭事情を子供達に詳細に話す動機も謎だ。
また、そのときに杏奈の母親の名前まで知っていて、それを杏奈は聞いているのにも関わらず、杏奈がマーニーの正体に、この時点で気づかないというのは明らかにおかしい。
母親が死んだときに杏奈はものごころがついている年齢のように見えるが、自分の実の母親の名前すら、現在の杏奈は忘れてしまっていたのだろうか。

「自治体からお金を貰っているの」と、杏奈がずっと気に病んでいた事情を、育ての親が伝えるタイミングもおかしい。
何故、突然彼女は心を読むエスパーのようにそんなことを言い出したのか。それは映画の残り時間が少ないからだろう。
エピローグに向けての畳み掛けの手際の悪さは、前作から引き続いて悪夢的ではある。
もたもたと、一人一人のキャラクターに挨拶をする段取りなどせずに、音楽にのせモンタージュで見せていけばいいだけのことである。

「アルプスの少女ハイジ」のおじいさんを想起させられる無口なキャラクターは、原作だと主人公との交流がもっと描かれているのに、登場する理由が希薄で、何のためにいるのかが良く分からなくなっている。
後半から登場するメガネ少女のお兄さんの役はあまりに印象が薄く無駄なので、彼の存在を消して、少女とともに杏奈を助ける役割を、おじいさんに与えるべきだろう。

いろいろ腑に落ちない点を列挙しているが、私はこれらを意地悪で指摘しているわけではない。
例えば、高畑勲監督や宮崎駿監督作品において、 説明不足や制作上の事情で不自然な部分があるにせよ、ここまで明らかに失敗している脚本や演出というのを、意識したことがないのである。

さて、これら失敗部分とは反対に素晴らしいと感じたクライマックスとは、マーニーと杏奈が、屋敷の窓辺で和解するシーンだ。
そこまでの展開で、マーニーに置いていかれたと思っている杏奈が、屋敷の外からマーニーを問い詰め非難する。「どうして私を置いていってしまったの!?どうして私を裏切ったの!?」
対してマーニーは窓から身を乗り出し、「ああ杏奈、私の大好きな杏奈、お願い!私を許してくれるって言って!」と叫び懇願する。
それを聞いた杏奈は、マーニーを憎んでいたはずなのに、少しも悩まずに「もちろんよ、許してあげる!あなたが好きよ」と返答する。
この、思考より先に内面の感情がグワッと表出するように見せる、身体の動きを追ったアニメーションは素晴らしい。
マーニーは窓を開けて身を乗り出す動作をしているだけなのに、窓から落下しそうなくらい必死な動作になっているのは、良く考えると意味が分からないが、これはかつて「情動アニメーション」と揶揄されたような、とくに宮崎駿監督の得意とする、瞬間的な感情の爆発的盛り上がりを継承していて、アニメーションならではの表現に感動してしまう。
この時点ではマーニーの正体は観客に明かされていないが、だからこそ、理屈では測れないふたりの愛情を、感覚で理解するという体験ができる。
そしてこの後に判明する事実によって、この会話の意味を、今度は理屈によってもう一度思い返し味わうことができるのである。
『借りぐらしのアリエッティ』にはこのように感情が盛り上がるシーンはなかったし、このワンシーンがあるだけで、作品に対する印象がだいぶ好転している。

そのような達成を目の当たりにした感動のために、ごまかされてしまいそうになるのだが、では、ひとたびこの作品と正面から対峙し、冷静な目で客観視すると、「この映画、面白いか?」という疑問が浮かんでくる。
たしかに、ぎこちないとはいえ、前作とは比較にならないくらいにスムーズに演出ができているし、感情表現の整合性もとれている。だが、とりたてて「面白い」といえるようなものになっているか、そのようなシーンが、クライマックス以外に用意されているかというと、雰囲気的なものばかりが目につき、実際、アニメーション作品として楽しめる部分はほとんど無いことに気付かされる。
それは紛れなく、前作で露呈してしまった、監督の致命的な弱点をそのまま引き継いでいるせいだろう。すなわち、 個性や野心の欠如、創造性の欠如、知性や主義主張の欠如、ユーモアと観客へのサービス精神の欠如である。これら問題は、根本的に解決されずに残ったままだ。

では、何故『思い出のマーニー』は、それなりに興味が持続したまま鑑賞できるのだろうか。
ひとつは、基となったジョーン・ゲイル・ロビンソンによる原作「思い出のマーニー」(When Marnie Was There 原題:「マーニーがいた頃」)という英国の児童文学が、マーニーとは何者かというミステリアスな謎を追ったものであり、読者をその謎への興味で引っ張っていくような作品構造になっていることだ。
原作を読むと、児童文学としてはかなり複雑な内容ながら、人間の内面世界を多層的にとらえ、幸せや他者とのつながりを丹念に構造的に示す明晰で繊細な物語であり、文学的価値の高い作品であることが分かる。
そこでは、世界には幸せな人達が愛し合う精神的関係性という、見えない輪があって、そのアウトサイドに取り残されていると感じている少女を主人公とし、そのせいで自分に自信が持てず悩んでいる様が描かれる。
だがじつは、自分を無条件に必要として愛してくれる存在がいたことに気づくことで、主人公の精神はその輪の中に入って、幸せを噛み締める。
他人に心から必要とされることを一度でも経験すれば、自分の見る世界そのものが変わり得る。そしてそれを感じることが幸福なのだという、じんわりとした暖かいメッセージが語られ、人を好きになることや愛されることとはなんと素晴らしいことかということを謳いあげていて、普遍的で明晰な示唆にあふれている。
そして、この素晴らしい内容を、設定の改変が比較的多かった『借りぐらしのアリエッティ』よりも忠実に、舞台を日本の北海道に変更したくらいで、基本的に展開をそのままなぞったことが、この映画作品が鑑賞に耐えるもうひとつのポイントであるように思う。
つまり、感動を与えられる箇所は、ほとんど原作の素晴らしさに拠った部分ということになる。

文学作品を映像化するときに加えられるはずの魅力とは、言うまでもなく、内容が視覚化されるということである。ことにアニメーションであれば、鑑賞中に観客を楽しませるシーンをいろいろ詰めこむことが必要であろう。その意味において本作は、新しい魅力を追加することが、ほとんどのシーンにおいてできていない。
つまり、映像化する意味が希薄で、優れた原作を紹介する扉にしかなっていないということだ。

問題は、多くの観客を有無を言わさず引き付けるような、アニメ独特の爆発的なシーンが、クライマックスの瞬間以外に全く無いことだろう。
とくにこの作品は、全体が幻想的な内容なので、アニメ的な表現を駆使した面白いシーンを、いくつも挿入することは可能なはずだ。
見せ場のダンスの場面で、『千と千尋の神隠し』や『かぐや姫の物語』のように、一緒に空に舞い上がらせて、星空の中で華麗に舞ったところで、観客は誰も文句は言わないだろう。これはアニメーション作品なのだから。
例えば幾原邦彦監督は、「少女革命ウテナ」の劇場版において、夜空に浮かぶ薔薇の咲き乱れる空中庭園で、散解していく花々に囲まれたふたりの少女をダンスさせた。
押井守監督は、「アニメ映画には、躍動的で力強いシーンがないとつらい」ということを言っていた。
彼らのような偉大なアニメーション監督ならずとも、アニメーション作品に日常的に触れている観客ならばごく普通に持っている、そういう感覚が、米林監督に何故か欠けているというのは、不思議を通り越して、一種異様である。彼がアヴァンギャルドな作品を志向しているのなら、まだ理解できないことはないが。

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米林監督は、本作の美術監督を種田陽平に託し、全てのシーンの美術について監修させたという。
種田陽平といば、多くの実写映画の美術を担当し、数多の受賞歴のある、実写映画の美術のスペシャリストである。
そのせいか分からないが、本作は様々な面において、比較的リアルな実在感を得ている反面、例えば『ハウルの動く城』のような、アニメーション独特の自由な感覚が希薄であるように感じてしまう。

もちろん、映画制作、アニメーション制作とは、多くのスタッフによる共同作業であるので、個性を持ったスタッフ同士で分担を行うのは全く構わないと思う。それが作品をより良いものにするのならば、どんどんやるべきである。だが、この種田陽平美術監督の感性が、作品に圧倒的な力を与えているようには見えないのだ。
例えば、本作にとって重要な意味を持つサイロが登場するシーンは、その見せ方があまりに良かったためか、2回も同じものを見せるという愚を冒してはいるものの、それでも全編を通し、背景のなかで最も興奮させられる瞬間であった。しかし、それが観客を圧倒するのは、パースを歪ませた絵の魅力とカメラワークによってであり、リアリティを持った実在感とは真逆の価値観である。

『思い出のマーニー』において最も重要な美術とは、湿原のほとりに建ち、物語の強力な磁場となる「湿っ地(しめっち)屋敷」のデザインだろう。この屋敷は、何を意図してデザインされたものなのだろうか。
おそらくは、日本に住む西洋人のための洋館をイメージしているのだろうが、『借りぐらしのアリエッティ』同様、実写的なリアリティがあり、詳細に描きこまれたカラフルな印象が強い、この背景からは、漠然と「素敵だなあ」と思わせるような美しさ以外の何かを強調するような、明確な主張を感じないのだ。
高畑勲監督の「アルプスの少女ハイジ」は、監督の志向する、生活のリアリティと、山の暮らしと都会の暮らしの対比が、宮崎駿のレイアウトによって、見事に視覚化されていた。
「赤毛のアン」は、舞台となったカナダの島を、文化的にも美学的にも優れた視点で表現していた。何故、絵を描かない高畑監督がこのような仕事を続けて達成できたかを考えてみて欲しい。
スタジオジブリで制作された、高畑監督のドキュメンタリー作品『柳川堀割物語』を観れば、それを理解することができる。この作品は、福岡県柳川に今もある、舟で移動ができる生活用水路を、様々な視点から多角的に研究したものてある。
これは『風の谷のナウシカ』の利益と、制作を務めた宮崎駿が、自宅を抵当に入れてまで撮られたものだが、内容が学術的にストイック過ぎて、おそらくほとんどの人間にとって訴求力の薄いものになっている。
しかし高畑監督のアニメーション作品への取り組みを念頭に入れると、この作品は、ただこの作品のためだけに撮られたものでないことは理解できる。
つまり高畑監督は、アニメーションにおいて人間を描くことは、生活やその環境を丹念に描くことであり、そこに映像作家の魂を込めることができるという信念と確信があったからであろう。
つまり彼にとって、美術とは生活であり、生活とは人間を描くことであり、人間を描くことは作品そのものなのである。
優れた作家性とは、このような哲学から発生する。

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宮崎駿は、米林宏昌監督の描いた、こちらに微笑むマーニーのみが描かれたイメージボードを、そのまま使用したポスターに嫌悪感を抱いたという。
そこから感じ取れるのは、「ただかわいい女の子を描きたい」という、現代の日本のアニメーション独特のチャイルディッシュな感覚であり、また西洋的価値観への無自覚な追従であるだろう。
高畑勲作品や宮崎駿作品のポスターは、たとえそこに美少女が描かれているにせよ、必ずその背後に広がる作品世界を予感させるものであったし、作品の目指す精神性が反映されていたり、ときに社会問題が包含されているように感じられるものであったように思われる。
対して米林作品のヴィジュアルは、アリエッティにしろマーニーにしろ、一面的な意味合いしか感じず、哲学性や広い社会性、または普遍的な美的感覚を感じるようなものにもなっていない。
そしてこのことは、興行成績に不振している『思い出のマーニー』の観客動員に、少なからず影響しているのでは、と思わせる。
ただ美少女を前面に押し出そうとするような、閉塞的な価値観を下敷きにするアピールでは、広く一般的な観客の心をとらえられないだろう。「所詮はアニメだ」、そう見くびられてしまう。

本作に登場するほとんどのキャラクターに、視覚的にも、振り付けられた演技にも魅力は希薄だ。その中で、力を入れて魅力を持たせようと、髪の毛の美しさまで追求し明らかに目に見えて努力されてるのは、金髪碧眼の美少女マーニーのみであるように感じられる。
前作の「はるさん」を思い起こさせる、ただ嫌悪感しか抱かせないパーソナリティを踏襲した、ばあやを筆頭に、杏奈が世話になる夫婦や杏奈の育ての親など、マーニー以外は、いつまでも見ていたいと思わせるようなデザインでないし、好感を抱かせる性格描写もほとんど無い。
おばさんが和菓子やポテトチップ食べている様子は、愛らしかったりユーモラスというよりは、ただ醜悪なだけに見え、作り手側の愛情の無さに気づくだろう。湯婆婆や荒地の魔女などの怖さ、愛らしさと比較すれば、そのデザインや演技、内面の奥行きの差が歴然としていることは自明だ。
キャラクターひとつとってみても、高畑勲監督や宮崎駿監督という、優れた演出家が指揮してこそ、スタッフのポテンシャルが発揮されるという事実が分かるのである。

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ここで感じるのは、『借りぐらしのアリエッティ』に続いて、米林監督は、美少女以外のキャラクターを魅力的に描くということに興味がないのではないかということ、そして、その価値観が作品の普遍性を奪い、広い評価を得る可能性を制限しているという事実にすら気がついていないのではないかということだ。
現代の美少女アニメを中心に、美少女を描くことにしか情熱を見い出せず、それ以外のキャラクターを描く能力が低い日本のアニメーターが多くなってきているという、業界全体を蝕む病理は、以前に書いた文章、『映画 けいおん!』 ガイノイドが席巻する日本 そして「けいおん!論争」において指摘をした通りだ。これは、海外の多くのアニメーション作品と比較をすれば一目瞭然であろう。
日本のアニメ業界で、それでも普遍的な位置にあると思われている、スタジオジブリでさえ、このようなことになってきていると思うと、暗澹たる気分になってくる。「人間を描く」ということができなくなっているのである。
このことは宮崎駿監督なども常々問題視していたし、押井守監督はそれを逆手に取って、「若いスタッフに人間が描けないのなら、サイボーグを描かせたらいいのでは」と、「攻殻機動隊」の映像化に取り組んだという逸話があるくらいだ。

そもそも『思い出のマーニー』において、比較的愛情を持ってデザインされた外国人少女「マーニー」とは、どこの国の出身で、どんなバックグラウンドを持った人物なのだろうか。
原作は英国児童文学で、もちろんイギリスの少女なのだが、本作では、舞台が北海道に改変されていることで、彼女は「外国人」ということになっている。
だから、彼女の国籍というのは、デザイン上でも、彼女のパーソナリティを表現する美術の上でも、重要なファクターになるはずだ。
彼女の日記には英語の題が書いてあったので、英語圏の人間かもしれないが、北海道という地域の独自性を加味すると、ロシア(ソビエト)人であることも考えられる。
注目するべきは、どちらにもとれるし、国籍が何であっても、ストーリーが問題なく成立するものになっている、そのことで美術やキャラクターの志向性も漠然としてしまっているということだ。
ちゃんと細かな設定は用意してあるのかもしれないが、少なくともそれが徹底されておらず、キャラクター造形や美術に活かされていない。美術監督も、監督からしっかりとそのような指示を受けていないのではないだろうか。
大体、おそらくは北海道の釧路の辺りを舞台とした湿原に建っている辺ぴな屋敷に、西洋人達が大勢集まってパーティーを何度も開いているという状況の意味が全く不明であるし、その説明もされないのはさすがに無茶苦茶だろう。彼ら客はどこから現れたのか?

宮崎監督の『風立ちぬ』では、外国人としてイタリア人やドイツ人が出てきたし、避暑地に現れたカストルプは、共産圏のスパイとしてのドイツ人として描かれている。このことに、何ら曖昧な部分はないし、彼らがそこにいるということに、疑問など全く抱くことはない。
重要なのは、そこに宮崎監督のイタリア文化観、ドイツ文化観などを根っことした、文化や政治への考えが反映しており、そのバックグラウンドを利用することで、キャラクターをより立体的に浮かび上がらせ、より深く人間を描くということができているということである。
ストーリーのなかで、このような設定をはっきりと説明する必要はないかもしれない。だがマーニーは作中、イギリス人としても通るし、ソ連の出身としても成立する。つまりは漠然とした「金髪碧眼の西洋人」のイメージに過ぎない。こんなに観客の知性を馬鹿にした話があるだろうか。
ハリウッドの中でも知性に欠けた映画人が、「良く分かんないけど、東洋人を出してオリエンタルな雰囲気を出そうぜ。そして、奴らは謎の東洋的なパーティーをいつも開いている」と言ってるのと、全く変わらない。こんなことで済むと思っているのなら、あまりに観客を侮った態度だと指摘されても仕方がない。

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映画監督という仕事の本質とは何だろうか。
極限まで単純化して例えると、それは村を渡り歩き、人々を焚き火の周りに集めて、諸国の珍しい話や伝説を面白おかしく話してくれる「語り部」ということになると思う。
語り部の最も重要な資質とは、「人の知らないことを知っていて、いろいろな知識を与えてくれる」ような力や経験があるということだ。もしそのようなものがないのならば、最低限、語る内容に関して、必死に勉強し研究することが求められるだろう。

米林監督は、『思い出のマーニー』公式サイトの「企画意図」において、「僕は宮崎さんのように、この映画一本で世界を変えようなんて思ってはいません。」と発言している。
宮崎駿監督は確かに、マイケル・ジャクソンがそうであったように、世界を変えたいと思って作品を作っていたはずだ。高畑勲監督は、アニメーション表現の新しい可能性を目指し、抜本的な新しい表現方法を作品ごとに模索していた。
演出経験の少ない米林監督と、様々な意味の達成をしてきた世界の映画・アニメーション史にとって偉大な存在である高畑監督や宮崎監督と比べるというのはフェアでないかもしれない。だが、米林監督は彼らのような演出家を間近に目にしていて、その挑戦的姿勢に影響を受けることがなかったのだろうか。
うまく利用すれば、日本屈指の表現の質を備える、スタジオジブリのスタッフ達を使役する立場という、夢のようなチャンスを得ながら、その老成した作家的野心の欠如と、同時に共存する精神性の幼さ、作家本人の内面の空疎さからくる主張の希薄さという、米林監督の消極的な資質や姿勢というのは、見ていてとても歯がゆく感じてしまう。
この姿勢でたとえ何を手がけたとしても、私には、限りある時間と、貴重な人的資源の浪費にしか見えない。もっといえば、このような彼の事務的姿勢は、全ての創造的な表現者にとって、敵とすらいえるかもしれない。
私が、米林宏昌監督作品に苛立つというのは、この姿勢が、「反主張」であり、「反創造」の象徴と感じるからである。

 




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