『バードマン』あるいは(腐った肉に群がるものたち)

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』は、マイケル・キートン演じる、ブロードウェイで再び名声を勝ち取ろうとする一人の俳優の奮闘を追ったコメディ映画だ。
アメコミヒーロー映画「バードマン」の主演俳優として一世を風靡したものの、それはすでに過去の栄光となり、中年も終わりに差しかかっているリーガン・ トムソンは、私財を投げうち、全く経験のない世界である、ブロードウェイでの文芸作品を基にした演劇に主演し演出をするという、無謀な賭けに出ている。
家庭はすでに崩壊して、アシスタントとして雇った実の娘は薬物中毒で反抗的。共演者マイクはプレビュー公演をぶち壊し、舞台の成功を左右する演劇批評家からは、酷評してやると宣言されてしまう。
果たして、実力派俳優として再起し、人生を立て直そうとする彼の目論見は成功するのだろうか。
今回は主に、本作『バードマン』で描かれた重要なテーマについて、ゆっくりと解題していきたい。

「バードマン」に主演し、世に広く知られた過去を持つという主人公の設定は、実際にティム・バートンのバットマン映画に主演し、その後、出演作にそれほど恵まれなかった、マイケル・キートンの俳優人生そのものと重ね合わされているというのは、言うまでもないだろう。
劇中では、むかしリーガン本人が演じたヒーロー、バードマンが、そのままの姿で実体化し、彼の前に度々現れる。これは、過去の成功体験が、絶えず現在に居る現実の自分を精神的に追い詰めるという、判り易いメタファーとなっており、空中浮遊や物体移動などのスーパー・パワーは、心の傷を埋めるための誇大妄想的な自己評価、自己肯定へと結びついている。

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本作で最も特徴的なのは、ほぼ全編がワンカットで撮影されているように編集されていることだ。もともとが長回しで撮影されているため、とくに前半までは、どこに切れ目があるのか分からないほど、自然にカットがつながっていて、これは素直に驚かされる。
とくに撮影は、『ゼロ・グラビティ』のワンカット風撮影を手がけたエマニュエル・ルベツキの手腕によるもので、本作でも発揮されるワンカット風のとりとめのない浮遊感、加えてドキュメンタリー風にも動くカメラによって、現実とも妄想ともつかぬリアルな悪夢のような雰囲気を維持しつつ、リーガンのドラマは進行していく。
驚くべきは、手持ち風のカメラワークから、次のカットにシームレスに移行できている部分もあるということで、これは確かに、今までになかった演出方法であろう。
ちなみに、『ゼロ・グラビティ』の長回しもこのような手法がとられているが、ほぼCGアニメーションに近い製作方法の『ゼロ・グラビティ』と、ドキュメンタリー的なタッチの『バードマン』のアプローチは、技術的にはかなりのジャンプであるように思われる。
このようなことに挑戦する映画が今までになかったというのは、第一に、手間がかかるわりに、映画を楽しむ上でその必要性が認められなかったということと、また、このような映像トリックが、手持ちカメラから得られる現実感覚を打ち消してしまうという問題があるからだろう。
個人的には、空にカメラを向けて時間経過を表すタイムラプス撮影風の演出は、意味的にはカットと同じものと感じられるため、強引につなげているような気もしてしまうのだが、ここまで苦労して膨大なカットを、長い長い一幕として見せかけ、ラストのごく短い一幕と明確に分けた作り手の意図とは、もちろん作り手の功名心もあるのだろうが、それが独立したひとつのかたまりであることを、どうしても強調したかったということが最大の理由であるように感じられる。

本作に近い作品として思い出したのが、ミュージカル映画『オール・ザット・ジャズ』だ。
これは、ブロードウェイの演出家が、自分の人生の終わりを、脳内で幻想のミュージカル舞台作品として演出する様を描き、現実と幻想の間を彷徨う光景が、悪夢的に表現される。
『バードマン』のリーガン・トムソンの場合、その幻想がコミック・ヒーローとして表現されるという違いがあるだけで、大枠の設定としても、描かれる問題も同質であり、個人的には、そのまま参考にしているのではと思えるほどだ。
そこに通底しているのは、年老いていく過去の成功者の恐怖と焦りであり、諦念と怒りでもある。『オール・ザット・ジャズ』では、それが、医師エリザベス・キューブラー=ロスの著書で有名な、死を受け入れるまでの人間の精神のプロセスを喜劇的に表現するスタンドアップ・コメディアンの語りとして、喜劇とも悲劇ともつかぬ、不気味に躁的な雰囲気で描かれる。
この軽快さはまた、『バードマン』においては、音楽を担当した、パット・メセニー・グループのジャズ・ドラマー、アントニオ・サンチェスや、劇中でも登場するジャズドラマー達の卓越したドラムプレイが背後に流れ続けることでも醸成されている。
俳優や演劇などに関して辛辣なジョークが終始飛び交うなか、このドラムが断続的に演奏されることによって、本作はオールドスタイルなコメディとしての体裁を整えているといえる。
だがその粘着的なプレイと過剰な技巧からは、やはり喜劇にも悲劇にも、どちらにも寄り切らない居心地の悪さと、不気味に人工的な違和感が与えられているともいえるだろう。
そして主人公の執念や苦悩が、演技だけでなく、カメラワークや音楽など様々な形で、ひとつの巨大な悪夢のかたまりを表現しようとしているように感じられるのである。

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だとして、君はこの人生で望んだものを手に入れたのかい?
‐手にしたさ。
で、何を望んだんだい?
自分を愛されるものと呼ぶこと、地上で愛されていると感じること。
レイモンド・カーヴァー「おしまいの断片」

本作の冒頭で、ドラムプレイとともに出現する、小説家レイモンド・カーヴァーによる晩年の短い詩(彼の墓にも刻まれている)は、老いた孤独な人間による精神的な世界観の到達であるが、本作ではこれがよりなまなましく、世界にしがみつこうとあがく人間の、内面の地獄を表しているように感じられる。
そしてその地獄とは、周囲の人々から愛され、現在の自分が幸せだと実感したいという期待が根底にあるだろう。一時は自分が望むような愛を得たと感じる瞬間があるからこそ、現在の状況の落差に苦しむのだといえる。

レイモンド・カーヴァーは、アメリカ中流・下流層の人々を題材にした、優れた短編を遺した作家だ。
彼が描くのは、今までに小説の題材として光が当てられてこなかったような、飲酒、倦怠、家庭内暴力、浮気、離婚、別居、薬、自殺など、 現代アメリカの生活者による切実な問題である。
レイモンド・カーヴァー自身、生活人としても仕事人としても苦労しており、アルコール中毒の治療や離婚経験など、同じような問題に直面してきた経験が、それらリアリティを下支えしているといえる。
小説家として台頭した時期のカーヴァーに最も特徴的だったのは、当時「ミニマリズム」と、批評家などから表現されたように、そのような切実な題材を非常に簡潔な文で抽象的に表現したことと、そこに現代美術を想起させるような、象徴的なタイトルをつけたことである。
このことによって、楽しみづらいような陰惨な世界が、いくぶん緩和され、ガラスケースに入れた鑑賞物を見ているような感覚が与えられるだろう。ただし、そこには紛れもなくカーヴァー自身の実感がこもっている。だから、作品世界と鑑賞者を隔てるガラスには、じんわりとした温度を確かに感じ、絶妙なバランスで優れた作品が成立するのである。
翻訳によって、日本におけるカーヴァー作品の紹介にあたった村上春樹は、この時期のカーヴァーの社会的影響について、「八〇年代を通して、自分たちの世代の新しい文学表現方法を模索する若いアメリカの作家たち(あるいは作家志望の人々)にカルト的と言ってもいいほどの強い影響を及ぼすことになった。」と、書いている。
それは本作のリーガン・トムソンにも当てはまるだろうし、本作の監督のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥも、そうであったのかもしれない。

カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」原題:”What We Talk About When We Talk About Love” は、『バードマン』劇中で、リーガン・トムソンがブロードウェイで上映する演劇の題材に選んだ短編作品だ。この長いタイトルは、いかにもカーヴァー的な趣きがあり、本作『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』原題: Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance) という面倒くさいタイトルも、これを踏襲したものだろう。

「愛について語るときに我々の語ること」の内容をざっと説明しよう。
二組の夫婦が、キッチンでジンを飲みながら語り合っている。話題はなぜか「愛」に移る。
結婚歴の長い方の夫婦の妻が、むかし別れた前夫から受けた家庭内暴力について、「それは彼なりの愛情表現であった」と述べる。だが夫の方は、「そんなものは愛だと認められない」と反発し、愛とは何かについて、自分が見た他人の老夫婦の愛情を例にとって語っていく。
そのうち、4人は打ち沈んでいき、いつしか身動きすらしなくなり、そのまま物語が終わってしまう。
この物語は、二組の夫婦が、片方の家のキッチンでジンを飲みながら会話をするというだけの、ワン・シチュエーションのみで構成されているので、いくつかの幕で構成されている『バードマン』での舞台は、リーガンが大胆に脚色したものであろう。

結婚歴の長い夫婦は、結婚当初の新鮮さが失われ、二人の間には倦怠と、ある種の諦念が流れている。「愛」が喪失していると感じている妻は、暴力を振るった末に自殺した前夫の方に、むしろ愛情を感じているように感じられる。
そして、それを察知した夫は、そのようなことを肯定するわけにはいかないと、愛の意味について語りだす。
しかし、不注意にも例を出してしまった老夫婦の間にあった、彼の考える真実の「愛」は、自分たち夫婦の間には存在しないことに思いあたってしまうのだ。
つまり、仮に彼の言う「愛」こそが「愛」であるとするならば、彼らにはそもそも「愛」は無かったといえる。そしてその話を聞いている、もう一方の結婚歴の浅い夫婦にも、そのような「愛」はやはり存在しないのだろう。
そして、そう遠くない自分たちの将来の絶望を、この倦怠した二人から感じ取って、物語は、四人の絶望とともに幕を閉じるのである。
この小説で描かれている問題は、ひどく苦いもののように感じられる。
ただ、その絶望のなかにも、一筋の希望が隠されていると思えるのは、そのような「愛」は、確かにここには存在しないものの、他のどこかには存在している。そのことを反面的に表してもいるからではないだろうか。

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同様に、『バードマン』も、失われた「愛」を求め続ける人間の物語である。リーガンは、人から愛され評価されることで、自分を成り立たせ、常に数多くの人々の評価を欲している。
リーガン・トムソンの俳優としての活動の原点は、学生の頃、演劇で演じた役を、レイモンド・カーヴァー本人に褒められたからだという(もちろん、映画の中の創作されたエピソードだ)。
無名の学生であるリーガンが、尊敬に値する著名でインテリな作家に評価されたという出来事は、彼にとって、世界から愛されている実感を得られるものであっただろう。
その成功体験を心の支えとして、リーガンは俳優としての活動を続けていったはずだ。そしてとうとう、『バードマン』という、全世界で大ヒットする超大作映画に主演するという僥倖に出会うことになる。
このような強烈な体験は、文字通り全世界から愛され、全能感を得るのに十分であっただろう。
だからこそ、そのことが過去のものとなり人々が離れていくことが、耐え難い苦痛として、彼の精神に負担を与えている。
確かに、いまだに彼は「バードマン」として、多くの人々に記憶され、サインを求められることも珍しくない。しかし、その拠り所となっているのは、その演技そのものとは関係がない。「バードマンを演じた」というだけの、ほぼ形骸化された事実でしかないのである。
だから、彼がレイモンド・カーヴァーの小説を舞台化したのは、「バードマン」という巨大な成功体験と病理からの離脱であるといえる。
好意的な見方をすれば、それは過去のイメージから脱却しようとする前向きな努力だが、厳しい見方をすれば、バードマンという成功体験の、さらに昔の成功体験にすがり、甘えようとしているともいえる。
そのことは、リンゼイ・ダンカン演じるニューヨークタイムズの辛口な演劇批評家や、エドワード・ノートン演じる才能ある破天荒な舞台俳優にも、直感的に見透かされていたように感じられる。彼が学生時代にレイモンド・カーヴァーに褒められたなどという話は、演技の質そのものとは無関係の、大衆向け「感動秘話」であるに過ぎない。

そもそも、このような文芸作品を、舞台経験の少ない映画俳優が主導し、演出まで手がけて、いきなりブロードウェイの舞台で上演するという企画自体に無理があるといえるだろう。
リーガン・トムソンのブロードウェイにおける絶望的な七転八倒は、喜劇的にも悲劇的にも描かれていくが、そこで発生するトラブルは、当初の悲惨な状況を、皮肉にもどんどん好転させていくことになる。
舞台で夫のひとりを演じていたひどい役者の頭には照明が落下し、代役として現れた気鋭の舞台俳優マイクは、プレビュー公演で、本物志向のため用意したジンが勝手に水に変えられていたことに激昂し、舞台を文字通りぶち壊し、さらには共演の女優を上演中にレイプしようとする。
そのような、舞台作品本来の真価とはなんら関係のないゴシップ的なあれこれに対して、観客は盛り上がり、話題を集めていく。
そしてリーガンが舞台の途中で一服しようと劇場の裏路地に出た際には、裏口が自動的にロックされ、ブリーフ一枚に靴下をはいた姿で、大勢の人々が往来するタイムズ・スクエアから迂回して劇場正面口から入ることを余儀なくされるという事件も発生する。
あられもない姿で観客席の背後から現れるリーガンを見て観客は大受けし、携帯電話で野次馬に撮影された情けない様子は、動画サイトで驚異的な閲覧数を獲得し、結果的に舞台は多くの観客で賑わうことになるのだ。

ニューヨークタイムズの辛口批評家は無論、このような状況を唾棄し、バーで会ったリーガンに対し、あんたはただのセレブなだけだ、悪しざまに酷評してやる、と宣言する。
確かに、これらトラブルで得る成功など、演技者として何の達成でもないことを、うすうす感じていたリーガンは、打ちひしがれ、酒を飲みながら裏通りを逍遥し思い悩む。
翌朝、彼が目覚めると、完全に全身が実体化したバードマンが出現した。彼の心が深く傷ついたとき、必ずバードマンが現れる。
精神的に追い詰められたリーガンは、バードマンの導きによって、空を飛び、ビルの間をくぐり抜け、劇場入り口へと降り立つ。
その後を、タクシー運転手が「お代を払ってください!」と追いかけてくる。リーガンはストレスがピークに達し、完全に常軌を逸している。
まるでエリッヒ・フォン・シュトロハイムを気取っているように本物志向なリアリストである、共演者のマイクは、劇中で使う小道具の拳銃を「おもちゃだ」と批判していた。
リーガンは、その代わりに本物の拳銃を用意し、実弾を込めた。そして、舞台のラストシーンで、自分のこめかみに銃口を向け、この地獄のような悪夢を終わらせるべく、引き金を引いたのだった。
瞬間、このリアルな演技に対して、観客たちは総立ちになり、惜しみない拍手を送る。しかし、これはリアルな演技ではなく、リアルそのものであった。

このとき、長い長いワンカットがとうとう終わり、幻想的なモンタージュが差し挟まれていく。
太陽の熱で焼かれたイカロスの炎の帯が空を走り、どこかへ落ちてゆく。
ステージ上では、彼がブリーフ姿でタイムズ・スクエアを通り過ぎたときに目撃した、スパイダーマンやアイアンマン、トランスフォーマーのバンブルビー、そして自由の女神などのコスプレイヤー達が、ドラム隊とともに跳梁する、地獄の乱痴気騒ぎが繰り広げられる。
かと思うと、浜辺にうち上げられ死んだクラゲの腐肉に集まる鳥の群れが映される。
再度目覚めると、リーガンは病院のベッドの上にいた。銃弾はねらいを逸れリーガンの鼻を吹き飛ばしただけで、命びろいをしたのだ。
その鼻は、外科手術で整えられている。包帯でまかれた顔は、マスクを被ったバードマンのようにも見える。
友人のジェイクが、大勢のファン達がリーガンを支持していること、そしてあの批評家でさえ、劇評でリーガンの舞台を絶賛し、彼の演技を評価していることを伝えた。その評のタイトルは、「無知がもたらす予期せぬ奇跡」であった。

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しかし、何故批評家は全く意見を変え、リーガンの演技を評価したのだろうか。このような、芝居の技術とかけ離れたゴシップ的トラブルこそ、彼女が唾棄し、忌み嫌っていたものであったはずなのに。
思えば、リーガンが発砲して、観客が全て立ち上がって万雷の拍手が起こったときに、彼女だけは着席したままだった。そして、人々の声援に押し出されるように、劇場を足早に出て行った。そのばつの悪い反応から察するに、この舞台の成功は、やはり彼女にとって認め難いものであったのだろう。
しかし、ここまで観客の心をつかみ、評価されてしまったものに対して、自分ひとりが文句をつけてしまえば、彼女自身の批評家としての今後にも関わってしまうはずだ。彼女はおそらく、批評家としての自分の立場を守るため、忌み嫌っていたはずの、世間のゴシップ的価値観の軍門に降ったのだ。結局、大衆性は彼女をすら地面に這いつくばらせたのである。
「無知がもたらす予期せぬ奇跡」というのは、「素晴らしい演技だが、それはリーガンが無知であるが故につかんだものである」という意味だろう。つまり、この表現が彼女のできる精一杯の皮肉であり、くやしさがにじみ出た苦し紛れの批評であることが分かる。
リーガンが最も欲しかったものは、確かに世間の支持であり、批評家の評価であった。だが、それは全て、演技そのものとは関係のない部分でつかんだものである。つまり、このブロードウェイでの成功というのは、バードマン俳優としてだけ評価された、ハリウッドでの成功となんら変わらなかったのだ。

本作では、ロバート・ダウニーJr. のインタビューがTVに映るシーンがある。
いまでは彼は『アイアンマン』俳優として知られているが、以前は文芸作品の映画化『レス・ザン・ゼロ』などで注目を浴びたキャリアを持ち、英国アカデミー賞主演男優賞を獲得するなど、演技派俳優として成功している。
だが、薬物依存症と素行の悪さ、そして度重なる逮捕などのゴシップによって、いったん彼はハリウッドから締め出されている。しかし、『アイアンマン』でトニー・スタークを演じたことによって、今ではハリウッドで最も高額なギャラを取る俳優として復活することができたのだ。
ロバート・ダウニーJr. は才能のある役者だが、どん底にあった彼を救ったのは、かつての犯罪者がアメリカンヒーローを演じるという、悪趣味なアイディアであり、少なくとも当初は、人々のゴシップ的な興味によって、彼は再起の足がかりを得ることができたといえるだろう。無論、そのこと自体は、ロバート・ダウニーJr. の演技者としての実力とは無関係である。
この事実は、たとえ才能があったとしても、一般大衆の興味を惹かなければならないという、ショービジネスが本来持っている商業性、もっといえば「反芸術性」を指し示しているといえるだろう。商業と芸術のせめぎ合いは、古来から創作における最大の問題であるといえる。
皮肉なことに、本作『バードマン』自体も、「ヒーロー映画」という側面が強調され、多くの観客の耳目を引くことに、小さくない効果を生んでいるはずである。この構造は、『バードマン』そのものが体現すると同時に、多くの映画作品、多くの創作物にも適用することのできる普遍的テーマである。

不気味なモンタージュで、幻想のステージ上に現れた自由の女神や、スパイダーマン、アイアンマン、バンブルビー達、アメリカンアイコンの乱痴気騒ぎは、そのような反芸術的な商業性や大衆性が、結局、ブロードウェイの文芸作品の舞台においても支配的であることを暗示している。
芸術表現に、亡霊のようについてまわる商業性。この現実的な構図は、芸術作品を手がけようとするリーガン・トムソンにピッタリとついてまわるバードマンという構図にも重なる。
イニャリトゥ監督は、あるインタビューのなかで、本作にヒーロー映画の要素を追加したのは、後から思いついたアイディアだと言っている。そして、以下の発言をしている。
「スーパーヒーローを分身にするという考えにとてもワクワクした。なぜなら、ある意味、これは我々が生きている時代にふさわしいからだ。その声は今、我々が苦しんでいる現状の一部だ。現状とは、つまり、世界的な企業に管理されたエンターテインメント世界の状況だ。」
イニャリトゥ監督の述べるエンターテインメント世界の状況とは、アメリカン・コミックを原作としたヒーロー映画が、いまやハリウッド大作映画の主流になっているという状況のことであろう。
とくにハリウッド大作が、その製作規模が大きくなればなるほど、企業側を主導として、現場の映画監督の創造性を制限しがちであるというのは、今に始まった問題ではない。だが、おそらくヒーロー映画が興行的に安定した成績を生むという理由を背景に、そのような企画が乱立しているというのは、個人的にも実感している。

このような現状に不満を漏らす俳優も出てきている。ベテラン女優メラニー・グリフィスは語る。
「最近の脚本は最低。バカらしくて浅はかなものばかり。わたし自身には、あまり脚本がまわってこないけど、夫(アントニオ・バンデラス)にオファーされているものを読むとね……。映画界も変わったわ。大規模な作品はどれもアニメとスーパーヒーローもので、まともな作品がないから映画館にも行かなくなってしまった」(BANG Media International)参考URL:http://www.cinematoday.jp/page/N0055760

『ワイルド・スピード』シリーズや『アバター』などでワイルドな演技を見せる女優、ミシェル・ロドリゲスは、最近、同じような脚本ばかり読まされることに辟易し、このように映画業界の現状を批判する。
「この業界は早く目を覚ますべきだと思う。コミックブックが原作のものや80年代の映画のリメイクを作るのをやめるべきだわ。もう十分でしょ。何か新しいことをやりましょうよ」さらに、「ハリウッドの人種的少数派の俳優は白人のスーパー・ヒーローの置き換えではなく、新たなキャラクターを創造していくべき」だと、自身のフェイスブックのページにて訴えている。

このような発言は、これからもヒーロー映画を推し進めようとする大手映画会社にとっては都合の悪いものであるため、なかなか俳優が口に出せない意見のはずである。だから、彼女達以外にも、水面下で不満がたまっている映画人は、実際に多いはずだ。
もちろん、ヒーロー映画のなかにも、『ダークナイト』や『キャプテン・アメリカ ウィンター・ソルジャー』など、深いテーマや、政治性、芸術的表現を達成しているものは少なくない。
だが、そのようなテーマや普遍的部分については、アメコミヒーローが登場しなければ絶対に描けないというわけではないだろう。バットマン映画を撮ることに情熱を燃やしたクリストファー・ノーランであっても、そこで優れた表現を達成したというのは、彼自身に手腕があったからであるはずだ。
優れた作家は、優れた技術と信念によって、作品に魂を吹き込み芸術に昇華させる。それは、アメコミ映画であっても、文芸作品であっても変わらない。
ここで彼女たちが主に問題にしているのは、売り上げやリスク回避が念頭にある、オリジナリティの欠如した作品を再生産しようとする安易さであり、過度な大衆迎合による業界の弱体化と作品の質の低下であろう。
このような状況について、本作はきわめて挑発的に笑い飛ばそうとする。いかにもなCG技術によって派手な市街戦を表現しながら、「お前らはどうせこういうのを求めてるんだろう?」と、いうように。

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さて、果してリーガン・トムソンは、あの劇評家が判断したように、本当に「無知」であったのだろうか。
ここで、TVアニメ「ザ・シンプソンズ」のエピソード、「魂を売っちゃったバート」(Bart Sells His Soul)のあらすじを紹介したい。
いたずら好きな少年バートは、軽い気持ちで「バートの魂」と書いた紙を、他人に5ドルで売り渡してしまう。はじめは、魂の存在など迷信だと軽く考えていたバートだったが、時間が経つとだんだん不安になってくる。そして一秒でも早く魂を買い戻したいと、魂を求めて夜の街を彷徨うのである。
この作品の中で、バートの妹リサは教訓を語る。「いい?バート。多くの哲学者が信じるように、人は誰も魂とともには生まれないの。お兄ちゃんが昨日の夜したように、苦しんで、考えて、祈ることで手に入れるものなのよ」
また、ドイツの文学者、ヘルマン・ヘッセの「漂泊の魂(クヌルプ)」は、同様に自分の魂を探し求める放浪者の物語だ。主人公クヌルプは、人並みの生活者として生きることができず、放浪生活を送る。若い頃は女性にちやほやされ愛されていた彼も、老いることで他人に相手にされなくなり、孤独に死んでいく。しかし、最期に彼は神と対話し、悔いのない人生だったと満足する。

リーガンは、「あんたはただのセレブ」と批評家に罵倒され、苦痛に耐えながら夜の街を彷徨った。また彼は慣れない環境の中で、常にストレスとリスクと恐怖と悪意と誤解にさらされ、闘ってきた。それが無様な姿だと人から笑われたとしても。
このようにリーガンは七転八倒を重ね、芸術と無関係な結果を生み出しながらも、その度にじつは芸術の魂に近づいてもいたのである。レイモンド・カーヴァーが、かつて一家離散し、アルコール中毒の悪夢の中で苦しみもがきながら芸術の魂に近づいたように。
リーガンが顔に巻かれた包帯を解くと、鼻の整形と内出血で変色した顔は、まさにバードマンのようである。彼はもう、心の傷を埋めるためにバードマンに扮してスーパー・パワーを使う必要はない。自分自身の内に、求めていた本物のスーパー・パワーを発見したからだ。
新しいバードマンは、大衆の人気も、批評家の評価も、社会的成功すらも必要としない。原動力は、自分自身の内なる力である。そのことには、誰も気づいていないのかもしれない。でも、自分自身がその達成の実感を得て、自分自身を愛することができるのならば、それだけで十分だ。それは、真の芸術家が行き着く精神的境地だ。
だが、そんな父親の姿を目撃したリーガンの娘サムだけは、そのことが理解できた。リーガンは、他人の評価から解放され自由に飛び立つことで、はじめて娘という一人の観客を感動させ、生きる道を指し示すことができたのである。

 


 


 

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