『メランコリア』 映画史上最大の恋愛

静かにゆっくりと  彼は微笑むように  目を開く
あなた方は見えているの? それとも見えないの?
明るく輝き、星々に照らされながら  彼が起き上がるのが  分からない?
どのように  あの方の心が  勇敢に、完全に、雄大に胸の中でうねってゆくのを
唇から、楽しく穏やかな息が 優しく洩れるのを
見て!感じないの?
この素晴らしく完全な、柔らかな至福の嘆きを  全てが穏やかに和解するのを
彼から鳴り響く調べを聴いているのは  私だけなの?
ますます高らかに  私を取り巻いて  反響する  この調べを!
私の周りに  波のように打ち寄せる、穏やかな風、心地よい香りの波を!
それらは、うねりのように、私を包みささやく
私は、それを吸い込めばいいのかしら それとも、耳を傾けるべきなのかしら?
飲めばいい?溺れればいい?
それとも  甘い香りのなかに  消え入っていけばいいの?
うねり、響く轟音、宇宙の息吹の遍在…
溺れ、
沈み、
われを忘れるほどの…
至上の喜び!

(トリスタンとイゾルデ3幕より)

「トリスタンとイゾルデ」前奏曲

ケルトの説話から生まれ、後に「アーサー王伝説」の中にも組み込まれ、さらにドイツに渡り、「歌劇の王」リヒャルト・ワーグナーが、オペラ作品として書き直した悲恋の物語が、「トリスタンとイゾルデ」だ。
制作にまつわるトラブルや、上演の条件などの問題から、各方面で忌避され、狂王ルートヴィヒ2世の尽力によってようやく初演のはこびとなった、この哲学的にも、楽曲の先進性でも、それ以前の常識を覆した規格外ともいえるオペラ作品は、ワーグナーが自身で「愛の究極的賛美」と呼び、そしてさらにまた、彼が楽曲を完成した瞬間、「私は悪魔の申し子だ!」と、発作的に叫んだというような、当時のオペラ作品としては、あまりに異常かつ画期的なものとなった。
とくに序盤の「前奏曲」、終結部の「愛の死」と呼ばれる楽曲は、後に独立して演奏される楽曲作品にもなっているほどに、高いクォリティを担保している。
映画『メランコリア』を読み解いていくために、あらかじめ、このオペラ作品「トリスタンとイゾルデ」の物語の概要を紹介したい。

アイルランドの王女イゾルデは、コーンウォール王国(イングランド南西部にあった)のマルケ王と政略結婚をするため、コーンウォールの港へと向かう船に乗っていた。
しかし、彼女の心は悲運の騎士トリスタンのものであり、またトリスタンの心もイゾルデのものであった。
突如として、船中でふたりの愛は燃え上がることになる。媚薬が、彼らの秘めた心を開放したのだ。
イゾルデがコーンウォールに到着してからも、彼女はトリスタンと密かに逢引きを繰り返すようになる。
しかし、トリスタンの盟友の姦計により、この不実はマルケ王に露見することになってしまう(ケルト説話では、トリスタン、イゾルデ、マルケ王三者が同時に予知夢を見たことによって発覚する)。
イゾルデを連れ、城から逃れたトリスタンは、かつての盟友の刃による怪我が原因で、逃避行の途中で斃れ、絶命することになる。
怒りに燃えていたマルケ王は、心変わりし、ふたりの恋を許すつもりで彼らに追いつくものの、彼が目にしたのは、すでにこと切れたトリスタンと、気を失ったイゾルデの姿であった。
しかし、意識を取り戻したイゾルデは、すでに悲しんではいなかった。
彼女は、本文章の冒頭で紹介した、「トリスタンとイゾルデ3幕」の詩を、神々しく高らかに歌い上げ、トリスタンの上に倒れこみ(死を暗示させ)、オペラは終幕する。

この悲恋物語は、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の雛型ともなったという。
文頭で紹介した、「トリスタンとイゾルデ」の終局部分は、「愛の死」と呼ばれるように、愛ゆえに死を選ぶという、社会的には不道徳なものであるのは確かで、見方によっては自殺礼賛、破滅の助長ともとらえられる部分でもある。
そしてそれを、最良のスコアの調べに乗せ、甘く耽美的に、神々しく誇り高く演出したからこそ、ワーグナーは自らを「悪魔の申し子」と呼んだのだろう。
『メランコリア』は、「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲」をそのまま冒頭の、本作の重要なシークエンスの映像をダイジェストした、「前奏部分(ラース・フォン・トリアーの前作『アンチクライスト』でも見られた、スローモーションを使った映像と、演奏のみの、演出的に本編とセパレートされた箇所)」で使用してることから考えて、この作品自体が、「トリスタンとイゾルデ」を踏襲したものであることは間違いない。

「前奏曲」後、『メランコリア』のプロローグの舞台は、「トリスタンとイゾルデ」と全く同じように、「コーンウォールへ向かう船」と同じ意味合いである、「結婚披露宴の会場へ向かうリムジン」として表現される。
では、キルスティン・ダンストが演じる花嫁ジャスティンは、ラース・フォン・トリアー監督がイゾルデに重ね合わせたものなのだろうか。仮にそう考えたとして、先に進みたい。

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■ 第一部<JUSTINE>「ジャスティン」

ジャスティンは花婿と一緒に、結婚披露宴会場となった郊外の豪邸へと、時間を大幅に遅れて到着する。豪邸の入り口でハラハラして待っていたのは、彼女の姉夫婦である。
姉クレアは、披露宴の進行を取り仕切っている。クレアの夫は、この、ゴルフコースを完備した豪邸のオーナーであり、また披露宴の費用を用立ててもいるのだ。
空はもうほとんど暗くなっている。ジャスティンは、ここで星空に何か違和感を感じるが、急かされて会場へと入る。
「こんなゴージャスな女性と結婚できるなんて、ぼくは、ぼくは…」瞳を潤ませながら感激に身を震わせる花婿。
ジャスティンの勤めている広告会社の上司が、「君はとてつもなく優秀だ、昇進が決まったぞ」と、サプライズ報告をする。
披露宴は和やかなムードで進行するはずだった。ジャスティンの母親(シャーロット・ランプリング)が、とてつもなく悪意に満ちた、ひどいスピーチを始めるまでは…。

ジャスティンはこのあたりから、気分が悪くなり、沈みがちになってしまう。人生で一番幸せな瞬間に、衆目の中で悪意をぶつけられたのだから、当然といえば当然である。
しかし、ジャスティンの反応はそれを超えた鬱症状と異常性を見せ始め、パーティーで奇行を繰り返してしまうことになる。

控え室に飾っている、明るい雰囲気の抽象画のページが開かれている美術書を、別に置いてある具象画の美術書と、発作的に交換してしまう。
花婿が「肌身離さず持っていてくれ」と言う、彼が購入した農場の写真を、その場に置きっぱなしにしてしまう。
会場を抜け出し、邸宅のゴルフ場の中をゴルフカートで疾走し、ウェディングドレスを着たままグリーンで排尿する。
招待客がケーキカットを待っているのに、控え室から全く出てこず、あまつさえお湯を張ったバスタブの中に浸かってしまう。
そして奇妙なことに、ジャスティンの母親も、同様に自分の控え室で、彼女がそうしたのと同時刻に入浴している。
さらにこれを知った姉クレアの夫は、怒り狂い、クレアに悪態をつく。「一体、どんな親子なんだ!!」
彼女の才能を非常に高く評価している上司にも悪態をつき、会社を辞めるという宣言までしてしまうジャスティン。
最悪なのは、ベッドルームで期待を膨らませる花婿の誘いを拒否し、やはりゴルフコースで、今夜初めて会った、勤務先の新入社員の男性と野外での性行為に及んでしまう。
彼女のあまりな態度に翻弄された花婿は失望し、他の招待客と一緒に、邸宅から離れてしまう。この結婚は解消になるだろう。

ここまでめちゃくちゃな、あれこれの行動は、悪意をぶつけられたからというだけでは説明がつかないし、また強いマリッジ・ブルーが原因としても、あまりに不安定で異常すぎる。
しかし、ここまでの時点では観客に明かされていない、全てにつじつまが合う衝撃の答えが、第二部にて用意されている。
ジャスティンは、狂ってなどいなかった。ただ、他の人間よりも先に、あることに気づいてしまっただけなのである。

翌日、目を覚ますと邸宅には、ジャスティンとクレア、クレアの夫、クレアのひとり息子、執事しか残っていなかった。
気を取り直し、霧の中を乗馬に出かけるジャスティンとクレア。突然、ジャスティンの乗っていた馬が、小さな橋の前で脚を止め、全く進まなくなる。
空を見上げて、また極度の不安状態に陥るジャスティン。さそり座の一部を構成する星、アンタレスが見えないのだ。

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■ 第二部<CLAIRE>「クレア」

7週間経った。ジャスティンの鬱状態は、姉の介助がなければ、体を洗うこともできなくなるまでに深刻化していた。
食卓で促され、やっと食べ物を口にするも、「灰のような味だわ…」と泣き出すジャスティン。手のつけようがない。

同時期、「メランコリア」と名づけられた惑星が、地球に大接近するという報が世界各地に流れていた。
ジャスティンが動揺したように、アンタレスをかろうじて隠すほどのサイズでしかなかった惑星は、すでにクレアにも視認できるまでに大きく空に浮かんでいた。
夫は、科学者の計算によると衝突はありえない、ただの天体ショーのようなものだと言って、息子やクレアを安心させようとするのだが、それでも不安に思うクレアは、独自にインターネットで、惑星についての情報を検索し始める。
そこには、「死のダンス」と呼ばれる、地球とメランコリアが、互いの重力によって複雑な軌道を描き、接近と離反を繰り返しながら、最終的に衝突するという、物理的な軌道モデルがあった。
その図をプリントアウトしたものを夫が発見したが、彼は「ネットの情報などでたらめだ」と、全くとり合おうとしない。
夜中、邸をひとり抜け出したジャスティンを不審に思い、後をつけるクレア。ジャスティンは、人気の全くない水場で、メランコリアの明かりの下、裸になり身をくねらせていた。

空に浮かぶメランコリアは、さらに巨大化している。
そして、一度も休んだことが無いという、邸の執事が出勤しなくなった。

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メランコリアが地球に大接近するという日、ジャスティン、クレア、クレアの夫、その息子は、メランコリアの観測をする。
暴力的なまでに大きくなってゆくメランコリアに不安になる彼らだったが、しばらくすると、クレアの夫が言ったとおり、星は徐々に遠ざかっていった。
安堵したクレアが目覚めると、夫の姿が見えない。不安になりもう一度メランコリアの位置を調べてみると、また接近し始めている。それは、自分が調べた「死のダンス」の動きを裏付けるものだった。
夫は、納屋で自殺していた。衝突の恐怖に耐えられなかったのだろう。

その日、クレアはジャスティンから奇妙な話を打ち明けられる。
「私には分かるの」…ジャスティンは、惑星の接近をすでに予期していたし、これから衝突するということも分かっているというのだ。
そして、彼女は「私たち以外に宇宙に生命はない、そして衝突して宇宙には誰もいなくなる」とも言った。
ひどく動揺したクレアは、最期はせめてワインでも開けて、一緒に過ごしましょうと提案するが、ジャスティンは、同じように恐怖するクレアの息子の心のケアを優先させる。
木切れを集め魔法陣をつくり、その弱々しい簡易シェルターの中に入り、最後のときを過ごすのだ。
轟音とともに焼き尽くされていく地平線。全てが炎となる。ついにメランコリアは地球飲み込み、全ての生命を消滅させた。

『メランコリア』は、地球や地球上のあらゆる生命、人類、さらに宇宙の全ての生命が絶えるという、表面的には破滅的で沈うつなストーリーである。
だが、この作品が何の救いも無い、ただの消滅礼賛を謳いあげたものであったとしたなら、作品自体にそれほど意義が無くなってしまうことは事実だろう。
しかし、これを「トリスタンとイゾルデ」の愛の悲劇に重ね合わせて考えると、意味合いが変わってくるはずである。
つまり、運命によって定められていた永遠の恋人、「トリスタン」=「メランコリア」との、「愛の死」がここで描かれている、そして宇宙の壮大な物理現象において、「愛の究極的賛美」を表現しようとする試みが行われているのではないかという考察である。
実際にメランコリアと「死のダンス」を踊るのは、「地球」であったことを考えると、今回「トリスタンとイゾルデ」に重ねあわされているのは、「メランコリアと地球」だという見方が自然である。
そう考えると、ジャスティンは、地球の感情や宇宙的な出来事を、先んじて読み取ることのできる、ある種の巫女のような存在であったといえるだろう。

第二部での、ジャスティンに予知能力があるという、彼女のカミングアウトを信じるとすれば、これまでの彼女の奇行の理由について、つじつまが合うことが分かる。
もともと彼女は、自身が予知能力を持っていることを自覚していた。だからその能力を活かし、広告業界で才能を発揮することができたのだ。
自分の考案した広告プランを提出するとクライアントがどのような反応をするか、ターゲット層にどのような反響があるか、全て彼女は予期することができた。だから上司は、神がかりともいえる彼女の力に惹きつけられ、天才的な感性を持っていると評価していたのだ。
そしてジャスティンは、結婚相手の青年がとても誠実であり、彼と結婚をすれば、最大限に自分を愛し、尽くしてくれることも予知していたはずだ。

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彼女が本格的にメランコリック(憂鬱になり思い沈む)な状態に陥った端緒はどこかと思い返してみると、それは彼女の母親のスピーチの時点である。
このふたりが母子であること、そして何故か同時に奇妙な行動を始め、全く同時刻に入浴したというようなシンクロニシティ(共時性)を考え合わせると、彼女たちは同じ情報を共有していたことが考えられる。
つまり、「地球に惑星が衝突し、宇宙にある全ての生物が消え去る」という予知を、披露宴パーティーの会場で同時に(もしくは母親のほうが早かったかもしれない)、知覚してしまったように思える。

通常、ひとはこのような事実を知ってしまったら、まず混乱するだろう。そして、人間関係を含めた全てのものが、無価値に思えるはずである。
結婚とは、男女が未来の共同生活のための誓いを立てることである。ほとんどの人間にとって、近い将来、自分もろとも地球が消滅することを悟っていたとしたら、結婚に意義を見出すことはできなくなるだろう。
ここで、真実を知ってしまった者が、そのことを隠した状況下で、自暴自棄になったとして、それは責められるようなことではないのではと思う。
ジャスティンは、「私、笑ってるじゃない」、「私だって精一杯努力したのよ」と、姉に自己弁護した。彼女は絶望的な気持ちを最大限隠そうと、孤独な努力を続けていたのだ。
彼女は衝動的に、飾ってあった明るい抽象画の画集を、暗い色調の具象画と取り替える。これは、「結婚」という漠然と幸せな抽象的観念を否定するという意味が込められた行動なのではと思わせる。

惑星メランコリアが、自らを破滅させながらも地球を滅ぼすという事象は、まさにお互いの「愛の死」であり、「死のダンス」である。
宇宙が創成され、星系が渦を巻きながら、それぞれが複雑な軌道を辿りながら移動する星々の物理運動が、あらかじめ規定されたものであるとすれば、ある星々が衝突するという現象は運命論的なものだといえるだろうし、また、恋人同士の出会いや結末もまた同じレベルで語ることができるかもしれない。
そしてそれら惑星が、互いの重力に引き寄せられ、接吻するように、また身体を重ね合わせるように衝突する刹那を、きわめて美しい映像で甘美に表現している箇所は、かつて映画で描かれてきた恋愛描写、または愛ゆえに心中するという描写のなかで、最も壮大な「愛」の描写だといえよう。
つまり、冒頭の「前奏曲」で描かれた、いくつもの美しいシーンは、逆説的な美なのではなく、この愛の運命の祝祭であるように感じられるだろう。
それは、親戚や友人らを招待して、歴史ある屋敷で開かれたパーティーなどよりも、はるかに意義深くロマンティックな演出ではないだろうか。

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そう考えると『メランコリア』は、破滅的な愛の極北を描いた、きわめてロマンティックなラブ・ストーリーであるといえるだろう。
精神的に不安定だといわれる、ラース・フォン・トリアー監督個人の、自殺への暗い憧れや、快活に生を謳歌する人々を道連れにする喜び…もちろんそのような感情がおそらく今回の映画制作の根底にあることはおそらく事実であろうが、単純にそのような矮小な感情の発露だというように、単純化して考えるべきことではないと私は思う。
何故なら、徐々に、そして暫時遠ざかりながら、しかし確実に忍び寄り、ある時点を境にして、予告しながら迫りくる惑星メランコリアは、我々生物が、誕生した時点ですでに規定され運命づけられている、「死」そのものでもあるからである。
我々は生まれながら、「惑星メランコリア」のように、徐々に、しかし確実に迫りくる「死」を同時に持っている。
そして、生と死が出会い、死の中に身を任せること、これを「愛の死」なる、美しい運命的な、破滅をともなった恋愛劇として描くことは、ある意味でポジティブな視点でもある。
否応なく、全ての生物の、生と死が出会うという事象は、各々のラブ・ストーリーでもあり、それを地球とメランコリアの「死のダンス」が盛り上げていく。
そしてジャスティンのように、苦しみながらも、強く運命を受け入れることで、「死に至る病」を克服しようとする強い精神性を描くことが、極めて重要な普遍性を持ったテーマに昇華し得ているのである。

ラース・フォン・トリアー監督は、『ドッグヴィル』以降、そのセンセーショナルな作風とは裏腹に、残虐性の強調と稚拙な理論武装を施すことにより、作品の質が落ちていたことが懸念されていたが、前作の『アンチクライスト』から、非常に意義深いテーマに取り組む姿勢を見せている。
『アンチクライスト』と『メランコリア』は、基本的には、かつて監督自身が提唱した演出的制約である、「ドグマ95」なる即興的撮影方法への回帰が見られるように、ここにきて、小賢しい社会学などではなく、真に巨匠と呼べるような普遍的視点を取り戻したトリアー監督は、今後大いに期待できるところである。

加えて、『メランコリア』には、前作同様、様々な衒学的意匠が見られることも特徴だ。
ヒポクラテスは、「四体液説」において、人間の構成要素を4つに分類し、またさらに人間の性質を、それぞれのタイプに分類した。黄胆汁質(短気)、黒胆汁質(憂鬱)、粘液質(鈍重)、多血質(楽天的)というように。
その中の、黒胆汁質(メランコリアと呼ばれる)は、「四体液説」が唱えられた当時はネガティヴなものとしてとらえられ、病気の元とさえみられていた。
しかし、ルネサンス期の哲学者は、この憂鬱さに、芸術の根源的素養を見出し、才能の源泉を感じ取ったという。
つまり、憂鬱に打ち沈むには、それ相応の理由があり、それを、ある種の才能を持たない人間が理解するのは困難なのである。
そして、彼らから見て、その憂鬱的な行動は、ただ奇行としか映らないというのである。
これも、ラース・フォン・トリアーが、ここでこのモチーフを扱うことによって、ある精神的な分裂を、救い上げようというポジティヴさを感じ取れる箇所である。

次に、「トリスタンとイゾルデ」以前に、この作品自体の雰囲気を決定付けているのは、ルネサンス期のドイツの画家、アルブレヒト・デューラーによる、最も完成度が高く有名な3枚の銅版画である。

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「メランコリアI」”Melancholia I”
と呼ばれるこの銅版画は、彗星を眺める天使が、憂鬱(メランコリア)に打ち沈んでいるのを描いたものである。

傍らに座る小さな天使は、「才能、天才」の象徴だという。
そして背後には魔方陣も見える。『メランコリア』で、少年とともに魔法のシェルターで惑星から自分達を防衛しようとするモチーフは、おそらくは多くがこの絵から来ているだろう。

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「騎士と死と悪魔」”Ritter, Tod und Teufel”は、馬に乗って進む騎士に、悪魔が時計を見せ不安を与えている場面である。
悪魔が持つ時計は、「死の暗示」に他ならない。馬上の騎士は、死が迫っている、死から避けられない恐怖と戦うのである。

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「書斎の聖ヒエロニムス」”Der heilige Hieronymus im Gehäus”は、学究の徒であり聖職者でもあるヒエロニムスが、書斎で調べ物をしている場面である。
彼は、いずれ迫りくる死に対して、思索をし思い悩んでいる。
彼が窓際に置いているのは、アダムの頭蓋骨である。キリスト教における最初の人間の頭蓋骨は、人間が運命論的に、死から逃れ得ないということの象徴でもあろう。

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絵画については、「前奏曲」で登場した、ピーテル・ブリューゲルの「雪の中の狩人」にも触れておきたい。
二人の狩人が、山の麓の故郷の村に帰ってきた場面を描いた「雪の中の狩人」は、アンドレイ・タルコフスキー監督が、『惑星ソラリス』でもすでに引用している。
『メランコリア』においても、この絵は同じ意味合いで使用されているのだが、冒頭で、この絵が炎に包まれていくのは、人類にとっての故郷、生命の根源が消え去ることを暗示したものである。

また、本編のパーティで「私、笑ってるじゃない」と、ジャスティンが弁解する直前に演奏されていた曲が、チャップリンの”Smile”であったり、”Fly Me to the Moon”であったりするのは、いかにもあからさまで、人を喰ったラース・フォン・トリアー監督のユーモア感覚だと見るべきだろう。

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