以前観た映画をもう一度観直すと、よく新たな発見があるものだけど、今回は、「全然考え違いをしていたんじゃないか!?」…という話。
デヴィッド・フィンチャーの『セブン』という作品は、いまだに彼のベストワンだと思っている。
何故なら、彼の他の監督作に比べ、脚本が圧倒的に優れていて、文学的、哲学的な価値さえあるからだ。
脚本家アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーは、長年このアイディアを持ち続け、ブラッシュ・アップしてきたという。
彼の書いた脚本の中でも、『セブン』は、観客の趣向におもねるような、通常の脚本の作られ方をしていないということもあって、はるかに上質で、意味のある出来となっているといえるだろう。
しかし、私はこの作品のラストを、つい最近まで、バッド・エンドだと思っていた。
「猟奇犯罪者の目論見通りに事件は推移し終結を迎えるが、最後にモーガン・フリーマン演じるサマセット刑事が、ヘミングウェイを引用し、それがこの絶望的なラストの一条の希望として描かれている。
…というような内容なんだと判断していたものの、じつは逆に、猟奇犯罪者が敗北していた、つまり、正義が勝利するハッピー・エンドだったのじゃないか、ということである。…たぶん。
もしも、このエントリーを読んでいるあなたが、すでにそのことに気づいていたとしたら、この先は読まなくても良いと思います。
以下、実も蓋もないネタバレになるが、ラストまでのストーリーをかいつまんで説明したい。
サマセット(モーガン・フリーマン)なるベテラン刑事は、陰惨な事件を目の当たりにしなければならない、自身の仕事に嫌気が差しており、引退を決めていた。
だが、あと一週間と迫った任期中、あまりにも異常な「七つの大罪」連続殺人を担当することになる。
これは、「大食、強欲、怠惰、肉欲、高慢、嫉妬、憤怒」をテーマに、それらを犯す罪びとを、犯人が神の使者(死の天使)と成り代わり、各々象徴的な方法で殺害していくという、あまりに異常なものだった。
サマセットの捜査の相棒となるのは、田舎から配属されてきた若い刑事ミルズ(ブラッド・ピット)。
ふたりは、犯人の住処を発見し、あと一歩のところまで犯人を追い詰めるも、取り逃してしまう。
しかし、サマセットの退職を待たずして、突然、犯人ジョン・ドウが血だらけの姿で警察署に自ら出頭して来たのだ。
しかも、まだ「嫉妬」と「憤怒」殺人を犯す前に、である。
「犯行を自白することを条件に、私の指定する場所に、一緒に来て欲しい」…犯人の申し出た取引に乗って、その目的地へと向かう3人。
そこには、ミルズ刑事の妻の生首があった。
怒り狂ったミルズは、犯人の頭部に銃口を向ける。
眉間を弾丸で貫かれる直前に、犯人がつぶやく。「私は、ミルズ君の家庭に嫉妬したのだ」
嫉妬した犯人と、憤怒にかられたミルズ。
ここに、犯人の計画した最後の贖罪、「嫉妬」と「憤怒」が完成する。
簡単に言うとこんな感じのプロットなんだけど、ここの最後の部分に嘘がある。
犯人の計画は、じつは最後の最後、ミルズ刑事によって、未然に防がれていたのである。
それを説明する前に、何故そのような結末に至ることになるのかを、先に述べた方が良いと思う。
『セブン』のテーマは、主人公サマセット刑事の内面が、事件によってどのように変化していったのか、という部分に、端的に象徴されている。
サマセットの人格を一言で表すとすれば、「厭世観」になるだろう。
ひどい事件ばかりを担当してきたせいで、彼はすでに「性悪説」で人を見るようになっていて、だからこそ田舎でのんびり孤独に暮らしたいと願っている。
そんなときに起きた「七つの大罪」連続殺人は、彼に新たな嫌悪感を加えつつも、皮肉ながら、ある種のシンパシーを与えることにもなる。
「田舎への逃亡」と、「罪びとへの攻撃(殺人)」。その方法は違えど、紛れもなくこの犯人は、自分自身同様、強固な「厭世観」に支配されている…と感じるのだ。
意識的にしろ、無意識的にしろ、彼が熱心に犯人の哲学に固執し、「神曲」や「失楽園」を読み漁り、没頭するのは、そのためなのである。
このあたりは、むしろ刑事サスペンスの常道のひとつであるともいえる。
同時にサマセットは、ミルズ刑事の自宅に招待されたときに、希望に満ちた若いミルズ夫婦と接することで、そちら側にもシンパシーを感じはじめる。
サマセットは、「人間性」と「非人間性」、この両極端な秤の上を右往左往するような、どっちつかずの存在になってゆくのである。
ちなみに、「サマセット」という名は作家のサマセット・モームからきていると思われる。
サマセット・モームの代表作、「雨」、「赤毛」などの作品は、人間の中にあると思われていた善性、「慈しみ」や「真実の愛」と呼ばれるものが、それを信じていた人間の内面にある獣性によって蹂躙され、虚しく敗北するという物語である。
そのような人間への不信感、懐疑的まなざしを持つキャラクターとして、「サマセット」という名前が引用されているのだ。
そして、この『セブン』において、サマセット刑事は、善性と獣性のどちらが勝利するか、その戦いを目撃してジャッジする、公平な判断者としての役割を担わされることにもなってゆく。
そんなサマセットに、ミルズの妻が、子供を産むかどうかについて、相談することになる。
このようなひどい社会で育つ子供は、幸せになれないのではないか、という不安を、彼女は持っていた。
たぶん、彼女は最初から産むつもりではいるのだが、人生経験を積んだサマセットに理屈を説いてもらうことで、背中を押して欲しかったのだろう。
「産まないのならミルズには言うな。もし産むのなら、思いっきり甘やかしてやれ」とサマセットは答える。
確かに、こんな社会で育つ子供の将来は暗いのかもしれないが、彼は、若いミルズ夫妻に未来の可能性を感じ始めている。
それは、過去の自分が下した判断への後悔と贖罪の意味もあったかもしれない。
このときからサマセットは、多少イリーガルな方法を使ってでも、犯人を強引に逮捕しようとし始める。
これは、引退前に犯人を捕まえ、少しでも良い社会を作らなければならない、という意思の発露なのだろう。
さて、この辺でラストシーンの問題に戻ろう。
希望の象徴である彼女が無残な姿になったのを見たとき、そしてミルズが犯人に銃口を向けたとき、サマセットはどう感じたのか。
サマセットの理性と感情は、ここで分裂することになる。
理性は、彼がそのまま叫ぶとおり、「犯人を殺してしまっては、彼の贖罪を完成させることになってしまう!ミルズ、撃つな!」という理性的なもの。
しかし感情では、「ミルズ、このクソ野郎を殺しちまえ!」と思っているのである。
なぜそう言えるのかというと、ミルズが撃つまでの葛藤の長い間、それを止めることを途中で断念しているからである。
もうひとつの根拠は、じつは、「ミルズが撃つ前にサマセットが代わりに犯人の頭部を撃つ」という展開の脚本も、当初は存在していたらしいからだ。
また、職務を離れた人間として、ミルズを止める権利jがないと思い当たったこともあるだろう。
このような状況で、サマセットは金縛りにかかったように、何もすることができなくなり、事実上犯人殺しを黙認することになる。
ここでは、サマセットは傍観者として、物語の中心から一歩引いた立場となる。それは、我々観客の視点に近いといえるだろう。
『セブン』のストーリーを思い返すと、一見、ミルズは犯人やサマセットに比べて、キリスト教についての知識が無く、また興味も無いように見える。しかし、傍観者となったサマセットよりも、実はミルズこそ、犯人と対峙するに相応しい存在なのである。
ここで物語を少し遡って、ミルズとサマセットが、SWAT部隊とともに犯人の待ち構えていると思われる住処(結局はジャンキーの部屋だった)へと向かうシーンを思い出して欲しい。
車中で、ミルズはしきりに、ある男の名前を思い出そうとしている。彼が過去に一度だけ銃を撃ち、射殺した犯人の名前である。
(追記:コメント欄にて複数の方に指摘されましたが、犯人でなく犯人逮捕に向かって命を落とした警察官の名前の誤りです)
何故、このときミルズはその男の名前を思い出さなければならなかったか。
そもそも、ここにSWAT部隊が帯同されているのは、犯人がわざと残した手がかりをもとにつきとめた場所に向かっているからであり、爆弾や射撃などの罠を警戒しているからだ。
つまり、ミルズはここで死の恐怖に直面した兵士のような状況なのである。
この状態で、自分が死に関わった人間の名前を思い出そうとするというのは、神への懺悔をする理由以外に考えられない。
「神様、私の罪をお赦しください、××××の魂をお救いください」と、ミルズは心の中で唱えたかったはずだ。それが果たせないから、彼はイラついていたのだ。
つまり、ミルズは、少なくともサマセットよりも、はるかに信心深いのは間違いない。
彼は田舎の両親に、おそらく強い信仰心を植えつけられていたのだろう。そして、正義を執行する刑事という仕事を選んだのだ。
ミルズは人間の善性を信じている。そして、神の子羊として、人間を守るために正義を成そうとする。
ジョン・ドウは、人間を野獣のようなものだと思っている。だからそれを滅ぼそうとするし、同じ欲望を備えた自分をすら殺そうとする。
ここで『セブン』という作品は、本当の姿を現すことになる。
『セブン』は、何故神学的なモチーフを扱っているのか。それは、おどろおどろしい猟奇殺人の恐怖を盛り上げるためだけではない。
この作品のテーマは、「人間は獣である」という哲学と、「人間は善である」とする哲学との対決であり、両者の神学論争なのである。
銃口をジョン・ドウの眉間に向けているとき、ミルズは何を考えていたか。
ここも分裂故の葛藤が発生しており、その感情は、ブラッド・ピットがより分かりやすい顔の演技で示している。
無論、感情は、「このクソ野郎を殺してやる!」というもの。この表情は、「憤怒の顔」といえる。
理性は、「この男の思い通りに撃ったところで、彼女は戻ってはこない」といったもので、それは「泣き顔」として表現される。
この「憤怒の顔」と「泣き顔」が、短いスパンにて交互に現れる。ちなみにこの葛藤のシーンは、ブラッド・ピット畢生の素晴らしい演技だと思う。
永遠にも感じる、この緊迫した葛藤の繰り返し。この長回しに、ふいにごく短いワンカットがモンタージュされる。それは、彼の妻の笑顔だ。
この直後、迷いなく彼は犯人の頭部を、正確に撃ち抜く。
この刹那、ミルズは何を考えていたか。
確かに、彼は「憤怒」と、「悲しみ」や「理性」の間で揺れていた。
しかし、「憤怒」の状態で犯人を撃てば、それは犯人の勝利でもある。
これに打ち勝つには、目の前で恍惚の表情を浮かべている犯人に対し、「撃たない」という選択をするしかないはずだ。
ここで、彼の妻の笑顔が脳裏を横切る瞬間に、ミルズに劇的な感情と理性の変化が起こり、分裂していたはずのそれらが一致する。
「撃たないことが犯人への唯一の復讐方法だが、それでは、彼女はどうなるのか」
「たとえ犯人が勝利したとしても、彼女の無念は晴らさねばならない」
ここでミルズが犯人の誘惑に打ち勝ったとしても、犯人はその後死刑にならないかもしれない(死刑が無い州もある)し、もしかして精神鑑定で無罪になる可能性もあるのだ。
最後に残された妻の尊厳を守るために、信念を持って、ミルズは犯人に敗北し、罪人になることを受け入れるという選択をする。
だからこそ彼は迷いなく引き金を引くことができたのだといえる。
このときのミルズの感情は、「憤怒」でないばかりか、キリストが他人の罪を引き受け身代わりになったという、犠牲的精神を思い起こさせるほど、崇高なものに昇華していたのではないか。
ここでの彼の顔を見て欲しい。憤怒の顔でなく、冷静な表情で引き金を引いていることが分かるはずだ。
…ということは、どういうことかというと、ミルズは犯人の計画を、犯人を殺害しながらも阻止するという大逆転、ウルトラCに成功しているのだ。
「憤怒」の状態でミルズが犯人を撃たない限り、「七つの大罪」連続殺人は、その意味が半ばなくなってしまうはずである。
ジョン・ドウは、その事実に気づかないまま死んだかもしれない。
しかし、ミルズはすでに復讐などどうでも良い境地に達していたのである。
この、「人間性の勝利」ともいえる奇跡を目の当たりにしたサマセットも、「厭世観」を凌駕する希望を見出した。
緊急逮捕され、護送されてゆくミルズを眺めながら、サマセットは心の中でヘミングウェイのことばをつぶやいていた。「世界は素晴らしい、戦う価値がある」
いや、世界は依然としてひどいものである…しかし、彼はその後の部分には賛成したいと思った。
「戦う価値がある」というのは、負け惜しみや強がりではない。ミルズは実際に、犯人との神学論争に勝利していたのだから。
そう考えると、やっぱりこの映画、ハッピー・エンドだよ。
その解釈、とても素晴らしいです。
H/Hさん、ありがとうございます。
次の記事更新の力になります。またおいでください。
おお!素晴らしい解釈!
頭の中でもやもやしていた
セブンの解釈がはっきりしました。
ななしさん、読んでいただいてありがとうございます。
映画に限らず、なにかモヤモヤとしたものって、ずっと覚えていると、あるとき「これってこういうことなんじゃないかな」と思いついたりするときがありますよね。
そういう瞬間が快感だったりするので、好きな映画の分からないところをよく反芻したりしています。
妊娠してた奥さんを殺した時点でジョンのまけでしょ?自分が死ななくても7つ完成しちゃったんだから
qさんコメントありがとうございます。
ジョン・ドウはミルズの妻殺害時に、妊娠していると聞いた上で犯行に及んでいますので、彼の中では、最後の被害者二人は、あくまで自分自身とミルズの妻だった…というのが私の考えです。
おっじゃましまぁ~す♪
えっと、オツム空っぽでぇ~ 一匹見掛けたらの奴でっす。
記事を拝読させて頂きましたが、凄い! ですね。
丁寧丹念に順序立てて読み解かれていらっしゃいます♪
是非、k.onodera様には、韓国映画『カル』の謎解きをして頂けると・・・嬉しいな、っと、思いました。
しっつれいしましたぁ~
50centさん、読んでいただいて光栄です。
『カル』は『セブン』に影響を受けたサイコ・スリラーでしたよね。観たような記憶があるのですが、内容が曖昧です。
また観る機会もありましたらレビューしたいと思います。ありがとうございます。
簡潔に書くなら
犯人のゆがんだ価値観と正義の外側での行動ってことでしょうね
ある意味犯人のど~~でもいい価値観の中で、撃たずに放置したら犯人の価値観をみとめることにもなってしまうし
実際の死刑執行も、猟奇殺人犯の価値観なんて無視の
ルーチンワークで冷静に行われるんだろうな
その瞬間が死刑囚とって一番人生の中でむなしいだろう
UMさん、コメントありがとうございます。
そうですね、ただ犯人の価値観を乗り越えながら、また犯人にとってむなしい思いを味わわせるわけでもない、そういう意味での復讐を果たさない、ということに価値があるのかなと思っております。
今、午後のロードショーでやってるのを見ました。私も2回目だったのですが、同じようにバッドエンドだと思ってました。しかし、ミルズの最後の表情や、サマセットの最後の言葉にもやっとするものがありました。あなたの記事を読ませて頂き、そのもやっと感が取れたような気がします。
はるるんさん、ありがとうございます。
単純に悪い結末だと解釈するには、いろいろと引っかかる部分が多いのですよね。
少なくとも、サマセットが戦う決意をする(辞職を撤回する)という流れで、ミルズ達の犠牲が無駄にならなかったという意味では、苦味はありますが、やはり良い話だと思います。
昨日テレビ放映された「セブン」を初めて見たんですが、
見終わってから何時間たってもモヤモヤした気持ちが拭えませんでした。
それは見ている最中に「今のシーン(セリフ)何かひっかかる」という漠然とした疑問を何度も感じた事による不快感からです。
そして「きっと何か深い意味があるはず」「多分自分は何か大事なことを見落としている」と思い、どうしても気持ちが落ち着かず眠れなくなってしまいました。
それで何か分かるかもしれないとネット検索してみたところ、貴方の解説を拝見する事ができました。
正直な話、まだ理解(納得)できていない部分があるものの
先程までのモヤモヤ感と気持ち悪さはなくなりました。
良い解説をありがとうございました。
DVDを借りてきてもう一度ゆっくり見てみたいと思います。
レイチェルさん、ありがとうございます。
確かに、まだいくらか検証していない点があって、例えばジョン・ドウの計画では、ミルズの妻を殺した「憤怒」殺人が不合理で理不尽ですね。
彼女は憤怒していませんし、それでは彼女は何の罪で罰を受けたことになるのかっていうことになります。
そこらへんに、犯人の独善性とひとりよがりな信仰を感じたりもします。
DVD再見時に、疑問が解消されると良いですね。
そうなんです!
まだよく納得出来ない事の一つが「なぜミルズの妻が殺されなければいけなかったのか」という点なんです。
彼女は憤怒していないしジョンが標的としていた大罪には当てはまらないじゃないですか。
それで考えたんですが、確かジョンはミルズ達にアジトを発見されてしまった時「予定を変更する」みたいな事を言っていませんでしたか?
という事から考えると残りの「憤怒」と「嫉妬」の標的は他にいたと思うんです。
でももう自分が犯人だとバレてしまったし、捕まってしまっては「七つの大罪」が完成しなくなってしまいますよね?
それで急遽、ミルズの妻を殺す事によってミルズに憤怒の大罪をかぶせようとしたのではないでしょうか(怒りにまかせてジョンを殺せば社会的に抹殺される事になるから)
という事は、ミルズの妻にはやはり何の罪もなく「とんだとばっちりで殺された」という事になるのではないかと思うんですが・・・(ジョンにとってもかなり想定外なことだったが仕方なかった)
ただジョンは「嫉妬」という大罪を犯した者として殺される道を自ら選んだわけですが、
ここでまた違和感があるのは、ジョンはミルズに対して本当に嫉妬していたんだろうか?という点です。
ジョンがミルズを嫉妬する事になった理由が分かりませんし、
第一、そもそもジョンって「幸せそうな夫妻」というものに嫉妬する人間とは思えません・・・。
あ~~真実が知りたいです!
長々と失礼致しました。
急遽計画を書き換えてターゲットを変更したというのは確かでしょうね。
ジョン・ドウがミルズの家庭について嫉妬したということについては、個人的にはすごく納得ができます。
ジョンの主張はおそらく誰にも理解されないでしょうし、反社会的な行動をしていますから、誰にも相談せずに全ての困難な作業を、自分の信念のみで進めていくという孤独に耐えてきたはずです。
ミルズの家庭の内定をしたときに、自分が捨ててしまった「普通の幸せ」に対し、強烈に嫉妬をしてしまったという状況は予想できます。
だから妻が「妊娠している」と告げたときにも、ためらいなく殺害することができたのではないでしょうか。
ですから、ミルズの妻を殺害したことは、正義でなく「ジョン・ドウの罪」であり、それをジョン・ドウはミルズに殺されることで償ったということかもしれません。
それでは「憤怒」の犠牲者はミルズになるわけですが、それをミルズの殺害でなく、その家族への殺害としたことに、彼の狂気と嫉妬の深さが窺えるように思います。
k.onoderaさんの解釈はその通りだと思うのですが、この映画自体がハッピー・エンドかサッド・エンドかと言われれば間違いなくサッドだと思います。
確かにジョン・ドウが自分の望む殺人を続けられなかったこと自体は彼の負けなのでしょうが、あくまでこの映画はミルズとサマセットのみの視点で描かれており、ミルズは妻が殺され自分は犯罪者。サマセットは世界は素晴らしいものなんかじゃないってことを改めて確認します。
七つの大罪に重きが置かれているのはわかりますが、これをハッピー・エンドと言うにはあまりにネガティブな最期かなと感じました。
mccさん、コメントありがとうございます。
『セブン』は、とくにミルズやその家族にとって、確かに悲劇的な結末を迎えますが、では悲劇的な描写、例えば戦争映画で主人公やその仲間が死ぬなど…があれば、作品全体は必ずしもサッド・エンドといえるでしょうか。もっとマクロ的な視点も存在するはずです。
聖書には、後に復活するとはいえ、ゴルゴタの丘でキリストが十字架に架けられ、槍で突き殺されるという悲劇が描かれていたことを思い返してください。
規模は違いますが、私は、ミルズの最後の決断は、このキリストの犠牲的精神に重ねられていると見ています。
社会的には、ミルズが犯人を撃ったことは間違っていますが、もし撃たなければ、サマセットはミルズや世界に失望したでしょう。
社会的な損得よりも、彼は自己犠牲を持って、妻の尊厳を守ることを選んだのです。それは、理性的ではありませんが、きわめてあたたかで人間的な行いです。
だからこそ、その人間性を目の当たりにしたサマセットは、引退をすることを辞め、悪と戦い続けるという決断をするのです。
厳しいラストですが、非常に美しいハッピー・エンドだと思います。
サマーセットは引退を辞めたのですか?
「面倒を見る」は退職するサマーセットに対してミルズ
のことは任せろ、という意味合いで使われたセリフでは?
最後の最後にこんな事件を担当してしまったサマーセット
に対して警部はこれからどうするんだ?と尋ね、サマーセット
も(心配するな)「何とかやっていくさ」と答えたと思って
いました。原作を読んでいないのですが引退をやめた、
という根拠は原作にあるのですか?
結末が気になったのでよろしくお願いします。
kjさん、コメントありがとうございます。
『セブン』に原作は無く、アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーという脚本家による映画用のオリジナル・ストーリーです。
彼は卒業後社会に出てから、なかなか仕事で成功せず、そのときに鬱屈した気持ちをこの脚本にこめています。
だから、この脚本には、テクニックを超えた迫力がみなぎっているように感じられます。
劇中に「引退をやめた」というハッキリした描写はありません。
ですが、前半で「まだ現役を続けられるのに、世界に絶望して、悪と戦うことをあきらめ引退しようとしていること」が語られ、ラストで「戦う価値がある」と言わせています。
このふたつを考え合わせると、サマセットが引退を撤回することを表していることは明白です。 ただ、その実際の描写がない以上、そのことを証明することはできません。映画が、そのことを示すつくりになっているということです。
また仮に、たとえ刑事という職を辞したとしても、少なくとも、サマセットは正義をあきらめず、悪と戦うという意志を持ち続けたまま生きていくことになるでしょう。
今後を安易に描写せず、ヘミングウェイの一節だけで、そのことを観客に読み取らせるようなつくりになっているのは、この脚本がよくできていることの証左にもなっているのではと思います。
リンク貼らせて頂きました。
これ好きでした。全面的に賛成です。
映画館を出て見終わった後当時の彼氏と、結末がバッド・エンディングなのかそうでないのかについて、
ラーメン屋で散々語り合ったのを覚えています。
彼氏はバッド・エンディングだと言い、私はそれに真っ向から反対する、onoderaさんと一緒の意見で。
そうなんですよね、ポイントはサマセットの台詞なんですよね。
私もフィンチャーではセブンが一番出来が良いという意見で、未だにそれを超えられていないと思っています。
エヘヘ…一緒一緒!いやー、嬉しくなりますね。
ところで、新しいブログの引越し完了、お疲れ様でございました。
タグクラウドが立体的になってるところがオツですね^^*
WordPress, もう慣れましたか?
とらねこさん、ありがとうございます。
私はのちのち「ハッピー・エンドでは?」と思ったのですが、とらねこさんは観た直後にそう思われたようで、さすがだなあと…。
私も公開当時、希望が描かれたラストだとは思っていましたが、自信を持ってハッピー・エンドだと言えるようになったのは、とらねこさんのおっしゃるようにサマセットの言葉と、あとはミルズ刑事が意外と信仰に篤いことに、劇中の描写で気づいてからでした。
ミルズと犯人、どちらが神の教えに近いかという勝負が裏で行われていたという視点で見ても、作品として成立するんですね。
とらねこさんも『セブン』がフィンチャーで一番なんですね。一緒ですねー。
『セブン』がフィンチャー作品の中で際立っているのは、私は脚本の力も大きいと思っています。
アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーは、他の作品ではパッとしませんが、おそらく彼の不遇の時代に長く温めていた、気迫と怨念のようなものを、この脚本から感じるんです。
その苛立ちや焦燥感が、ジョン・ドウに重ねられていて、血肉を感じるところが怖いですし、また、「これじゃだめなんだ、自分を変えるんだ」と、そこを克服していこうとする真摯な強い心を感じたりもして、感動させられます。
そうなんです、Wordpress は簡単に便利な機能が導入できて楽しいですね。
まだまだ慣れないことが多いですので、先輩としていろいろと教えていただけるとありがたいです。
そんな崇高な精神で撃ったならそのあと死んだ犯人に向かって何発も撃つのはおかしいのでは。明らかにミルズの精神は憤怒だったと思いますよ。
ssさん、コメントありがとうございます。
たしかにミルズは何発も銃を撃っていますよね。
文章の中で私が主に注目しているのは、犯人の命を絶った初発の「瞬間」の演出についてです。
この瞬間こそ、高次で聖なる精神が呼び起こす奇跡を描いているといえないでしょうか。
シークエンスを観ていただくと、演出ではここに強く力点が置かれているのに気づかれると思います。その後の数発は引いた絵で撮られていて、演出的な温度も冷めています。
複数の銃弾を撃ったことについても、銃を撃った目的が「妻の恨みを晴らすため」であるという指摘をすでにしています。大きな矛盾は無いと思いますが、ここでテーマの解釈が分かれること自体は、全然良いと思います。私自身、当初はそのように解釈していましたし。
ミルズは憤怒だったと思いますよ。復讐=憤怒
私は本文に書いたとおり、ミルズが犯人を殺したときの感情を、「憤怒」や、ヤッパノさんが言われるような単純な意味での「復讐」ではないと見ています。
「妻の無念を晴らすこと」が、必ずしも怒り狂った感情に振り回された結果であるとは限らないでしょう。
それは演出でも示されていると思います。「憤怒」の感情で殺人を犯したのなら、それ相応の、ブラッド・ピットの演技や、撮り方があるのではないでしょうか。ここでは、それをひとつ超えた表現が成されているはずです。
ミルズの行為は法を逸脱していますが、ここのやり取りは、また同じように法を無視した存在である犯人との、法を超えた神学論争であると指摘しました。
ミルズが「憤怒」の感情に振り回されていたとすれば、それは犯人の完全勝利ということになります。
そうなのだとしたら何故、ラストでのサマセット刑事が、勇気付けられ、「戦い続ける」ことを決断したのでしょうか。
英語にも、日本語でいう「復讐」を意味する”Revenge”や”Avenge”など、いろいろなニュアンスや使い方の違いがありますが、例えば映画『アベンジャーズ』は「憤怒」しているわけではないですよね。
ミルズの行為は、『ダーティ・ハリー』が、法を無視して悪人を撃つことにも近いと思います。
現実的にそんなことが許されるかどうか、その答えは、映画を観た観客のこころに委ねられるでしょう。
宗教観からくる、法や二元論的正義の関係は、アメリカ映画でしばしば描かれる問題です。
>ここでの彼の顔を見て欲しい。憤怒の顔でなく、冷静な表情で引き金を引いていることが分かるはずだ。
芥川龍之介に『手巾』という小説があります。息子を亡くしたばかりの奥さんが訪ねてきて、死んだ息子の思い出をニコニコしながら語ってる。悲しくないのだろうか? 奥さんの手元を見ると、手巾を持つ手が固く固く握りしめられていた。
顔が怒ってないから『怒ってない』なんて。
ちなみに最初の弾丸を撃つ瞬間、ミルズの顔は映ってないですよ。銃を構えたままジョンドゥーに近づいていって銃口のアップ、悟りきったジョンドゥーの顔(目を閉じる)、ミルズがジョンドゥーを撃つ瞬間は遠景となって、『冷静な表情で引き金を引いていること』は分からない。
ミルズの顔が分かるのは、後5発撃ち込むとき。後5発ってことはたぶんぜんぶ撃ったんじゃないの? なぜ? 怒りが収まらなかったから。普通、そう取りますけど。そのときに映るサマセットの表情を、なんで問題にしないの? こんだけ表情表情いってて。『あ~あ、やっちゃった』 って顔してんのに。
>そうなのだとしたら何故、ラストでのサマセット刑事が、勇気付けられ、「戦い続ける」ことを決断したのでしょうか。
サマセット刑事は『勇気づけられ』てなんかいない。『世界は素晴らしい、戦う価値がある』の後半部分に賛成しただけ。ミルズがあなたのいうようにジョンドゥーに勝利したなら、世界は素晴らしいんじゃないの? でもそうじゃないから、戦わなければならないんじゃないの?
裏山さん。。。、コメントにはできるだけ全て紹介したいですし、対応したいと思っているので、批判にしろ、私やブログの訪問者の方が読むという前提の書き方をしていただければ幸いです。
内容も、なんとか矛盾点を指摘しようと、私の解釈を裏付けるような描写を避け、揚げ足取りをされているように見受けられます。
まずはじめに、裏山さん。。。の思われたような感想は、私も当初持っていたわけですし、『セブン』を観て大多数の方が思うであろう一般的な意見だと思います。それを否定したり馬鹿にしようという意図はないということをご理解ください。
ご指摘の部分ですが、ジョン殺害のシーンについては、「ミルズの葛藤から、妻の顔のフラッシュバック、目を見開き何かに気づくような表情をしつつ、自分の決断を受け入れるようにジョンの方を向くミルズ」までが、私が問題にした部分です。
確かに、厳密には銃が発射されたカットは引きの絵になっていますが、では、「引き金を引く約1秒前の表情」と厳密に表現すればよろしかったでしょうか。文中の表現に誤解させる点があったのかもしれませんが、本質的には何も変わりありません。
その直後のサマセットの顔を問題にされていますが、ミルズの決断を飲み込んで、自分なりに事件の総括をするラストシーンまでにはまだ間がありますから、この時点で「ミルズ、よくやった!」みたいな表情をするわけがありません。そもそもどう決断したとしても、ミルズにとってつらい現実が待っていることを、サマセットは知っています。私の解釈であっても、単純ではない「苦い勝利」なわけです。だから、表面上は悲劇的な描写には変わりないんです。
「世界は素晴らしい、戦う価値がある」という引用における、前者が賛成できないというのは、ここでは、社会が悪にまみれているということを指しています。つまり、その意味では依然としてジョンと同意見なわけです。
しかし、「戦う価値がある」というフレーズに賛成しているのは、少なくとも、「ミルズがジョンと戦ったことに価値がある」ということを、サマセットが認めているということです。
私の解釈にしろ、従来の解釈にしろ、ここで戦い続けることを決意するサマセットが、ミルズの行為に「勇気付けられていない」と解釈するのは、明らかに浅い読み方です。
すんません。こんな文章しか書けないんです。気に入らなかったら消して下さい。でもこの記事は間違ってます。あと、揚げ足取りではなくて、論争ってのは相手の言葉に答えていくもんだと思ってるんです。
>ご指摘の部分ですが、ジョン殺害のシーンについては、「ミルズの葛藤から、妻の顔のフラッシュバック、目を見開き何かに気づくような表情をしつつ、自分の決断を受け入れるようにジョンの方を向くミルズ」までが、私が問題にした部分です。
時間がたっているのでもう一度見なおされてはいかがでしょう。妻のフラッシュバックの後、そんなシーンはないです。すぐに撃ちます。その前の部分も含めてボクにはブラピは迷いっぱなしの人にしか見えません。浅い見方だからでしょうか。
なにかブラピが崇高になる瞬間があるんですか? その演出は? 顔の表情だけですか?
その前の部分だけを問題にしてもダメだと思うんです、映画というのは最初から最後までですから。以下、ショット分析。
ブラピの顔が激しく変わる → 妻の顔インサート → ブラピ、銃を構えて画面に近づくから顔は見切れる → ジョン・ドゥーのドアップ(目を閉じる) → 三人の遠景ブラピ撃つ(発射される瞬間に発射する銃のインサートあり) → ヘリ(チクショー撃ちやがった、わざわざセリフで強調) → 後5発撃ち込むシーン
ブラピの顔は問題外。演出、編集から、撃ったという事実だけが執拗に繰り返されているのがわかる。ブラピが聖人化している描写など、もちろんない。
>このときのミルズの感情は、「憤怒」でないばかりか、キリストが他人の罪を引き受け身代わりになったという、犠牲的精神を思い起こさせるほど、崇高なものに昇華していたのではないか。
他人の罪を引き受け身代わりになったという、犠牲的精神のキリストがジョン・ドゥーを撃つというのも変な話なのだが、崇高な顔をしているのは最後のジョン・ドゥーのドアップの方だろう。これをわざわざあそこに入れてあるというのは、演出上の意図があきらかだと思うのだが。
裏山さん。。。のコメントは、私に対してなのか、ひとりごとなのかがよく分からないところがありますので、論争にはなってないような気がします。
カットにおけるご指摘についてですが、YouTubeかなんかでシークエンスを確認してませんか?、「ミルズの葛藤から、妻の顔のフラッシュバック、目を見開き何かに気づくような表情をしつつ、自分の決断を受け入れるようにジョンの方を向くミルズ」の部分は、非常に短いので、フレームレートが落ちてると分かりにくいと思います。とくに妻の顔を見て、ハッとする表情の部分はコマ送りを試してみると良いと思います。
いずれにしても、「妻の顔インサート → ブラピ、銃を構えて画面に近づくから顔は見切れる」の間に、ミルズの顔をとらえたカットはありますから、裏山さん。。。のご指摘が間違っていることになります。
ただ、文中の「冷静な表情」というのは正確な表現ではなかったと思います。妻の顔を思い出した(フラッシュバックの)瞬間、ミルズは泣き出しそうな表情をしていますね。これについては、「冷静」という表現は誤解を招くものであったと思います。その部分に関して、ご指摘いただいてありがたかったです。
しかし、ここでも確認できるのは、ミルズは妻の顔を思い出し、彼女のために罪を受け入れる決断をしており、単純な憤怒で射殺しているわけではないということです。それは初発の正確なヘッドショットと、落ち着いた所作からも推察できます。
また、「ブラピが聖人化している描写」そのものがあるとは文中で言っていませんよ。
裏山さん。。。が言われるような、ジョンの「崇高な表情」というのは、彼が聖人の域に進んでいるわけでなく、ひたすらナルシスティックな自己満足で陶酔しているだけです。
ここで重要なのは、ジョンは自己満足のために、ミルズは憤怒の葛藤を乗り越え、妻=他者のために決断を下したということです。そこにミルズの精神的な勝利があるのです。
わかりました。けっきょくあなたの記事は、読んで、まあ面白かったけど、映画外の話が多すぎて、結論にあんまり説得力がなかったと言わざるを得ないですね。
あの、DVDをもう一度、見てもらいたいんです。ボクはもう何度も見ました。↓だからこの箇所は誤りです。
>この、「人間性の勝利」ともいえる奇跡を目の当たりにしたサマセットも、「厭世観」を凌駕する希望を見出した。
緊急逮捕され、護送されてゆくミルズを眺めながら、サマセットは心の中でヘミングウェイのことばをつぶやいていた。「世界は素晴らしい、戦う価値がある」
サマセットはミルズを眺めながらつぶやくんじゃありません。ここは事実誤認。けっきょくあなたの論の論拠がね、コマ送りにしなきゃわからないミルズの顔と最後のセリフだけを頼りに創作された物語だと思うから、徹底Disせずにいられなかったんです。
私が読んで感じたのは、映画の画面に映っているものを尊重しようという意志が希薄ではないかということですよ。
ミルズの表情はわからないですよ。クレショフの有名な実験がありますけど、それなら正解ですね、直前にインサートされるのは妻の顔ですから。でもつづくシーンをぜんぶ最後まで見ても、なにかを決意をもってなしとげた人の顔にはとても見えない。まあもうそこはいいとしても、ふたつ目のサマセットが勇気付けられた描写、、、もまゆつばだと思うので、、、以下、シーン分析。
あと5発撃ち込むミルズ、、、そのときサマセットはいっしょに画面に納まりながら背を向けています。これは演出です。ふたりにシンパシーが生じないための。
それぞれの顔を抜いた後、ミルズは歩き出します。セマセットは追いません。どころか反対方向へ歩くのです。これも演出です。
車中のミルズ。車の窓ガラスは閉ざされている、些細ですけどこれも演出。外にサマセット。このときの表情もとても勇気付けられた人の顔には見えない。厭世観たっぷり。車が走り去る。ほんの数秒だけ見送って、ここでもまた背を向けるサマセット。
車の去った方向とは別の方向へ歩き出すサマセット。ヘミングウェイのセリフがかぶさるのはここです。
>護送されてゆくミルズを眺めながら、サマセットは心の中でヘミングウェイのことばをつぶやいていた。「世界は素晴らしい、戦う価値がある」
↑これがあなたの創作した物語です。コマ送りにしなければわからない一コマとたった1行のセリフだけで、感動の物語に飛びつきたがる姿勢は断固、指弾せねばなりません。映画の画面に映っているものを尊重しようという意志が希薄ではないかということです。深く見てはいけないんです。浅く見ないと。
ラストまでのすべての演出からミルズとサマセットの間になんら魂の交流など、見出すべきではないというのがボクの結論です。以上でボクの独り言はすべてです。長文乱文、失礼いたしました。
私は裏山さん。。。の指摘に対して全て答えていますが、裏山さん。。。は、私の反駁に対してはしっかりと答えようとはされず、皮肉で反応されるだけなので、少なからぬ悪意を感じてしまいます。
まず、DVDをもう一度見てもらいたいということですが、そこで詳細に「カット分析」をして私を糾弾していたはずの裏山さん。。。が、妻の顔の後のミルズのアップを見逃しているのですから、問題になりません。
ここはもちろん一コマではないですし、たいていの鑑賞者はコマ送りにしなくても確認は出来る箇所だと思いますので、裏山さん。。。は、映画をしっかりと鑑賞されてないか、もしくは意図的にカットを無視し、事実を捻じ曲げてまで記事を糾弾しているということになります。
いずれにせよ、こちら側の事実の指摘を認めないばかりか、また新たに他の箇所を槍玉にあげているわけですから、フェアな態度とは言えないでしょう。
また、最後のサマセットの描写ですが、「護送されてゆくミルズを眺めながら」というのは、シークエンスを通した表現であることはご理解できると思うのですが、それを「画面に映っているものを尊重していない」と解釈してしまう点からも、揚げ足取りをされようという意図を感じてしまいます。
裏山さん。。。は、はじめに「表情は問題にならない」という立場だったはずですが、「とても勇気付けられた人の顔には見えない」と、ここでは表情を根拠に糾弾の具にしておられます。
私は「表情がキャラクターの感情を全て表している」と言ってはいないはずです。
ここでのミルズは、サマセットよりもはるかに精神的に追い詰められていますし、ブラッド・ピットは表情を印象づける演技をしています。ですから、ここではミルズの表情が問題になるのです。
「映画を観る」というのは、いつでも同じ平板な見方でなく、演出・映像の力点に着目し、柔軟に対応し判断するということだと思います。
本文を読んでいただければ分かるとおり、私は『セブン』という作品を、描写や演技、脚本など、全体の描写を通して考察しています。
サマセットがラストでミルズに背中を向ける、そのようなことでサマセットがミルズに対して反意を示しているというのではあまりに短絡的過ぎるでしょう。
確かにそういう、「悲しいシーンで雨が降る」ような、情感を画面で表すテクニックというのはあります。ただ『セブン』がそうではないように、この作品では、全体を通しそこまで直接的な演出をとってはいません。
そのような決め付けこそが映画への軽視であると感じています。
これどうかな?取り敢えずはミルズの負け。
でも最後は撃ち殺して恨みをはらした。
ジョン・ドゥの言うクソのような世の中ってだけじゃないってミルズの行動全般(正義)を見てサマセットが思った。
勝利者の様に思っているかも知れんがジョン・ドゥはマイナスのファクターの7つの大罪に固執して世の中の事をわかったような気になっているだけ(サマセットは現場に向かう車中でもすでに指摘している→ジョン・ドゥ動揺)。
一見、完全にミルズの負けのようにみえるが、ジョン・ドゥも実は勝利者でもない。
この結果から完全敗北じゃなかったんだから戦う価値はあるってのに繋がる。
勝ち負けを決めるときに、何を根拠にするかっていうのもあると思います。
私の論旨では、ミルズの局地的な勝利にクローズアップしていますが、確かにミルズは不幸になっているわけですから、ミルズ個人の境遇を思うとハッピー・エンドではあり得ないわけです。
しかしこの映画が、サマセットの視点で語られており、また冒頭からサマセットの諦念が問題として提起されているのを見ると、この事件の顛末がその問題を解決しているという構造になっています。
映画全体を俯瞰した場合、やはりポジティブなものになっているでしょうし、そこでミルズの、ジョンに対する勝利が大きく意味を持ってくるのではないかと思います。
初めまして
確かに、妻の顔が出てからのミルズの表情は明らかにその前と違いますよね。
勝利と言えるかは謎ですが、少なくとも犯人の計画は失敗したという事になりますね。
ミルズの、ごく短い間でも妻の死を受け止め覚悟を決めれられる人間性から、
その後も腐る事なく刑事として戦っていく姿が浮かべられますね。
こちらの批評を読ませて頂いてだいぶすっきりしました!
ありがとうございます^^
はじめまして、コメントありがとうございます。
そうですね、少なくともその人間性はサマセットにうけつがれていきますね。
よろしければまたおいでくださいね。
はじめまして、
久しぶりに「セブン」を観て、
他の人がどう感じているのかを調べていたら、
このサイトに辿り着いて、
遅ればせながら興味深く読ませて頂きました。
自分は映画や作品からの感じ方は人それぞれで、
そこは製作者の意図も介入しきれないところ。
と、いう感じで映画を楽しんでいる質なので、
何ら今回の文章に対して否定する気は無いのですが、
別の捉え方もあると思いますので、以下参考までに。
先ずはSWATとビクターの部屋に突入する前のシーンで、
ミルズの信仰心からの懺悔について書かれていましたが、
あの場面でミルズが名前を思い出せなかったのは、
ミルズが射殺した男の名前ではなく、
射殺した男に腕を撃たれた警官の名前です。
映画を字幕や吹き替えで観ると勘違いしてしまう箇所かもしれませんが、
話の流れとしては、名前を忘れたのは腕を撃たれた警官の事です。
少し、お考えを否定する様で申し訳ないですが、
公開時には削除されていますが、
このシーンには前後があって、SWATが警察署から出動する場面で、
同行する気がないサマセットに「行こうぜ」と声を掛けるミルズ。
「何故だ?」と乗り気でないサマセットに「興味本位だ」と言うミルズ。
特に防弾着などを装着するでも無く、突入に付いていく感じです。
このやり取りの後に移動の車内のシーンになって、
腕を撃たれた警官の名前を忘れたところからサマセットの質問が入ります。
「そいつはどうなった?」聞かれたミルズが警官の死に様を語り、
その後、射殺した男についての会話も、
「頭に一発で仕留めたよ。俺は運が良いんだ」と自慢気に話します。
おそらくですが、ラストシーンのヘッドショットに繋がる件でしょう。
ですので、あのシーンにミルズの信仰心や、
死の恐怖に直面した兵士の様な状況というのは、
少し難しいかな?と思いました。
ラストシーンについてミルズの表情の移り変わりですが、
あれは後から入れざるを得なかったシーンだそうです。
本来は憤怒したミルズが少しの迷いを持ちながらもヘッドショット一発。
その後、暗転してエンドロールの流れでしたが、
映画によくある、配給元やお偉いさんの受けが悪かった事や、
アンケート用の試写会で観客から「製作者は殺されるべきだ」
ぐらいの意見があったそうで、ラストシーンを差し替える事になったそうです。
サマセットがジョン・ドウを撃つというラストも、
こうした経緯からストーリーボードが描かれたらしく、
デヴィット・フィンチャーとしては撮りたく無いラストだったようです。
配給元のニューラインシネマとしては、ジョン・ドウの完全勝利は避けたいとの思惑があったようで、ラストシーンの撮り直しとなり、
「セブン」がサマセットの物語である事に焦点をあて、
ミルズの苦悩する表情の移り変わりからの射殺。
(ここの演技は確かに素晴らしいですね。撮り直して正解)
続けて倒れたジョン・ドウへの連射。
(この部分は怒りの収まらなさとやり切れなさの強調だそうです)
そして、最後のサマセットのナレーションですが、
ここは、観た人がモヤッとしたものを感じる人が多かった様に、
監督や製作陣もモヤモヤしながらサマセットの物語としての台詞を考え、
苦肉の策としてヘミングウェイを引用する事になったそうです。
こうした配給元やお偉いさんや製作陣などの経緯が色々と絡み合って、
作品自体に考えさせられる余白が生じた事は映画の面白味でもあり、
製作側の意図しない部分への派生を起こす素晴らしさだとは思います。
冒頭にも書かせて頂きましたが、
映画を観てどう考察し感じるかは自由だと思いますが、
デヴィット・フィンチャーが語るところの「セブン」のテーマは、
「邪悪に触れれば、邪悪に染まる」であり、
その部分をミルズが邪悪に染まって完全敗北する事で表現したようです。
ジョン・ドウ側の視点で観たら、これ以上無いハッピーエンドでしょうね。
未公開シーン等も引き合いに出しましたが、
何ら文章や御意見に対する否定ではございません。
そんな経緯もあった。程度で解釈の参考にして頂けたら幸いです。
長々と失礼致しました。
TTさん、コメントありがとうございます。
まず、こちらの文の趣旨をご理解いただけなかったようなので、説明させていただきます。
今回の試みは、監督の意図をつかむのではなく、あくまで作品の要素から、作品の本質を探っていくということです。
映画を含めた作品とは、完成した時点で作り手の意図だけではなく、全く別のものも含んでしまうものです。私自身、映像作品を作った経験から、カットを挿入したり削ったりすることなどによって、その作品自体の意味まで変質させてしまうことを経験しています。
出典がないので、TTさんのおっしゃるようなことが全て事実であるか確認は取れないですが、(コメンタリーなどで述べられた、監督の意図や削除シーンの話についておっしゃられているのでしょうけれど)、その削除シーンがあるか無いかということは非常に重要なことです。どのような理由にしろ、シーンを削除したことで解釈に幅が生まれてしまえば、そのシーン、ひいては作品自体の意味すら変質させてしまっているということなのです。だから、カットされたシーンに描かれた描写は、参考にこそなれ、本編には全く影響を与えません。
撮ってしまった素材、つないでしまったフィルムは、もう取り返しのつかない、自分のコントロール外に出ていってしまうものです。それは、とくに『セブン』のような、善悪のテーマを複雑に描いた作品ならばなおさらです。
もうひとつここで重要なのは、この脚本を描いたのが、監督ではないということです。
私は当初TTさんのように、『セブン』をアンハッピーエンドであると思っていました。しかし、そのような理解を超えた何かがずっと胸に引っかかっていたので、今回は、より深い考察に挑みました。
本文で脚本家アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーの名前を出しているのは、彼が描いた奥深いテーマや可能性が、本編にも生きているのではないかと思いをめぐらしたからです。それは、デヴィッド・フィンチャー自身が作劇をする作家ではないことにも起因しています。
だから、私は『セブン』という作品内の映像と脚本の要素のみを語っています。
作品そのものを見るよりも、監督の発言や削除シ-ンという、作品外のことを優先するのであれば、作品の考察とは、監督に意図を聞きに行くのが一番早く確実だということになります。しかしそれではインタビュアーが最高の批評家ということにならないでしょうか。
しかし、実際には作品とは独立した存在であり、観る者が作品に対峙することだけが、純粋な批評であり評論なのです。
そして、作家の気づかない部分や意図を超えたところ、もしくは新たな価値や可能性を指摘することが、本当に作品を読むという作業です。
去年、リドリー・スコットが自作について、「あのキャラクターはじつは××だった」と、衝撃的な意図について発言しました。
ですが私は、監督の発言によって、その映画の意味まで決定してしまうとは思いません。
監督が何を言おうが、その作品のなかで描かれているもの以上の意味を付与することは不可能なのです。
くわえて、監督が本当のことを言ってるのか、当時と同じ意図を抱いているのかすら疑問です。実際にジョージ・ルーカスは、『スター・ウォーズ』でハン・ソロの描写、キャラクタ-を、後に編集し、違うものに変えてしまいました。
とりあえず、以上のような認識を共有した上でなければ、内容を議論すること自体に意味があるとは思えません。
監督の意図というのはもちろん重要なものです。しかし監督の意図のみが作品の意味であるとおっしゃり、それを根拠に私の見解が間違っているというのであれば、それは私にとって興味のあるお話ではありませんし、そもそもの本文の意図と違った議論になってしまいます。
ただ、TTさんのように作品外の話をさせていただくならば、最後のサマセットのナレーションについて、「配給元やお偉いさんや製作陣などの経緯が色々と絡み合って」「苦肉の策としてヘミングウェイを引用」したということをTTさんは指摘されていますが、アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーの第一稿から、ヘミングウェイの引用は見られます。つまり、『セブン』という作品には、もともとヘミングウェイの理念が息づいているということです。
誰がそのような発言をしたのかは知りませんが、誰であれそれが会社を納得させるためのただの「苦肉の策」だと言っているのであれば、それは事実誤認です。
そもそも、追加シーンがあるというのなら、その追加シーンが作品に意味を成していると見るべきです。「このシーンは、存在してはいるが、監督の意図とは違うので無視した方が良い」という考え方はナンセンスです。それを含めての作品であるはずです。
ミルズが名前を忘れたというのは、腕を撃たれた警官の方である、というご指摘についてですが、確かに話の流れからそのように考えられるかもしれません。
だとしたら非常に申し訳ないのですが、警官の方も死んでいるので、たとえ警官の方であれ、ミルズが死の危険を前にして祈ろうとしていたという私の見解の否定にはつながらないのではないでしょうか。
前後のシーンの描写から、ミルズがたとえ「興味本位」と言っていたとしても、死の恐怖に直面していないというのは無理があります。あの状況では、建物に爆弾が仕掛けられている可能性があるからです。
誤解をさせてしまった様で申し訳ないですが、
自分の書いたコメントは、何度か書きましたが、
onoderaさんの解釈を否定しようとか、反対意見を出して議論をしようとか、
監督の意図を掴もうという主旨のものではないです。
そうした主旨を読み取らせない稚拙な文章で申し訳ないです。
出典に関しては、以前に自分が雑誌で映画関係の記事を書いていたので、
その際に国内の配給元から渡された本国でのインタビュー等の資料が主で、
映像に関しては過去に発売されたDVDの特典にある削除シーン等です。
おそらくインタビュー等はコメンタリーにも同様の物が反映されていますし、
映像に関しても特典ディスク等で確認出来る物が存在すると思います。
先のコメントにも書かせて頂きましたが、
映画や作品からの感じ方は人それぞれだと思いますので、自分のコメントの主旨としては、
「onoderaさんの様な解釈の仕方もあるんですね。
蛇足かもしれませんが、こういった経緯や監督の意図もあったみたいですよ。様々な要素のおかげで色々な解釈が出来る映画作品は素晴らしいですね」
と、いった感じのものだったんですが、
そうした主旨で製作サイドの諸々を引き合いに出してのコメントがNGであるなら、この場はonoderaさんの場ですのでお詫び申し上げるところですし、
サマセットが撃ってのラストシーン等も文章で引き合いに出されていたので、そうした存在しないシーンの話を出すのも面白いかなと思ってしまったのと、
自分の場合は映画の批評というよりも宣伝に近いカタチで記事を書いていたので、製作者側の意図をある程度は掴んで文章を仕上げなければならない事もあり、そうしたクセがコメントに表れていたのかもしれません。
因に自分のエンディングの感じ方は、ハッピーでもアンハッピーでもありませんでした。
一つの事象が終わり、一人の老刑事が一つの選択をした。
それをハッピーと取るかアンハッピーととるかは、どの視点で作品を観るかによって違う。
至極簡潔に書くとそういう物語なんだという感じ方でした。
ですので、インタビュアーが最高の批評家だという面白い考え方は当然至りませんし、onoderaさんの考察が浅いとか純粋な批評でないとも思いません。
作家や製作・配給サイドの意図しない部分で派生を起こす素晴らしさについては、先のコメントでも述べさせて頂いた通りです。
もし、否定したいのなら「そう思いたいならそうなんだろう。お前の中ではな!!」で済んでしまうぐらいの話なんで。
いずれにしても、自分のコメントはonoderaさんの場にそぐわない様でしたので、失礼致しました。
TTさんのコメントの意図を汲み取れないで申し訳ございませんでした。
お仕事で、本国でのインタビューなどをご覧になった経緯があった上でのコメントだったのですね。
「こういう解釈もできる」というお話でしたら、私の説も含めて、俎上に載せて楽しむということで私としても歓迎したいですし、実際に前のコメントでTTさんもそのように書かれておられるのですが、
> 映画を観てどう考察し感じるかは自由だと思いますが、デヴィット・フィンチャーが語るところの「セブン」のテーマは、「邪悪に触れれば、邪悪に染まる」であり…
と書かれたように、最終的には私の解釈を、監督の発言等を持って断定的に否定しているもののように感じられました。そして、そうだとしてもそれはもちろん自由です。
ですから、その根拠となった、監督の発言を持ち込む解釈の方法は、今回の私の文の趣旨にそぐわないものであることを述べさせていただきました。
私も、監督や作り手の意図は重要だと思いますし、作品について考えるときは、基本的にそれを探っていきます。
しかし、それだけでは間に合わない部分、つまり作家主義的なアプローチ以外のものも持ち込まないと、複雑な作品について全体を論じることは難しいのではないかという考えを持っています。
『スカイフォール』をご覧になっておられましたら、できればぜひ、このブログのそちらの文章も読んでいただきたいのですが、そこで私は、映画と、スコットランドの神話や儀式性とのつながりを見出しています。
もし、監督が「そんな意図は全く無い」と言ったとしても、そのような解釈が可能ですし、実際にそういうものになっているとしか思えないのです。
デヴィッド・リンチは、芸術作品を作る際にインスピレーションを得ることを、「大きな魚をつかまえる」というように表現します。彼は、瞑想をすることで、精神の深いところへ潜っていき、そこに潜むものをキャッチするというイメージを持っているのです。
それは、表面的な思いつきなどではなく、本人すら普段意識できないところにある部分に芸術というものがあることを示しています。そしてそれは、多くの人に共通する真理や普遍につながるものだと思っています。
ですから、作り手すら言葉にできないような無意識の領域、そしてその作品が偶然触れてしまった真理などを発見し言及するという態度も、ときに必要ではないでしょうか。
もしもフィンチャー監督が「邪悪に触れれば、邪悪に染まる」というだけの理解しか持っていないと仮定したとしたら、『セブン』という作品の本質を理解できていないのではとさえ思ってしまいます。そしてあのラストシーンは、やはり最終的にそのようなものであることを拒否しています。
その意味において、この『セブン』についての文は、自由な解釈のひとつというよりも、それが成功しているか失敗しているかに関わらず、より本質に迫ろうとする積極的な挑戦だと考えていただければと思っています。
onoderaさんの解釈は興味深いですし
セブンの面白さを物語ってるとは思うんですが
解釈にとらわれすぎてるところがどうも・・・
セブンはシンプルな映画だけど様々な捉え方ができて面白い
そういう批評であると読ませていただいて思ったのですが
コメント欄を見ていくと、後半は少し失望してしまいました
それは違うでしょ?ここはどうなの?
という投げかけに対して考えを述べるのはいいと思うのですが
TTさんのようなコメントを否定する必要は無い気がします
せっかくすばらしい批評であるのに勿体無いと思いましたのでコメントさせていただきました
ここが論争の場として用意されてあるならば
私のコメントも場違いとなりますのでその場合は失礼いたしました。
TTさんのコメント自体を否定しているつもりはありませんよ。
監督の意見を基に作品を理解するというのは、間違った方法であるともいえません。実際に私も監督の意見を参考にすることはあります。ただ、それが通用しないケースがあるのではないのか、ということです。
今回は、私の意見が否定された部分(そのように私は捉えたのですが…)に対しまして、その根拠となった、おもに監督の発言の捉え方について、そもそもの論点が異なることを説明させていただき、作品を読むスタンスについて述べさせていただきました。
私としては、「様々な捉え方ができて面白い」という趣旨よりは、「こっちの方が作品の本質に近いのではないか」という見方です。
誤解をさせてしまったのは、自分の書き方に至らない部分があったのが原因だとは思います。
特にデヴィット・フィンチャーがテーマにした「邪悪に触れれば邪悪に染まる」という部分は、ケヴィン・ウォーカーの脚本をどの方向性で映像化させるかの点で、演出や全体の意思統一を行う為に立てたテーマだと思います。
onoderaさんも映像作品を手掛けられている様なので、ご経験がおありかもしれませんが、自分は本業は映像でない物作りなんですが、趣味が行き過ぎて雑誌の仕事や映画製作に携わる事なんかもやったりしてるんですが、
映画の制作の現場に居ると監督から、例えば「強烈な感じで」という簡潔な指示だけをされる事があります。
これは、スタッフの意志方向をブラさない様に、監督の思っている仕上がりを全部語らずに一方向だけに向かわせる指示の出し方だと思いますし、そうした指示によって作品を良いものにするのは上手い監督だとも思います。
onoderaさんが仰る通り、
第一稿からヘミングウェイの引用は存在していた様ですし、
また、十稿以上の書き直しを行った「セブン」のストーリーの中から、
「第一稿でないと撮らない」と言い切ってケヴィン・ウォーカーを説得したのも他ならぬデヴィット・フィンチャーですから、
フィンチャーが「セブン」の本質を理解し切れていないという考えをonoderaさんに起こさせてしまったのは、自分の文章の書き方が至らなかった為だと思いますし、その点は深く反省すべきところだと思っています。
自分はデヴィット・フィンチャーは凄く好きな監督で、映像の中での液体の使い方がもの凄く上手いです。彼が手掛けた多くの作品の中で緊迫した場面では、液体を効果的に使っていて、
(エイリアン3でエイリアンに迫られるリプリーや、セブンで銃を突きつけられるミルズ。ファイトクラブの汗や血の流れ方、等々)
誰かの脚本を映像化する能力は素晴らしいと思っていますので、当初のミルズが撃って暗転というラストから、実際のヘミングウェイの引用への変更を苦肉の策と書きましたが、
「邪悪に触れれば邪悪に染まる」しかし、ミルズやサマセットは染まったか?
という問い掛けの様にしたかったのではないか?と、自分の勝手な想像でしかないのですが、そう思うのです。
しかし、「解り難い」という反応や様々な意見もあって、ヘミングウェイの引用までのシーンを付け加える事になった。
その経緯を苦肉の策という意味合いでインタビューで答えたんだと思います。
先にも述べましたが、ラストシーンは経緯や理解の仕方はどうあれ、ヘミングウェイの引用までの流れが素晴らしいです。
ミルズの表情の移り変わりもそうですが、サマセットが心の中でヘミングウェイの一説を呟くまでの間の、斜め上から影の濃い映像でサマセットを捕えた「タメ」の一瞬が、その後への決意を強く感じさせます。
ミルズの懺悔や変化という部分では、捜査から戻ってベッドで寝ているトレイシーに寄り添いながら「愛してる、とても・・・」という場面で、ミルズの人間性が深く描かれている様に感じましたし、
ラストの前に隠しマイクを着ける為にサマセットと並んで胸毛を剃るシーンで、
「俺は・・・」と、言葉を切ってしまう場面に、ミルズの内面の変化が描かれている様に思えました。
それだけにラストの解釈で作品の本質を探ろうとすれば、希望も絶望も感じてしまうんだと思いますし、onoderaさんの様にハッピーエンドとして捉えて本質に迫る解釈・御意見が面白く感じられます。
「スカイフォール」まだ観れていないんですよ・・・。最近は本業以外にも何かと忙しくて映画館にも足を運べない状況でして・・・。
onoderaさんのコラムも気になるんですが、作品を観てからじっくり読ませて頂きます。
私の返信内容についていろいろとご心労おかけしました。
フィンチャー自身が『セブン』の本質を見誤ってるというようなことを言ったのは、あくまで仮定の話ですので、お気になさらないでください。
私はその本国でのインタビューに目を通してないので分かりませんが、「邪悪に触れれば邪悪に染まる」というのが、作品全体のトーンを示す発言だとすれば納得できます。
私が何故、ミルズの境遇についてポジティヴな理解をしたかという話なのですが…
そもそも『セブン』の冒頭で、サマセットの厭世観と離職問題が示され、それをラストでは、(明言はしませんが)刑事の職をこれからも全うするという決断を示すことで回収します。
もともとサマセットは、残忍で酷薄な社会から逃げようとしていたので、もしミルズの一件がただ凄惨でひどいものであるなら、その想いをさらに深くするはずだと思うわけです。
ここでサマセットの心情を反転させるなにかポジティヴなものが描かれてなければ、論理的におかしいはずで、それはやはりミルズの行動のなかにあるはずだというのが、この考えの端緒になっています。
ただ、おっしゃるようにミルズの発砲後にすぐ暗転するラストが存在するならば、そこまでの意味が付与されるかどうか疑わしいですのですが、実際の第一稿にはその先も描かれているんですよね。
ですので、もし発砲エンドで完成されていたら、脚本家の設定したテーマを無視するものになっていた可能性があります。それがいいかどうかというのは、そのバージョンを検証しなければ分からないですが、ヘミングウェイの引用を『セブン』で描いたことによって、またそれをフィンチャー自身が「分かり難い」という意見を払拭するための苦肉の策だと発言したとすれば、結果として作品のもともとのテーマに寄り添うものになったように思います。
TTさんのご意見は、参考になっておりますし、作品をあらためて考えるきっかけにもなっており、とても有り難いです。
k.onoderaさんの記事のおかげで幾つか学ぶことがありました。ありがとうございます。
特にサマセットの視点での解釈やサマセットの名前の由来の推測には感服いたしました。
コメント欄で映画ラストの解釈について色々と論争が繰り広げられていますね。
個人的には、映画は芸術の性質を持っているので人それぞれの解釈があっていいと思いますが、僕自身はラストの犯人を殺したミルズの心境は怒りと悲しみのように感じました。
何度も見直しましたし、ブラピの表情が変わるのはわかります。
大半の人は初見でミルズ妻の顔とブラピの顔アップの映像はあまり認識できないと思います。
がしかしあの短い映像は作品に奥行きをもたせ、人それぞれの完成によって異なる解釈を生み出す余白のような演出に思いました。
ただ、犯人が死ぬ直前のサマセットの言動(殺したら犯人の勝利だぞ)や、犯人の頭を撃ちぬいたあとのブラピの行動(複数撃ちこむ)は、「理性の強調」と「感情、心の強調」の演出だと僕は感じました。
妻の顔を一瞬思い浮かべたらブラピの理性(法を遵守したい&犯人の思惑通りの結末にしたくない)が吹き飛んで、悲しみと怒りに従い自分のしたいようにした(感情、心に従う)と見えました。
どちらかと言うと映画を見た多くの人はこのように感じたと思いますし、監督と脚本家もそれを分かっててこの演出にしているとも思うのです。
では犯人を殺す時のブラピの冷静な顔は何だったのか。
彼が自分の心に従い犯人を殺す(罪を犯す)ことを決めた瞬間の覚悟の表情だと思います。
そして最後のサマセットの言葉は何なのか。
世の中を見渡せば決して素晴らしいとは言えないということ。
だがそれでも素晴らしさは小さく、輝いて存在している(犯人によって蹂躙される前のミルズ夫妻のように)ということ。だからこそ戦う価値はある。
こんなふうに踏みにじられないようにするために戦わなければいけない・・。というようなニュアンスではないでしょうか。
結局最後は誰も救われなかった。
だがそれでも戦おう・・・。という辛く悲しいが深みのある一言だと思います。
k.onoderaさんのおかげで色々と自分の考え、解釈を見ることが出来ました。
同じ映像をいろんな人が見ても、想起することは違います。自分はどう感じたかを見つめることができ良かったです。一人一説なのも映画の楽しみかと。
ありがとうございました。
あるばさん、お返事が遅れました。
『セブン』を今回見返すまでは、私も実際にあるばさんとほぼ同じような見解でしたし、それをことさら否定しようとは思いません。
しかし、作品の内容自体は、それだけで済まない部分も含まれているのではないか、と思うわけです。
やはり最後のヘミングウェイの引用が問題になると思います。
あるばさんのおっしゃる、「犯人によって蹂躙される前のミルズ夫妻」のようなものを守るために戦うというのはそうでしょうし、その希望に触れることでサマセットが人間性を取り戻していっているということは、私も本文で述べていますが、その関係についてもう少し細かく話をさせていただくと、「人間くさいミルズ」、「非人間的なジョン・ドウ」の両極の真ん中にサマセットは立たされており、ラストにおいて、彼はミルズ側を選んだことが示されるわけです。
作品の構成上、クライマックスのミルズの選択によって、ラストのサマセットの選択も意味を持つのだと思います。
もし、ミルズがジョンを撃たなければ、おそらくサマセットはさらにやりきれない気分になったのではないでしょうか。
やはりサマセットは、ミルズがジョンを撃ったことが、「敗北」だと言いながらも、心の奥底でうれしかった部分があったように感じます。
「人間くさいミルズ」を選択した、それは、作中において「神は人間の営みや感情のなかに宿っている」、つまり人間性の勝利を表現しているように思えます。
作品への理解は人それぞれだとおっしゃること、理解できます。
例えば、美術館に飾られている一枚の絵画を観て、鑑賞者がひとりひとり多様な感想を持って良い、というのはよく言われることです。
ただ、上のコメントでも述べましたが、私は芸術一般について、それとはちょっと違う理解をしています。
芸術とは(ちょっと大げさな話になってしまいますが)、世の中の真理を追究していくものです。
それは我々の周りにいくつも潜んでいるものであり、作り出そうと思って作り出せるという性質のものではありません。デヴィッド・リンチが「大きな魚をつかまえる」と言うように、芸術は作家にとって「発見されるべきもの」で、既に存在する真理に、どれだけ肉薄できるかという試みなのです。アリストテレスの言う、「芸術は自然を模倣する」ということばは、本質的にこのことを示していると思います。
作品を読むときに、作家の意図を探ることは、もちろん重要です。
ですが、作品とはそれのみで終わりではなく、そこにある種の真理がどれほど含まれているか、そこが最も見られるべき部分です。
そもそも優れた芸術家は、その真理に触れることを目指し、作品を作ろうと努力しているからです。
そして優れた作品とは、作家自身の意志や意図によってコントロールできない領域が存在しています。
だから、作家の意図をある程度尊重した上で、ときにそれを超えた部分を発見しようとする試みは、作家を軽視したものではなく、むしろより作家(監督や脚本家)の立場に立ったものであるとご理解いただければと思っています。
デヴィッド・フィンチャーは『セブン』の後に多く作品を作っていますが、いまだにこれを超えたものが生まれていないと私が感じるのは、この脚本家と監督、出演者による組み合わせ、そしていくつかの状況によって、やはりある種の真理に触れている部分があったからだと思います。
はじめまして、
久しぶりにセブン鑑賞の後、作品詳細などを調べていましたら
このサイトへたどり着きました。
みなさまの様々な解釈を興味深く読ませていただきました。
ありがとうございます。
・ジョン・ドゥの目標は7つの大罪を完遂することではなく、
それによって一般大衆の「無関心」という罪を改心させたい
・よって、サマセットに最後の台詞を言わせる心情にさせた点で
ジョン・ドゥの狙いどおり
この解釈は無理矢理すぎでしょうかね?笑
Dさん、コメントありがとうございます。Dさんを含め、みなさまの様々な解釈は私も参考になります。
ジョン・ドウは確かにそのようなことを車内で言ってましたよね。インパクトを与えるという点で、彼にとってある種の達成があったというのは確かでしょうね。
しかしミルズが言ったように、世間的にはただのワイドショーのネタになっただけなのかどうか、ここは描かれておらず想像する他ないですね。
一般大衆の無関心への挑戦という意味では、サマセットは深く事件にかかわり過ぎていますから、どうしても衝撃度は大きくなってしまうと思いますが、どちらにせよサマセットはポジティブな方向に舵をきっている。そこにある程度、作品の意味が集約されているのではと考えています。
ハッピーエンド=幸せの終わり
だから間違ってはないですね
k.onoderaさま
ご丁寧にコメントを返していただきありがとうございます。
私が疑問を抱いたところがありますので少し質問させてください。
>妻の尊厳を守るために、信念を持って、ミルズは犯人に敗北し、罪人になることを受け入れるという選択をする。だからこそ彼は迷いなく引き金を引くことができたのだといえる。
>憤怒の顔でなく、冷静な表情で引き金を引いている
この2点につきましては以前コメント欄で述べたとおり同意いたします。
問題は以下の点です。
>犯人はその後死刑にならないかもしれない
>精神鑑定で無罪になる可能性
こういった内容を考慮してミルズは信念を持って崇高な精神で引き金を引いたとおっしゃっています。
>このときのミルズの感情は、「憤怒」でないばかりか、キリストが他人の罪を引き受け身代わりになったという、犠牲的精神を思い起こさせるほど、崇高なものに昇華していたのではないか。
ここが納得いきません。なぜ殺人が崇高といえるのでしょうか?
犠牲的精神とおっしゃっていますが、ミルズが殺人に至る理由は個人的な怒りと個人的な正義です。キリスト教には詳しくありませんが「汝の敵を愛せ」「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というのがキリストの教えでは?
この場合では赦すこと、堪えることのほうが崇高的精神のように思うのです。憤怒は罪という前提で、
「憤怒」で引き金を引いてないとするならば、なぜ殺したのでしょう?死刑うんぬん、精神鑑定うんぬんが理由ですか?自分の妻が殺されていなくとも犯人は死に値する、として引き金を引いたでしょうか?
宗教を利用した勝手な解釈による殺人は十字軍の歴史と同等のように思います。レコンキスタや十字軍の戦いを正義と捉えるなら話が別ですが。崇高な精神で殺人というのはありえるのですか?
死刑だってそもそもキリスト本来の教えからすると本当に正義なのか疑問です。(念のためですが、私は無宗教で死刑賛成派です)
>「人間くさいミルズ」、「非人間的なジョン・ドウ」の両極の真ん中にサマセットは立たされており、ラストにおいて、彼はミルズ側を選んだことが示されるわけです。
>「人間性の勝利」ともいえる奇跡を目の当たりにしたサマセットも、「厭世観」を凌駕する希望を見出した
「崇高な精神による殺人」が説明できないとこの2点は成り立たなくなります。
私もミルズは実に人間的だと思いますが、このラストを「人間性の勝利」とおっしゃるのが疑問です。
人間性とは感情、心、欲望、狂気、理性、信仰、哲学が混ざり矛盾し、崇高にもなれば獣のように醜くもなるような両極性をはらんだ性質だと思います。どちらにもなりえるのが人間的、むしろその矛盾のなかで苦しみもがく姿こそ実に「人間的」な気がします。
最後に。
真理とはなんでしょうか?私は普遍や真理といった言葉があまり好きではありません。
正義や悪が宗教や文化や時代で変わるで価値観でしかないように、絶対的な普遍や真理など証明できません。それらは「共感」にしか過ぎないと思うのです。
それを「本質」と呼ぶなら分かります。芸術は物事を理解しそして感性を伴った表現をすることで生まれます。
〇〇の真理でなく〇〇の本質です。そのものが持つ性質の根源となるものが本質です。
人間性、つまり人間が人間であるための性質はなにか。人間らしさとはなにか。
その人間らしさこそが「感情・欲望と理性・信仰など相反するものを抱えた存在」であることだと思うのです。
すこし整理させていただきました。
論点は以下のとおりです。
・憤怒で引き金を引いているか否か。
・崇高な精神とはなにか?私的殺人でもいいのか?
・k.onodera様が主張する「人間性」とはなにか
ポイントは
・ミルズは自分の妻が殺されていなくとも犯人を殺したか(妻を殺されたから個人的な怒りがあったのではないか)
・「犯人はその後死刑にならないかもしれない、精神鑑定で無罪になる可能性がある(本文より)」から殺害することはキリスト教的に崇高な精神なのか
あるばさん、再度の熱のこもったご意見、ありがとうございます。
本文の要旨を説明するために、状況をもう一度おさらいします。
ジョン・ドウの目的は何だったでしょう。
・七つの大罪殺人事件によって(自分の信じる)神の意志を示すこと
・そのために自分が犠牲になり、ミルズに「憤怒殺人」を犯させること、です。
つまりサマセットの言うように、ミルズが引き金を引けば「ジョンの勝ち」です。
ミルズが怒りを抑え、引き金を引かなければ「ジョンの負け」です。
最終的に、ミルズは、ジョンの目論見通り、敗北を受け入れる判断をします。
しかし、あるばさんもご同意いただいているように、ミルズは「憤怒の顔でなく、冷静な表情で引き金を引いている」。
つまり、「憤怒殺人」が完成していないように見えるということです。
ミルズは犯人に対し復讐を成し遂げているように見えますが、本当の復讐とは、「引き金を引かないこと」でしょう。
周到な計画を立て、命を懸けて「七つの大罪殺人事件」を完成させようとするジョン・ドウにとって、最も避けたい事態だからです。
だからミルズの感情は、「憤怒」と「理性」の間を激しく行き来します。
ここで、ミルズの頭の中に、妻の顔が一瞬浮かび、その直後、引き金を引きます。
この描写から、ミルズは、自分の怒りの感情に振り回されて引き金を引いたわけでないことが分かります。もしそうなら、怒りの表情のまま撃てばいいからです。妻の顔をわざわざインサートする必要はありません。
引き金を引いた結果、どうなるとミルズは思ったでしょうか。
自分は逮捕され、復職も叶わない。ジョンは勝利し、今までの捜査も意味がなくなります。つまり、救いのない完全敗北です。
しかし理性を保ち引き金を引かなければ、おそらくジョンは失意にまみれながらも生を全うするかもしれません。この唯一の殺害の機会を逃しては妻に対し申し訳が立たない、そう考えるのが、人間的な心情であると思います。ミルズを自分に置き換えて考えてみてください。
だからもはやこの殺人の意味は、ジョンを自分の手でこの世界から暴力をもって抹殺し、事件を終わらせることで、妻個人の尊厳を守り、無念を晴らすという、ただ一点のみであったように思われます。
この決定は、論理的であるとは言えないと思います。しかし、少なくとも私には、この犠牲的精神に崇高なものを感じます。
キリスト教の基本的理念は殺人を許さない、それはおっしゃる通りです。しかし、ミルズがここで利己でなく利他を考え犠牲になったことは、キリスト的であることもまた事実であると思います。
それでは、そのような崇高な理念を語るキリストは「人間的」ではないのでしょうか。
ベルイマン監督の映画に、『冬の光』という、キリスト教についての作品があって、このなかで、キリスト磔刑についての考察があります。
「父よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と珍しく弱音を吐いたキリストに対し、「肉体的な苦痛だけでこのようなことを言うはずがない、おそらく、自分が信じていた弟子に裏切られたことが何よりつらかったのだろう」という、キリストに「人間的な感情」があったとする考えが、信仰をなくした牧師に、神と自分とのつながりをあらためて見出させ、希望を与えることになります。
逆に、「非人間的」であるが故に崇高な理念たろうとするジョン・ドウはどうでしょうか。
キリストの意志に近いのは、あくまでも「人間くさい」ところに留まることで犠牲になったミルズであるように、私には感じられます。
再度ご丁寧なお返事、誠にありがとうございます!
今回のコメントでお互いの解釈の違いのポイントがどこにあるのかわかりました。
>少なくとも私には、この犠牲的精神に崇高なものを感じます。
>ミルズがここで利己でなく利他を考え犠牲になったことは、キリスト的であることもまた事実であると思います。
すなわち犯人を殺害することで「妻個人の尊厳を守り、妻の無念を晴らすこと」。そのために自分にとって苦しい道(犯人の筋書きに従う、法的な罪を背負うなど)を受け入れること。これがミルズの犠牲的精神であり、崇高な精神とお考えとのことですね。
なるほど、そう言われるとその解釈も納得できます。
私の考えとの食い違いは「崇高な精神」の捉え方だと思います。「崇高」とは怒り、悲しみ、欲望、狂気、執着などを超越した気高く尊大な心情と私はおもいます。引き金を引くに至ったミルズの心情は怒りと悲しみ、自己愛、個人的な正義にあるので今も崇高だとは思っていません。
また、k.onoderaがおっしゃるように「犯人に人間性を持ってして勝利した」という場合にはキリストの教義的にも崇高でないと、勝利とはいえません。犯人の信条がキリスト教の教義(7つの大罪)にのっとって罪人を裁くことであるため、「勝利」というにはキリスト教の考えを持ってして犯人を裁く、あるいは抑える必要があります。
がしかし、k.onoderaさんがお考えになる「崇高」の一つのあり方が犠牲的精神、利他的であるとのことでした。そう捉えるならば、キリストの教義の一つにもあてはまると思います。
私がk.onoderaさんの意見が理解できなかったのは、ミルズ本人が自己犠牲のつもりとはいえ殺人を犯しているからです。それは個人の正義であって結局のところ、殺したいから殺す、とも言えるのです。
犯人の罪を赦すことがキリスト教的な崇高、ということと、殺人がキリスト教の教義から外れていることからやはり犯人の思惑通りと思います。
ただ、私は犯人の思惑通りになった敗北でもこれでよいと思うのです。終始人間らしいミルズの姿を
みれたことと、サマセットの最後のセリフ「この世は素晴らしくはないが戦う価値がある」に救いと共感を得ました。
k.onoderaさんの解釈は
悲しみ・怒り・苦痛を受け入れ、妻のために犯人を殺害する
→利他的、自分が苦難を受け入れ犠牲になっており崇高。犯人に勝利したハッピーエンド。
私の解釈は
悲しみ・怒り・個人的な正義に起因した殺人。敗北を受け入れる覚悟をして引き金を引いた
→殺人はキリストの教義から外れており、犯人の思惑通り。幸せは犯人よって踏みにじられるバッドエンド。だからこそ「素晴らしい世の中ではない。しかし素晴らしさを守るべく戦う価値がある」という言葉が強く響く。
なんとか整理がつきました。
他の人の考えや解釈を知るのは大変勉強になります。ほんとうにありがとうございました。
これはついでにですが・・
>それでは、そのような崇高な理念を語るキリストは「人間的」ではないのでしょうか。
人間は、崇高にもなれれば獣じみた姿にもなる、と考えます。なかでもその両極性の中で揺れ動き、葛藤する姿がなにより人間らしいとおもいます。崇高な理念を語るキリストは、むろん人間ですが極端な存在なので、人間的と感じるよりは神聖な人と感じるでしょう。欲望に狂った人を見た時に「獣じみてる」と形容するように。
キリストが人間でないということではなく、崇高であるが故、おそらく人間離れした存在(=神聖)と感じる、ということです。
ちょっとだけ追記です。
犯人(ジョン)側の考えについても思うことがあるので書かせてください。
>ジョン・ドウの目的は何だったでしょう。
>・七つの大罪殺人事件によって(自分の信じる)神の意志を示すこと
>・そのために自分が犠牲になり、ミルズに「憤怒殺人」を犯させること、です。
憤怒は殺人に至る前に抱いていればいいと思います。つまり引き金を引くことに起因していれば憤怒殺人が成り立つというのが犯人の考えではないかと。
なぜなら「怠惰」の罪人は本当に怠惰で1年間ベッドにいたわけではないですし、「暴食」の人も最後は食べさせられていた状況にあります。つまり怠惰や暴食や強欲、色欲などそれをもった時点で罪の成立としています。つまり圧倒的な憤怒を抱いた時点でミルズは7つの大罪に当てはまると犯人が考えていた可能性があります。
そしてもうひとつ。犯人が行ったのは「裁き」であって直接の殺人は最後にミルズの妻を殺害した時のみです。
暴食→自ら死ぬまで食べさせる
強欲→自分で自分の体を切り取らせる
色欲→他人に殺させる
怠惰→換金して衰弱させる(死なないように抗生物質を投与)
犯人は7つの大罪にのっとって人を死に追いやっていますが直接手を下したのは、自分の罪である「嫉妬」の時のみです。つまり犯人にとっても殺人は「許されざる行為」なのです。
となると犯人に「勝利した」というには犯人の信条を乗り越えなければならないので、殺人を行ってはいけないのです。
ご返信ありがとうございます。
キリスト教的な意味において崇高でなければ勝利とはいえない、ということから、「殺人をしてはいけない」ので、ミルズはキリスト教の教義にはずれるということですね。
ただ、ここでの構図はあくまで、ミルズとジョンの間の論争になっていることが重要だと思います。
「ミルズは殺人を犯しているから不信心である」とするならば、そもそもジョンが「信心の故に殺人を犯す」こと自体が通用しなくなってしまいます。
「殺人」ということ自体をフォーカスし過ぎると、全体像が見えにくくなるような気がします。
ジョンにとっても殺人は「許されざる行為」とご指摘されましたが、ミルズの妻殺害は直接殺人ですし、また他の殺人においても、間接とはいえ銃を突きつけての拷問なので、行為自体の罪深さは証明するまでもないと思います。
ジョンは7つの大罪を犯す者を殺すことが、神の意志に沿うものであると思っているのでしょう。
神は旧約聖書のなかで、洪水を起こし多くの人々を殺害しましたが、神が人を殺すことは許されるわけです。ジョンの論理は、「神の代理人」として罪人を裁くことですから、彼のなかでは殺人は正当化されるわけです。そしてそのことを「楽しんでいる」ことすら認めます。
それに対し、ミルズは正義感が強く、凶悪犯罪者と戦うことに生きる意義を見出しています。実際に彼は、過去に銃撃戦で犯人を射殺しています。
しかし、これはキリスト教の本質に反することでしょうか。
「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」という教義を厳密に守るならば、銃撃されても反撃ができないということになってしまいます。
もちろん、銃撃戦での殺人とジョン殺害では状況が違います。しかしそれはあくまで、職務遂行・正当防衛など法律における違いであって、宗教的な問題とは別です。
つまり、ジョンと、極限状態に置かれたミルズは、「信念・正義のために人を殺す」ことを受け入れる、その正当性について、両者の信念における内容の相違が生まれているということではないでしょうか。
ミルズはここで妻という他者の尊厳を優先させ、ジョンはあくまで「七つの大罪」についてフォーカスしています。
もちろん、ミルズの行為についてはいろいろな見方があってしかるべきだというように思います。
キリストは「人間離れした存在」とのことですが、聖書によると、彼もまた磔刑の際に人間くさい醜態を見せています。
キリストの語った教えは、あくまで同じ人間という立場から、民衆の生活のなかに神の法を活かしていくようなものであるでしょう。
人間はいろいろな罪を犯しながら生きていきます。そのひとつひとつの罪にいたる行動のなかにあっても、「神性」は宿る。このような複雑で深刻なテーマが『セブン』には隠されているのではないでしょうか。
ですから、私の言うようにハッピーエンドであったにせよ、それは非常に苦い味わいのものであるし、アンハッピーな結末にせよ、そこに救いがないわけではない、ということだと思います。
>「ミルズは殺人を犯しているから不信心である」とするならば、そもそもジョンが「信心の故に殺人を犯す」こと自体が通用しなくなってしまいます。
>ジョンにとっても殺人は「許されざる行為」とご指摘されましたが、ミルズの妻殺害は直接殺人ですし
前回の私のコメントは、ジョン自身も殺人は許されざる罪と認めているが故に、自身の大罪である「嫉妬」の時まで直接的な殺人を避けていたのではないか、という意味です・・。
>他の殺人においても、間接とはいえ銃を突きつけての拷問なので、行為自体の罪深さは証明するまでもないと思います。
もちろんそう捉えることもできますね。どちらもそうであったかもしれない、という可能性の話です。私が前々回にk.onoderaさまの解釈に反論のコメントをしたのはおっしゃっていた「崇高な精神」「ミルズの人間性の勝利」という点が理解できなかったからです。
ですがミルズが引き金を引く際、自己のためでなく妻のため、完全な利他的精神のもと引き金を引いた可能性がある、というk.onoderaさまの解説をお聞きして、なるほどと思いました。
私はてっきり引き金を引く際の冷静な表情(および一連のシークエンス)は、ミルズが自分の感情・心に従う「覚悟の表情」としか思いませんでした。それは自身の心、自分本位の正義にしたがい、思うがままの行動をする、という利己的で自己愛の先にある殺人の覚悟です。
しかし、同じシーンであっても違う方がみれば「利他的な自己犠牲精神」とも捉えられるのだということが分かり、良かったです。とても勉強になりました。
>キリストは「人間離れした存在」とのことですが、聖書によると、彼もまた磔刑の際に人間くさい醜態を見せています。
申し訳ありません・・。私の書き方が悪かったため誤解されているようですが、私はべつにキリストを非人間であるなどと言いたいのではありません。キリストが崇高な教えを説いている時はそれを聞いた人々がキリストを神聖(=人間離れした存在、我執などを超越した存在)とでも感じたのでは?というだけです。キリストが醜態を晒したり、苦しみや葛藤の表情を見せた時はそれを見た人々もキリストを人間的と感じたのではないでしょうか。
>しかし、これはキリスト教の本質に反することでしょうか。
「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」という教義を厳密に守るならば、銃撃されても反撃ができないということになってしまいます。
本来のキリストの教えではそういうことだと思います。相手の罪をも許すので反撃はしないと思います。だからニーチェはキリスト教を「復讐をしない奴隷道徳」とまで批判したわけですし。だから私はk.onoderaがミルズの引き金を引くシーンを「キリスト教的にも崇高」とおっしゃっているのが理解できないでいたのです・・・。
wikiより引用
”イエスは言った「されど我ら汝らに告ぐ、汝らの敵を愛し、汝らを迫害する人のために祈れ」(マタイ 5:44)と。ここに自分を中傷し敵対する相手であれ、神の子供として、また、罪を贖われた者として、隣人とみなして赦し合うべきであるという、人類愛の宣言がある。”
k.onoderaさま
ああ、申し訳ありません!最後に「さま」が抜けて呼び捨てになっていました。
あとで気が付きました。訂正いたします。
セブン好きです。
onoderaさんや皆様の解釈も面白いです。
全て閲覧させて頂いて思った事。
「皆様が出した結論が全て正しい。」
ところで劇中サマセットがメトロノームをぶん投げるのですが、何故だと思われますか?
私は理解出来ませんでした。
はれるやさん、コメントありがとうございます。
人によっていろいろな解釈がありますね。『セブン』という作品に深さがあることの証明になっているようにも思います。
サマセットのメトロノームについてですが、ノベライズ版で詳しく説明がありました。
部屋の中でメトロノームを動かしながら、壁に掛けてある的(まと)にナイフを投げるという行為によって、しばしばサマセットは荒れた心を静めているという設定があるようです。
該当シーンは、そういった儀式をする精神的余裕すら無くしているという描写だと思います。
最後のシーンの解釈は難しいですね。
ミルズは箱の中身を見てジョンが妻を殺したことの物証を確かめることが出来たのにしなかった。
殺したと言うジョンの主張を「全面的に信頼」して、わずかな時間で確かめることが可能であるにも関わらず自分の目で見ることを放棄し、殺害を決心するまでの間の演技は迫真だと思いました。
首の人物が実は妻とは別人だったとしたら?
なぜ殺害を即断したのか?
答えは出ませんが、面白い映画でした。
ジョン・ドゥで検索したどり着いたところ、非常に感銘したので思わずコメントを残しました。
ただ、どうしても気になるのは本来『七つの大罪)はグレゴリウス一世からであり、それ以前は『八つの大罪』だった事。ジョンは当然解っていた筈だったのにも関わらず、何故七つの大罪を選択したのか?(そうなるとお腹の赤ちゃんを入れれば『大罪で死んだ人間は丁度8人』)
だとすれば、本当にデビッドの憤怒で大罪への説教は完成していたのか?
ジョンは平凡な生活に妬ましかったと話してますが、殺人をあれだけ用意周到にしていた、ある意味完璧主義者が『〜だった』などと言うのか?
ジョンは死に際のセリフに『自分が、勝つ』様な事は一切言ってない事。
何より、大罪を犯している人間は(アランは死んだも同然)死んでいる事…
今、一度この映画を観て作品の真意とは何か改めて考えてしまいましたね。
ちなみに、八つの大罪を枢要罪は厳しさの順序によると「暴食」、「色欲」、「強欲」、
「憂鬱」、「憤怒」、「怠惰」、「虚飾」、
「傲慢」でした。
wikiから抜粋
すいません、誤変換がありましたので再度コメントいたします。
ジョン・ドゥで検索したところたどり着きました、非常に感銘したので思わずコメントを残しました。
ただ、どうしても気になるのは本来『七つの大罪)はグレゴリウス一世からであり、それ以前は『八つの大罪』だった事。ジョンは当然解っていた筈だったのにも関わらず、何故七つの大罪を選択したのか?(そうなるとお腹の赤ちゃんを入れれば『大罪で死んだ人間は丁度8人』)
だとすれば、本当にデビッドの憤怒で大罪への説教は完成していたのか?
ジョンは平凡な生活に妬ましかったと話してますが、殺人をあれだけ用意周到にしていた、ある意味完璧主義者が『〜だった』などと言うのか?
ジョンは死に際のセリフに『自分が、勝つ』様な事は一切言ってない事。
何より、大罪を犯している人間は(アランは死んだも同然)死んでいる事…
今、再度この映画を観て作品の真意とは何か改めて考えてしまいましたね。
ちなみに、八つの大罪を枢要罪は厳しさの順序によると「暴食」、「色欲」、「強欲」、
「憂鬱」、「憤怒」、「怠惰」、「虚飾」、
「傲慢」でした。
wikiから抜粋
冷静だったら
何度も打つかな、
怒りで我を忘れて
殺してる様にしかみえない
個人的な感情以外で
タップ打ちをすると思えないんだよなあ
こちらの考察を拝見して、2時間の映像でここまで人間の奥深くまで練りこまれた作品なんだなという事が分かりました。
人が名作だと素直に感じるのはそういった物を無意識にでも感じるからでしょうか
まあ解釈は自由ですよね(笑)
非常に面白い解釈ですが、僕は良くDVDなんかでノーカット版を観たり、監督さんのコメントを観ながら映画を観たりしてますが、監督さんの大半は、カットしてしまう事に何かしらの意図を込めたカットというより、進行上しょうがなくという感じでカットしているような発言をされているように感じます。
また、wikiなんかで監督さん作品に込めた思い等載ってますが、それらを無視して観た側の解釈でだけ話しをするのはすこし傲慢かなと思います。
今回見せて頂いた解釈を批判するつもりはありませんが、もう少し製作者の意図にそった解釈でなければ、ジブリなんかの都市伝説の類いとそう変わらないように思います。
匿名さん、同じようなご感想を持たれている方に対して、コメント欄にて本文の意図をもっと詳しく説明している箇所がありますので、お時間のあるときにでもお読みいただければ幸いです。
『セブン』、とても好きな作品のひとつです。
見返す度に、好きになりますし、作品の魅力が増していくようで、驚きます。
それと、作品(その表現媒体を問わず)が、作者の手を離れた時から自立して、
受け手の元に届くこと。そこで受け手は自由な解釈が可能であり、その際、
作家は、受け手のひとりという以上の位置ではなくなっていること。
ということ(僕の理解が正しければ)にも、同感です。
onoderaさんの見方は興味深いです。そういう深い見方を成立させるくらい、
『セブン』というものは、豊かということですね。
読ませていただいていくつか思うのは、
ひとつは、最後のカットですね。
この映画では、撃ち殺して終わりではなく、警察が来て、その車に乗って、運ばれていくところで終わりですね。アメリカのこういった映画は、途中がどんな起伏に富んでいて、オリジナリティにあふれていても、最後はこんな風に終わることが多く、ちょっとここでがっかりすることがあります。
初期案のように、撃って終わりだったら、もっとインパクトは強烈だったでしょう。ただ、完成作品はそうなった。
見ていただきたいのは、その時の彼の表情ですね。onoderaさんがいうように、
正義が勝つとか、冷静、ということだったら、彼の表情は晴々としているのではないでしょうか。
それが、どうでしょうか。僕の目には、虚脱したような、あっち側にいってしまっているような表情に見えるのです。だからやはり映画の結末(意味的にも、ストーリー的にも)、見たまんま、だと思えます。
もしそうじゃないなら、正義は勝つ的なものなら、かなりのトーンの転換が必要ですし、『デビルマン』(永井豪の原作)のラストのような、崇高さを帯びるでしょう。と、まあ、そんなふうに考えた次第です。でもこんなことを考えたのも、onoderaさんの記述があってのことですから、onoderaさんの考察に感謝です。
度々、連続してのコメントですみません。
もう一度読み返して、ポイントが、撃とうとした時の「冷静な顔」
というところにあることに気づきました。
僕が見るところでは、あの顔の、「憤怒ではない表情」は、
あっち側にいってしまっている人間の冷静さ、だと思うのです。
つまり理性とか、理性の勝利とか、そういう方向ではない、
むしろ人間性の放棄みたいな、狂気の側への転落後の姿というか、
そんな印象です。かしこ
はじめまして、大変おもしろい考察ですね。
さて、評論文中にいささか反論があったので、私の解釈も交えつつ質問をさせて頂きます。
殺された者の尊厳を守るには、加害者を殺すこと。これが、崇高である理由がいまいち納得できなかったです。私怨による殺人が崇高である理由とは何でしょうか?
妻のためにやったから利他的とおっしゃられていますが、被害者の遺族(最愛の人を殺された、しかもミルズの妻だという明確な理由で)が加害者とはいえ無抵抗の人間を殺せば、正当防衛ならいざ知らず、法を逸脱したそれは世間一般で利己的とか私怨というと思うのですが…。妻がダイイングメッセージでジョンを殺して的なものを残してたりとかなら、まだ利他的と言えるかもしれません…。死んではいますが、一応、他者の利益のために動いているので。
尊厳を守るためなら例え悪人だろうと法を無視して殺人という大罪を以って私刑を行ってもいい、そのせいで現職警官の職務中の犯行による警察組織への信頼を落としてもいい。容易に想像ができる事を無視して、これのどこが崇高なのかが、疑問です。
警察組織や仲間、家族に迷惑を掛けずに、ジョンを殺すことで一切社会を賑わさずにひっそりと闇に葬り、その後、自分の罪を償ってこれまたひっそりと誰にも知られずに自決するのなら、少しはその精神に崇高さを感じます。でもそんな事は不可能に近い所業でしょう。が、例えそれを成しても、それでも利他的とは言い難いです。動機が自分の妻を殺されたという私怨だからーーというのが、私の解釈です。
ぜひ対論をお聞かせ願えたらと思います。
もうひとつ、冷静に弾きがねを引いたとありますが、前述の通りその後に待ってるであろう警察組織へのバッシングなど、公の考えを全く持たずして、なぜ冷静と言えるのか疑問です。冷静に「そんな事は知ったことでは無い」と判断したのでしょうか? この状態を、普通は怒りに我を忘れているとか、自暴自棄と形容するのでは無いでしょうか…? キレたら真顔でヤバいことし出す人、結構見たことありますので、真顔になったからと言って冷静とは言い難いです。ジョンの家宅に入る時も、いったん表面上は冷静になった後に強行に及んで実は全く冷静じゃなかったという前科もありますし。
ご見解を、お聞かせ頂ければとおもいます。
宜しくお願い致します。
マキナさん、コメントありがとうございます。
ご質問にお答えいたします。
ミルズとジョン・ドウとの対立は、最後には神学論争の域にまで達していたことは、本文で述べたとおりです。
ジョンを殺すということは、ジョンの望みを叶えることにもなります。ここでの唯一の復讐方法は、「ジョンを撃たないこと」です。そうすれば、ジョンは屈辱にまみれて一生を過ごすか、自殺に追い込まれることになるはずです。これがミルズが勝利するというひとつの選択肢です。
犯人への「暴力」は、この場合犯人にとってこの上ない赦しとなります。つまりこの場合、ジョンにとって暴力とはむしろ、引き金を引かないということであるはずです。にも関わらず、それが分かっていながらも、ミルズは引き金を引きました。これは、神学論争に敗れ、犯人を勝利させるということです。
ここでミルズが優先させたのは、発砲前のごく短い、奥さんの顔をとらえたカットから分かるとおり、奥さんの存在に関係した何かであるでしょう。ミルズが最後に見たものが、犯人の顔でなく妻の顔なのです。これは、犯人への怒りに凝り固まった「復讐」ではないことを意味しています。
ではミルズによる妻への感情とは何かということですが、これは一連の犯罪から、妻を解き放ちたいという気持ちではないでしょうか。妻を、ジョンに勝利するための存在にしてはならない、最後に残された妻の尊厳だけは守りたいということです。その意味で、ミルズはあえて世間的な価値観にとどまり表面的な復讐を果たします。妻が生きていたら実際にどう考えるかは分かりません。しかしミルズは、命乞いされながらも殺された妻の無念を晴らそうと思ったはずです。
つまりミルズは、妻のために復讐をあきらめたということです。これが利他的である、より神学的な意味で崇高であると私が述べている理由です。
はじめまして。
ブログを読みました。
自分では思いもしなかった解釈で、今までにないくらい面白く見ることができました。ありがとうございます。自分が納得できる、ミルズがジョンを殺した理由も見つかりました。
あくまで自分の解釈ですが、確かにミルズは憤怒ではなかったように見えました。
もしも憤怒状態だとしたら、、、
・射殺直前のトレイシーの顔は憤怒を掻き立てるものでは?
(トレイシーの血まみれの生首とか)
・ジョン射殺後ミルズは怒り狂って泣き叫ぶのでは?
絶望して自殺したのでは?
これからもブログ読みたいです。
何年かぶりにセブンを見て検索したら真っ先にこちらが表示されたので最初から全て面白く読ませて頂きました。
なるほど…
映画は見る人の感性でいかようにも解釈できるとは思ってましたが、キリスト教特有の自分勝手な解釈と言うのも凄く面白く感じました。
確かに七つの大罪はキリスト教がらみかも知れないけど、swatと突撃する様な状況で死んだ(殺した?)人の名前を思い出そうとする行動が”懺悔をする以外考えられない”とは…?
色んな意見が合って当然の映画ですが、個人的にはあるばさんの意見にほぼ一致です。
おもしろい解釈です。
議論も含め全て読ませていただきました。
ここまで論争が盛り上がり、読んでるだけでも色々な解釈を思考できたのは、k.onoderaさんの勇気ある主張の所業でしょう。
全員が「映画史に残る超バッドエンドだったね!!」というだけではつまらない。
まずそのことに感謝と拍手を送りたいと思います。
同様に、反論した方にも。
映画についてやいややいや言い合うのは楽しいものです。
理解も深まります。
なにより、作り手としてこれほど嬉しいことはないでしょう。
ぜひ、今後も色々な見解を聞かせていただきたいものです。
なによりみなの意見に正面から向き合ってることに驚きました。
かなり時間がかかったと思いますが…
おかげさまで場が立ち上がり、多くの人に思考のチャンスが生まれたことと思います。
僕も読んで思ったことを僕も記したいと思います。
はじめに言っておくと、「おもしろい解釈だけど、認められないのでは」、というのが僕の意見です。
僕は今作のミルズが「どんな理由で殺したか」っていう感情は、確かに色々な解釈ができるのかも、と思います。
怒りでもあり、悲しみでもあり、狂気でもあり、もしかしたらK.ondoreaさんのいうように敗北を認めた上でもあり、思いやりからでもあるかもしれません。
これは僕は思いつかなかったことです。
その精神性を汲み取り解釈を思いついたことに素直に賞賛を送りたいです。
言われてみると、ミルズが魅力的に見える素敵な解釈だなとも思います。
しかし、この時ミルズは間違いなく最初の段階で憤怒を覚えておりました。
このことはK.ondoreaさんも認めてらっしゃるとことと思います。
>「憤怒」の状態でミルズが犯人を撃たない限り、「七つの大罪」連続殺人は、その意味が半ばなくなってしまうはずである。
というのが論理の根底にあるように思いますが、僕はそこに疑問を拭いきれません。
流れから言って、その瞬間の状態に限定する必要はないと思うからです。
例えば、肉欲の子が色気たっぷりに欲情してる瞬間殺されたかどうかはわかりません。
「あー、仕事だりぃ。今日の客メッシに似てんなー」って思ってる時殺されたかかもしれません。(この時メッシはいませんが。笑)
そこが誰1人ハッキリと描かれてないので、ジョン・ドゥが”その瞬間の状態”にこだわってるとは言えないというのが僕の主張です。
もし裁きが”その瞬間の状態”に限定されてるとしたら、ジョン・ドゥからそこへのこだわりの主張などがなければ成立しません。
なので【この瞬間の状態が憤怒だったか否か】で意味が半減するということに疑問符がつきます。
そんなことより、ジョン・ドゥは「象徴」として七つの大罪の裁きのターゲットを決めてるように思います。
1度でもしたことがある人間だとか、それが身についてる人間だとか。
なんせ唯一殺害シーンのあるジョン・ドゥが殺される瞬間、別に嫉妬してませんでしたからね…。
日常から嫉妬してるようにも見えませんでした。
自分が嫉妬をした=罪人になった
というレベルでよかったのではないでしょうか。恐らく。
問題なのは、ここでミルズは憤怒してしまったのです。
妻の代わりに罪を受けることを選択した。=憤怒ではない=ミルズ勝ち
というのは、僕はどうかなと思っていて、
最初に憤怒があった以上もう負けだと思うし、
それに、どちらにせよ憤怒の結果殺人を犯したことになるのでは、とも思います。
例え信念があるにせよ、殺す原動力になったのは”憤怒”が原動力になっています。
おっしゃってるような「妻の無念を晴らす」という発想が生まれるのは、個人的な”憤怒”があったからです。
これを証明するのが、他者が殺されてもミルズは殺害して彼らの無念を晴らそうなどとは思っていなかったこと。
(まあもしかしたらジョン・ドゥの言うように「結果を恐れてやらないだけ」かもしれませんが。)
しかし、(当たり前かもしれませんが)明らかに妻の時だけ個人的な怒りや悲しみを匂わせます。
憤怒が起こり、はじめて殺意を覚えるのです。
「これでは敗北だ。俺も罪人だ。
だけど、妻の尊厳のために無念を晴らさねば。俺はどうなってもいい。」となるのは確かに一見崇高かもしれませんが、
憤怒から生まれた崇高さともいえます。
また、最後仮にジョン・ドゥに対しての憤怒が消えていたとしても、妻の死に対する憤怒は消えていないのでは?とも思います。
まあでも、それを言っていると”その瞬間の状態”にこだわった方向にいってしまうかもしれないので…
一旦話を戻します。
とにかくミルズが憤怒を覚えたことは、紛れもない事実だと言えると思います。
もし仮に、精神的にミルズが勝利できたとしなら、憤怒しないことしかなかったのです。
「妻の首か。残念だ。さあでは署に行こう」
などと言えたら勝利だったと思います。
しかし、できなかった。
「妻の尊厳が蹂躙されたこと」に対する憤怒が抑えられず、
さらに結果的にその解釈でいえば
「自分が苦しい人生を歩むこと」
「犯人の勝利を認めること」
を理解した上でも復讐することを止められませんでした。
結果撃ってしまった。
最終的な気持ちの流れはどうであれ、事実として一度憤怒してしまったのです。
だからジョン・ドゥの計画は何一つ意味を半減させられてない、
というのが僕の見解です。
「普通の生活いいな」
っていう嫉妬で罪人になる男ですから。
「綺麗だが見かけだけだ」
「太ってる。見ただけで食欲なくす。」
でも。
めちゃくちゃですよね。笑
「妻殺されたちくしょう!」
という感情が起こっただけで、ジョン・ドゥの中では十分罪人になってるという認識でしょう。
なので彼は犯行計画を阻止することはできなかった、というのが僕の見解です。
憤怒は、それが基で”罪人”という裁きにあってしまいましたから…
撃たなければ、彼の計画の中で憤怒だけに裁きが与られなかったので阻止したといえるでしょう。
しかしおもしろい、価値のある解釈でした。
柔軟な発想力と豊かな想像力に感動しました。
この文が更なる思考の一助になれば幸いです。
文章を書くプロではないので、散漫で申し訳ありません。
どうか気を悪くされないことを祈ります。
長文駄文失礼しました。
”ミルズはなぜ何発も死体にぶち込んだか?”
この死体撃ちを説明できる根拠は憤怒以外に無いと思います。
ふと思ったんですが、ミルズが発砲したのは5発だったので、罪と題して殺された人たちの復讐として撃ったのではないかと。そこにミルズ自身は含まれていなく、だからこそ、憤怒とは取れません。
ミルズが神でジョーンドゥを操っていたエンドだと期待していた。
たまたま今日、セブンをみてやるせない気持ちになり、どこかに救いはないかと探していたところでした。
本当はハッピーエンドである、それが本当ならどんなに良いかと期待して読ませていただきました。
しかし、私はやはり裏山さんやTTさんのご意見の方がしっくりきました、というかあなたさまの解釈は殆ど確かな根拠のないものだなあと思わざるを得ませんでした。
少なくとも、根拠とされている描写が本当は間違っていたのならば、それについての指摘は素直に受け入れるべきではないでしょうか。
みなさんがおっしゃっているように、ミルズが行ったのはあくまでも「復讐としての殺人」だと思います。
激しく葛藤し、警官としての矜持から何度もやめようとして、しかし最後に思い出した奥さんの笑顔により愛するものを奪った相手に対する「憎しみの方が勝った」ということです。
奥さんのため、奥さんの尊厳を守るためとおっしゃっていますが、天国の奥さんにもし話ができたとすれば、恐らく「殺さないで」と言ったのではないでしょうか? 愛する夫にそんな罪(殺人罪)を背負わせたくない、そう思うのではないですか?
それに奥さんは「人殺しの妻」ということになってしまいますよね?それは尊厳を守ることになるのでしょうか?
「正当な裁きを受けさせる」のではなく「復讐したい」と考えている時点ですでに、それは憎しみ、怒りの感情からなのです。
ミルズはジョンが思った通りの手順で大罪を完成させてくれました。
まずは憤怒を見せ、法を犯して殺人を行った罪で裁かれる、まさに完璧でした。
それを一番明確に表しているのが、撃たれる直前のジョンの表情です。
はっきりと強調されて大写しされたジョンの顔は、安らかで安堵に満ちていました。
自分自身が望んだとおりの方法で裁かれ(殺され)、また相手もそうなる(法で裁かれ、一生涯苦しみ続ける)であろうという確信を得て、まさに成し遂げたという歓びに、ある意味崇高にすら見える表情ではなかったですか?
対するミルズの表情は、崇高でも決意に満ちてもなく、ただただ無残で虚無でした。
彼は敗北し、すべてを失い、放心状態になっていました。一生涯苦しみ続けることは明白です。
サマセットは、この美しくもなんともない世界で一生懸命生きていた輝ける魂が、無残に踏みにじられるのを間近で見たことで、戦う矜持を取り戻したのだと、私は解釈しました。
そういう意味で、決してハッピーエンドではないが、希望はある、ということなのだろうなと。
憤怒が、怒鳴り叫ぶだけのものとは限りません。
妻子を無残に殺害されたとある事件の被害者男性は、TVで決してそのような表情は見せません。常に冷静で抑えた静かな声ですが、そこからは明確に怒りが伝わってきます。
しかしその方はあくまでも法で裁こうともう何年も戦い続けている。崇高とはこういう方のことを言うのだと思います。
久しぶりにコメント返信いたします。
まずご理解いただきたいのは、本文にあるとおり、当初は私も、おっしゃるような作品の見方をしていたのです。ですから、そのような考えを理解できていないわけではありません。しかし視点を変え、作品を読み込んでいくことで、さらに深いテーマを見出すことができたということです。
海月さんは実際の殺人事件を例にとられていますが、そのような事件と『セブン』のケースが異なるのは、犯人が死を望んでおり、そのこと自体が犯人の計画であるということです。
ミルズに「復讐したい」という気持ちがあるとおっしゃいますが、本当に復讐したいのであれば、サマセットが助言したように、撃たないという選択をするしかありません。ジョンの計画を潰し、存在意義を消すことができるからです。しかし、ミルズは引き金を引いてしまった。つまり、ジョンへの復讐や勝ち負けのこだわりを捨てたということです。
その選択が、人間くさく愚かで、表面的に無意味なことであることは確かです。しかしその反面、だからこそ、そこには自己犠牲的ともいえる崇高さが立ち上がってくるともいえます。
本文で言っているとおり、サマセットは犯人の冷たい厭世観にも共感しつつ、同時にミルズ家の暖かさにも共感しています。サマセットが最終的にどちらを選択するのか。これが、『セブン』の裏にある主題です。
そして彼は、ミルズがジョンを撃ったような、一見論理が破綻しているような「人間くささ」、「あたたかさ」に励まされ、現役続行を決めます。そしてそのような人の心にこそ、法の精神を超えた神が宿っている。そのように感じたのではないかとも思うわけです。
私のようなコメントにまで真摯な回答をいただき、ありがとうございます。
前回コメントを送信した後、画面に反映されなかったのでよくよく拝見しましたら、もう数年前の記事だと気付きまして、コメントを受け付けていないのかと勘違いし、onoderaさんの返信を見るのが遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
憎むべき相手が死ぬことを望んでいたとしても、生きることを望んでいたとしても、
被害者の「殺人者に償わせたい」という思いは変わらないのではないでしょうか。
>本当に復讐したいのであれば、サマセットが助言したように、撃たないという選択をするしかありません。ジョンの計画を潰し、存在意義を消すことができるからです。しかし、ミルズは引き金を引いてしまった。つまり、ジョンへの復讐や勝ち負けのこだわりを捨てたということです。
仰るとおり、勝ち負けなどどうでも良いと思ったことは確かであると思います。だからこそ撃ったのでしょうから。ただその目的が「ジョンへの復讐ではない」と言われる根拠がわからなかったのです。
「人間臭く、愚かである選択(殺人)」が「崇高な犠牲的精神」のもとに行われたというonoderaさんの「解釈」が、きっと私を含め、反するコメントをしている方がどうしても理解できない部分なのだろうと思います。
「この男をいますぐ殺さなければ、今よりさらに多くの被害者が出る」ことが”確実である”場合のみ、犠牲的精神が成り立つのではないかと考えます。
ジョン・ドゥは逃げようとしておらず、ミルズが撃たなければ確実に逮捕されていて、間違いなく法の元で罪人として裁かれていました。結果的に6人死なせた罪で死刑になったかもしれませんし、ならなくても間違いなく終身刑になるでしょうから、少なくとも一般市民に新たな犠牲が出ることも無いはずです。
法の元に見合った刑罰を受けたのなら殺された人達の無念は晴らせます、というかそれが法治国家においてあるべき姿であり、守るべきルールです。「奴は逮捕されて裁かれたよ、安心して眠ってくれ」と奥さんの墓前に報告もできたことでしょう。そういう話もたくさんあり、一般的ですよね。
撃たなければ、ジョンの計画を潰すことが出来るだけでなく、正式に逮捕して正当な方法で罪を償わせることができ、それによって妻や被害者の無念も晴らせるし、犠牲者ももう出ることはない。
つまり、ジョン・ドゥへ罰を与えることをミルズが肩代わりしなければならない「必要性」はあらゆる意味で全くなかったにも関わらず、彼は「法を犯してまで撃ち殺した」から、それは明らかに復讐であると(罪であると)認識した上で、ただ憎む相手への報復を自らの手で遂行しなければ気が済まなかったのだと思うのです。
これを、私はどうしても「犠牲的精神」とは思えなかったのでした。
ですが、onoderaさんのご考察は素晴らしいと思いますし、賛同されている方もたくさんいらっしゃるので、これはもう感じ方の問題でしかなく、恐らくいかに論じ合っても平行線なのではないかと思いました。もちろん平行線というのは異なる解釈が幾通りもあるという意味で、onoderaさんのひとりひとりに対する誠実な返信を読み、それでいいのだと、それこそが名作たる所以なのだと思うことができました。
最後にですが、onoderaさんがコメントされた「ジョンは7つの大罪を犯す者を殺すことが、神の意志に沿うものであると思っているのでしょう。」で気づいたのですが、ジョンは大罪を犯した者が「肉体的、あるいは精神的に苦しむこと」がその報いだと考えているとすれば(死んでいない犠牲者もいましたし、ミルズは自殺さえしなければ死なずにすみますので)、たったひとりだけ、その報いを受けていない人間がいました。
紛れもなく、ジョンそのひとです。前のコメントで「非常に安らかで満ち足りて逝った」と書きましたが、あの表情はどう考えても「苦しみ」ではなく「歓び」でした。即死ですから苦しみもありません。ジョン本人が気づいていないにせよ(地獄で気づいたかもしれませんが)、自分自身だけ裁きを免れたことは、彼にとっての大きな誤算であり、計画の完全遂行にたしかに瑕疵を残したのだと思いました。
乱文乱筆失礼いたしました。
どうもありがとうございました。
すみません、1点だけ訂正させてください。
誤)被害者の「殺人者に償わせたい」という思いは変わらないのではないでしょうか。
正)遺族の「殺人者に償わせたい」という思いは変わらないのではないでしょうか。
でした。失礼しました。
「作品を読み込んでいくことで、さらに深いテーマを見出すことができた」などと書いているが、べつに作品を読み込んでもいないし、深いテーマを発見してもいない。
”じつはラーメンとは、温かい冷やし中華のことだった。なぜならば” ・・・みたいな話。思い込んでいて、むしろそこからもう自由になれなくなっている妄想狂のよう。読んでいて、じつに不快。
ということです。
海月さんは実際の殺人事件を例にとられていますが、そのような事件と『セブン』のケースが異なるのは、犯人が死を望んでおり、そのこと自体が犯人の計画であるということです。
ミルズに「復讐したい」という気持ちがあるとおっしゃいますが、本当に復讐したいのであれば、サマセットが助言したように、撃たないという選択をするしかありません。ジョンの計画を潰し、存在意義を消すことができるからです。しかし、ミルズは引き金を引いてしまった。つまり、ジョンへの復讐や勝ち負けのこだわりを捨てたということです。
その選択が、人間くさく愚かで、表面的に無意味なことであることは確かです。しかしその反面、だからこそ、そこには自己犠牲的ともいえる崇高さが立ち上がってくる
以下、他のサイトからの引用。
ジョン・ドーを殺すミルズの表情は、失う物は何も無くなった男の覚悟と捨て鉢な「もうハラ立った! 7つの大罪の完成とか知ったことか!」というヤケクソ感だったの。
ヘミングウェイの引用は試写の後になってプロデューサー側からの要望で追加された事がオーディオコメンタリーで語られている。試写のバージョンはミルズがジョン・ドーを撃ち殺した瞬間に暗転しそのまま映画が終了する、救いも余韻も無く観客をやりきれない思いでいっぱいにしたまま突き放して終了するものだった。
プロデューサーからはダンボールの中身をミルズの飼っていた犬の死体だったという事にしろ! という指示さえあった。フィンチャーと脚本のウォーカーは断固それに反対し「ならばせめて、多少は気の晴れるような一言、二言を加えてくれ」という泣きに答えた。それがヘミングウェイの引用だった。
コメンタリーでフィンチャーはこうも言っています。
「ボクらはハッピーエンドの映画を作ったワケじゃない。」
*****
これで明解でしょう。
監督や脚本家、制作者サイドは、おもいっきり、考えられる限り最悪のエンディングを、指向していたのです。
すみませんが、おっしゃることの内容がよく伝わりません。
引用されているサイトの記事は、そもそも私の記事について書かれたもので、執筆者とはすでに討論済みです。新たに反論されるのであれば、ご自身のお考えでご発言いただければと思います。
また、同一のIPアドレスで連投されているようですが、コメントをされるときは、紛らわしいので、できるだけ同じ名前を使っていただくようお願いいたします。
言い負かすのがお好きなようですね。
自分の解釈以外認めたくないのならば、コメント出来ないようにしたらよいのでは?
他のコメントに対して粘着質で見ていて実に不快でした。
解釈は人それぞれ。否定する必要はないと思いますよ。
私はあなたの解釈を否定しているわけではなく、他の解釈を否定し、自分の解釈を正当化しようとしていることを問題視せています。
「解釈は人それぞれ」。それはそうだと思います。ただ、「私はこれが正しいと思う」と考え、議論することは建設的なことではないとお考えなのでしょうか。
私の記事に反論的なコメントを書いている方達も、ご自分の作品への考えや、思い入れがあって発言されているのだと思います。
そういう意見に対して、「そうですね、人それぞれですね」と終わらせてしまうのは、逆に失礼な態度のように感じられます。
非常に興味深い内容でした。
ただ、ハッピーエンドという言葉をタイトルに用いているのが、目を引くためでしかありえなく、非常に違和感があり、残念です。
これだけの文章を書く方がハッピーエンドという言葉が書かれている映画のラストの解釈に的確ではないこと、他の適切な言葉を見つけられないとは思えません。
「セブン」をバッドエンドと思いながらもしっくりこないため何度も観て、
WEBで関連記事を読んでるうちにここに辿りつきました。
ひととおりコメントを読んで感じたのは、やはりk.onodera様の解釈が
一番しっくりくるということです。
細部では他の方のコメントに同感する部分もあります。
特にミルズがジョンを射殺するシーンは、事前に少なからず「憤怒」の
感情もありましたし、そのうえで射殺したらジョンの勝ちと言えます。
いっぽうで射殺直前の妻とミルズの表情よって、ミルズの心情に何らかの
変化があったことも明白です。
このシーンと、ラストシーンのヘミングウェイの一節およびサマセットの
心情を作品全体としてどう捉えるかが、分岐点になるのかなと。
私にとって「なるほど!」と思わせるのは、k.onodera様の解釈の仕方でした。
とても素敵な解説ありがとうございました。
ただ残念ながら、もう「セブン」を観る気になれなくなってしまいました。笑
私はこの映画は大好きで何度も見ていますが、苦味が後を引く(良い意味で)バッドエンドとしか思っていませんでした。
そのため、ここのタイトルを見たときは「どこをどう解釈すりゃそうなるんだよ」としか思っておりませんでしたが、すべて読み終わると、あなたの深い考えに感心しました。
むろん全ての点に共感はできませんでしたが(執拗に全弾撃ち込んでいるようすから、ミルズはやはり憤怒の下に殺害したと思う、等)、細やかな考察に「なるほど!」と膝を打つ点も多々あり、とても楽しく読み、考えさせていただきました。
ありがとうございます。
私はk.onoderaさんの見方には賛同できないなぁ。
裏山さん。。。 の意見、うんうん頷いて見てました。
ミルズは迷いっぱなしだし、崇高になる瞬間なんてないし
崇高(を享受するの)はジョンだし、ミルズは憤怒だし
「ミルズの精神的な勝利」なんてものも存在しない。
ただ、傷痕が残っただけ
ただただ傷が付いただけ
勝敗どうこうじゃないし、誰も勝っても負けてもいない
相変わらず糞みたいな世の中で
でも最後に、サマセットが一縷の「戦う価値」を持ち直すだけ。
(それは、「魂の交流」など無いけれど、ミルズのおかげかな)
ただバッドな、傷が残るだけの映画なとろこが
私がセブンを好きな理由です。
ヘミングウェイの引用は一条の光ではありますけどね。
k.onoderaさんの意見に賛同するところは無いけれど
皆さんのコメント含め、とてもおもしろく読ませていただきました。
初投稿日から大分経ってますが、自分の感想をまさに今ブログに
書いてるところでこのページを見つけたので、コメント残します。
楽しかったです。ありがとう。
ハッピーエンドではない、、と思います。誰も幸せになってませんから。ただ、サマセットにとっては一歩を踏み出す終わり方ですね。だから、サマセットにとってややポジティブなエンディング。
サマセットがやる気を出した理由は、ミルズの射殺までのシークエンスが大きく関わっていることは完全に同意です。
しかし、私はミルズが崇高な精神でジョンを殺したとかどうかは大した問題ではないと思います。正直、表情や妻のインサートなどから完全に精神状態が読み取れるとは思えませんし、読み取ったと思ってもそれは解釈のひとつに過ぎないと思います。
作品の流れや汲み取るべき本質から見て、ミルズの心理がそうあるべきかもしれませんが、あまりにも射殺までのシークエンスをそれに完璧に紐付けるには苦しいと思います。
と、否定的な意見ばなり述べましたが、私はonodera様の作品の解釈には賛成なのです。
というのも、「ミルズの心理を、サマセットが崇高なものだと解釈した。」と解釈したからです。
ミルズの射殺までの変化もさることながら、サマセットの変化もこの時著しいものがあると思います。onodera様も述べていらっしゃいますしね。
ミルズが実際に憤怒の状態かどうかなんてどうでもいい気がします。サマセットがそれをどう見ていたかということが大事だと思います。ヘリの俯瞰撮影もそのメタファーだと思います。
結果、私個人の解釈となってしまいました。笑
興味深い記事とコメント欄を楽しく拝見させていただきました。
もしかしたらですけど、
主さんは幾度か観賞してゆくうちに自身のもつ
「性悪説的」な解釈に懐に落ちたのではないのかな?
と思ったりしました。(私の解釈が違ってたらすみません)
といいますのも、主さんは
>「人間は善である」とする哲学との対決であり、両者の神学論争なのである。
といった表現をされていたからです。
この物語は「性悪説」として展開されており、
主さんのいう「人間は善である」こと、もしくは「その対決」といったものが
いわゆる西洋における「神学論争」へと文脈が繋がってゆかないのです。
とはいっても、最後の「やっぱハッピーエンドだよ」という主さんの言葉。
この言葉にどこかホッとさせられるものがありましたし、
そうあってほしいと思いたい、とも思いましたからこの論自体を
決して否定するものではありません。
主さんのユニークな解釈が面白かったです。ありがとうございました。
度々すいません、画き間違えてましたので訂正です^^;
前コメ
>主さんは幾度か観賞してゆくうちに自身のもつ
>「性善説的」な解釈に懐に落ちたのではないのかな?
の書き間違えです。
主さんは最初こそ「性悪説的」な西洋の文脈で解釈したものの、
ご自身の中では結局「性善説」として懐に落ちたのではないか?
と思ってしまったんです。
この映画は明らかにバットエンドでしょうし、
主さんもまた、かつてはそう解釈されていらしたわけです。
私自身もバットエンドだとは思いますが、
それでも『やっぱりハッピーエンドだよ』という主さんの言葉に
どこかホッとさせられたのは、私自身が性善説者であったらからなのかもしれません。
この物語は、性悪説の西洋世界ではなおのこと重く心に突き刺さる作品なのではないか、
と感じた次第です。色々と考えさせられる魅力的な作品ですね。
小野田系さん是非返信をよろしくお願いします。
解説読ませていただきました。
私としては、小野田さんの解説はかなり納得できる点があり、
セブンの「新解釈」として、なかなかの説得力があると思いました。
ですが、、、
一つ、誰もつっこまない点があったので書き込みします。
小野田さんは、そもそも、ミルズがジョンドゥを撃った根拠に
「過去の犯罪現場での発砲」を根拠にあげていますよね。
ですが、この点で変な小野田さんの明らかな解釈違いがあると感じました。
「ミルズの思い出せなかったのは、犯人の名前ではありません。犯人に撃たれて死んでいった仲間の警察官の名前を思い出せなかったのです」
「自分と同じ現場にいて、殉職した警察の事を思い出せなかった自分に愕然としたし。」
「自分が殉職しても、同じように忘れられる悲しい事実にミルズが気づいたシーン」なのです。
なので、
犯人の名前を思い出せなかったわけではありません。
警察官は過去の犯人の名前を覚えていなくても、頭を抱えたりはしません。
この点に関して、是非返信をお願いします。
内容はとても納得できるところがありました。
コメントありがとうございます。
それについては数年前のコメントで言及しておりました。たしかに、思い出せなかったのは犯人の名前ではなく同僚の名前でした。申し訳ないです。
この機会に、本文の当該部分に訂正を追記しておきました。ご指摘ありがとうございます。
たしかに、権平さんの言われているような「自分も忘れ去られるのではないか」という悲しいシーンという意味合いもそこには含まれるのだと思います。しかし、ここではやはり同僚の死を気に病んでおり、彼のために祈りたいと思い名前を思い出そうとした場面だったのではないかと想像します。ですから、この点で解釈に変更はありません。
小野田様
さっそくの返信いただけて、とても嬉しいです。
まず、私はあなたの解釈を支持していますし。かなり説得力のある新解釈だと感じています。
頭から否定するようなコメントもありましたが、そんな事はありません。小野田さんの解釈はかなり納得できるものです。
内容の件は過去に訂正があったのですね、もし良かったら読み返してみたいので、書き込みの時期がわかったら教えてもらえると嬉しいです。
私が、小野田さんの新解釈を最も支持するのは
「実は作中の誰よりも、ミルズが信仰心が強い男であった」
という、解釈が面白いと思ったからです。いや、面白いというだけに留まらず、これはかなり正しいのではないかと思わせるシーンが多いのです。
ぱっと見で、一番キリスト教に興味がなく、知識もない男が
「実は、真のところでは最もキリストに近い人間であった」
という解釈は、かなり泣けるし、胸をうたれるのです。
解釈で唯一、言及の少なかったトレイシーについて、
もし良かったら、哲学、宗教的な観点から小野田さんの新解釈がありましたら教えてください。
トレイシーは陰の主役と言っても良いほどの、人物に思いますが、、
好きなシーンは
殉職警官を思い出すシーンと
「オーゴッド」の男と冷血の男の取り調べシーンと
「知らなかったのか?」のシーンです。
すいません、たびたび。。一応補足なのですが、
>ミルズは人間の善性を信じている。
>そして、神の子羊として、人間を守るために正義を成そうとする。
「人間の善性を信じる」こちらの表現もまた「性善説」的な解釈をされているような印象を受けたりもするのですが、
「(ミルズは)神の子羊として」というのもひっかかります。
仮にミルズが「神の子羊」であったとするならば
「ミルズがジョンドウを殺す」といった文脈にも
矛盾が生じてしまうのです。
主さんの解釈はいわゆる西洋的で性悪説的な解釈とは少しかけ離れている印象があるものの、性善説的な日本人の視点からみると、主さんの視点は興味深く感じられます。
それに関しては、
「神の子羊として」は確かに小野田さんの言い過ぎというか、口がフライングしてしまった感はありますが、
もっと簡単に単純に捉えても良いのではないでしょうか?
サマセットは一見「温厚で紳士なように見えて、人間社会に冷めて絶望している人間」
ミルズは一見「粗暴で単純、単細胞に見えて、人間や人間社会には絶望していない人間」
この対比で良いのではないでしょうか。
つまり、ぱっと見の観客の印象と
「2人はそれぞれ、核の部分では反対の内面を持った人間であり」
観客は、観ていくうちにそれに気づく。
そういう事で良いのでは?
いやぁ随分古い投稿でしたがコメント欄含め楽しく読ませていただきました!
(意見や考察は人それぞれで、だからこそ論じるのが楽しいと思うけど、納得できない賛同できないからといって不満をコメントに残す人結構いますね。なんだかな。)
●内容については公開以降何度も見て自分なりに色々考えたので割愛しますが、一点。
「エンドクレジットを上下逆に流した意味」についてはどう思いますか?
完結に言うと、私は「実はジョン・ドゥのように世を悲観しているサマセット」が最後に離脱ではなく闘いを続ける決心をしたといった心境の変化を表してるのかな、、、くらいにしか捉えられていません。(的外れかもしれませんが)
se7enについて沢山の場所で沢山の意見があるのを見てきましたが、あまりこのEDについて触れていることがなかったので、いい機会なので聞いてみたいと思いコメントさせていただきました。
とても古い記事でのコメントですので、回答が面倒なのを承知でお願いしてます。すいません笑。
手が空いていて気が向いたときにでも、よろしくお願いします。
映画を見て自由に発想することはいいことだと思いますが、反対意見を言われた際に揚げ足を取るようなことしか言わず、また矛盾点等を頑なに変えない姿勢は、見ていてとても不愉快でした。
古い記事へのコメントですが、現在は考え方が少しでも変わっていたらと願います。
そのように受け取られたのは非常に残念ですが、私なりに出来る限り誠実に受け答えをしているつもりです。
こちらでは、揚げ足とかそういうことではなく、記事の要旨を読み取っていただけてない反対意見に対しての指摘だと考えております。
本文非常に楽しく読ませていただきました。
作者の意図には関係なく、観客がどう捉えるか
映画だけにとどまらず…ブログについても同じなんですね。結局捉える側がどう捉えるか。正しいかそうでないかは、あまり意味を持たないのかもしれませんね。
正直、コメント欄での論争は揚げ足の取り合いにしか見えなかったです。すみません。一生懸命誠実に論争されてるのに。私はそう捉えてしまいました。
でもその論争に魅せられたのも事実ですが。笑
ちなみにやっぱり、私はバッドエンド派です。
こんにちは
>この「憤怒の顔」と「泣き顔」が、短いスパンにて交互に現れる。ちなみにこの葛藤のシーンは、ブラッド・ピット畢生の素晴らしい演技だと思う。
ここは本当に同感です。数発擊ち終えた後の、ほうけたような表情まで、難しい感情の変化を、よくぞここまで表せたものだと思いました。
ケヴィン・スペイシーの疑惑を契機にセブンを再見し、ラストの印象が以前と異なっていたので検索するうちにこのページにたどり着きました。
この映画はジョン・ドウが事件について詳細に語っていないうちに撃ち殺されてしまった(捜査も警官の失態ということで恐らく打ち切りになる?)ために色々な解釈の余地を残すというマジックが起きているわけで、その解釈のためにスクリーンの1コマ1コマを詳細にチェックしていくk.onoderaさんのやり方もありと思うし、スクリーン外の監督のインタビューや元の脚本を参考にしていくTTさんのようなやり方もありと思います。想像力を逞しくしてサマセット犯人説を言うことも可能です
私はどちらかというとk.onoderaさんに近い考え方をしました、それをそれをハッピーエンドと言うかは別にして。お目汚しになるかもしれませんがこれから書くことはあくまで私はこう見たということであって、k.onoderaさんの意見を否定したり他の方の意見に優劣をつけたりするものではありません。
私は「高慢」に注目しました。被害者のモデルは顔を切り裂かれ生を選ぶこともできたのに自殺しています。このことから考えるとジョン・ドウはミルズに殺されることに頓着していないと思われます。生かされ屈辱を感じ自殺するという手もあるわけです。キリスト教的な考え方で自殺が許されるのかを強引に考えるなら罰する側の彼が罰される側の彼を殺すということでいいのではないでしょうか。つまり「嫉妬」の成立条件はジョン・ドゥの手の中にあるわけでミルズが手を下そうが下すまいが関係ないことになります。
それではジョン・ドゥの狙いはなんだったのか。
ミルズの自殺だったのではないでしょうか。「高慢」のモデルが大切に考えてた顔に相当するものはミルズにとってはトレイシーという妻でありお腹の子供です。それを奪い挑発することによって「憤怒」はやがて絶望に変わりモデルのようにミルズは自殺する、これがジョン・ドゥの計画です。ミルズの自殺のシーンを妄想しながら七つの大罪を犯した者達の死が成立することを妄想しながら彼は死んだと思います。
しかしミルズは死を選ばなかった。
これからの人生を彼は余計な事件に首を突っ込んだために家族を失ってしまったという後悔や絶望と戦いながら生きていくことでしょう、そこに積極的な生を感じます。そう考えるとジョン・ドゥに拳銃の弾を全て撃ち込んだことも「拳銃による自殺はしない」=「生きる決意」と感じることができます。こうしたミルズの積極的な生を見ることにより警察官を辞めるという社会的な死を選ぼうとしていたサマセットが再び警察官として生きていく気力を取り戻す、k.onoderaさんの言うところのハッピーエンドということになるのかなと私は思いました。
ヘミングウェイの引用元は「誰がために鐘は鳴る」だと思いますが、家族を殺されながら任務を犠牲を遂行する主人公の苦悩が描かれておりました。クソみたいな世の中で報われるか分からない任務をこれからも遂行していくことに対するサマセットの決意が込められているのだと思います。
妻と殺害されて何がハッピーエンドなのか分からないです。犯人の手中にならなかった、自分の意思で殺した。だからハッピーエンドってのはちょっと奥行きがないというか、当てつけにしか聞こえません。
この一連殺人が世に広まることでの人々の意識が変わる、街が良い方向に向かってくる、希望を展望を込めてのハッピーエンドというのなら、まぁ分からんでもないですが…
どっちにしろこの作品をハッピーエンドという括りにするのは違うかなーって思います。まぁ映画なんでそれぞれの見方、感じ方で個人で納得すればいいんですけどねー。
【セブン】の最後がどうしてハッピーエンドだよw
どう考えてもバッドエンド以外の何物でもないじゃん
共感してる皆さん、そういう解釈もあるって納得するなよ。
話は単純、見たまんまでいい。
この映画の最後はミールさんのコメントの中にある
「ボクらはハッピーエンドの映画を作ったワケじゃない。」
こう製作した人間が言ってる、これが真実なのだからバッドエンドが正解。
無理やり話を複雑にしてハッピーエンドにする意味ってあるんすか。
いい加減、自分の解釈は間違いだったことを認めて真実から目をそらすのをやめましょう。
つい先日sevenを借りて観て、こんなにも悲しい終わりなの?!今までの陰惨な中に少しの希望を掴もうとするあの前向きなストーリーは何処に行ったの(怒)!!と衝撃を受け私の理解力が足りないのかと調べてここに辿り着きました。
ここでの記事と全てのコメントでの解釈は私には思いつかない、きっとこれからも思いつく事の無かった面白く興味深い解釈ばかりでした。
陰惨で悲惨なバッドエンドとばかり思っていましたが、違う視点から見たらハッピーエンドにもなり得る可能性を秘めている。
それはあくまで個人の思う所であり全ては製作者のみぞ知る所ですが……(笑)
ただ、新たな発見が出来るからこそこう言った場所は素晴らしい物だと思うのですが、頑なに貴方のその考えは間違っている!等のニュアンスをキツめに仰る方が多くてビックリしました。
そもそも一個人の解釈に正解も不正解も無いですし、私はこう思ったけど貴方はそう思ったのね!と思う人が少なくて結果的に面白い解釈も皮肉混じりで揚げ足取る為の文章になってしまっていたのがどの解釈も私には新鮮で素敵だった分残念でした。
解釈が非論理的で、幼稚な印象を受けます。
語られたことに自分の妄想を付け加えて、勝手に飛躍した解釈をしてしまう人特有の文章です。
当たり前の事ですが、ミルズが犯人を銃で撃ち抜く時の感情が憤怒だろうが別の感情だろうが関係ありません。
あまりにも的外れな論評ばかりなので一つ一つを反論しませんが、
この映画をハッピーエンドとか言ってる時点で批評なんかやめた方がいいです。
コメントであなたに批判的な意見がありますが、彼らが記事の要旨を理解していない訳ではないという事に気づいて下さい。
久しぶりにセブンを見返して、ここに来ました。
コメント欄が白熱しててみんな読んでしまいました。
主人さんが批判される一番の原因は、その結末や思想が間違いと言うより
〜なのです。と断定的だからかなと。
この映画の話を、あそこは〜だからだ!と断定出来る人は、監督と演者のみだと思うからです。
〜なのではないでしようか?ミルズは
崇高な気持ちになったのではないでしょうか?とあくまで推測と徹すれば、そこまで批判されないのかなと。
私は、バッドエンド派です。
ミルズがジョンを撃ったのは、例えようのない怒りからだと感じます。顔が一瞬変わったのは、怒りから狂気に変わった感じ?だと思いましたね。
最後の、戦う価値があるは、何となくですが、人生はサバイバルだ的な、絶望しかないけれど、人間らしくいたいと思ったって感じだと解釈しました。
とにかく、全体を通して絶望感で終わったやるせない映画です。
そもそもシリアルキラー映画にハッピーエンドはないと思います。現実にも。
でも、ミルズがじょんを撃ったことが
結果ジョンの脚本通りだったとしても
私はスッキリしましたし、多分みんなそうかなと思います。
それが唯一の救い?な映画です。
セブンは、現実のシリアルキラー犯罪と同じように、やりしれない絶望を描いてるのかなと。
あと一つ、これは本当に私の妄想なのですが、どうしても奥さんの殺された理由が謎で。
奥さんはいつも寝てるイメージでした。
そんな奥さんが、お出かけするシーンが
あったので、もしかして奥さんはあまりの寂しさに、誰かと一夜を過ごしてしまったのか?そしてその子を妊娠したのではないか?だから罪なのではないか?
その相手は、ジョンなのではないか?
だからジョンはミルズに「嫉妬」したのでは?
最後に、その事実をミルズに言わなかったのは、彼を怒らせる為。
そんな事を考えてしまうのでした。
これは本当に妄想です。
でも、おかしくないですか?奥さんの罪はなんだと思いますか?
と映画の解釈は広がるのでした。
最後に、主人さんの「ミルズは誰よりも宗教に熱心だった」というのは
鋭いと思いました。確かに、違和感がありました。
解釈なんて人それぞれでしょ。
幼稚だとか稚拙だとか言う必要なんて無い、面白ければ最後まで読めば良い、面白くなければタブを閉じれば良いんだよ。
俺は面白いからこの記事を読んだ、でも解釈は全然違う、が、批判も反論もする気は無い。
ただコメ欄は胸糞悪いから飛ばした、主も客もめんどくせーわ。
たった今セブンを見たのですが、この記事を見て、すごくなるほどとうなづくことができました。スッキリと色々なものが解明された気がします。映画は奥が深いなと改めて感じました。ありがとうございます。
今年、二度も目の届く範囲でテレビ放映がありました。
2年ほど前に放送があった時にもフラフラした挙句やはりこのサイトに辿り着いたものです。そして今もなおコメントが寄せられるのを見て、多くの人がこの記事を目にするだろうと予感しました。
この映画の解釈として視点が斬新であることは確かです。が、
これをハッピーエンドというのはやや常軌を逸していると感じざるを得ません。
アクセスを伸ばすためのタイトルとしてハッピーエンドというぐらいならわからなくもないですが、本文の末尾に改めて書いてしまうと人間性に恐怖を感じます。
殺害された者に罪があろうとなかろうと、その尊厳を守る名目で復讐を遂げるというのは、やはり単なる私刑にすぎません。ガイドラインがあっても正義は人それぞれです、正義を持ち出しても己の行為を肯定する言い訳にはなりません。
気持ちの整理がついていれば無実の者の無念を晴らすために罪を犯すことが許されると言っているように聞こえます。
それをハッピーエンドという人たちの犯罪予備性に危機感と嫌悪すら感じます。
と、これだけは書いて置きたいなと敢て今更ながらですが
主さんの価値観も変わっているかもしれませんが、コメントを残させていただきます。
映画とはエンターテイメントです。
どう楽しもうが原則は自由です。ですが、本質をと説いて現実の哲学的な部分に足を踏み入れる場合はもう少し配慮が必要でしょう。復讐なんてそれ自体が悲惨なものです。やり遂げて溜飲は下がっても釈然としないものであり、ハッピーと解釈するなんて不謹慎だと思います。
キルビルのようなテンションの映画なら絵空事を好き勝手言っても誤解を招かないでしょうが、真面目な雰囲気の映画を真面目に語るときは弁えるところを弁えるようにしないと要らぬ誤解を生みますよね。
願わくばこの後ろに怖いコメントが増えないことを祈ってやみません。