『ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル』 ブラッド・バードの天才は生かされたか

「ミッション:インポッシブル」シリーズは、トム・クルーズが自ら立ち上げたプロダクションの制作したシリーズだ。
主演俳優が主導の作品なので、もちろんトム・クルーズが前面に押し出されるような内容になるのは必然なのだが、彼がその題材に選んだのが、往年のTVドラマ「スパイ大作戦」映画化の企画だったのは、今思うと意外に感じるところだ。
何故なら、「スパイ大作戦」は、アメリカ諜報機関のスパイチームが、互いの得意分野を生かし、他国の要人やスパイに、複雑なギミックによる罠を仕掛けて国家機密や重要な情報を奪うという内容であるからだ。
つまりそこでは、特別な主演俳優を必要とせず、観客の意識も、どちらかといえばサスペンス的ギミックやガジェットの面白さの方に向いてしまうはずなのだ。

サスペンスの巨匠、ブライアン・デ・パルマを監督に招聘した最初に映画化された『ミッション・インポッシブル』は、TV版のチーム・リーダーであるジム・フェルプスをジョン・ヴォイトに演じさせ、トムはTV版のローラン・ハンド(変装の達人)を基にしたイーサン・ハントを演じるのだが、その冒頭では、おなじみの展開を堪能できる。
ロシア人の情報保持者を、ある部屋に見せかけたセットで目覚めさせ、そこに死体に見せかけた女を寝かせるなど、精神的に追い詰めて情報を吐かせる。
このような「部屋をとり換える」というギミックは、TVドラマのエピソード、「焼土作戦」などでも見られる常套手段である。

しかし、この脚本では、序盤のミッションでフェルプス率いるスパイチームが、イーサン・ハントを残し全滅してしまうという驚愕の展開を見せる。
これは、「スパイ大作戦」という題材を、トム・クルーズが自分の代表作とするために活かそうとした、脚本上の奇策なのだろう。
しかし、この一作目はとにかく素晴らしい。ブライアン・デ・パルマの、ヒッチコック演出を念頭に置いたマニアックな粘着的演出が、プログラム・ピクチャーの枠の中で非常な冴えを見せ、「スパイ大作戦」的要素の新解釈によるエンターテイメント…とりわけエモーションを組み込んだアクションや情報戦の見せ場など…のような価値のみにとどまらず、美術的にもクラシカルで端正な、大人のサスペンスとして機能している。
この雰囲気は、照明を抑えたことによる陰影のB級的雰囲気、もしくはアートフィルム的質感とともに、プラハの街並みの端正さ、また出演者のヴァネッサ・レッドグレイヴとエマニュエル・ベアールから発せられる、なんともヨーロッパっぽい香りなどによる功績も大きかったと思われる。

興味深いのは、ジョージ・ルーカスの特殊効果スタジオ、”I.L.M.”が参加していることで、変装マスクに加え、ラストの列車での、ラロ・シフリンの往年のテーマ曲をバックに流してまでの超絶アクション、レストラン爆破シーン、ラングレーのCIA本部に忍び込んでデータを盗み出すアクロバティックなミッションなどは、全体の雰囲気からすると、ちょっとやり過ぎに感じるくらいで、ここはおそらく派手好きのトム・クルーズの意向が大きく反映された結果であることが想像される。ブライアン・デ・パルマのセンスとは大きく異なる部分である。
ただ、デ・パルマのタッチを拡大解釈したつくりにもなっており、このアプローチが、本シリーズ全体の特色ともなっている。

さらに、冷戦の終結から来る、スパイ活動の前時代性にも斟酌しているところも面白い。
一作目はとにかく、結果的に映画を観て「面白い」というところを超えたような面白さを持ち得てしまい、スターありきのプログラム・ピクチャーとしてのクォリティを完全に逸脱した、アクション・スリラーのマイルストーンとなった。これは異論の無いところだと思う。

その後制作される二作目は、このクォリティを再現するだけでも至難と思われたのだが、デ・パルマが『ミッション・トゥ・マーズ』という、ミッション違いの別の作品に着手したことにより、制作陣は大きな路線変更を迫られることとなった。
ちなみに、デ・パルマの『ミッション・トゥ・マーズ』は興行的に大きく失敗しており、多くの批評家にも酷評されてしまった。

このような状況下で、香港出身のジョン・ウーを監督として起用し、全く別のガン・アクション映画にしてしまうという、さらなる奇策が採用されることによって、このジレンマを解消するようなアイディアを採用したことは、プロデューサーとしてのトム・クルーズ、共同プロデューサーのポーラ・ワグナーの手腕を評価すべきだろう。
前作のスコアが、オーケストラを使ったダニー・エルフマンのクラシカルなアプローチだったのに対し、ここではハンス・ジマー(他作品でジョン・ウーと組んでいたという理由もある)による、エレキサウンドに変更されたことは象徴的だ。
これが成功した要因の大部分は、ダンスのようなガン・アクション、またここでもセルフ・パロディを中心に構成するという、特異的なジョン・ウー監督の身上が、最大限に活かされるような脚本作りがされたことによると思われる。
また、カメラワークを見ても、ジョン・ウーが敬愛する石井輝男監督から由来しているだろう、ハイスピード・ズームなどの演出技法が多く採用されていることからも判るように、かなり細かいところまでの演出を任されている、つまり監督本位の、ちゃんと「作家の作品」としての芸術的存在価値がある、これを堅持する姿勢が、一作目と同様にしっかりとあることが最大の美点なのだ。

デヴィッドフィンチャー監督が降板し、後を受けたジョー・カーナハン監督とも制作途中で折り合いが悪くなり、企画が難航したことで、当初の企画から2年も遅れてしまった三作目は、また少し毛色が異なる。
当時、脚本家で、当時スパイもののTVドラマ「ALIAS(エイリアス)」を、演出家としても成功させていた、しかし劇場用長編の演出は未経験であるJ.J.エイブラムスに、脚本と演出の両面で起用という試みである。
これが意外に成功したのが、前述したようなトム・クルーズのアクション嗜好、通俗娯楽嗜好が、J.J.エイブラムスの能力と身上に、非常に合致していたものだったからだろう。
そのおかげもあって、一作目や二作目にあるような、多少不自然なアクションの付け加えが不要なほどに、エイブラムスの脚本には統一された美しさがあるし、「スパイ大作戦」リメイク作としてのツボも押さえたものになっている。
さらに、彼の演出の技量も、それなりに高い水準にあったということは非常に大きかっただろう。
しかし、この三作目が、前二作に比べて、ずいぶんと小粒なものに見えてしまうのは、エイブラムスの情熱が、とくに何かのフェティッシュや美学、またエキセントリックな部分に裏打ちされたものでなく、あまりに通俗一辺倒で没個性的なために、作家の作品としての存在価値が薄いからである。この特徴は、彼が後に監督した『スター・トレック』のリブート作や、『SUPER8 スーパーエイト』を観ても確認することが出来るはずだ。
つまり、J.J.エイブラムスの演出スタイルが、前二作の監督に比べると、まだまだ出来上がっていなかったということだろう。
とはいっても、例えば二作目からの空白期間にスマッシュ・ヒットしたスパイもの『ボーン・アイデンティティー』などと比べても、通俗娯楽としての面白さを前面に押し出して、作り手の情熱を感じることができるのは、「ミッション:インポッシブル」シリーズの方であり、そういった意味で、大きく下降・消滅するかに思われた本シリーズの延命を成功させたのは大きかった。
この成功から、J.J.エイブラムスは今回の『ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル』についても、原案に関わることになっている。
しかし、今回監督として招聘されたのは、さらに意外な、実写作品未経験のアニメーション監督、ブラッド・バードであった。

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ブラッド・バードは、以前『レミーのおいしいレストラン』評で書いたとおり、同作によって、アカデミー長編アニメ映画賞を受賞していると同時に、「ザ・シンプソンズ」の一部エピソード、『アイアン・ジャイアント』、『MR.インクレディブル』等、キャリアの全てにおいて傑作に関わるという、アメリカ映画史上稀に見る才能を持った巨匠である。
彼は、ただ面白おかしくアニメを作るだけではなく、そこに魂を込め、また苛刻な芸術として完成させてしまうことのできる、アメリカにおいても他をはるかに圧倒する稀有なクリエイターである。
とくに『レミーのおいしいレストラン』では、子供向けアニメーションにも関わらず、ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』を超えるような、「孤高の魂」を描いたことは印象に新しい。
その彼が今回、ビッグ・バジェットの実写作品を手がけるというだけでも一大事件だといえるだろう。
バードが招聘された経緯はよく分からないが、おそらくここで彼に期待されたのは、『MR.インクレディブル』でのスパイ描写の演出の確かさであろうことは、J.J.エイブラムスの起用理由を考えれば、想像に難くない。
実際、『MR.インクレディブル』で見られるガジェットの面白さを中心にした作劇が成されているように思われる。

『ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル』は、人相識別や複写機能がついたコンタクトレンズ、人間用エア・バッグ、部屋ナンバー偽装交換機器など、シリーズの中で最も多くの、込み入ったガジェットが登場する。
ここで面白いのは、公衆電話の指令音声装置、くっつきグローブ、変装マスク製造機、強力磁気発生装置などのガジェット(正式名称ではなく全て私による命名)がことごとく不調に陥り、結局は人的なパワーでなんとかしなくてはならなくなるところで、この「最後に頼りになる腕力」という描写が、観客にとって非常にチャーミングであり、またカタルシスを生み出している点で、この姿勢は本作において常に意識され、徹底されていることが分かる。

同時に、今回の最も大きな特徴は、漫画的なユーモアがとにかくいっぱいつまっているということだ。
いかにも分かりやすく、アニメーション作家による演出と意識させるのは、オープニング・クレジットの部分で、短いスパンによって、本作品のハイライトを、ダイジェスト的に変更されていくような舞台の変わり目のセンスは、非常に漫画的発想によって構成されていることが分かる。
またこれは1作目同様に、導火線を前景にIMF(インポッシブル・ミッション・フォース)メンバー達がフィーチャーされていくという表現で、オリジナル版に最も近い描写にもなっているといえるだろう。
例えば、ロシアの牢獄の床がボロボロと崩れ去ったり、インドのパーティのシークエンスでは、室内の噴水から飛び出る水流が、カメラワークと連動していたりという演出がアニメーション風であるし、また中盤の、ドバイを飲み込む砂嵐の煙幕が、大気をどんどん侵食して迫ってくるヴィジュアルは、おそらくグリーン・バックなどによる効果ではなく、そのままCGアニメーションを合成したものだと思われるように、ブラッド・バードのアニメーション監督としての資質を、脚本の面から裏打ちするようなものになっている。

クレムリン侵入ミッションは、1作目の変奏といえる内容で、緊張感とユーモアが同時に味わえる箇所だといえる。
ここで登場するのが、本作中最も狂ったガジェットである、「視点追尾型リアルタイム偽装映像スクリーン・システム」と、「ピチョン音発射装置」である。
IMFチームは、このピチョン音発射装置で見張りの男の意識を逸らしながら、スクリーン・システムを少しずつ男の前方へとスライドさせていき、偽の映像(いつもの廊下の風景)を見せながら、資料室へと侵入していくのであるが、ここはもう、ほぼコントとして楽しむ描写だろう。
こんな複雑すぎる仕掛けを使うよりも、麻酔銃などで見張りを昏倒させる方がはるかに楽であることは明白だし、またこのシステムを現場に放置することで、侵入の形跡が残ってしまい、おそらく機器の部品などから、IMF組織の関与がバレてしまう危険が発生してしまうはずだ。
だが、これが「スパイ大作戦」なのである。アメリカのテクノロジーと知性、腕力、ユーモアによって、大掛かりに敵をグリフトする(引っ掛ける)ことが本来のTVシリーズの特徴だったので、それを再現したという意味では、本シリーズ中、最も「スパイ大作戦」に近づいたものになっているといえるかもしれない。
ちなみに、「スパイ大作戦」では、都会の部屋に寝ているロシアのスパイを、荒野に作った同じ内装の部屋に、気づかれないように移動させ、「核戦争で全世界が焦土と化してしまった」ということを信じさせて情報を引き出すという荒業を採用したりしている。
現実のアメリカ政府は、拷問や薬物や脅迫などで政治犯から情報を得るらしいので、やはり実際の手法とは全く異なるのであるが…。

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ドバイの超高層ビルディング、ブルジュ・ハリーファでのミッションも、このように部屋をとり換える作戦がとられる。
敵に部屋を誤認させるためには、エレベーターの制御システムにアクセスする必要があるのだが、セキュリティが強固なため、ビル内のサーバー室に潜入する必要が出てくる。
IMFチームは、くっつきグローブを利用して、ビルの外側から窓をつたって、この高層にあるサーバー室に潜入することを思いつくのだが、そのシークエンスのスペクタクルが、『ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル』のアイコンとなっている。
まず、IMFの自室の窓ガラスをはずすときに、ハンディ・レーザー・カッターでガラスを切断していくのだが、ここでいったんレーザーがショートしてしまうのが伏線となっていて、この後サーバー室侵入の際に、トム・クルーズが落下してしまう原因となっているなど、芸の細かい演出が見られる。
「ブルーはグルー(くっつく)、レッドはデッド(死ぬ)」とサイモン・ペグによる説明があるが、このくっつきグローブのカラー・ライトの表示機能は、実用的な意味が薄いことから、「くっついている、くっついてない」という、一見分かりづらい情報を、観客へ認知させる仕組みなのだろう。そしてクライミングの最中、遠くの方から砂嵐が近づいていることを認識させ、時間差で前のめりの情報を見せることによって、説得力を持たせるようにするなど、クリエイターの細やかな工夫が、一見ありがちな通俗アクションに、場当たり的な要素を減らしていく効果を与え、迫真性を増しているのが素晴らしい。
おそらくこういうアイディアは、脚本や監督以外のスタッフからの意見も広く採用しているのかもしれない。とにかく、水も漏らさぬ神経で映画への価値付けを徹底させていることが分かる点だ。
振り子の運動を利用して空中ジャンプを見せるシーンは、角度が上過ぎたために、顔面から窓枠にぶつかってしまい、また落下しそうになってしまうなど、ドジ故に危機に陥る箇所も非常に多いのも楽しい。

また、くっつきグローブが不調を見せ、トム・クルーズが片方を投げ捨てるシーンの、観客へ与えるプレジャー感と、そこから不安な音楽とともに、カメラが引いていって、巨大なビルにへばりついているトム・クルーズがどんどん小さくなっていくカメラワークは、間違いなく本作のベストシーンだろう。
本作では、監督の意向により、多くのシーンがIMAXカメラで撮影されている。これにより、レンズの形状による歪みが少なく、細密に像を写しとることを可能とし、ビルディング・クライミングのスペクタクルのリアリティが倍加していることも見過ごせない。
ちなみに、核ミサイル発射コードを手に入れた敵を追っての追撃は、ビルという縦から、地面の横への移動に切り替わり、垂直の運動の変化が楽しめるのは興味深い点だ。これは、『千と千尋の神隠し』でも行われた、作品全体を通した、運動における構造上の仕組みと同一だからである。

立体駐車場でのアクションについては、言うまでも無く、『ルパン三世 カリオストロの城』や、『モンスターズ・インク』のようなアニメーション活劇そのものの実写化と言ってよいだろう。
立体駐車場をアトラクション風に使用し、トム・クルーズの肉体が、落下や軋轢によって少しずつ痛んでいき、少しずつその機能が奪われていくところは楽しく、まだまだこのような身体性が、我々観客を喜ばせる要素として、代表的なものであることを思い出させてくれる。
なかでも、乗用車に乗ったまま落下するトム・クルーズの顔の皮が、後方に引っ張られる描写は傑作だ。

だが、このような戯画的な実写活劇描写は、独創的なものであってしかるべきはずであるが、すでにスティーヴン・スピルバーグやジョージ・ルーカスによって、往年のTVドラマのアクション描写などの再構築としての意味において、様々に行われてきたものであり、さらにそれを表面的になぞった作品が乱造された結果、今日の観客が新鮮な感動を持って享受できるようなものではないことは確かではある。
確かにこのあたりの肉弾アクションは、前3作同様に、身体性を伴った面白さに溢れているが、発射された核ミサイルの核弾頭を無効化する装置を取り合うという光景のくだらなさは、さすがに実写で見ると、現実的な感覚から飛躍し過ぎているかもしれない。
ここでの問題は、発射された核ミサイルが、どの程度の時間でアメリカ本土に到達するかが、観客につかみにくいということだろう。
よって、インドとロシア領海、アメリカという、遠隔の距離感や、飛行の時間間隔は、ただ映画の編集者のさじ加減に委ねられているわけで、その点において、この作品の後半のミッションにおける迫真性は、前3作と比べても、かなりの部分で奪われているといえる。

さて、本編における演出的なクライマックスが、ラストの後日談的シークエンスにあるところは面白い。
デ・パルマの第1作の、最も注目すべき箇所は、トム・クルーズとジョン・ヴォイトの会話シーンだった。
これは、ジョン・ヴォイトが話している内容と、トム・クルーズが回想して、出来事を想像する映像の内容がズレていき、音声と映像の乖離が発生するという、複雑で実験的なシークエンスだった。
これが非常に機能し得ていたのは、頭脳明晰なスパイのマルチタスク能力の誇示にもなっていたからだろう。
今回もその能力をトム・クルーズに発揮させ、ジェレミー・レナーに顛末を説明しながら、ある登場人物の姿を追い求めるという、第1作のロマンティックな変奏をしたというのは、気が利いた演出だ。

ただ、そのような描写がシリーズを通して足枷になっているのも確かで、「ミッション:インポッシブル」シリーズは回を重ねるごとに、それをどんなにうまく細部まで作りこんだとしても、第1作の要素を変奏している部分が増えていき、今回はブラッド・バード自身の能力を堪能するというよりは、例えば才能のあるミュージシャンが、過去の名曲をミックスしているという印象が、シリーズ中最も強かった。
これは、J.J.エイブラムスが今作の原案に関わったということもあるだろうし、実写でのキャリアが無いことでの、バードの自主的コントロール不全という状況も大きかっただろう。
その意味においては、ブラッド・バード監督作の中では、野心的な部分が非常に希薄なものになってしまったのは残念であった。
しかし、この作品が興行的にも批評的にも成功したことで、バードの制作上での力が一層増すことになるという事実は、明るい材料であるだろう。

トム・クルーズ個人としては、プロデューサーとしての興行的成功に加え、自らの魅力やスター性がまだ健在であり、マネーメイクのできる俳優であるということを、映画界内外に知らしめたという意味において、これ以上の成功は無かっただろう。
この成功を受けてトム・クルーズは、2012年度のアカデミー賞において、映画人としての名誉である、作品賞のプレゼンターとして選出された。
このことは、『ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル』の、ハリウッドでの影響の大きさを物語っているだろう。

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追記(2012/03/08):
『ヒューゴの不思議な発明』のレビューを書いている過程で、引用されているハロルド・ロイドの『要心無用』が、ゴースト・プロトコルのビル登りにも引用されていることに気づきました。
これは、ロイド扮する田舎出の青年が、成り行き上、衆人環視の中でビルの壁のぼりをする傑作コメディで、このスペクタクル・シーンには無数の楽しいアイディアが投入され、もちろんギャグがいっぱいつまった作品として相当に笑える上に、高所恐怖スリラーとしても本当にハラハラできます。
このビル登りのシークエンス、未見の方はぜひご覧ください。

合成技術が十分でなかった20年代の作品なので、ハロルド・ロイドはこの作品において、後半の高層での階まではさすがに登ってはいないものの、かなりの高所で決死のアクションに挑んでいます。
このときすでにロイドは、映画撮影での爆破事故で、手の指を一部失った状態だったため、非常に苦労したであろうことが推察されます。
ちなみに、ジャッキー・チェンが『プロジェクトA』でぶら下がるシーンも、『要心無用』のオマージュであることも有名。

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