『映画 けいおん!』 ガイノイドが席巻する日本 そして「けいおん!論争」

「あなたが手にしている、そのゲーム機のようなものと、妙な手つきでさすっている仕草は気色わるいだけで、ぼくには何の感心も感動もありません。嫌悪感ならあります」
目の前でiPadを操作しているインタビュアーに、宮崎駿はこのように言い放った。
そして、「これはツールであり、資料を取り寄せ調べることも出来る」というインタビュアーに対し、こう付け加えた。
「あなたには調べられません。なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれに櫓を押し続ける男達への感心も共感もあなたは無縁だからです。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具としてiナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。」

この、いささか不当にも聞こえるハイテクツール批判に根ざした宮崎駿の考えというのは、インターネットによって得られていると思っている知識が、現実から直接与えられるあれこれに比べ、二次的、三次的のものとなってしまうことへの危機感が影響しているのだろう。
そもそも芸術の本分とは、いにしえのラスコーやショーヴェ洞窟の壁画からも分かるように、「現実を写し取る」というところから始まっている。
具象・抽象を問わずして、対象に対峙し本質をとらまえて表現するというのは、画家や彫刻家に留まらず、全ての表現者に共通する大テーマであるといえる。
もちろん、ここではiPad自体が悪者にされているというよりは、取材やものづくりの姿勢についての憤りでありサジェッションでもあったのだろう。
では、宮崎駿が自作の調査にあたり、どんなアプローチを行っているのか。
漏れ聞くところによると、例えば『千と千尋の神隠し』のために、彼はある家庭に泊り込み、そこの幼女と一緒に暮らしつつ何日間も観察し続けるという、怖ろしい方法で取材をしたという。
しかし、これが本当の芸術家の姿なのである。
対象の魅力というのは、表現しやすいもの、表現しにくいもの、美醜・清濁を併せ呑むものであり、それを一次情報から自身に取り込み、再定義しつつ作品に取り組むことで、真の表現に近づくのである。

またそれと同時期、押井守は現在のアニメーションの状況を、こういう言葉で批判している。
「僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない」
ここでも、二次、三次的な情報を享受し作品をつくる、内向きのクリエイターへの問題が指摘され、さらにそこで生まれたものが、オタクに消費されているものに過ぎないのだという。

専門学校でアニメーションを教えている、私の知人も、よく同じようなことを愚痴るのだが、生徒のほとんどがアニメやTVゲームにしか興味がないというのである。
彼が、イマジネーションやオリジナリティの大切さを散々説いたとしても、そのような生徒に自由課題作品を作らせると、変わりばえの無い、現行のオタクアニメ風の表現しか出てこないらしい。
作品に程度の差こそあれ、それ自体がすでに現実から距離を置いたものである以上、それのみを参考とした、いわゆるコピー作品は、受け手にとって情報価値が薄いものになっていく。
彼は、アニメーションの制作現場にいたときから、周囲のスタッフの多くに同様の違和感を感じていたのだという。
我々は、世の中にいわゆる「アニメオタク」と呼ばれる視聴者が増えたことで、そういった作品が多く作られていると思いがちだが、じつは事態はもっと進行していて、制作現場そのものがオタク志向のスタッフであふれている状況がだいぶ以前から始まっていたのだ。
しかし、何故現在の日本のアニメーション業界は、そのような状況になってしまっているのだろうか。

「けいおん!」は、軽音楽部に入部した平凡な女子高生達の日常を描いた物語である。
4コマ漫画を原作としたTVアニメーション版「けいおん!」は、いわゆる美少女アニメに慣れ親しんでいなければ、非常に奇異かつ、ある意味で新鮮に感じるだろう。
それは、TV版に準じた『映画 けいおん!』にも同様の世界観なのだが、これがどのような理由で構築されているか…、じつは必然的に、なるようになってしまった結果なのだが、この複雑な事情を説明するには、社会学的側面と、受け手側の心理に踏み込んで、かなりの字数を割かなくてはならない。

TV放映時のTBSプロデューサーや山田尚子監督の意向は、基本的には、男性オタクを中心とした美少女アニメであることを保持しつつも、同時に女子中高生にも受けいられるような作品作りを目指したということだという。
そう聞くと、なるほど、作中のアイキャッチやインテリアなど、また映画版のこまごまとしたオブジェクトなどは、女性監督ならではの、繊細な神経を感じる部分が散見される。
それでも、やはりそれは枝葉末節の意匠に過ぎず、一般的な女性視聴者や観客が、これを自分自身の現実とリンクするさせ、感情移入することはなかなか困難だろうと思う。

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「けいおん!」を見ていてまず気づくのは、ドラマに通常あるべき、力強い作劇や、テーマ性を打ち出すことを目指しているようには全く見えないということである。
これは、ストーリー性に乏しい4コマ漫画が原作だという特性上、当たり前といえば当たり前なのだが、原作同様、このようなアニメーションがファンを獲得し、商品として成立し得ている要因は何かというと、これが「美少女アニメ」の本質である「キャラ萌え」という概念である。
もともと、漫画やアニメは、テーマや物語、作劇や演出を見せることが主眼であるが、精神的に未熟な一部ファンは、そういったものを重視せず、キャラクターそのものにフェティッシュを感じる、または恋愛感情か、それに準ずるものを持ってしまうことがある。
「版権もの」と呼ばれる同人誌は、そういった病的なファンのさらに一部が、自発的に既存の作品からキャラクターだけを抜き出し、都合よく改変した物語の中に組み込むというもので、その多くはポルノであるということも指摘しておかなければならない。
著作権問題や心情的な問題から、このような事態に対し、原作者や出版社などが意義を唱えた例は少なくないが、現在それが、ある程度許容され黙認されているような、漫画・アニメーション業界の体質、とくに最近ではそれを見越した上での、ポルノとして完結する二次創作物を意識した上での、見本市であろうとする意思までもそこからは感じ取れる。
そのような中、込み入った物語など必要ない、作劇とはひたすらに、配置されたお気に入りのキャラクターを眺める上で、都合が良くて快適であればいいというスタンスが醸成されてきたように思える。
便宜的にはドラマとして作られていながらも、それが重視されないというのは、歪んだ作品の在り方であることは自明であるが、そういうものを支持するファンが、限定版ソフトやメディアミックス商品を購入するということも事実である。これは最近のロリータ・アイドルビジネスとほぼ同様の現象であるといえるだろう。

押井監督の『イノセンス』は、現在の「美少女アニメ」にみられる、クリエイターと観客(視聴者)における共犯関係を痛烈に批判している。
近未来に起こるガイノイド(女性のアンドロイド)の暴走殺傷事件の捜査が、『イノセンス』の中心的ストーリーであるが、この「ガイノイド」こそ、いわゆる美少女アニメのキャラクターを、アイロニカルに表現したものだといえよう。
捜査過程で、この暴走した少女タイプのガイノイドは、じつはセクサロイド(性的充足を目的としたガイノイド)であったということが分かるのだが、これは、美少女アニメの本質が、性欲とロリータ・コンプレックスに根ざした商品であり、それを表向きには隠蔽しつつ、公然と販売されていることを暗示しているだろう。

人間の「理想形」を模して作られ、経年劣化と、新タイプの登場によって使い捨てられる存在であるガイノイド達が、同一の規格により、みんな同じ顔に作られていることも、美少女アニメとの類似部分である。これはよく「ハンコ絵」と呼ばれる、作中の人物の描き分けがほぼ見られない状態を指していて、それは短いスパンでの流行り廃りによって、すぐに消費され消えていく。
このように、美少女アニメは、例外なく特殊な絵柄で描かれているが、それが普遍的表現の逸脱と、クリエイターが相互的に絵柄のコピーを繰り返した退廃的結果だということは明白だろう。
つまり、一次情報である人間そのものの模倣であるというよりも、模倣されたものの模倣、そのエッセンスだけが残存し、それは実際の人間への興味から距離を置いたものへと変貌していく。
これがいかに普遍的感覚からずれているかは、いわゆる「萌え絵」の過去を遡っていけば、誰にでも容易に理解が可能なことだと思う。

「けいおん!」のキャラクター・デザインは、そういう意味において、一種異様な位置にあるだろう。
他の美少女アニメーションと比較したときに感じる特徴的部分は、等身の低さ、脚・腕の太さに加えて、重心が外側(手や足)にあった従来のアニメーションとは逆に、それが中央に集まっているというところである。
また、全体的なシルエットを見れば不恰好に見えるような、手や足の小ささ、さらに胴の長さ、足先から膝までの距離の短さも非常に特徴的で、プロポーションをあえて鈍重に、また肉感的な強調を加えることで、生々しい実在感を与えることに寄与しているように見える。
もうひとつは、監督の意向により、女子中高生の視聴者にも受けいられるように、女性が嫌悪するような露骨な性的強調を意図して避けているという点だ。
これが非常に難しいバランスで、性的イメージを下品にならない一歩手前でとどめ、さらにその中で最大限に性的イメージを発散させなければならない。
これら要件を満たした絶妙のキャラクター・デザインは、そういった意味では、相当に試行錯誤の跡が見えるものである。

また、「けいおん!」の世界観で見逃してはならないのが、キャラクターはまっさらな新品でなければならぬという、「処女信仰」の存在である。
女子校が舞台とはいえ、女子高生を主人公にして日常を丹念に描こうとする、現実的な通常の群像劇であれば、彼女達登場人物の関心事に恋愛は欠かせないはずだ。たとえ、仮に恋愛がテーマと関係ないとしても。
しかし、「けいおん!」にはそのような描写がほとんど存在せず、珍しく恋愛的な雰囲気を持ったシーン(自宅のポストに投かんされた作詞のメモを誰かのラブレターと勘違いする)などがあったとしても、それは対象不在のものとして決着してしまい、ここでは注意深く「彼女達にとっての恋愛対象になり得る異性」が排除されている事実が確認できる。
美少女キャラクター達は、まるでロボトミー手術を受けたかのように「幼児化」され、性的な欲求が消え去っているように見える。
それは、キャラクター・ビジネスを展開する上で、その商品価値である「処女性」を揺るがしかねないあれこれを、外側からも内側からも徹底防衛するという確固たる意思からきているだろう。
つまりこれは、ドラマのリアリティを犠牲にしてまでも、キャラクター・ビジネスを優先させているという証左であり、「けいおん!」がドラマ軽視、作品軽視の態度を貫いた「商品」であるという事実を我々に意識させる部分だろう。

興味深いのは、その処女防衛の徹底振りである。
『映画 けいおん!』では、ロンドンが舞台の一部になっているため、さすがに女子校の中のような、女性ばかりの閉鎖空間を描くことが非常に困難であった。
こういう場合どうするかというと、男性として魅力のあるだろうキャラクターをフレーム・アウトして、去勢されたような男、描きこみに気合を入れないモブ的な存在として描くというメソッドがとられている。また、そういうモブのキャラクターの絵が壊滅的に下手なのは、京都アニメーションに限ったことでなく、現在の日本の多くのアニメーションに共通の問題でもある。
しかし、通常、魅力的な男性キャラクターを登場させたところで、恋愛さえ描かなければいいはずで、例えれば、兵士が侵攻して来ても水際で抵抗すれば良いし、そもそも兵士に戦争をさせなければ良いだけの話だろう。
だがここでは、侵攻するポテンシャルのある兵士自体が、世界のどこにも存在しないのである。このことにおいて、作り手は受け手に対し、現時点のみならず、未来まで示唆した恒久平和を約束しているということが分かる。

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そのような病的ともいえる処女信仰の源泉は、一般的なアニメオタクの、女性との交際経験の貧弱さに由来していることは、指摘するまでもないことなのかもしれない。
自分のお気に入りのキャラクターが、たとえ設定としてだけでも、すでに何者かに蹂躙されている、穢されているという意識は、嫉妬と憎悪を呼び、さらにそれが自分にとっての「裏切り行為」であるとさえ感じる視聴者が存在するのである。
実際、美少女漫画「かんなぎ」では、作中にてヒロインの非処女疑惑が持たれるような描写をしてしまったために、編集部に抗議が殺到し、結果として連載休止の憂き目に遭ったという。
そのテツを踏まぬように、京都アニメーションの制作現場では、そのような幼児的欲望とコンプレックスに対し、徹底的にリスク・ヘッジしてゆく。
それは、集合的な経験の中で醸成された「美少女アニメ」の作法であり、かつてハリウッドで整備されたヘイズ・コードのような縛りを、独自に設定するという試みでもある。処女性を揺るがすタブーを禁ずるために独自進化させたそれは、「処女防衛」コードと呼べるものだろう。

よって、「けいおん!」が恋愛を描いていないというのは適当ではない。そもそもが恋愛を描くこと自体、禁じられている、もとい禁じることを自らに課しているのである。
そして、恋愛をテーマにしていないからそれを描いていないのでもなく、恋愛や性的な部分を非常に意識しなければ価値を保てないからこそ、それを本来の意味において描くことができないでいるのである。
劇中で何度も見られる、女子高生の太ももの強調シーンに代表される性的イメージは、物語の何かに回収されることはなく、また我々の前に「自然に投げ出されている」ような体(てい)で演出されている、この微妙で巧妙な欺瞞から発生している距離感覚こそが「けいおん!」全体に流れている、最も特異な点なのである。

しかし、ここまで必死にアニメーションの中を無菌状態に仕上げたものの、映画公開前にあるスキャンダルが発生する。主要登場人物を演じる声優の一人が、ある男性と交際しているということが発覚してしまったのだ。
さすがにアニメーションの設定が、現実まで防衛することは不可能だったらしく、このことは一部ファンの間で盛んに話題とされ、批判にさらされた結果、声優自身がブログにて、事態の説明と今後の活動について声明を発表する事態となったのである。
だが、彼女がこのようなプライヴェートな事情を釈明する必要がどこにあるのだろうか。彼女は仕事として、表現者として、ただ与えられた役を演じたに過ぎないはずだ。
「けいおん!」の一部ファンは、アニメーションのキャラクターに処女性を求めるのに満足せず、それを演じる声優にまで処女性を強要し始めたのである。ここまでくると、ファンというよりも、もはや一種の狂人の集団と思えてくる程である。
しかし、そのファンを切り捨てることもできないのが現実だ。なぜなら彼女にとっても、自分を熱狂的に支持してくれるコアなファンが、声優活動の生命線(ライフライン)となっているからだ。
『イノセンス』におけるガイノイド事件の謎の真相部分は(ここで明言することは避けるが)、その部分が、声優が美少女キャラクターに声の吹き替えを行うことで、人間らしさを獲得し、また声優自体が独立した商品足りうることを示唆していて、『イノセンス』はそのような意味でも、非常に優れた風刺作品となっている。

ファンの暴走する欲望の異常性は、このような処女性のみにとどまらない。
イスラム教では、敬虔な男性信者が死後、天国に到達すると、そこで72人の処女と生活ができるという。
そのようないわゆる「ハーレム」を所有することは、万人の欲望の代表的なものであるだろう。
前述したような作り手・受け手達の、美少女が見たい、美少女を描きたいという欲望の先にあるのが、物語性の排除であり、また根源的欲望である「ハーレム」形成願望に行き着くのは自然であるのかもしれない。
美少女アニメのジャンル下に、主人公を中心に美少女を大勢配置するというジャンルがあり、しばしばそれは「ハーレムもの」と呼ばれることがある。PCゲーム業界でも、このような美少女アニメーション風のキャラクター達をハーレム化したポルノ作品が一大産業となっている。
その多くは、存在感の無い、冴えない男の主人公の周りに、文字通り色とりどりの女性キャラクターを配置していくというつくりになっている。これは、「この主人公に、あなた自身が自分を投影してください」というものである。
そういうところだけ見ていると、ほとんどこういった類の作品は、性を売り物にした風俗店と本質は変わらないように思えてくる。
しかし最近になって、それがさらに進化したように思える。それが、京都アニメーションの「らき☆すた」や「けいおん!」などの、男の主人公が存在しない作品である。私はそれでも、これを「ハーレムもの」の延長線上にあるものと考えている。
もともとハーレムの中心に、突出した能力や性格を持った男のキャラクターを居座らせるような設定は、ファンは好んでいない。そこに自分を投影することが難しく、また自分自身の成長や価値を判断されたくないと思っているからだ。
ではそこに生まれている障害を排除した究極的な状態とはどんなものだろうか。
それが、主人公の「透明人間化」である。
つまり視聴者は、女子高というハーレムの女性達に認識すらされない「透明な存在」として、その中心に居座るということになるのだ。
自然なドラマや、細やかな人間のドラマでは決してない、これが「けいおん!」の、極めて病的といえる奇妙な構造の、もうひとつの正体である。
彼女達は恋愛感情をほとんど持たされず(ロボトミー化され)、透明なのぞき魔の前で、無防備に日常を送ることで、無意識的にハーレムの中心たる王へ奉仕させられているのだ。
そこでは、かつてのハーレムものに多少なりともあった、コミニュケーションの軋轢や面倒くさささえもが全て排除されているところが特徴的だろう。

このような作品が支持される背景には、若い世代のコミュニケーション不全の問題があるのだろうと思う。
可能な限り苦痛や苦労を取り除いたうえで、最大限に良い思いをひたすら味わいたいという願いが、そういうものを欲しているということである。
しかし、それが全く悪いものであるとまでは言えないとも思えるのは、日本の若い世代が現在被っている社会問題に、格差や就職難、結婚難などが横たわっていることが影響しているからだ。
アニメーションが商品であるならば、せめて彼らが、そこでだけでも肯定され、苦労もなく安寧にロボトミー化された女子高生奴隷達を眺め過ごせる場所があっても良いのではないかとも思う。
だが、やはりそれはあくまで欲望を満たすための商品であって、作家の作品というよりは、商品としての評価しかできないというのも事実だ。

前述したように、「けいおん!」においては、それでも山田尚子監督が、美少女アニメの支配するコードを守りつつ、なんとか閉鎖的なオタク向けの商品にならないよう、腐心したのではないかと見られる部分が多々あったし、映画版ではそれが一歩進められ、女の子特有のかしましい、また相互の関係性のなかでの微妙な空気を、卒業旅行というイベントのワクワク感とともに、TV版よりも注力し描けているようにも思える。
例えば、飛行機に初めて乗ってはしゃいだり、ビーフ・チキンの選択であたふたしたり、空港の動く歩道で遊んだりなど、山田監督の中にまだ残っているだろう、素の女子高生としてのリアクションが垣間見えるところは素晴らしいと思う。
しかし、そもそもがオタクの妄想の具現化であり、欲望のはけ口の対象たるキャラクター偏重のテーマの無いドラマの上から、女子高生のリアルな感情を、本質的な意味においてスポイルした状態でイキイキとさせようとする、また女の子が好きな要素を散りばめ、どんなに糊塗しようとも、それが作品全体の価値を急激に上げられる訳はない。
逆に、女性を蔑視するような世界観を、女性自身の側から裏づけを与えているようなもので、結果的に、一層救い難い気持ちの悪いものになっている。
それはもう、京都アニメーションという土壌にしてからが、そのような価値観の上で作品作りをする前提で成り立っているので、仕方の無いところなのだが、この価値観をどこかで否定する部分が無い限り、「けいおん!」から、真の意味において作家性や芸術性が生まれることはないだろう。
女の子の日常を丹念に描けば描くほど、感情にリアルさを持たせようと努力を重ねたとしても、それはより精巧なガイノイドを作るという意味に全て還元されてしまうからである。
つまり、ここで描かれる心理描写やあれこれの要素を評価することは、女子高生をテーマとして飾り付けられた風俗店の中で、「これは本物の女子高生らしくていいぞ!」と評価することと同義なのである。
なので、ここで描かれている魅力的な、ふたつの部屋を堂々巡りする運動も、スッポンを仰角で見つめる水槽のシーンも、面白い角度で規定された構図の卓球シークエンスのモンタージュも、キャラクター達の仕草を滑らかにするべく描き溜められた動画枚数も、作画・動画スタッフ達の個別の冴えを評価することしかできないため、作品全体としては、本質的な意味での価値に寄与できているものではない。

「けいおん!」は、そもそも作品の存在自体に欺瞞があるように思える。
軽音楽(ここではロック・バンド)に初めて挑戦し、音楽の楽しさを知っていくというのは、表面的には学園部活動ものとしての常道のストーリーのように思われるが、主人公の唯は仕方が無いにしても、ロックを愛し、武道館ライブを画策している部長・律までも、音楽に詳しいような様子が全く無い。
一応、ミュージシャンの固有名詞や楽器の専門用語は登場するものの、それが血肉をともなっていず、セリフのなかで即物的に消費されていくだけのところを見ていても、原作者を含め、アニメーションの演出・脚本に、ロック自体への熱意がまるでないことは察知できるし、それがせっかくの題材をスポイルしているばかりか、その上でプロ並みの演奏をして、ロンドンの飲食店で絶賛されるなどの結果を出しているところなどは、本気で音楽に取り組んでいる人から見ると、腹立たしく感じる部分だろう。
ロック・ミュージックが、平凡な女子高生に、新しい豊かな世界への扉を開くきっかけとなってこそ、軽音楽部という舞台を用意することの答えとなるべきではないのか。
よって、克服すべき何ものかが希薄で(あっても、体調の悪化と、人間関係のささやかな軋轢くらい)、彼女達にとって思い出の1ページでしかない、このロック・ミュージックとの出会いというのは、ただアニメ外のCD販売や声優のライブイベントへの拡張性としての意味ぐらいしか持たされていない。
結局、どんな部活動に挑戦したとしても、彼女達は同じような姿勢で臨むに違いなく、いつも部員がお茶を飲んでお菓子を食べて、「放課後ティータイム」と言っているくらいなので、放課後ティータイム部(茶道部と言うと茶道部に失礼なので)として、ひたすらだべっていた方が、まだ作品としての存在価値は担保されていたのではと思う。
制作者自体が愛していないものをジャンルとして選んでしまっていて、後追いの貧弱な知識だけで対応した作品に、内容やメッセージなど、そもそも期待すべくも無いだろう。

現在の日本のアニメーションは、前述したような、キャラクター偏重主義とアイドルビジネス、そこから生まれるドラマ軽視の姿勢、また受け手側の身勝手な欲望を肯定するというような作品が多く作られている状況から、普遍性を喪失し、またスタッフのさらなるドメスティック化から、危機に瀕していると思われる。
では、こういう状況下で、どのような作品作りをすればよいのだろうか。
そもそもアニメーションは、現実と切り離された世界を描くときに効果的なものである。
しかし、それが意味を持ったり、人の心を感動させるような表現を成し得るというのは、不特定多数の観客が持っている普遍的問題や感情、また世界の真実を垣間見せる瞬間にあるだろう。
つまりそれは、現実の一次情報を描きとろうという信念であり、そのような視点を用いて、どこかに現実の自然や社会性とのリンクを見出して表現しようとする覚悟である。

アニメーション監督庵野秀明は、「新世紀エヴァンゲリオン」の旧劇場版において、自らアニメ表現を否定し、自分の存在価値を消し去ることで、内面的な意味においてファンと一緒に心中を果たした。これは、監督自身が自分の仕事をいったん外側から見つめ、真摯に現実に向き合った結果であり、だからこそ、そこに現実への風穴を開けることに成功している。
押井守監督は『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』において、また幾原邦彦監督は『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』において、アニメ世界における約束事や縛りを逆手にとって、その醜悪な虚構世界からいかに脱走を図るかをメインテーマとしている。
これら監督に共通してある信念は、オタクの消費物たる商品を、作家の作品として、、また芸術として生まれ変わらせようという熱意なのである。
そもそも、欲望のはけ口たる往年の「にっかつロマンポルノ」にも普遍的傑作はいくつもあって、それを傑作たらしめていた箇所は、どれもポルノとしての存在価値から大きく逸脱した部分にあったはずなのだ。
一般的な作品とは違い、閉塞したジャンルの作品は、このようにそのジャンルの価値自体を否定するような性質を備えるしか、商品としての在り様以上のものに到達することが敵わないのである。
これはもう、制作者による志が違うのだと言うほか無い。

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しかし、『映画 けいおん!』にも、そのような作家主義的な演出が、全くすべて効力を失っているというわけではない。
私がこの作品において最も評価できるのは、実写を利用したロンドンの夜明け、またCGを組み合わせた夜景のシーンである。
これらは、監督、もしくはロケハンがおそらく実際に現地取材で撮ったものを使用していると思われるが、これは純粋に、美術大出身の監督の感性が繊細に出ている箇所だと思われる。
ここだけは、本当にロンドンで彼女自身が感動した光景を、美少女アニメのコードとは全く関係無く、のびのびと表現できていて、この箇所からは、私にも普遍的感動を感じとることができた。

『映画 けいおん!』について、映画研究者の大久保清朗氏とTwitter上で討論しました。
発端になったのは、私が大久保氏のブログエントリー、「少女たちの小さな秘密――山田尚子監督『映画 けいおん!』」について、私が批判をした発言からです。
一連の討論の内容はトゥギャッターの『「けいおん!」論争』のページでまとめてあります。
そして、このブログエントリーで語った私の意見が、大久保氏の評を批判する要旨を説明するものになっていると思います。

私が述べたような、美少女アニメの持つ大きな問題に触れず、それでいて細かな表現を抜き出して高く評価をするという、専門家による批評は、山田尚子監督にとっても、日本のアニメーションの将来にとっても無責任なものだと感じています。

■追記(2012/02/04)
また、大久保清朗氏は後日(ブログエントリー発表から2ヵ月後)、Twitterにて「昨年10月、まだ『映画けいおん!』製作中の山田尚子監督に『キネマ旬報』の特集のためにインタビューをしたとき、山田さんは最後に「とにかく、『けいおん!』であることが大事なんです」とおっしゃっていた。それを聞いたとき、映画を見る前から、この映画に味方しようと決めたのであった。」と発言されています。
作品を賞賛する批評を発表した2ヵ月後のこの発言は、氏の研究者、批評家としての倫理観を疑わざるを得ない言動であることを、ここで指摘します。


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