『さや侍』 松本人志の独善的ナルシシズム

早朝のごく短い時間帯に、「働くおっさん人形」、そして続編の「働くおっさん劇場」なるバラエティ番組が放送されていた。
これは、素人のおっさんをメインにすえて、彼らにインタビューしたり、息止め競争やボウリングなど、様々なことに挑戦させ、そこで展開される不調法なリアクションを松本人志が笑い倒すという、実験的かつ悪趣味なものであった。
番組では複数のおっさんが紹介されたが、その中でもはじめに紹介され、一番露出が多かったのが、今回『さや侍』の主演にも抜擢された野見隆明、通称「野見さん」だった。
野見さんは、番組中での松本のインタビューにより、アール・グラージュという、怪しげなラッセンのイルカ絵などを売っているような会社で販売の職についているということが分かるのだが、「かなりの舌足らずで、不明瞭なことばかり言う彼に、果たして絵画販売の仕事など可能なのだろうか、ああいうのはおねえさんやイケメンが言葉巧みに、純朴な青年やマダムに高額ローンを組ませるものなのではないだろうか…」と視聴者が思っていると、のちに同番組の中で携帯電話の通話料金を滞納していることが暴露され、絵画販売の職を辞してしまったことが周知されるなど、度重なる失策で、結果的に視聴者の疑問を解消してくれるようなパーソナリティを持つ、いわば不器用な人、駄目な人だった。
このことに限らず、野見さんを含めたおっさん達は、よく自分を取り繕うとし、自分の境遇について、話をおおげさに言ったり、ときにはすぐバレるような嘘をついては、松本にしつこく追求されていた。
何故このような不恰好なことになってしまうのかというと、「おっさんは、見栄を張ってしまう」ものなのだからなのだろう。
日本の社会は年功序列システムがあるため、社会的地位のないおっさんは、あらためて自分の境遇についてスポットライトが当てられると、「尊敬される対象になりえていない自分」が衆目にさらされるということに非常に恐怖し動揺し、そこで自分を大きく見せようとする。それは自己防衛本能からくる、社会的「鎧」だということがいえよう。
そして松本は、その鎧が剥ぎ取られる瞬間を、笑いに転化させようとする。これは、もともと松本自身がコントで演じていた、うさんくさいオヤジの本物版というか、ドキュメンタリー版に近いアプローチである。
またそれはある種の社会風刺であり、人間の研究になっているようにも思える。
松本は「働くおっさん人形」ソフトをリリースさせるときに、そのパッケージをアダルト・ヴィデオ風の扇情的な文句を表示させるという試みをしている。
つまり自覚的に、「おっさんの鎧を剥ぎ取り、羞恥をさらけ出させる」ということを、「AV女優の衣服を剥ぎ取り、羞恥をさらけ出させる」ことと同義のものとしているのである。
松本としてはこのような実験が成功したことだけでも十分だったのかもしれないが、おそらく彼にも意外だったのではないかと思うのだが、そのような、羞恥を人前にさらけ出すということが、番組が進行していくとともに、あたかも、一種、神性を帯び始めてくるのである。

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マグダラのマリアの例があるように、もともと、娼婦と聖女の類似性というのは、以前から世界的に広く語られてきた大テーマである。
中世の敬虔な修道女の苦行の中には、例えば自発的に舌先で教会内の掃除をしたり、患者の腐った傷口から垂れる膿(うみ)に吸い付いたりするようなものもあった。
そこに、ある種の抑圧された性的興奮があるのではと疑うのは自然なことだろう。
聖なるものは性と結びつき、またそれは羞恥からくる興奮と結びつく。
そして逆に、娼婦の仕事のなかにも、一種の「聖なるものへの献身」が見られるのである。
そのような「聖なるもの」は、鎧が剥ぎ取られていき、恥をさらすおっさんの裸体に、少しずつ帯びていき、先述したふたつの番組が最終回を迎える頃には、彼らが、何らかの試練を乗り越えた聖者の姿にも見え出すのである。
偶然ではあっても、ある意味で感動的な結末に至った「働くおっさん」シリーズは、閉塞したTV業界の番組の中にあって、無視できない功績を残したと言ってもいいだろう。

さて上記のことを踏まえると、「働くおっさん」に比べ、本人に映画撮影をしているという旨を可能な限り隠したことでドキュメンタリー効果を維持しようと勤めた努力は見えるものの、格段にソフトで穏当に描かれる野見さん、また脚本も感情移入を狙ったオーソドックスな劇映画としての映画に落ち着いてしまった、『さや侍』への肩透かし感は非常に大きい。
もちろんそこにはバラエティで描かれたような悪趣味さ、そしてその裏に浮かび上がってくる神性のようなものなど何もなかった。

脚本は、監督である松本人志を含めた、松本と親交の深い放送作家や、本作にも出演しているコメディアンの板尾創路など、5人がかりで作られたものである。
にも関わらず、この脚本が相当に低レベルなことに、まずは驚かされる。
言わなければならないのは、脱藩した侍、「野見」が、追っ手に追われているという設定の間違いについてである。
確かに江戸時代、脱藩した科(とが)により、刺客を差し向けられ殺されるという話はあって、そのようなエピソードは、映画でもよく題材にされた。
しかし、あくまで脱藩者を捕らえようとするのは、脱藩された藩のみであるはずだし、それはあくまで他に知られないように、秘密裏に行われるはずだ。
何故なら、脱藩者を殺そうとするのは藩の内部事情を外部に漏らされることを防ぐためであり、「脱藩されること」自体が、藩のメンツに泥を塗られることだからである。
だが、野見を捕らえたのは「多幸藩」なる他藩の大勢の捕方であり、裁きもその多幸藩で行われることになる。
多幸藩は、どういう目的で野見を捕まえるのか、何故身柄を元の藩に引き渡さないのか、そして何のために死罪にするのか、あまりに謎にまみれた展開である。
加えて、各藩で指名手配にされたり、賞金首としてハンター達に追われたり、さらにわけが分からないことになっている。野見を殺したら誰が賞金を払ってくれるというのだろうか。

これは瑣末なことではない。何故、追われるか。誰に追われるのか。ストーリーの基本設定であり、各登場人物の行動を説明するための、一番重要な部分だ。
例えるなら、日本のヤクザが組を抜け出した罪で、シチリア島でマフィアに殺されるようなものである。
脚本を手がけた5人ともが、おそらく江戸時代の知識と、西部劇の知識と、松本が好きでコントとしてパロディ化したような「子連れ狼」と、現代の日本の法律がごっちゃになっているのだろう、このような不自然な設定に気づきもしない無知さと、そのあたりのことを調べようともしない、観客を馬鹿にした態度には驚かされる。
ちなみに、おそらくアイディアの素地にしたであろう、その小池一夫原作の劇画「子連れ狼」でも、主人公とその子供が江戸を離れ、命を狙われながらも放浪するわけだが、その理由には柳生一族の陰謀が絡んでいるわけで、おそらくそういった設定部分については、松本は飛ばして読んでいたのかもしれない。

もし、「こんな設定はどうでもいい、リアリティを求めているわけではない」というのであれば、この作品の全てのシーンを、ナンセンス劇として真面目に捉えなくて良いということだし、そもそもの、時代劇を撮るという意味さえも瓦解してしまうだろう。
当たり前だが、時代劇のストーリーというのは、誰にでも書けるものではない。その時代の社会的な知識や風俗に、最低限の造詣が求められるのである。
「コメディだからこんなもんだ」と思っているのだとすれば、観客をあまりに馬鹿にしている。
コント55号が主演したコメディ映画、『びっくり武士道』は、山本周五郎原作である。ここでは、しっかりと脱藩における辻褄が整理されている。
脚本を手がけた5人とも、もちろんこの映画を誰も観ていないのだろうが、昨今、日本映画の質が落ちており、なかでも時代劇を撮ることのできる人材がほとんどいなくなっているのは周知の事実で、確かに難しい部分は多いはずだ。
しかしまともに時代劇のドラマを練り上げるのであれば、最低でも、資料として可能な限り過去作に目を通し、また考証にも手間をかけるべきである。『さや侍』は、その最低限のことすら、まともに試行したあとが全く感じらない。

もともと、野見が脱藩した直接の理由も、脚本の中ではしっかりと描かれず、謎である。
先述の『びっくり武士道』では、池畑慎之介(ピーター)演じる小姓が、坂上二郎演じる侍に懸想(!)したために、やむ終えなく坂上が池畑を斬ってしまい、そのまま脱藩して逐電してしまう。これは苦もなく観客が納得できる(坂上に惚れるという部分が納得出来ないけれど)。
だが、野見が脱藩したのは、「愛する妻が死んだから」という理由らしい。べつに、とくに殿様に殺されたとか、ひどい目に遭ったとか、そういうことでもないらしい。
悲しみを、脱藩で表現したのである。
これは、時代劇史上、最も意味の分からない脱藩の動機だといえよう。
彼が自分や娘の命を危険にさらすというリスクを冒してまで、無断で突然に藩を抜け出さなければならない直接の理由はどこにもないはずだ。
ストーリーの基本設定の破綻、主人公の意図の分からない行動、『さや侍』はこの時点で取り返しのつかない失策を犯しており、物語としての価値はほぼ無いと言っていい。

では、ここで本来、松本は何を描こうとしたのか、ということを考えてみたい。
まず、刀が無い侍、「さや」だけを持った侍というのは、「プライドだけは捨てられない男」のメタファーであり、それは松本自身もインタビューでそう言っている。そしてこれは、「働くおっさんシリーズ」の野見さんのことでもあるのだろう。
事実、野見さんはいつも胸ポケットに、通話料金の滞納で通話できない携帯電話を差し込んでいる。
ここで扱われている「さや」=「携帯電話」とは、彼の見栄の象徴だということなのである。
だからさや侍が、笑わなくなった若君を笑わせるという「三十日の業」に挑み、娘や下っ端役人のアイディア通りのパフォーマンスをするという話は、慣れないバラエティに出演し、松本や構成作家の言うとおりのことをやらされた、過去の状況の再現でもあるのだろう。
つまり、「働くおっさんシリーズ」でやり得た表現手法を、もう一度繰り返し、先述したようなある種の「神性」をあぶりだすことで、映画としての強度を強めようとしたのだろう。
これは、「三十日の業」で使われた多くのネタ(シャドウ・ボクシングや生きタコとの格闘など)が、実際に「働くおっさんシリーズ」で既におっさん達がやらされていたということからも分かる。

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ストーリーが進むにつれて、「笑いを忘れた若君を笑わせる」という「三十日の業」の目的を果たすことは、非常に難しいことが分かってくる。
何故なら若君は、母親を亡くしたことで笑わなくなったのであり、その欠落について何らかの対処をしないうちは、どれほど面白いものを見せたとしても、心が動くはずがないのだ。
さや侍とその幼い娘は、業を進めてゆくうえで、そのことに気づきはじめる。
娘は、若君の部屋に潜入し、母親への亡失の想いを断ち切ることが重要だと語りかける。同じことを娘自身も経験しているが故のアドバイスだろう。
それ以降、若君には少しずつ変化が見られてくるのだが、三十日の業が終了に差しかかり、そのおぼつかない緩慢な精神の回復速度では、なかなか死罪までの期限には間に合いそうにないということが見えてくる。
若君の父親である多幸藩の殿様も、そのことに気づいており、さや侍への返礼の気持ちから、群集らから若君の顔を隠すことで、「笑った」という既成事実を作ってやろうと、情けをかける。
そこで意外なことに、さや侍は突然、自分の腹に短刀を突き立て、切腹を敢行する。腹を真一文字に開き、空っぽのさやに、その刀を差し入れ、果てた。

この一連のエピソードは、何を意味するか。
「さや」がプライドであるとするなら、そこに実体を入れることで、そこに本来の魂が戻ってきたと見るべきである。
自分の娘に、「武士として本来あるべき姿」を見せることによって、親としての「善き後姿」を残すという意味、また、若君に対しても、同様のメッセージを与えることによって、困難を強く乗り越える力を与えるという効果を狙ったものなのだろう。
つまり、ここまでの展開で観客が期待したような「笑わせること」、「笑いの本質は何か」という問題は描かれず、また時代劇によくあるような、現代的視点からの封建社会における価値観の打倒の意味も語られず、「不器用ながら、自分の与えられた本分(ここでは切腹をすること)を曲げず貫く矜持」というテーマを掲げているのである。

しかしそこで観客の共感を拒むのは、この野見の自刃が、自分のナルシシズムを完遂するという意味が強すぎて、さらにそれが侍として、父親として、本当に本分であったのかが疑問だという点だろう。
武家社会の封建制を受け入れて、それをとくに批判するような描写はないのでれば、野見が侍としての魂を取り戻し、全うすべきは「主君への奉公」であり、「一族(お家)の再興」であるはずだ。
多幸藩は、野見にとっては他所の藩であるが、身柄を預けている以上、彼が本物の侍であるならば、主君に近い尊敬を持って接するべきである。それは、ひいては自分の藩の利益にもなるはずである。
藩主の施しを受けることを良しとしない、という描写も見られたが、とんでもない、侍として主君に目をかけられ、俸禄をいただくことは、武人としての最大の誉なのである。
これを拒否するという感情と、侍としてのプライドを取り戻すという感情は、論理的につながらない。
さらに親としては、娘の今後について最大限の便宜をはかるべきだが、もちろん殿様の善意を裏切ったことでそんなものは無く、実際、身ひとつで彼女は寒空の下に放り出されることになってしまった。
これは明らかに死の危機である。誰がこのような展開を望むというのか。
愛妻、娘、殿様、若君、協力してくれた番人、民衆…そして観客、野見はそのいずれの感情も裏切るような行為に出た。
つまり自分の感情を、他の全てに優先させるということで、これは当初、妻が死んで脱藩したという行為同様の、全くの独善的行為としてしか映らない。
しかし映画としては、そういった決断ももちろん可能性としてあり得るだろう。問題は、それが何か大きな愛や娘との絆が深い故であったというような演出がなされているということである。
この野見の決断について、観客に意図が伝わりづらいのは、「野見さんは(一般論として)本当に本当に本当にダメな人であり、普通の人が当然のこととして、冒頭の時点で決断しなければならないハードル(切腹)を飛び越えることすら困難である」という前提知識を、しっかりと映画の中で描いていないことからきているだろう。

河原にて虚無僧が急に唄い出すシーン(松本作詞の「父から娘へ ~さや侍の手紙~」)についてだが、あれは明らかに、劇画「子連れ狼」のラストシーンのオマージュであり、言っていることは全く同じである。
「子連れ狼」では、父が子に語ったことばがリフレインされる演出があるのだが、そこを虚無僧の唄としてアレンジを加えたのだろう。

-「子連れ狼」最終話より-

川は海に注ぎて波となる
大きなうねりの波 小さなうねりの波
寄せてはかえし絶ゆることはない
人の生命もこの波に同じく
生まれては生きて、死んではまた生まれる
ほどなく父の五体はもの言わぬ屍(かばね)となろう
だが父の生命は波に同じく 来世という岸頭に向かいて また生まれかわるべくうねっていく
五体死すとも父の生命は不滅なのだ
おまえの生命も然り
我らの生命は絶ゆることなく永遠に不滅なのだ
皮破るるとも血が噴くともうろたえるな
父の五体倒るるもひるむな
父の眼 閉じらるるとも 父の口ひらかぬともおそるるな
生まれ変わりたる次の世でも 父は父
次の次の世でも我が子はお前ぞッ
わしらは永遠に不滅の父と子なり

しかし、真似をするのであれば、表面的な演出だけにとどめるのでなく、最低でも、ある程度の父と子の関係・図式ごと真似しなければ、同様の感動など期待すべくもないし、文字通り取って付けたような違和感を強く感じることになってしまう。
なにより、「子連れ狼」のラストを知らない観客にとっては、完全に意味不明の箇所である。
私も大傑作「子連れ狼」に大感動して滂沱の涙を流したひとりとして、その箇所には抗議したい気持ちが強い。
演出や脚本づくりというのは、考えに考え抜いて洗練させてゆくべきもので、そのように、他人の作ったテーマやシーンを、レゴ・ブロックを組み替えるだけで効果が期待できるようなお手軽なものだと思っているのだとすれば、ものづくりの要諦すら理解していないように思える。極めてお粗末だ。
先人の作品を利用するということ自体は責められるべきことではないが、その場合は、元の作品の「魂を受け継ぐ」ことが重要である。
もしそれができていれば、おそらく映画作りのアプローチのあり方そのものが、自動的に正しい方向に向くことだろう。

松本人志の監督した前二作を思い返してみよう。『大日本人』、『しんぼる』とも、観客や批評家の反応が芳しくなかったという事実がある。
それは様々なレヴェルにおいて観る者を満足させられなかったことが大きいからだが、最も本質的に駄目だった点は、演出力をはじめとした基礎的な力に乏しく、ただ作為のみが浮かび上がり過ぎてしまっているということだと思われる。
このように、「自分の意図が伝わらない、評価を受けない」ことについて、松本はこれを、「観客の側に問題がある」と結論づけたのではないかと思える節がある。
実際、当時の彼の発言には、そのようなことへの苛立ちを感じさせるものが多い。
もともと松本には、本職である漫談やトークにおいて、聴衆に対して、ある種の苛立ちを感じているときがみられ、そもそも彼は観客のレベルを低く見積もっていて、ある種高踏的位置から人やものを批評するという芸風を確立していることは、もはや周知だろう。
だから今回は前二作に比べ、プログラム・ピクチャーに近い、分かりやすいシナリオを準備して、そのようなレベルの低い観客にも理解できるセンを狙ったのではないだろうか。
だが、「うまくいく・うまくいかない」という問題は、「分かりやすい・分かりにくい」という点が本質なのではない。「力があるか・無いか」ということに尽きるのである。
皮肉にも、『さや侍』は彼の作品の中で一番分かりやすい分、脚本力・演出力の深刻な不足を完全に露呈してしまった。
だから、三作品とも失敗してしまったという結果は、不運でも何でもない。必然的に、失敗するべくして失敗したのである。

松本人志が優れている点は、鋭敏な反射神経をもって、瞬間的に意外な発想を引き出してくるという点である。
一連の映像作品において、それがなかなかうまく表現できないのは、脚本や演出というのは、じっくり考えて用意することができるという性質のものだからだろう。
もともと彼が映画監督として多くの人に期待されたのは、”VISUALBUM”という、舞台劇に近いコントと、ヴィヴィッドな雰囲気の映像を組み合わせたヴィデオ作品の出来がかなり実験的で成功していた、ということが大きいのではないだろうか。
しかし、いまでは”VISUALBUM”の映像部分は、ゴースト演出家によって撮られたものだということがハッキリしている。

おせっかいだが、松本人志が今後映画を撮り続けるのであれば、それは、「働くおっさん劇場」以外にも、彼がTVでやっているようなめいっぱいアバンギャルドな企画(「ひばりだらけの野球大会」、「モーニングビッグ対談」など)や、コントを、そのまま本気で、そして全力で押し進めたようなものであるべきだ。
必要なのは、本気で最高だと信じているものを提供することであり、自分の哲学を前面に押し出していくことである。その意味で『大日本人』は、稚拙ながらある程度はそれができていたように思える。だから不器用でも、着実にそれを押し進めて洗練させていくしかない。
松本自身、映像制作の才能に欠けているとはいえ、自分の持つ様々なポテンシャルを使い切っているという自覚はないはずである。
例えば、多幸藩の紋がタコをモチーフにしているというギャグはどうだろう。これを松本人志は、本気で面白いと思ったのだろうか。

今後、松本人志が全力でリミットレスな暴走を繰り広げたとしても、映画という枠は、まだまだそれほどひずみを見せないはずだ。彼の作品よりももっとめちゃくちゃな映画など無数にあるからである。
だが、彼が自分のアドヴァンテージを一点に注力し、そこでもし映画に少しでもひびをつけることができれば、それは意味のないことではないだろうと思う。

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