『ブラック・スワン』 クロノフスキー、シロノフスキー

マンキーウィッツの名作、『イヴの総て』のような、女性ライバル同士のギスギスとした主役争奪戦の舞台をバレエ団に移し替え、サイコスリラーの要素を多めに加味した、ダーレン・アロノフスキー監督の新作、『ブラック・スワン』。

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破滅に向かうスポ根もの、という意味では、前作の『レスラー』に非常に近いが、もともと『レスラー』と『ブラック・スワン』は、一本の作品として、同じ脚本の中に挿入されていたエピソードであるらしい。
確かにそれを聞くと、『レスラー』と『ブラック・スワン』が、描き方は異なれど、ほぼ同じものを表現しているという不思議にも、頷けるところだ。
ということは、もともとこれらエピソードを含んだ当初の企画というのは、アロノフスキー監督の過去作である、ドラッグによって破滅させられる群像劇の傑作、『レクイエム・フォー・ドリーム』とほぼ同じようなコンセプトだったのではないかと想像される。

『レクイエム・フォー・ドリーム』は、キレのある編集によってテンポよく語られる残酷表現から、現在もカルト的人気を集め、「鬱になる映画ランキング」を行うと必ず顔を出すダウナー映画として有名であり、また監督の名前を広く知らしめる端緒となった作品だ。
そしてアロノフスキー自身の作家性にとっても、これが重要な出来事となったのではないかと思うのは、ここで破滅する老女を演じた、エレン・バースティンとの出会いだったのではないかと思う。

この、マイナーな作品である『レクイエム・フォー・ドリーム』で、アカデミー賞主演女優賞にノミネートもされたことでも、その演技の素晴らしさは証明されたが、エレン・バースティンの壊れゆく身振りというのは、ここで監督が意図した悲劇性をはるかに凌駕するほどに痛ましく鮮烈で、彼女の演技があったからこそ、『レクイエム・フォー・ドリーム』はエヴァー・グリーンとなったのは言うまでもないだろう。
このような、まさに『ブラック・スワン』で描かれたように、演技者が演出家の才能を超え、魔法を生み出すことがあるという事実を目の当たりにしたアロノフスキーの、演出家としてのインパクトは、小さくはなかっただろう。
ここからアロノフスキーは、例えば溝口健二のような、役者の内にあるポテンシャルを、サディステックな圧力を加えることで最大限に引き出す、ある種の猛獣使いとしての役割を引き受け始めたのではないかと思う。
もともと、『π』や『ファウンテン 永遠につづく愛』など、形而上世界探求型が持ち味であったはずの、アロノフスキーの作風に、もうひとつの新たなラインが生まれたということである。

脚本と演出の両面から、役者をとことん下世話な目線から底意地悪く追いつめることによって真実のカタマリをつかみ出そうとすることに特化するアロノフスキー。
そしてもう一方で、形而上の世界に遊ぶ、イノセントでセンシティヴなアロノフスキー。
ここでは『ブラック・スワン』の黒鳥・白鳥にちなんで、前者を、「クロノフスキー」、後者を「シロノフスキー」と呼びたい。

アロノフスキーは、『レスラー』と『ブラック・スワン』に、クロノフスキー的な下世話なワイドショー風の視点を採用することに躊躇しない。
結果として、このことは多くの観客の心を掴むことに寄与し、いささか上滑り感のあったシロノフスキー的な世界観に説得力を持たせ、また淡泊な内容を、クロノフスキーが補強してくれるのである。
この、両者が共生することで弱点を埋めあうイメージは、『ブラック・スワン』のエンドタイトルのアニメーションが、そのまま表しているように思える。

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さて、いかにも単純そうなプロットに見えてしまう『ブラック・スワン』では、黒・白の二元論的な描写が、じつはあらゆるレヴェルにて語られており、そのことが、よくあるプログラム・ピクチャーの枠をはみ出すような複雑性を獲得できていることに、非常に感心させられる。
もちろん、ナタリー・ポートマンが演じる、バレエ団の新女王、ニナの演じねばならぬ「白鳥の湖」の役柄、「黒鳥」、「白鳥」もそうだし、また、ヴァンサン・カッセル演じる演出家の考える演技論もそう。
ウィノナ・ライダー演じる前女王の辿る光と陰、ニナと、ミラ・クニス演じる蠱惑的ライバル、リリーとの関係、そして、ニナ自身の内面に加え、演出家、リリー、またバーバラ・ハーシー演じるニナの母親の内面に至るまで、そのキリスト教的な二元論が適用され、またその高次にいる演出家、アロノフスキー自体が、前述した、クロノフスキーとシロノフスキーとしての役割を同時に行っているところが興味深い。

シロノフスキーは、形而上に3つの世界を構築する。
バレエ団での栄枯盛衰を描く、現実的な世界。
ニナの壊れゆく内面世界。
ステージで演じられる、「白鳥の湖」という劇中劇。
そして、このステージ上に、今まで描いた全ての二元論を集め、メルティングポットとして扱う。
他方ではクロノフスキーが、いわくありげなキャスティングに加えて、彼女たちのプライドに傷をつけ、傷口に狂気と淫猥なもので構成された液体を流し込むことにより、鬼気迫る表情を引き出し、またそれを下世話な目線で拾い上げようとする。

例えば『レスラー』で、肉屋で働く主人公に、老婆が1グラム単位の正確性を要求してくるような場面が、見方を変えると、キリストと悪魔の代理戦争さながらであったように、クロノフスキーが描く、人間の愚かしいワイドショー三面記事的世界を、神話として引きだそうとするシロノフスキー。
このコンビネーションが、『レスラー』を、『ブラック・スワン』を、ただならぬものに変貌させようとするのである。

ラストシーンでホワイトアウトしてゆく光景を眺めながら、「完璧だわ・・・」と、自らを称えるニナと、涙をたたえながら「完璧だ・・・」と感動する演出家、さらにその上でクロノフスキーとシロノフスキーが「俺たち、完璧じゃね?」と称えあう。
『ブラック・スワン』は、美しいツートンカラーのシンメトリーによって彩られた、構造的美学を体現した宮殿のような映画である。

この知性的な試みと構造的バランスを、娯楽作品としてのチャームをしっかりと残したうえで成立させていることを、高く評価したい。

しかし、不満点が無いわけではない。
ナタリー・ポートマンをはじめとする演技者が、非常にテクニカルで感情のこもった演技を炸裂させるものの、それが『レクイエム・フォー・ドリーム』のエレン・バースティンの凄みに比べてしまうと、どうしても霞んでしまうのは否めなく、どうしても隠当なものに見えてしまう。
また、身上であるはずの軽快な演出についても、ここではバレエ団という素材のせいか、門外漢が描くことによって、バレエ映画としての現実味や技術的な特質を最大限に引き出せないことは仕方がないとして、その雰囲気まで抑制されすぎているきらいがあるように感じてしまう。
つまり、『レクイエム・フォー・ドリーム』に比べて、『ブラック・スワン』、そして、ミッキー・ロークを暖かく包み込んでしまった『レスラー』は、「クロノフスキー」の存在が若干希薄に思えてしまうのである。
とはいえ、そこには『レクイエム・フォー・ドリーム』ではそこまで多くは見られない、演技者の背中を追った手持ちカメラの、ドキュメンタリー的手法が効奏してはいるのだが。

また、あらゆるシーンにおいて、観客が気づくか気づかないかという、絶妙な位置にCGを利用したVFXが、ある程度隠匿されながら挿入されており、その、今までにない微妙な感覚が、我々を戸惑わせ、新たな体験をさせてくれたという部分は、見逃せない功績だといえるだろう。
それだけに、クライマックスで羽根が飛び出し、見事に黒鳥に大変身するVFXシーンが、映画全体の演出から勘案すると、少々鼻白ませるようなものであったということも、指摘しておかなければならない。

4 thoughts on “『ブラック・スワン』 クロノフスキー、シロノフスキー

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