ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 【レビュー後編】

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』は紛れも無く、アニメーションの歴史に名を留めるだろう、稀有な作品である。
前回に引き続き、場面の解説を進めながら、その理由を明らかにしていきたい。

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渚カヲルは、「償えない罪はない、希望は残っているよ」とシンジに言った。それが「もう一度エヴァに乗る」という選択肢だった。
当然、シンジはこれを拒否するが、DSSチョーカーをシンジの首からはずし、代わりにそれを自分の首に巻くカヲル。
死のリスクを代わりに引き受けるという犠牲的な行為を見て、閉じこもったシンジの心がやわらぐ。
カヲルの提案は、ふたりでエヴァに乗り、ターミナル・ドグマまで降下、そこにあるカシウスの槍とロンギヌスの槍を手にし、ふたりが新たな世界の創造主として、世界を修復するというものだった。そしてそれは、ゲンドウの思惑とは異なったものであるらしい。
「カシウスの槍」は、新劇場版で初出したアイテム(初号機を食い止め、活動を停止させた)なので、具体的にその通りになったとして、どういうことになるのか分からないが、対の槍は反発する両極の力(リビドーとデストルドー)を発揮して、それを組み合わせることによって神に近い奇跡をなし得るということなのだろう、というところまでは想像できる。
また旧劇場版では、補完状態から人々を開放するため、槍の形状が変化していたので、その状態が「カシウスの槍」だということも類推できる。
一度全てを否定され、自我が崩壊したシンジは、この一発逆転の機会を、神の啓示のように受け入れてしまう。
ちなみに、この人格否定と救いの提示とは、洗脳の常套手段でもある。

ひとつの機体にふたりのパイロットが乗り込むというダブル・エントリー・システムを採用した、異形の「エヴァンゲリオン第13号機」がついに完成した。
ふたりを乗せた第13号機と、レイの乗る、大鎌を持って武装したMARK.09がサポートとして、ドグマへと降下していく。
ちなみに、この儀式めいた道ゆきは、「三人の天使が裁きを宣言する」、「鎌が地に投げ入れられる」などの、「ヨハネの黙示録」の記述から取られたものだろう。
「僕らだけで充分だよ…」もうカヲルとの男同士の友情しか信じられなくなってしまったシンジは、綾波レイの随行が不服そうだ。
この、余裕無く嫉妬したり、異性を排除しようとするような心理描写の細やかさは、それがポジティヴな方向に発揮されてないからこそ、セクシーで艶がある。こういう部分で、脚本陣の努力が垣間見える。
メインシャフトを降下していくと、夥しい数の巨人の死体「インフィニティのなり損ない」が壁面に張り付いていおり、その先を、巨大な蓋のような「リリスの結界」がふさいでいる。
「ピアノの連弾を思い出して」カヲルにうながされるまま、ふたりは見事にシンクロし、結界を難なく突破する。嬉しそうに顔を見合わせほほえみ合うふたり。
ターミナル・ドグマに三人が到達すると、そこには頭骸骨の山の上で、首を切断されたリリスの死骸が、EVA-Mark.06ごと、二本の槍に刺し貫かれていた。カヲルが説明する。「サード・インパクトの爆心地だ」

この状況から推測すると、「破」のラストで覚醒した初号機が「ガフの扉(生まれくる魂が眠る場所の出入り口)」を開き、続いて綾波レイ(リリス)の魂が救出され初号機と融合したことが原因で、ターミナル・ドグマに眠るリリスの肉体を覚醒させ、さらにいくつかの条件が重なったことにより、人類補完が始まったのだろう。シンジの行動が、磔のリリスに影響を及ぼしたのは、「破」の描写によっても確認ができる。
サード・インパクトが開始されると、人類の急激な進化が始まり、人々が群れ集まって変体したのだろう異形の巨人達が、リリスと同化し「インフィニティ(永遠の存在)」になるべく、大挙してターミナル・ドグマへと迫った。
この人類大絶滅、サード・インパクトを阻止するために、自立型に改造されたというMark.06は、パイロット無しの単独でターミナル・ドグマへと降下、リリスに槍を刺すことでリリスの活動を停止させる。
そのとき、旧劇場版同様に補完は失敗し、リリスの首は切断される。
このことによって、自己進化しリリスの元に集まった生命体達は、そこで絶命するより他無かったはずで、その残骸が放置されていたのだろう。
そして、Mark.06は、自身のコアにも、もうひとつの槍を刺し貫き、リリスの死体へと磔になった。
この前後にリリスから放たれたのが「リリスの結界=L結界」であり、このためにターミナル・ドグマは、14年の間、外界と完全に遮断された。
ちなみに、L結界の発生した場所は、旧作にて渚カヲルと綾波レイが発生させた、結界状の強力なA.T.フィールドの位置と同じである。
しかし綾波レイに酷似したリリスの頭部が、ネルフ本部の他の場所に安置されていたところを見ると、「リリスの結界」が張られたのは、ゲンドウが何らかの方法によって頭部のみをドグマよりサルベージした後だと考えるのが妥当だ。
また、ゲンドウの元にある、このリリスヘッドには、眼が存在しなかった。
旧劇場版において、「綾波、レイ?」とシンジに呼びかけられ、巨大リリスに目玉が顕現し、サード・インパクト阻止時に、初号機によって破壊されたことを思い返すと、リリスにおける「眼」は、自己認識の象徴であり、意志の具現化でもあっただろう。リリスヘッドは、14年の間ゲンドウの心を慰めていたことだろう、意志と命のない「神の偶像」である。
このリリスヘッドの表情が何ともいえず素晴らしい。ゲゲゲの鬼太郎が、邪悪に微笑んでるようである。
「破」で使徒のコアより救い出した、巨大綾波レイの姿と比べると、この嫌がらせ感はものすごい。まさにこの後の「妖怪大戦争」を予感させるものである。

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また、ゼーレとゲンドウとの最後の会談が、作戦の進行とともに描かれている。
旧作におけるゼーレのメンバーが、実体を伴った人間であり、後半ではその声だけが、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』に登場する「モノリス」に似た映像として表現されていたのに対し、新劇場版では、なんとこれが本当にモノリス状の物体であったことが明かされる。
新劇場版で、ゼーレのトレードマークが「蛇とリンゴ」を追加し変更されたのは、この組織が、前作とは違う役割を果たしていることを示すためだろう。
旧劇場版で明かされた、社会を裏で牛耳り暗躍してきたゼーレの目的は、旧約聖書の故事をもとに「蛇の奸智によって知恵の実を食べることで、神の怒りを買い、永遠の楽園から追放され、永遠の命(知恵の実)を失った人類」=「死を繰り返しながら遺伝子を残しつづけることしかできなくなった出来損ないの群体としての生命」が、神に対しての「原罪」をつぐない、「失楽園」以前の、一個の生命体に戻ることであり、彼らはその大目的を、人類の代表として目指していた。
その目的は新劇場版でもおそらく同様であるものの、ここでのゲンドウとのやりとりを聞くと、新劇場版でのゼーレはそもそも、いにしえの人類に文明を与えた、すでに体を持たなくなって生命維持装置によって延命し続けている、人類とは別個の種族だった…旧約聖書の役割でいうと、人に知恵を与えた、蛇にあたる存在だったのではないかと思われる。
そしてゼーレは、人類に対し贖罪の道を示し、その経緯を見届ける役割を完了したことで、彼らなりの贖罪を果たし、満足して生命を絶ったということになる。

ターミナル・ドグマの骸骨の山の上に降り立った第13号機を、既にその起動を察知していたヴィレのアスカとマリが、ネルフによる人類補完計画阻止のために追跡、攻撃を仕掛ける。
2号機改&8号機 VS.第13号機&Mark.09。「運命を仕組まれた子供たち」が一同に集い、タッグ・マッチが開始される。エヴァンゲリオン史上、最も燃えるバトル展開だろう。
さらにそれが骸骨の山の上で、巨大な首無し死体の傍らで展開されるのである。素晴らしい気持ちの悪さだ。ドキドキしてくる。
シンジは、ファンネル状の武器(無線式のオールレンジ攻撃用兵器)で応戦する。
第13号機は、A.T.フィールドの無い特殊な機体であるらしいので、この、おそらくはネーメジス・シリーズの技術を応用しただろうファンネルは、その弱点を補佐するものだろう。
そのときカヲルは、二本の槍が、何故か揃って同じ形状であることに気づき、なにか不穏なものを感じ、考え込んでいる。
「やめようシンジくん、嫌な予感がする、あれは僕らの槍じゃない」2号機を撃退し足止めすることに成功したシンジは、しかしカヲルの制止を振り切って槍へと向かう。
どんな槍でもいい、とにかく槍があればやり直せる…!
第13号機からもう一対の腕が出現する。カヲルの操作系は、いつの間にかダミー・システムに切り替わっていた。満身の力を持ってシンジは槍を引き抜く。

カヲルはここに至って、この作戦に仕掛けられたゼーレの罠に気づく。
Mark.06の体内には、同じく槍で貫かれた、全身がコアの、超強力な第12使徒が封印されていた。しかし使徒は、おそらくは対のロンギヌスの槍から放たれるデストルドー(死への衝動)によって急速に力を失い、第13号機にあっけなく噛み砕かれ、そのことが第13号機の覚醒をうながした。
さらに第12使徒が消滅することで、アダムスの魂を持つ第1使徒たる渚カヲルが、序列によって次の13番目の使徒として、その存在が置き換わり、覚醒してしまった。
そしてこれが新たなる人類補完のトリガーとなってしまう。それにともなって起動する、カヲルの首もとのDSSチョーカー。
旧作を思い返すと、ゲンドウはリリスによる人類補完でなく、エヴァによるそれを目指していた。
ゼーレは、サード・インパクトが起こった、まさにこの場所で、第13号機による再度の人類補完、フォース・インパクトを計画していたのだった。シンジとともに世界を修復しようとするカヲルの策略の、さらに裏をかかれたのだ。
この神のごとき卓見にカヲルは驚かされる。「さすがリリン(人類)の王、シンジくんの父上だ」(しかしこれは、ゲンドウではなくゼーレの思惑であり、ゲンドウの真意はさらにその先にあるだろう)。
カヲルの言う「リリンの王」とは、前述したような、ゲンドウの支払った代償に由来するはずである。しかし、旧作に比べ大変な出世だ。
上昇した第13号機の頭上では、再度ガフの扉が開き、眼下では、ニア・サード・インパクト同様に、大地が裂けてゆく。
ジオ・フロントは真の姿を現す。それは聖杯のような形状の、巨大な台(うてな)の様な形状であった。新劇場版では、球体の「リリスの卵」たる「黒き月」ではなかったのか。

 

リリスより生まれたリリン(人類)は、「知恵の実」を食べたことで神から見放され、永遠の命「生命の実」を失った、呪われた存在であった。
だからその魂を還元し、一個の生物として生まれ直すべきだと、秘密結社ゼーレは考え、その大望を果たすべく、国連、世界各国の団体やネルフを牛耳ってきた。
その根拠となるのが、おそらくは先史人の記述した「裏死海文書」であった(新劇では、あるいは蛇としてそそのかしたゼーレの記憶かもしれない)。
そこには、神への「贖罪への道」が示唆されており、これが達成されれば、人類は神から祝福された、永遠の存在となれる。それがインフィニティであり、キリスト教における「世界終末論」、「ヨハネの福音書」における「千年王国」の思想でもある。(ちなみに、「ヨハネの黙示録」は終末までの過程、ウェルギリウス・ダンテの「神曲」はジオ・フロントの構造や、エヴァのいろいろなモチーフ…ドグマ最深部に存在する悪魔や、竜の様な怪物「ゲリュオン」など…が見られるので、一読をおすすめする。)
旧作においてゼーレは、「初号機パイロットの欠けた自我」と、ロンギヌスの槍から供給されるデストルドー利用し、サード・インパクトのトリガーとした。
新劇場版においても、「最悪の場合は洗脳」と冬月が漏らしていたように、碇シンジの単純な心理を、「将棋」の指し手のように巧みに誘導することで、目的のための条件を順調にクリアーしてきた。もちろん、「序」や「破」における「成長」も、今回の母親の秘密の暴露も、その一環であるといえる。
大人の策謀によってシンジは翻弄され、「フォース・インパクト」という最悪の結果を生み出してしまうのである。

「なんだこれ…僕がやったのか…!」と、初めてシンジも事の重大さに気づくのだが、すでに事態は、自分ではどうすることもできない状態まで進行していた。
「少年の思い込み」という、あまりにも下らないことがきっかけで、何度も世界が崩壊し、人類が滅びるのである。誰がこのような世界の終末を予想しただろうか。
旧劇場版もすごかったが、こんな狂っためちゃくちゃな展開の映画を初めて観た。すごすぎる。
この壮絶な神話を目の当たりにして、「ふーん」と流せる人がいたら、逆にちょっと心配になってしまうくらいだ。

「見せかけの希望にすがった」シンジは、ここに至り、無二の親友の言うことすら意に介さず、自分の犯した罪から逃れることだけを考え、また同じ間違いを犯してしまった。
「カヲル君のために、みんなのために槍を手に入れる…そうすればミサトさんだって…」という発言から、ここでのシンジの暴走は、「正義を盾にした自分の立場の復権」であることが、主たる目的であることは明らかだ。
必死に這いずって槍に到達しようとする姿はまた、「序」での第6使徒との戦闘の、希望に満ちた熱血シーンと重ねあわされているだろう。
つまり、「序」、「破」におけるシンジの行動は、彼の中では、今回の人類を絶滅させることになった行動と、全く同じということになる。

この一連の流れは、ゲンドウと冬月の目論見通りであり、さらにここまでの新劇場版自体がそうだったというのは、確かにそうだろう。
本当に悪いのはゲンドウであり、シンジは追いつめられてやむなく行動させられているだけだ…そのように感じるかもしれない。だが、ここにこそ「Q」にとって最も重要な問題が提示されていると思う。
例えば、外国との戦争に参加している少年兵士が、強力な爆弾を搭載した戦闘機に乗って敵地の上空にいるとする。
彼は、「自国が正義であり、敵国は悪である」という教育を信じているし、「敵は全て殺せ」という命令を受けている。そして今まさに、その敵が住む街を、完全に破壊できる機会を得ている。発射トリガーを引けば、眼下に住む大勢の人間の命を簡単に絶てるのである。
この殺人は、「命令」であり「正義」である。しかし、もっと純粋な見方をすると、人間が人間を殺傷する行為でもある。
これを遂行することに対し、少年の罪は全く無いといえるだろうか。
彼は、自国のやっていることを信頼し、盲目的に従うことで、自分個人で深く考えるということを放棄し、見せかけの希望にすがったといえないだろうか。そこに罪が発生する余地がないだろうか。
精一杯情報を得ようと努力し、歴史や文化や倫理や論理を勉強し、自分自身の哲学を積み上げ、自国が正義であるかどうか検討する。人のせいにせず、自分の行動に責任を持つこと。それが本当の意味での「大人」ではないだろうか。
シンジは、ただほめられるため、自分の居場所を獲得するためだけに、「序」において第6使徒を倒した。しかし、自分のやったことがどういうことなのか、考えることを放棄しているのである。だから、命令があれば迷わず「ほめられるため」に、人類を滅亡させる片棒を背負わされてしまう。
旧ネルフ職員達が「ヴィレ」として、ネルフと敵対したのは、自分達の「意志」に従って、人類の未来を守るためであるし、彼らひとりひとりが、それぞれ個人としてサード・インパクトに関与してしまった贖罪を果たそうとしているからだろう。
対してシンジは、「僕のせいじゃない!僕は知らない!」と言い張り、自分の身の保全と精神の平安を得るために、ついに思考を完全にストップさせた。これは責任の放棄であるだろう。
少なくとも、その意味においてゲンドウは逃げてはいない。
もちろん彼の行動は、生き延びようとする人類にとって許されるものではない。だが自らの罪を罪であると認識し、その上でジェノサイド(大量殺戮)の首謀者となる覚悟がある。シンジが「ガキ」だと言われる理由がここにある。

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このテーマは、とくに現在の若者達にとって、きわめて有益な示唆となっている。
国家や会社や教師など、大人や老人は、子供を洗脳し操り、支配し、都合よく利用しようとしている。それは自分の親かもしれない。それが、わたしたちのいる現実の「世界」である。
「使徒は敵だ」、「あの国は、あの人種は悪だ」、「君は世界を変えられる」などなど、…自分の耳障りのいい甘言や一方的な情報を呑みにするのは簡単だ。
そうではなく、自分を守るため、他人に利用されず、自分が自分として生きるために、他人の言葉をあくまでも材料として、最後は自分自身が、自分の責任の下で世界を理解し、決定しなければならないのだ。
必死に努力すればいいというわけではない。間違った方向に突き進むくらいであれば、まだ立ち止まって「何もしない方がいい」こともあるのである。
ゲンドウの命令に従って、自らもフォース・インパクトの原因となってしまったレイは、「どうしたらいい?」と苦悩するが、アスカの「知らないわよ!あんたはどうしたいの!?」という言葉で我に返る。
「Q」は、単体の作品としても、その試練を観客に、旧作よりもはるかにロジカルに語りかけてくれているのである。

このように、「Q」はしっかりとしたテーマを持った、言葉遊びだったり難解なだけの、中身の無い作品ではない。
「エヴァンゲリオン」は、旧作より「中身が無い」というように指摘されていた。それは、SF、美少女、特撮などの要素が、ほとんど既成の作品のコラージュであったことからきているだろう。
しかし、旧作においてもそう断じるのは早計だといえる。そのような「コピー世代」に属する自分に向き合い、どうすればその上で中身のあるものを作ることができるか、真剣に痛みを持ってのた打ち回っている姿が、作品を通して分かるからだ。
その姿をそのまま見せることが、単純に高所からテーマを掲げる作品よりも、はるかに実体感をともなって表現されていたのである。
その意味でいうと、新劇場版は、旧劇場版と比べて、ある程度観客と距離を保ったぶん、このようなテーマを、比較的ハッキリと打ち出すことにしたのだろう。
ただ、自立のテーマについては、旧作においても描かれていたことは指摘しておくべきだろう。旧劇場版のセリフがそれを物語っている。
カヲル「ただ、ヒトは自分自身の意思で動かなければ、何も変わらない」
レイ「だから、見失った自分は、自分の力で取り戻すのよ。たとえ、自分の言葉を失っても、他人の言葉に取り込まれても」

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覚醒し使徒となったカヲルは、起動したDSSチョーカーによって、首が断裂せられ絶命した。
彼はシンジの心に残る傷を少しでもやわらげるために、最後の瞬間まで、シンジに笑いかけていた。シンジは、それをなすすべも無く見つめることしかできなかった。
この別れのシーンは、『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』の演出に非常に近いのだが、脚本には同作の脚本家、榎戸洋司も参加している。

アスカとマリの奮闘によって、シンジは第13号機の体から排出され、魂の無くなった機体は、そのまま地上に落下し、すんでのところでフォース・インパクトは回避され、今回も人類はなんとか生き延びた。
そしてエントリープラグからアスカによって助け出されたシンジは、体の力も抜け切り、ほとんど廃人のような表情になっていた。
赤く染まった大地を、ヴィレが救出可能な地点へ移動していく、アスカ、シンジ、レイの三人を俯瞰でとらえるラストカットは、大いなる絶望の中に、わずかな希望を暗示しているようだ。

ちなみに、レイがまたしても拾った携帯音楽プレイヤー、「S-DAT」の存在が不気味だ。
イヤフォンからひとりで聴く音楽は、閉塞の象徴でもある。
監督自身が「エヴァンゲリオンは繰り返しの物語だ」というように、次回作においても、シンジはまた閉塞と開放をうじうじと繰り返すだろう。
世界に期待を持っては裏切られる。エヴァンゲリオンはそういう物語でもある。
そして、だがどんな結末が訪れようとも、「Q」の出来が素晴らしく、これ単体で紛れも無い傑作であることは疑いが無い。

最後に、渚カヲルのシンジへの献身について、理解できないという人がいたが、旧劇場版の描写でそれは分かりやすく明示されているので、指摘しておきたい。
カヲルとレイは「私たちは、人が互いに解り合えることの希望だ」と言った。
もとはそれぞれ一個の生命体であった「アダム(アダムス)」と「リリス」は、A.T.フィールドで隔絶され、傷つけあう存在でしかなかった人々が、「ひとつになれるかもしれない」という希望でもあったのである。

 


 

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