『ノルウェイの森』 村上春樹文学と映画を徹底検証

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『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』によって、『青いパパイヤの香り』、『シクロ』、『夏至』などでも充分に堪能できる、質の高いアートフィルムとしての存在価値の多くを担保しつつ、しかしまたそのイメージのバランスを巧妙に破壊しながら、弱々しさを含む強靱さや複雑さ、演出的なダイナミズムをも手に入れ、現代で最も注目すべき作家となったトラン・アン・ユン監督の次回作が、村上春樹の「ノルウェイの森」だということを聞いて、意外に思ったのは、その『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』公開時のことだった。
まず直感的に懸念したのは、このトラン・アン・ユンの、革新的であろう新作が、観客の無理解からくる悪意・偏見(とくに日本の)にさらされないだろうか、ということだった。
これは、「偉大な村上春樹文学に、外国人監督が果敢に挑む」という、偏った図式が流布されかねない事態になるように思えたし、事実、私の懸念はその通りのものとなってしまった。
もともと日本での、かつての小説「ノルウェイの森」ブームや、比較的最近の「1Q84」ブームに代表されるような、村上春樹の評価のされ方には、私自身が不満を持っていたし、またトラン・アン・ユンの評価のされ方にも、なにか釈然としないものはあった。
もちろんそれには「過大評価」や「過小評価」といったようなものも含むけれど、商業性や神格化、バイアスによって、それぞれ「作家の描く本質の理解」が阻害されていることの方がより深刻なのではないかと考える。
例えば、黒澤明や宮崎駿の作品も、同様な問題の渦中にあるといえるだろう。彼らに対して、よく「昔は良かったのに」という意見を見かけるのだが、ではもともと、彼らの作家としての本質はどうであったかという理解ができているのかが、優先して問われなければならないだろう。
このような誤解というのは、知識や思考力の不足からくる、勝手なイメージに依存することから生まれている不幸なのだ。

『ノルウェイの森』公開後は、もっと悪いことに、原作ファンの批判的な論調と、「それほど悪くないのでは?」という、後ろ向きで無関心な評価が支配的になった。
「作品世界が理解できてない」という指摘も多く見られたのだが、それではその指摘をした人自身は、それが理解できているのだろうか。
おそらく彼らの多くは、トラン・アン・ユンの作品すら観たことがないのだろうし、村上春樹自身が、この映画のために脚本の推敲に関わり、何度も、テーマや制作工程のチェックを重ね、新たにセリフまで書き起こしているという事実も知らないのだろう。
何よりも、誰であれ『ノルウェイの森』の脚本や演出、尋常ではない映像に、非常に高いレベルで細心な注意が払われていることに、多かれ少なかれ気づくことはできるはずで、このアドバンテージを意図的に無視するというのはあまりにアンフェアだし、またこの「よく分からないすごみ」に対して、作品理解のための追求の手を止めるのは怠慢なのではないかという思いがある。
そしてその態度の理由が、この原作が、村上春樹の「ノルウェイの森」だから、ということが少しでも影響しているのだとすれば、その「目のくもり」や事大主義について、糾弾したいという思いさえある。
しかしながら、確かにこれが評価の糸口の見えづらい作品だということは事実だろう。
『ノルウェイの森』は、『青いパパイヤの香り』や『シクロ』ほどのエモーション、『夏至』ほどのインテリジェンス、『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』ほどの変態性、これらのような突出した個性を持たないのだ。
そして数少ない、この映画を強く支持する意見を持つ人であっても、正確にこれを評価するような文脈を見つけるのに、非常に苦心しているように見える。
だがそれは、この作品が真に「新しいもの」であるという証左でもあるかもしれない。
新しいタイプの作品をメソッドとして語るのは、のちの多くの表現者のフォローによって可能になるため、我々は、まだ存在していない直接的な言葉を用いずに、その本質ににじりよって行かなければならない。

また、私が「ノルウェイの森」映画化の報を聞き同時に感じたのは、その小説の内容を勘案して、トラン・アン・ユン監督が挑むべき題材として、原作の持つ手法も雰囲気も、だいぶクラシック過ぎやしないか、ということだった。
その後、「トラン監督が94年にパリで原作を読み、原作に思い入れがあったこと」、「その頃から映画化を狙っていたということ」を知り、なんとなく腑に落ちるような気がした。
つまり、インスピレーションを喚起させられたのが15年程前で、ここから現在までのタイムラグの中、トラン・アン・ユン監督は、数度にわたり、作家の内面としても、キャリアとしても、見違えるほどにステップ・アップしているのである。
無論、「ノルウェイの森」執筆当時の村上春樹よりも、表現者として先鋭化してしまっていて当然だし、逆にそうでなければ、彼の映画監督としての、現在のかたちでの成功ももちろんありえなかっただろう。
そして、当時の彼の「ノルウェイの森」への思いが、そのまま現在まで継続していたとしても、そこに生のままの感動や、当時のシンクロニシティは存在しないはずである。
よって、原作でワタナベが当時の自分の思い出を追うように、トラン・アン・ユンは、「当時、小説を読んだ自分の思い出」を、可能な限り蘇らせようとするのである。
トラン・アン・ユンは、「ノルウェイの森」への新鮮な感情を崩さないよう、映画の完成まで、他の村上春樹作品を読むことを避けたそうだ。
彼は制作中に、本作の音楽についてこう言っている。
「音楽は、レディオ・ヘッドのジョニー・グリーンウッドに頼んでいる。舞台は40年前の日本だが、当時の曲でもあまり有名ではないものを使いたい。だれもがわかる曲だとある意味、美化されたノスタルジーになってしまうが、傷口がまだ開いたままであることを表現したい(朝日新聞)」
このような「記憶のフリーズドライ」ともいえるような行為は、15年前のトラン・アン・ユンを、できるだけ無傷のまま召喚しようという試みである。しかし、無論そのフリーズドライが完全なものでなく、周囲や自分自身の状況も大きく変化している以上、この映画そのものが、状況的にも、その演出も、ノスタルジックな様相を呈さざるを得えないのは当然として、彼はそのことに気づいているからこそ、それをできるだけ回避したいと思っている。
村上春樹が原作で挙げた、いかにも60年代後半のフォークソング、またはジャズのナンバーなどが忌避され、代わりに、同じく60年代後半に出現した当時、最も先鋭的で、今でもアーティストとして評価が高まる、ドイツのロックバンド、CANの曲を複数、挿入曲として採用したということは、トラン・アン・ユンの試みとして、最も象徴的であるといえるだろう。
そしてこのような抵抗が、事態をさらに複雑で、容易には理解しがたい領域に突入させていくこととなる。

村上春樹作「ノルウェイの森」は、80年代が終わろうとするバブル期の日本で、爆発的に大ヒットし、さらに現在も売れ続け、36カ国以上で読まれている人気の小説だ。
では何故この小説が、異例といえるほどにマスに受け入れられたのだろうか。
ひとつは、「センスが良くてオシャレでかわいい」ポップな恋愛小説のかたちで提出されているということ。しかめつらしい「文学顔」を感じない、商業路線に合致した平易さと通俗性があることだ。
もうひとつは、過剰なセックスの表現にあるだろう。複数人数との性交渉の関係を淡々と描く、「セックスの価値の転倒」そのものがスキャンダラスで興味を惹いたということ。
当時の読者は、このような、かわいらしさとエロティシズムが融合した恋愛表現を、新鮮かつリアルなものとして、さらに自らをより投影できる等身大のコミュニケーションの模式図として楽しむことができたのだと思われる。
しかし、実際に作品をじっくり読み込んでいくと、そのような印象とはかけ離れた小説だということが分かってくるはずだ。

「ノルウェイの森」のストーリーは、ロマンティックなレトリックや引用、アイテムなどの装飾を考えなければ、恋人が自殺して分裂症になった女性を見守るうちに、主人公自身が分裂していくという、かなり病的なものといえる。
これを通常の文脈で語られるような「恋愛小説」と呼ぶのは、かなり無理があるだろう。なぜなら、ロマンスの主人公としては、あまりにワタナベは自分本位で不誠実に感じられ、意志は薄弱で、能動的な行動を避け、ただ病んでいくだけの人物のように見えるからである。
そしてストーリーもまた、類型的な感動やそれを狙った展開は用意されず、思いつきのような感覚的で抽象的なエピソードが並び、場面ごとの意味が明示されない。つまり恋愛物語として読み進めても、「何が言いたいのかさっぱり分からない」のである。
だから、「ノルウェイの森」は外形と内情に大きなギャップを持っており、パッケージのイメージそのままを期待したマスの欲求を、完全に満たすもののはずがない。
もちろん、セックスはポルノとしての意味をほとんど付与されず、「ノルウェイの森」は、このような誤解の中でマスに拡散されてしまった小説なのである。

村上春樹の作品の特徴は、その独特な文体にあるといわれる。
学生時代から、小説家として活躍した頃まで、日本の文学をあまり読まず、親しんで来なかったという彼の筆致は、海外の文学や童話を、日本の作家が「名訳」したような、バタくさい愛らしさ、もしくは、海外ミュージシャンのコメントを日本の雑誌やラジオが紹介するときの独特さ…「僕は~なのさ、君はどうかな?とっても素敵だと思わないかい?うん、そう思ってるよ」…
このような不自然さといかがわしさに満ちている。
このポップな文体はどこからきたものかというと、それは村上春樹自身が、作家として形成されるまでに読み続けた英米の文学、とくにアメリカ文学からの影響からである。
たとえば、ビート・ジェネレーションのリチャード・ブローティガン、また、村上の作家デビュー当時に、日本でもよく読まれていたというカート・ヴォガネットなどの影響が、際だって強くみられる。
群像新人賞を受賞した「風の歌を聴け」での選考時に、選考委員丸谷才一は、ヴォガネットとの類似性を指摘し、これを非常に評価しながらも、「日本的叙情によって塗られたアメリカふうの小説」であると述べている。
(ちなみに、丸谷は訳書も多い、英米文学の専門家である。なので「日本的叙情」、「アメリカふう」という表現は嘲笑的である。村上春樹は、のちに丸谷作品を、アメリカのマサチューセッツにあるタフツ大学生たちへの講義において、研究し解体するということをしているのは面白い)
無論、村上春樹がここで目指したのは、「日本的叙情」の排斥であることは間違いない。

主人公のワタナベは、日本の食べ盛りの大学生のくせに、よくサンドイッチとかサラダとか、また「新聞のインクを煮たような味のするコーヒー」など、訳の分からないものを食べているが、これもブローティガンやらレイモンド・チャンドラーなどの影響である。
とにかく彼は、「腹がへったので、フィッシュ・サンドを食べ、コーヒーを飲んだ」みたいな、アメリカンな乾いた表現をしたいのだ。正直な話、こういうのは愛らしいとは思うけれど、少しどうかとも思う部分である。
ちなみに、ドアーズの歌詞を暗躍して、「ピース」、「ピース」と言い合うところはもう、正視できない恥ずかしさがあった。

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海外で村上春樹の作品が多く読まれるのは、難解な単語を使わないことと、このような、「日本の叙情性」や、「民族的特質」をほとんど感じず、違和感なく読めるからだという。
村上春樹自身も、この問題については著書で、「自己形成期を通じて僕は日本の小説を読んで心を動かされたり、胸を打たれたりした経験を一度も持ちませんでした。」
「僕はいわゆる自然主義的な小説、あるいは私小説はほぼ駄目でした」
「太宰治も駄目、三島由紀夫も駄目でした。」
と語っており、また海外の小説を読むことに比べて、日本の文学については、「とても系統的な読書と呼べるような代物ではありませんでした。」と述べている。
それは「ノルウェイの森」のワタナベの読書経験と重なる。「ワタナベ」というキャラクターのバックボーンは、ほぼ村上春樹そのままといってもいいだろう。

他にも、T.S.エリオット、カポーティ、ヘミングウェイ、サリンジャー、ポール・オースターなどの作家の影響も、村上春樹作品の表現からは感じられる。
作中のキャラクター、レイコさんは、ワタナベにこう訊ねる。「あなたって何かこう不思議なしゃべり方するわねえ」「あの『ライ麦畑』の男の子の真似してるわけじゃないわよね」
また、そのワタナベが言う、「僕は本質的に楽天的な人間なんだよ」というのはおそらく、サマセット・モームの「雨」の娼婦のセリフから来ているのではないかと思われる。
村上春樹は、このような英米文学の唯美的な面やユーモア表現に、絶えず引っ張られている作家なのだといえる。
だから、「ノルウェイの森」のセリフやストーリーを、そのまま「男女の物語をリアリスティックに記録したもの」として受け取ると、よく理解できないのだ。

ところで、私が「ノルウェイの森」を読むとムズガユくなってしまうのは、ワタナベと同様に、私も大学時代、ホールデン気取りの部分が確かにあったからである。
また、ワタナベは女の子に「わたしどのくらい可愛い?」と問われて、「山が崩れて海が干上がるくらい可愛い」と答えたり、「どれくらい好き?」と問われて、「春の熊くらい好きだよ」と答えるように、レトリックを駆使して自らのユニークさを顕示するのだが、私も全く同じ覚えがあって、そのときの私の場合は、たしか「世界中のマグロが北大西洋に集結するくらい」とか答えていたと思う。
だから非常にワタナベのキャラクターは理解できるし、その一種のひとりよがりのレトリックで表現するナルシシズムというのは、ときに女の子が面白がってくれるのだということを、村上春樹は分かって、それをまた外側から自嘲しているんだろう、という屈折さえも類推することができる。
だから、「ノルウェイの森」は、リアルな恋愛ものというようよりは、孤独な青年のナルシシズム青春小説という感触が強い。
ホールデンのように、社会との相克に苦しむ青年時代というのは、各国共通のものであり、ワタナベもホールデンも私も、また多くの「アウトサイダー」であるというナルシシズムを持った人間に存在する「自意識」を、「ノルウェイの森」は扱っている。
そのことは村上春樹も自覚していて、ワタナベの兄貴分的存在の「永沢さん」に、「本質的には自分のことにしか興味が持てない人間」と指摘させている。そして、この「永沢さん」とワタナベを引き寄せたのは、スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビイ」だった。
作中でもたびたび登場する、ワタナベにとってのバイブルともいえる「グレート・ギャツビー」は、もちろん「ノルウェイの森」にとって重要な意味を持っている。

フィッツジェラルドは、「無法の」「黄金の」「大好況の十年」(フィッツジェラルドによると「ジャズ・エイジ」)といわれる1920年代アメリカ・・・ヘミングウェイとともに「放蕩で道に迷った世代」ロスト・ジェネレーションの代名詞でもある。彼が描き続けたのは、そのような表面的な「黄金の時代」の脆さ、そして失墜である。
彼の代表作「グレート・ギャツビイ」は、貧しい環境に育ちながらも大富豪となったジェイ・ギャツビーが、全てを手に入れながらも、彼が最も大切に思う女性に裏切られるという悲劇を描いたものだ。
恋愛小説の主人公として不的確な「ひどい男」ぶりを発揮するワタナベの造形、そして、それを囲むストーリー展開には、このようなフィッツジェラルド作品、「グレート・ギャツビイ」などに見られる特徴があることが分かる。それは・・・「依然は放蕩的であったが、今はまともに努力している」というダンディズム(これはフィッツジェラルドの「バビロン再訪」などによる)と、「夢が潰えた男」というダンディズムであり、これを描くことが、「孤高の魂」を描くということにつながる・・・というのである。

「ノルウェイの森」のなかでワタナベは、「グレート・ギャツビイ」が、「ずっと僕にとっては最高の小説でありつづけた」としているものの、「一九六八年にスコット・フィッツジェラルドを読むのは反動とまではいかなくても、決して推奨される行為ではなかった」とも言っている。つまり、当時の時代背景から見て、「小説家としての自分を形づくる上で最も重要な読書体験」において、自らをマイノリティだったというのである。同時に、当時の学生運動を、「こいつらみんなインチキ」だとも、登場人物に言わせている。
その主張の真贋はここでは問わないが、この小説では、それら「インチキ」だとされるキャラクターに焦点が当てられず、相互的な対立構造が発生していないところが、異質に感じられる点なのだ。
登場人物達が、マイノリティばかりなのである。そのために、作品は社会性をあまり持たされず、閉じた印象を与えている。

当時、柄谷行人や蓮實重彦は、このような、身の回りの文物のみで社会に対峙しようとしないような閉塞性について、「現実逃避」と見なしたが、これはその意味では的を得ているだろう。
だがこれは、フィッツジェラルド劇を、等身大の自分の青春小説に落とし込むときの、制作上の都合でもあったのだと思う。
その意味では、「ノルウェイの森」には、その閉鎖性の中に、ミーハーな同人誌的色合いすら感じられるのである。
だから「ノルウェイの森」とは、英米文学への偏愛と、作家自身の現在の状況が色濃く投影された、非常に私的な作品であり、また「まともな人間こそが社会から阻害される」ということを訴える、マイノリティの魂を正当化しようとする作品でもあるのだ。
故に、その意味では、全ての文章に意味があり、ある教養を持たない人間や、またはマスに属する人間たちには、ファッション以外の意味を持たないものなのだといえる。
「理解しあいたいと思う相手だっています。ただそれ以外の人々にはある程度理解されなくても、まあこれは仕方ないだろうと思っている」とワタナベに言わせているとおり、すでに執筆中に村上春樹は、この作品がマイノリティに向けたものである以上、万人に理解されないことを経験的に察知できているのだ。

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それでは、もう少し深く「ノルウェイの森」を読み込んでみよう。
「ノルウェイの森」は、大筋では三つの恋愛関係が描かれている。要約すると以下の通りだ。
1.直子、ワタナベ、キズキ
2.永沢さん、ワタナベ、ハツミさん(永沢さんの彼女)
3.ワタナベ、緑
※ちなみに、直子とワタナベと緑は、厳密には三角関係ではないため、直子とワタナベの関係は、あくまで「1」である。
ここで描かれた恋愛とは、実は執筆当時村上春樹を形成していた、作家としての個人的な状況、アイデンティティー・クライシスを描いたものであるというふうに読めるのである。

まず、「1」の関係を見てみたい。
幼馴染で「一心同体」のキズキと直子、そこに後から参加し、二人の関係の中に本質的に踏み込めないワタナベ、という図式である。
そしてこの関係は、キズキがガス自殺をして、直子とワタナベが交際を始めだしてからも、基本的には変わらず、さらにそれは直子が自殺するまで変わることはない。
キズキが自殺する理由は明かされないが、彼のパーソナリティは、破滅的な太宰治や坂口安吾、もしくは三島由紀夫を想起させる(ガス自殺したのは川端だが)。
そして、自殺の原因は、本質的には全く「知ることができない」のである。
「太宰治も駄目、三島由紀夫も駄目でした。」と、村上春樹本人が語り、ワタナベが「僕に分かるのはキズキの死によって僕のアドレセンス(青春)とも呼ぶべき機能の一部が完全に永遠に損なわれてしまったらしいということだけだった」と語っていたように、同年代の作家であれば当然あるべき、太宰・三島からの洗礼体験がなかったコンプレックスが、キズキというかたちで表出しているのではないかと思われる。
作中には、ワタナベが夏休み明けに大学に帰った際に、大学がまったく破壊されていなかったのを見て、「あいつらいったい何をしてたんだと僕は愕然として思った」と、皮肉めいた表現があるのだが、ここでワタナベが、「おいキズキ、ここはひどい世界だよ、こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会にでて、せっせと下劣な社会を作るんだ。」と思っている描写が象徴的だ。
自分とは異質ながらも、魂のレベルでは尊敬に値するべきだろう高次の精神が、無為にただ消費され、利用されてしまったことへ対する憤りが、ここで語られているように思える。

直子とキズキは、幼い頃から「一心同体」の関係にある。男と女が性交渉の無いうちにすでに一体としてあるならば、それはプラトンの「饗宴」で、エウリピデスによって語られる両性具有者「アンドロギュヌス」のイメージを与えられているだろう。その神話のなかで、アンドロギュヌスは、のちにゼウスによってふたつに引き裂かれることになる。
直子の告白曰く「濡れない」、「開かない」、つまりすでに現世において継続して「一心同体」であるからこそ、思春期を迎えても彼らはひとつになれない。しかし、ふたりが真に一体であるならば、キズキが死ねば直子も死ななければならないはずで、最終的に時間差で彼らは心中することになるのである。
よって実際に死ぬまで、直子は、失語症をともなう不完全な「一体の片割れ」として生を延長している存在、現世と死の世界のどちらにも足をかける存在であり、そのことを正確に自分の中で把握できてない彼女は、自分がどこにいるのか良く分からず、混乱していたのだ。

「だって直子は僕のことを、愛してさえいなかったから」というセリフからも分かるとおり、このふたりと、その関係に直接関与できない、部外者であるワタナベ…つまり村上春樹は、ここでは既存の文学がアプローチする女性と対峙し、傍観するしかない存在であり、それが、ギリシャ神話を持ち出して描かれているのは、驚くべき表現方法だと感じる。ワタナベに、ギリシャ演劇を専攻させているのは、これを強調するためなのだ。
ちなみに、直子は物語の進行上、都合のいいときに絶命してくれるのだが、これは、「ノルウェイの森」のなかでも言及されている「デウス・エクス・マキナ(古代ギリシャ演劇において、混沌としてしまった状況のなかに、突然神が現れ、一気に全ての問題にケリをつけてしまう)」そのものであり、その手法を好んで使っていたのが、「アンドロギュヌス」の悲劇を生み出したエウリピデスその人だったのである。
村上はわざとこのようなギリシャ悲劇の手法を持ち込んでおり、しかも、そこは自分が関与すらできない世界として描いている。
また、「ノルウェイの森」にも見られる、エウリピデスのギリシャ神話の引用は、ブローティガンがすでに著書「不運な女」にて、「ノルウェイの森」に先駆けやっていることである。

次に、「2」の関係を問題とし、ここに登場する「永沢さん」に注目したい。
永沢さんは、「裕福」な家庭で、実家は「医院」を経営しており、「東京大学」法学部の学生であり、卒業後は「外務省」に勤め、「ドイツ」へ行くような優秀すぎる「エリート」で、「時の洗礼を受けていないものを読んで貴重な時間を無駄にしたくない」と言うほどに「高潔な魂」を持つと同時に、しかし「俗物」で、魅力的なハツミさんと交際しながらも、複数の女性と関係し、それを隠しもしないような「冷酷な人物」である。
そして、ハツミさんは、彼のドイツ行きをきっかけとして捨てられることになり、ワタナベはその冷酷さを非難し、自らの行動を改め、女性との接し方を変えるようになる。
この「永沢さん」は、村上の主戦場が日本の文学界にあるならば、その文壇における権威なるもの、例えば「森鴎外」のキャラクターに近しいように感じる。
ことさら説明する必要も無いと思うが、鴎外といえば、古典を尊び人間の感情を超越せんとする「高踏主義」者であり、「優位な立場から、女を冷酷に捨てる」作品を書くような作家だ。
しかし、実際にこのモデルとなっているのは森鴎外ではなく、さらにそこに投影された吉行淳之介という見方もできる。
吉行淳之介は、日本文壇史上、最も派手な女性関係を持っていたプレイボーイの権化のような男である。
実際に、村上春樹は文壇の先輩・吉行淳之介の派閥に誘われ、銀座のバーに連れていかれたようなことがあったのだが、村上自身は居心地が悪く、ホステスとほとんど話もしなかったという。
さらに村上は、「昭和文学全集」への、「1973年のピンボール」収録の件で村上が出版社と揉めたときにも、仲裁に入った吉行の意に反することをしている。
本質的にこのふたりは、文学上の近しい同士であるものの、社会へのコミットの仕方や、女性の扱いという点で、相入れない存在なのである。
ワタナベは「永沢さん」のそのようなやり口に憤りを感じ、非難しているのだ。
そして、小説のストーリーと同じように、その確執が生まれた時点から、吉行-村上は関係を絶ってしまう。

では、そのような傍観するだけの、ワタナベを主体としたストーリーはどこにあるのか。村上自身の、文学への実際的なアプローチはどこにあるのかというと、それが「3」となる。
フィッツジェラルドの最初の短編集「フラッパーと哲学者」には、髪をショートにした奔放な女の子がヒロインとして描かれ、当時アメリカでは、彼女に憧れた巷の女性たちが、同じようにショートカットにすることが流行したという。ワタナベと恋愛関係となる「緑」は、まさにこのヒロインのことであろう。
この関係は、短編「冬の夢」でも描かれたような、「女の子に翻弄される」フィッツジェラルド文学の再現でもある。日本の文学が駄目で、フィッツジェラルドと同じ道を歩むことを決めたという、作家としての宣言が、ここであらためて成されているのである。つまり、「1」はよく分からなくて駄目だった、「2」も肌に合わなくて駄目だった、やっぱり僕は「3」しかない…。このような恋愛関係は、執筆当時リアルタイムの村上春樹の作家としてのアイデンティティをそのままミニチュア化したものなのだ。
日本の作家が、フィッツジェラルドを足場にすることのアイデンティティの不確かさ。やはり現実の日本でそのような作家で居るということは、エキセントリックな存在で居続けることであり、最終的には誰にも理解されないのだ、という孤独な恐怖を、半ば自嘲的に、自己分析的に、村上春樹は「ノルウェイの森」ラストで、カリカチュアライズして描くのである。
「あなた、今どこにいるの?」「僕は今どこにいるのだ?」と、いうように。

そしてこのラストは、全く別の意味合いとしても機能する。
ワタナベは作中、水仙を買って緑にプレゼントするが、水仙といえばナルシシズムの語源となった自己愛の美少年「ナルキッソス」のメタモルフォーゼした姿である。
青春時代とは(とくに村上のそれは)、このように、他人のために何かを行っても、結局は自分のナルシシズムに収斂してしまう…というようなことを認識して、村上春樹は客観的にそのチャイルディッシュさをも描いている。
「グレート・ギャツビー」は、フィッツジェラルドが「大人になるための作品」として書かれた特別な作品だと、村上春樹は著書で書いているが、トラン・アン・ユンが今回の映画化の話を村上に持ちかけたときに、彼は「ノルウェイの森」のことを、「僕にとって特別な作品」と言っている。そして「ノルウェイの森」は、19才から20才に成人するまでの話でもある。
このことから分かるように、「ノルウェイの森」とは、子供が大人になるという成長物語であり、またその際に超えるべき「境界」を描いた作品だというふうに見ることもできるはずだ。

その境界とは、作中で複数の人間によって繰り返される、「自殺」についての哲学的問題だ。
私たち人は、何をしたとしても結局いつか死んでしまう。
その「死」とは、個人の主観的存在を無にしてしまうものであり、客観的には、その人の存在が社会的枠組みの関係性の中から欠落してしまう事象であるといえる。
ドイツの哲学者ハイデッガーは、「死」は社会的に隠蔽されている事象だと指摘した。
「死」は、健全な社会活動を阻害する働きをする概念である。というより、「死」が所与のものであるが故に、逆に全ての社会活動が、そこから目を逸らすために発生したのかもしれない。
「ノルウェイの森」の主要な登場人物の多くは、身近な人物が死ぬことによって、その、隠蔽された本質に気づいてしまった者たちである。
だから彼らは、「死」にとらえられ、それを覆い隠そうとするまともな社会活動を送ることはできないし、それに没頭することができなくなってしまった存在なのだ。
だが、どちらが真に健全な存在といえるのだろうか。人間の本質が「死に至る病」にある以上、そこでその本質を気づかないようにやり過ごすという態度は、むしろ不健全であるともいえるのではないか。
「ノルウェイの森」では、このような、健全であるが故に非生産的であるような人物たちを、クロース・アップして描くのである。

死を意識するという意味で、直子と緑は近しい存在であるが、そこからくるリアクションが正反対であることは注目すべき点だろう。
直子は、ワタナベが阿美寮で幻視したように、彼にとって、人間を超越した存在になっていた。それは、無意味な知識を振りかざし、本質的なものから目を逸らしているインテリ学生を蔑み、「愛」に生きると宣言した、彼にとっての「生の女神」である緑とは逆の、「死の女神」としての位置づけであるといえよう。
ワタナベは、「生」と「死」の女神の間で右往左往している存在なのだともいえる。

ハイデッガーは、「存在と時間」において、要約すると以下のようなことを言っている。
今自分が生きているということは、死んでいないということだが、いずれ死ぬということは事前に分かっている。
「死」という存在を認知するからこそ、「生」を限定的なものと認知することができる。…つまり、生を本質的に理解し、本当の意味で覚醒し生きてゆくためには、「生」を、「死」が含まれたものと自覚する必要があるのである。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している
「ノルウェイの森』のワタナベの述懐は、ハイデッガーの言った意味と同義だろう。
つまり、成長し大人になるということは、「死」を「生」の中に受け入れ、人生を生きるという覚悟を決めるということだと、「ノルウェイの森」は言っている。
そして、来るべき死に対しての精神的拠り所として、対抗手段として、やはりフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」がとくに選ばれているのではないかと感じる。
「グレート・ギャツビー」の最後の一節(メリーランド州ロックヴィルのスコット・フィッツジェラルドとその妻ゼルダの墓にも刻まれている)は、以下のものだ。
「このようにして我々は絶え間なく過去へと引き戻されながらも、寄せくる波に向かって、その船を力の限りに漕ぎ進むのである」
これは、「ノルウェイの森」の、到達するべき精神的姿勢だったといえるだろう。

村上春樹は「ノルウェイの森」のことを、「特別な作品」と呼んだ。だから映画化を今まで許さなかったし、今回の映画化の際にも、脚本の入念なチェックを行っている。
彼にとって、何故「ノルウェイの森」が特別なものになったのか。それはおそらく、「ノルウェイの森」が、日本の文壇の持つ旧来の価値観への挑戦的意味合いがあったからだと思われる。
デビュー作から、「ノルウェイの森」までの作品において、また「ノルウェイの森」の雛形となった「蛍」という短編に至るまで、彼は日本文学の影響から遠い地点にいるように見えてなお、丸谷才一が指摘したように、日本文学の持つ叙情性が機能する、あくまで文壇的フィールドの上に留まる存在であったといえるだろう。
短編「蛍」の美しい叙情的表現と比べると、それを基に書き直された「ノルウェイの森」は意識的に、通俗的に変換されているように見える。
村上春樹が初めて、文学賞への親和的アプローチをすることをやめ、逆に、大衆的な分かりやすさと、ダイレクトに読者への関心を呼び起こそうとする方向へシフトチェンジしたのである。
「選んでもらう」という態度が、ある意味で幼児的であるとするならば、「ノルウェイの森」において自ら通俗性を纏った行為は、細身の青年作家としての自分との決別を意味するだろう。
このことで村上春樹は、「グレート・ギャツビー」を書いたフィッツジェラルドがそうであったように、訴求力と強度、社会的成功を手にすることになったのである。

結局、ベストセラーとして記録的成功をすることによって、村上春樹のこの試みは、文壇的インテリジェンスとは関係の無いところで裏付けられ、さらにこの一作のみで、彼は旧来の組合的なヒエラルキーの外にいながらも、クリエイターとしてトップの地位に君臨することになったのである。
そのようなヒエラルキーは砂上の楼閣であり、「大いなる幻影」であるということ。その下らなさを、「ノルウェイの森」において村上は、マルクス主義をしたり顔で滔々と語る似非インテリと重ね合わせることで、「お前らは偽者だ!」と吠えてみせる。
「ノルウェイの森」における「マイノリティであるが故にまともだ」という世界観は、このような価値観の歪みに対する憎悪がにじみ出ているように感じられる。

「ノルウェイの森」はこのことから、作品世界とともに、その「現象」までとらえると、フィッツジェラルドの精神を引き合いに出し、日本的な閉塞感と、有名無実化した、堕落した知性の正体を暴き、またそれが多くの人々によって支持されたという、極めて痛快なものでもあったということも指摘できるだろう。
「ノルウェイの森」とは、このように多面的な小説であり、村上春樹自身の体験に依拠している部分が多いため、映画化が極めて難しい作品だといえるだろう。
トラン・アン・ユンは、プロデューサーや村上春樹の助言のもと推敲を繰り返し、最終的に村上が納得しGOサインを出す脚本を作り上げた。
彼は、このような複雑に絡み合った原作の要素を、どのように処理し、またそこから普遍性を峻別し取り出そうとしたのだろうか。

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完成した映画を観るとわかるのだが、トラン・アン・ユンは『ノルウェイの森』において、もちろん「フィッツジェラルド」の必要性を感じていないし、その「本質」を無視したうえで、テクストを解体し、全く新たなものとして解釈し直し、別の作品として再構築している。
そのジャンプは、その難易度の高さから、非常に高度に刺激的でスリリングな知的体験を、観るものに与えることになる。

冒頭にて、高校時代の3人、直子、キズキ、ワタナベをカメラがとらえる。
ここは、とくにシネフィルの歓喜できる箇所である。構図とカメラワークによって、ゴダールやトリュフォー、ジャームッシュ、塩田明彦のように、「詩的」に、3人の関係を明示し得る箇所だからだ。
ここでは、「親密な直子とキズキ、そしてちょっと離れたワタナベ」という、関係がほんの短い、「アイスの棒フェンシング口移しソーダ味」、「プール抱きつき水中お腹」、「動物園フラミンゴ前くっつき」、「ひつじ園」という順番で駆け足で、しかし過不足なく描写され、そこからキズキとワタナベだけの俯瞰カットから「放課後ビリヤード」、そこからまた「キズキガス自殺」のシークエンスへと、立ち止まらずに到達することになる。
無論、映画は原作のダイジェスト的性質を持ってしまうのは分かるが、川島雄三のコメディ並の性急さである。この、トラン・アン・ユンの作品では今までに見られなかった、通俗的にすら感じられる演出はなんなのだろうか。
この映画の全編で繰り返し見られる、ジョニー・グリーンウッドのギターソロ、ドラムス、ときにCANのナンバー、ときに無音にて「数シーンを素早く流れるようにモンタージュで語る」という行為は、この映画の中で非常に顕著に見られ、そのくせシーン数のべらぼうな多さと裏腹に、長いシークエンスはそれほど多くなく、異例に忙しい映画なのだということもいえるだろう。
例えば、トラン・アン・ユンのオリジナル作品、『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』のシーン数と比べると、この異質さが際だつはずだ。
これはもちろん原作の要素の多くを取り入れる際の工夫ではあるものの、ひとつの劇映画としては、あまりにそっけない、ひたすら描写、描写の、劇的効果の薄いものである。
だがしかしその繰り返される長短のテンポの良さというのは、通俗的であるが故の小気味の良さを発揮し、また、逆に「長いシークエンス」に重大な意味を持たせることも可能になってくるだろう。

この早いモンタージュのシーンと、ゆったりとしたテンポのシーン。原作からエピソードを抽出するとき、何を駆け足でとばし、何をゆっくりと描写するか、もしくはカット、または追加したかが、トラン・アン・ユンのねらいをあぶり出すことになるだろう。
つまり、この映画においてゆっくり描写する部分はテーマに直結する、より大事なエピソードであり、駆け足で通り過ぎるところは、基本的には「状況説明」、「雰囲気の醸成」、「補足」する役割が主、ということになる。

そのゆっくり描写する部分とは、だいたい以下のとおりだ。
「キズキガス自殺」、「直子再会」、「直子誕生日の悲劇」、「緑登場~緑んちのベランダ」、「レイコさん登場~直子再々会」「夜の別人直子~草原の告白~私たち普通じゃないの~ハンドジョブ」、「プール」、「永沢さん内定~ハツミさんの苦悩」、「ブロウジョブ~直子最後の別れ」、「私をとるときは私だけをとってね」、「直子が死んだ~山陰で号泣~レイコ再会」「レイコとのセックス~エンディング」
これらは全て、小説でも主軸になっている、恋愛関係を描いたシーンであるということが分かるのである。
このような、テーマに直結するだろうシークエンスのみをゆっくり描写するという余裕の無さが、この映画をストイックで直線的な印象にしているとはいえるだろう。
そして上記エピソードの合間に、モンタージュ・シーン群が挿入されてゆく。
原作ではわりと描写が多かった「学生運動」、「ルームメイト(突撃隊)」のエピソードは、この映画の場合はテーマに肉薄しない箇所である。
また、原作の「緑のおかしな歌」、「火事」、「明るい葬式」、「緑のハンドジョブ」などは優先度が低い、またはテーマを曖昧にする箇所としてカットされている。

序盤で目を見張るのは、「直子再会」での、雑木林を歩く移動撮影だ。
ここでびっくりするのは、カメラの志向性のアンバランスさだ。コントラストは甘く、暗い諧調は非常に繊細に表現されるものの、明るい色には鈍感で、美しく輝くはずの、新緑の木の葉たちが、ほとんど真っ白にぶっ飛んでしまって、そのような豊かな諧調にて表現されるべき、湿度や温度の質感が霧散してしまっている。
『ノルウェイの森』の撮影監督は、『夏至』でもトランと組んだ、世界最高の評価を受けているリー・ピンビンである。瞬間的に、「これでいいのかトラン!?、リー・ピンビン?」と、のけぞってしまったほど、らしくない荒っぽい映像だ。『夏至』と比較しても、美しいとはとても言いづらい。
もちろん『夏至』においてもこのような光の特質というのは少なからず見られていて、しかしそれはノイズのように感じられたし、彼らにとってもそういう意味合いのものであったはずなのだが、本作では、そのような「不備にみえるもの」が隠蔽されず、逆に強調されているように感じるのである。
だが、映画の進行につれて、そのねらいは少しずつ分かってくる。
ここでは、『青いパパイヤの香り』の、試験管の中のような無機質な美とも、『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』の神秘的な森とも、全く異なる色彩設計がなされているのだ。
デヴィッド・リンチの多くの作品、例えば『アルファベット』や『ロスト・ハイウェイ』では、真っ黒な闇で空間を埋め、息の詰まる閉塞感を表現していたが、ここでは逆に、白でつぶすことで同じような効果を発揮させていた。
しかも、近景を暗く、遠景を白くと、立体的にそのような色彩と明暗のコントロールがなされているように見える。
ちなみに、これが一番分かりやすいのは、ワタナベが学生寮の赤電話から直子のアパートに連絡しようとするシーンである。
だから、同じように森を撮影しても、トラン・アン・ユンは、全く違ったメソッドで、全く違うものを撮っているということになる。この場合は、おそらくワタナベの内省的な世界観と、作品全体の閉鎖性を醸成するのに、大きな役割を果たしているものと思われる。

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このような現実の「森」の表現に加えて、もうひとつ重要なのは、「幻想の森」の表現である。
キズキが自殺した直後、ごく短い「アシナガグモが苔を伝って登ってゆく」…というシーンが挿入されているのを覚えているだろうか。これはじつはワタナベの内的表現で、ここから彼の「幻想の森」が繁茂していくことを表しているのである。そしてこの森は、ワタナベを死の方向へと誘う存在だといえる。
同様のシーンは、学生寮の自分の部屋の机で、直子からの手紙を読む部分でも挿入される。樹に付着した水滴のシーンと、イバラのシーンなどである。しかしイバラは逆に、ワタナベを生の方向へと引き戻そうとする役割を持っている。
イバラは、直子が手紙で「緑」について言及したときに突如ワタナベが幻視したものであり、そのとき彼はまだ治っていない手のひらの傷から、無理矢理に糸を引き抜き、血を流しながら、双方を愛することの苦しみに耐えようとするのである。ちなみに劇中では、ワタナベがゆきずりの女の子に「肘は体の中で最も鈍感な部分だ」(原作にはない)、と言っているが、肘とは逆に、非常に敏感な部分が「手のひら」なのである(これは、自分の手のひらを舐めてみると分かる)。
ここはワタナベが、「鈍感な肘で不特定の女の子を愛し、敏感な手のひらで直子と緑を愛する」、というメタファーである。

悲劇は伝播し、幻想の森は深みを増し、現実と化してゆく。
「ここは・・・どこ?」と雑木林でワタナベに質問する直子。「駒込だよ」と返すワタナベ。
もちろん、直子は駒込にいたのではない。現実と化した、直子の「幻想の森」にいたのだ。
「幻想の森」に時間は存在しない。
ワタナベの中の森では、「キズキは17才のままだし、直子は21才のまま」なのである。
直子は、彼女が草原で「私たちはこれからも生きてゆかなくてはならない」と言っているとおり、ワタナベが緑とつながろうとしたのと同様に、ワタナベやレイコさんらとつながることで、その努力を続けてきた。
しかし、「あなたの存在が私を苦しめるのよ!」とワタナベに叫び、また草原や寮で自分を失ったように、彼女は耐えがたいものに苛まれ続けたのだ。
それは、幻想の森のなかで、「キズキが17才のままなのに、現実の自分や周囲は歳を取り続け、彼と再び一緒になることができなくなってしまうという恐怖」なのである。
だから彼女は、一刻も早く死ななければならないという衝動にかられ、キズキの声の幻聴を聞き続けていた。
「18才と19才を繰り返すべきなのよ」と、二十歳の誕生日に語ったのは、この願望を指していたのだ。

雪の阿美寮で直子とワタナベが抱擁するシーンも、映画オリジナルの箇所である。
去りゆくワタナベを見送りながら、直子は死ぬ決意を固めているように見える。少なくとも、直子を演じている菊池凛子は、そういう演技をしている。
「私のことを忘れないで」と言っていた直子は、ここでワタナベを、自分を含めた死の呪縛から解放しようとする。これは、ワタナベに対する彼女の愛情からなのだが、そのことをワタナベは知る術がない。
よって「幻想の森」は、最終的に、現実の森と完全に区別がつかないまでに、ワタナベの現実に進入してくることになる。このような一連の箇所は、原作の問題を拡大させ、より正確に、あるベクトルに変形したものであるといえるだろう。

直子とレイコさんは、「私たち普通じゃないの」と言っているところで分かる通り、同性愛的な関係をほのめかしている。
そして、さらにそれだけじゃないことが分かるのは、ワタナベがマフラーを郵送されるシーンだ(原作では「葡萄色の丸首のセーター」だった)。
「半分をレイコさん、半分を私が作りました」と、手紙により説明されたマフラーは、直子とレイコさんが、ついに同一化してしまったという、不気味なサインである。不完全ながらもアンドロギュヌス的な結合を果たすことで、一時的な充足を得た、深い傷を抱えるふたりだが、原作同様、映画でもその片割れ、直子が死んでしまう展開となる。
この場合、直子とアンドロギュヌス的な結合を果たしてしまったレイコさんは、キズキに引っ張られ直子が自殺したのと同じように、自殺するしかなくはずである。
この「呪い」を解くには、レイコさんが、まず「レイコさん自身として」男に抱かれ、「女としての機能」を取り戻すことで、自信を取り戻し、自立することが必要なのである。なにせ、彼女は男に抱かれるのが7年ぶりで、「入らないのではないか」という強迫神経症的な夢を見るくらいなのだから。
そして、同時にレイコさんが「直子として」ワタナベに再度抱かれるという儀式も必要だった。なぜなら直子(レイコさんの中の)も自立しなければ、レイコさんから離れることができないからである。
注意しなければならないのは、ワタナベ以外の男と寝てしまうと、それは直子としてではなく、レイコさんとして抱かれることになってしまうので、儀式として完全ではなくなってしまうのである。
レイコさんは、部屋の照明を全て落とし、下着を着用したままで、ワタナベに裸身を見せることを極度にためらい、またワタナベもそれを無理にはぎ取ろうとはしない。
つまりここでは、性的興奮が、意図して除外され、「儀式であること」の強調が行われているのだ。・・・ワタナベが下着着用愛好家でない限り(そのために、原作にはあった、緑の「パンティを使ったハンドジョブ」がカットされているわけではないのだろうが)。

この直後に、森で「直子のもとからレイコさんが去る」というシーンが挿入される。これはふたりが引き裂かれたという表現であり、現実の情景ではないことが分かる。
これを逆に考えてみよう。これが現実の情景でないということは、この場所は「幻想の森」ということだ。
しかし、以前と違い、これはもはや阿美寮の森のシーンと区別が付かない。すでに幻想が現実と同じ重みを持ってしまったことの表れである。
この映画は、ワタナベが内的な「幻想の森」を作り上げるまでの道程を描いているのだ。
この事態は、ラストでワタナベが、自分のいる場所がもはや分からなくなってしまったということの理由づけともなっている。
その場所が、原作とは異なり、自分のアパートの1階に変更されたのは、その病理をよりはっきりと表現する手段なのだろう。もちろん、ここでは村上春樹の私小説的意味合いは洗い流される。この変更は、そのことの示唆にもなっていると感じる。

直子とレイコさんを分離する「儀式」は、原作でも大きな意味を持たされているし、映画と同様、クライマックスとしてカタルシスを提供する存在でもある。だが、映画はより明確に、この箇所へ収斂するように各シーンが構成されるような設計がなされ、より「意味のある」ものにしようという意志が感じられる。
だから原作はそれでも、多くの要素を含む、「アドレセンス」への決着をつけようとする、「1973年のピンボール」と同様の「青春小説」であろうとすることをやめないのに対して、映画は「愛」と「死」、そして「魂の解放」の物語を中心に据え、あくまでそこにテーマを集中させていることが分かる。
また、「緑登場」シークエンスでは、緑がやはり「エウリピデス」、また、原作には登場しない「アンドロマケ」の名を口にする。
アンドロマケは、トロイア戦争へと向かう夫ヘクトルを引き留めようとする「待つ女」である。
それは無論、ワタナベを待つ緑のことであり、そして、そこで語られる「一方的な愛の悲劇」とはまた、直子へのワタナベの愛の悲劇であり、キズキへの直子の愛の悲劇であり、永沢さんへのハツミさんの愛の悲劇なのである。そしてこれが、糸井重里演じる、ギリシャ神話の講義をする教授曰く、「何よりも深刻」だというのだ。
ちなみに、原作で引用されるのは「アンドロマケ」ではなく「エレクトラ」なのだが、この変更についても、テーマをより純化してゆく試みなのである。

原作の私小説的部分を、外科的手腕にて丹念に除去し、また各部のバイパス手術を行うことによって、より確固としたフォルムを獲得していくトラン・アン・ユン。このような的確な脚色の能力を持っている時点で、すでにトランの非凡な明晰さというのは証明されているだろう。
ただし、これだけではない。脚色が成功し、テーマがクリアーに表れているならば、映画『ノルウェイの森』は分かりやすい映画になっているはずではないだろうか。
しかしながらこの映画は、依然として原作のように、それでもなんとなく「分かりにくい」映画であり続ける、小説と同じようにミステリアスな表層を纏うということに、成功しているのである。

印象的な、荒涼とした岩礁でワタナベが慟哭するシークエンスが象徴的だ。
ワタナベはいくつかの岩場で、のたうちまわったり、うめいたりするわけだが、そのひとつは、岩の隙間に、定期的に潮が流れ込んでくる印象的な場所である。
演出をするとき、そのロケーションについて監督はどのように考えるだろうか。それが必要なものであれば、フレームに収めようとするだろうし、不必要であれば、除外するだろう。
しかしその印象的な、「岩の間から吹き出してくる潮」を、ワタナベの背後で、完全にフレーム内にとらえず、しかも、意図的にはずすことさえもしない、非常に曖昧な構図をとっており、美学的には奇態だといえる。
『ノルウェイの森』において、ロケーションはもちろん必要であるものの、そこに過剰に意味を持たせすぎてもいけないのだろう。
このような「劇的表現」と「ナチュラルさ」は、本作において、意図され、適切にコントロールされている。『ノルウェイの森』に劇的な部分や印象的な部分が少なく感じるのは、このような「過剰さ」の抑制が、多くのシーンにおいて機能するからだ。それは前述したような、作品の純化へと寄与するだろう。
真に見るべきは、ダイナミズムや映像的快感をあえて捨ててまで、本質に到達しようとする強い意志である。
従来の映画のように、美しいショットを重ね、「草原の告白」のように強い表現を連打することによって、観客を歓喜させることも、翻弄させることも、このスタッフの技量であればたやすいことだっただろう。しかし、トラン・アン・ユンは、そのようなものを期待する観客の、はるか先まで前進しているのである。
直子を演じた菊地凛子は、撮影時のトラン・アン・ユンについて、例えば森にいる直子をとらえたシーンの撮影時に、彼女の手前でフレームにおさまる木の枝に付着した水滴の位置を、監督自らが一滴一滴指先で調整するような、狂気を感じるほどのこだわりに驚嘆したという。
絵づくりにおいて、そして前述したような脚本の細かい部分で、そこまで徹底してコントロールしようとする監督が、曖昧にも見えるシーンをいくつか撮っているという不気味さに、我々は注目するべきだろう。そこには、意図した「曖昧さ」(多義的さ)という、明確な意図があるのである。不安定にブレたり揺れるカメラのアクションさえも、ヌーヴェルヴァーグ的な即興を装った、緻密な計算の結果なのだ。
このことは、連続する美しい近視眼的ショットで、明敏さを打ち壊し、表面的な隙を見せながらも、それでも被写体の姿や表情を的確に捉えることができているということからも、類推できるはずだ。
驚嘆すべきは、このような「有機的揺らぎ」を、あくまで脚本の意図に沿った上で、意図的に発生させるというような試みを、部分的ではなく、映画全体に通低させているという点である。このような大掛かりで意欲的な作品を、私は他に知らない。
こういった革新的な試みがなされているということに気づく観客が非常に少ないのではないかと思うのは、かつて映画は、このような作られ方をされたことがなかったからである。

しかしヌーヴェルヴァーグが依然として、映像的に最も刺激があり美しく感じる以上、このような、トラン・アン・ユンによる新しいメソッドは、逆に普遍的なものであるだろうし、これからの映画が辿っていくべき、進化の道標であるように思える。
だがこのような楽しみ方が、観客に浸透していないこと、また単純に手がかかりすぎるという問題があるということから、同じ道を辿ろうとする作家が多く出るということは、かなり難しいだろうと想像はされる。
それでも、私はこのような映画が、これからの映画のスタンダードなメソッドとして確立し、認知されていくことを望んでいる。

CANの楽曲セレクト、ジョニー・グリーンウッドの、『ノルウェイの森』よりはいささかインダストリアルな風味の『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』と比較して、はるかに複雑さを獲得したスコアからも、そのような革新性を意図しただろう事実を感じることができる。
結果として『ノルウェイの森』は、その意味で、一般的には評価しづらい出来となっているのだが、私はこれを、表面的に「良くできている」ように見える、甘いキャンディーのような分かりやすい快楽よりも、はるかに意義のあるものだと感じているし、その、未踏の地に踏み出そうとする姿勢を全面的に支持する。

「草原での告白」の長回しで、直子とワタナベがジグザグと横切る姿を追ってゆく移動撮影は、原作に無い野外での会話シーンであると同時に、本編の中で最もダイナミックなシーンだ。
直子を演じる菊地凛子の泣き出すタイミングが神がかっていて、この瞬間、小説や脚本の意味性さえも、無効化するような凶暴さに、観客はたじろぐことになる。
この直後、控えめにその不気味さの醸成を助けていたジョニー・グリーンウッドのオーケストラによる美しい不協和音は、より不気味な、彼自身のオーケストラ2作目となる”Doghouse”の、印象的な冒頭部分に突如代わることになる。
リー・ピンビンの移動、菊地凛子の絶叫、ジョニー・グリーンウッドのスコアと、「小説の映画化」という枠をはみ出そうとする表現が、ここで大海衝を起こすのである。
このシーンは、映画史にもほとんど例を見ない、凶暴でレベルの高いスペクタクルであると同時に、その要素のひとつひとつが規格外であるが故、あまりにも繊細で、すぐにも折れてしまいそうなはかなさをも感じ取ることができる、希有な映像体験であったことを指摘しておきたい。
「彼女は、僕のことを愛してさえいなかったのだから」
この草原での告白を思いだし、ワタナベは、永沢さんが「下劣な人間のやることだ」とサジェッションした、「自分に同情する」ことを、自らに許してしまう。
このときの慟哭するワタナベを演じた松山ケンイチの、TVドラマ「銭ゲバ」で確立されたヨダレ芸は、抜群の粘度を誇り、まるで「死」のようにワタナベの体にまとわりつき、また観る者にも絡みついてくるようであった。

2 thoughts on “『ノルウェイの森』 村上春樹文学と映画を徹底検証

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