『あしたのジョー(2011)』 受け継がれぬ梶原一騎の精神性

私が梶原一騎(高森朝雄)のことを、劇画・漫画原作者として偉大だと思うのは、自分の哲学や世界観を、誠実に作品世界内で表現しようとするところだ。
例えば、「タイガーマスク」では主人公が誰にも知られずトラックに追突され突然死ぬし、「巨人の星」では、「野球は、大リーグのように、でっかい男がでっかいグラウンドをノシノシ走る、そういうものなのだ」と、さんざん「大リーグボール」を投げ続けた主人公が、試合中に心の中で敗北宣言をする。
このような展開は、少年漫画の常識では、とても考えられない。読者の夢を壊しかねないからだ。

また、小島剛夕が絵を描いた時代劇画「斬殺者」では、剣豪の使った必殺剣を説明するときに、突如ナレーションが入って、「今の動きを、現代の巨人軍の王・長島と比べてみよう…」と、長々と講義が始まったりする。
通常の作家であれば、時代劇の動きを、王・長島と比べることはあり得ない。現代の事物を表に出すことにより、一気に興ざめするからだ。
そして、説明にページを多く割くことも避けるはずだ。テンポが悪くなるから。
しかし、そういうことをちゃんと分かった上で、彼はあえてそれをやってしまう。
それは、そこまでしても、その技の動きについて、本当に詳細にしっかりと伝えたいと思うからだ。

梶原一騎は、凡百の漫画家たちが希求した、「読者を楽しませる、興奮させる」目的以上のものを持っている。
それは、自分の思う「真実」に正直であろうとすること。社会とは、世界とは、こういうものだということを伝えること。
きれいごとの夢を語るのでなく、その代償を払わせられるところ、そしていつかそれは潰えてしまうということ、そこまで描ききってしまう。
だからそこには、あくまで作りものの物語ではあるものの、作者の魂が宿ろうとするである。

「あしたのジョー」の主人公、矢吹丈が「真っ白く」なる最後の試合、世界チャンピオン、ホセ・メンドーサ戦の展開でも、その姿勢は顕著だ。
通常、スポ根漫画において、最後に主人公が戦う敵は、桁違いに最強であるべきだ。
事実、リアリティを徹底的に重視しようとした、小山ゆうの後年のボクシング漫画「がんばれ元気」でさえ、そのような描き方をしている。
しかし、「あしたのジョー」は違った。
確かに、ホセは凄まじいテクニックとインテリジェンスとフィジカルを持ち合わせたチャンピオンだったし、ジョーとの試合が始まっても、数ラウンドまでは、完璧な最強のボクサーだった。
だが、油断して数発打ち込まれてしまったホセを見て、ジョーは彼の弱さに気づく。
ホセは、最強であるが故に、今まで相手に何度も打たれた経験が無かった。そのことで、タフネスが弱いボクサーとして、チャンピオンになってしまっていたのだ。
ワザと敵に数発打たせて観衆に顕示する、彼の試合でのパフォーマンスは、じつは、彼自身の弱点を隠すための、ペテン的行動だったことが判明するのである。
そして、何度ダウンしても立ち上がる野獣的なジョーの闘争本能を目の当たりにし、ホセは心底おびえることになる。
彼は人生の中で、家族を最も大事に考える男だ。この試合で廃人、もしくは死に至ることを覚悟するジョーに付き合って、命のやり取りをするわけにはいかない。
こうなってくると、技術やパワー、経験で完全に劣るジョーにも、わずかな勝機が生まれてくる。自分が何度打たれようと、決定打をヒットすることができれば倒せるのだ。

こういう描き方は、健全な少年漫画の爽快さとは異なる次元のものだ。
死に向かうこと事態が不健全であることはもちろんとしても、そうやって倒すべき最後の相手は、強大な悪のパワーか、共に切磋琢磨する良きライバルであることが定石だ。
ホセは、自分と家族を守ろうと、主人公の殺気から逃れるために、懸命に拳で自分の身を守ろうとするだけの男に成り下がるのだ。
そして真実、ボクシングとはこういう面を持ち合わせており、同時に人間とはこういうものであり、さらに、「王座を防衛」するということはどういうことなのか、その本質さえ描こうとする。

「誰と誰が戦うとどっちが強いか、なんていう想像は意味が無い。双方がある程度の実力者であれば、その日の体調や精神状態、周りの地形、温度、展開や運などによって、結果がどうにでもなり得るからだ」と、どこかの格闘家が言っていたが、そのとおりだと思う。
小山ゆうは最新作の「あずみ」で、そのような描写に成功しているのだが、どんなに強い人物でも、どんなに高潔で正しい心を持っていても、くだらない奴にくだらない方法で殺されたりするのである。
例えば、田んぼで足を取られて普段の足の速さが活かせないとか、敵のやみくもに投げた石が目に当たったりとか、そういうことで死んだりする。それが、世の人が経験から気づいている、「人生の真実」だ。
しかし、漫画にしろ映画にしろ、そのような法則が活かされているものはむしろ稀である。
であるがために、ほとんどの作品は、安心感の中で、予定調和を保っている退屈な、勧善懲悪の、チャンバラ形式美の次元から逃れることができないでいるのである。

ジョー対力石戦では、力石の強打を喰らって足がフラつき、朦朧としながら振り回していた拳が、力石の即頭部に偶然ヒットする。
そして、その際のダメージが元で、力石は死に至ってしまう。
現実には、弱い側のまぐれ当たりが、強い側をあっけなく死に至らしめることもある。
これが人生であり、ボクシングである。そしてこのようなことが起こりうる世界のそのままの厳しさを、「あしたのジョー」は我々につきつけるのである。

「あしたのジョー」の映像化作品といえば、長谷部安春監督の実写映画もあるが、出崎統監督のTVアニメーション、または映画版の「あしたのジョー」、「あしたのジョー2」が最も有名だろう。
出崎監督作は、「止め絵」や動きのリフレイン、スローモーションなど、非常にアクが強く個性的な、しかし一貫した演出スタイルをとる監督で、この2作でも、それが顕著である。
残念な部分は、例えば原作でよく描かれた反則技や、そういったジャッジが作品内で減っているのが象徴的だが、ダークヒーローであるべきジョーを、いささか英雄的に描き、テーマを多からずスポイルしているきらいはある。
ただ、それを差し引いても、ちばてつやの可愛らしい絵を、非常にしつこい極太の輪郭線でゴリゴリと描いた豪快さや、逆に少女マンガのように輝く、艶やかな色っぽい瞳がらんらんと輝くような迫力を付け加えたという点には圧倒される。
試合の描写についても、呆れるほどしつこい誇張的表現を繰り返し、最も驚くべき演出として、ジョーの嘔吐物までが、透過光を用いて、キラキラ、キラキラと美しく輝くという、驚異的なアイディアを採用したというのは、伝説的な冴えだった。

力石徹の葬儀までとりおこなったという、原作ファンの寺山修司の、テーマソングの作詞もすごかった。「行け、荒野を おいらボクサー」という、「力石のテーマ」の詞も、「あしたのジョーのテーマ」同様に良かったが、「力石って、一人称おいらだったっけ?」という問題や、「おいらボクサー」っていうのは、「おいらは僕さ」というギャグなのかという、永遠の疑問を我々に残した。

この、いろいろな意味で圧倒的な、出崎統のジョーが世に出ている以上、「あしたのジョー」の映像化作品は、これを基準として考える必要があるだろう。
今回の『あしたのジョー』の、曽利文彦監督がこれを見てないはずがないし、アニメーションと実写の違いがあるとはいえ、後発の作品は、後出しである以上、もちろん先発を乗り越えることが期待されるからである。

曽利文彦監督の最も成功した監督作は、初監督作の、松本大洋原作『ピンポン』だろう。
『タイタニック』のCGアニメーションを手がけたという金看板を下げて、日本でも着実にキャリアを積んだ、彼のVFX技術が、ピンポン玉といういささか低いハードルを快調にクリアーし、また窪塚洋介の、役への完璧なマッチング、宮藤官九郎の最高の時期の脚本、砂原良徳もプロデューサーとして参加した、この後まもなく解散するSUPERCARなどの手がける先鋭的なサウンドが組み合わさり、映画は結果的に奇跡的なクォリティに到達したのだった。
しかしながら、その後の曽利文彦監督作は、『ベクシル 2077日本鎖国』、『ICHI』と、内容的にも興行的にも全く振るわず、だから今回、もう一度『ピンポン』同様、「漫画原作」の線で、映画監督としての信用度をチャージしようという目論見があるんだろうということが想像できる。
しかしながら今回は、主演がジャニーズのアイドルグループ「NEWS」の山下智久(以下山Pと呼ぶ)だし、『ピンポン』と比較してスタッフに特筆するタレントが見つからないし、エンディングで使用される主題歌が、内容とイメージが全くそぐわない宇多田ヒカルだったりして、そういう意味で、かなり窮地に立たされた状況だったのだと言っていいと思う。

キャストで白眉だったのは、力石徹を演じた、伊勢谷友介だろう。
風貌、佇まい、存在感、そして、本当に強そうなシャドウ・ボクシングの完成度など、ちゃんと漫画のキャラクターに近づけているのに驚かされた。
彼については、何も文句はない。アゴがシャクレてさえいれば、完璧であった。

だがそれに比べ、他のほぼ全てのキャスティングには、大いに疑問が残った。
ジョーを演じた山Pは、この映画の企画を成立させるための役割が大きかっただろうから、始めから負債として勘定に入れるべき存在ではあるのだが、それでも原作で見せる「人間凶器」矢吹丈のヤバさをほとんど感じない、かといって、また同時に原作で見せる、「子供たちの明るい人気者」の面すらも感じない、ただ陰気なだけの男だった。
彼の役の理解、台本の読み込みは、いったいどんなものだったのだろうか。
また、演技指導するべき監督、もしくはキャラクターを新たに造形し直した、もともとの脚本家の意向はどんなものだったのだろうか。
誰が悪いのか、もしくは全員が悪いのかもしれないが、ジョーに全く精細がなく、活き活きとしていないのは、大問題だといえる。
本作では原作と同じく、ジョーはドヤ街の子供たちに慕われ「愉快なお兄ちゃん」的存在になるのだが、この、どこまでも暗いキャラクターのままで、紙飛行機を飛ばしてみせただけでは、全く説得力がない。
故に、感情移入を阻害する原因となっており、この魅力の無さは、スポ根ものとしては致命的である。

そして、この時代の貧しい青年ジョーの髪が、サラサラにトリートメントされているのは、本当に気になる。
私はこれを、「L問題」と呼んでいるのだが、それは、漫画版「デスノート」、映画版『デスノート』で、世界で活躍するエキセントリックな天才探偵「L」が、サラサラでストレートの髪質で、レイヤー分けされた、いわゆる日本の「モテ髪」であるという、あの問題のことである。
Lは美容院に行って、「モテ髪にしてください」とか、「ジャニーズっぽくお願いします」とか言っているはずなのである。それに対し、「ふざけるな!」と感じる、私たちの意識を、私は「L問題」という言葉に集約させた。
「L問題」はもちろん髪型に限らない。
これを軽視する映画は、リアリティに欠け、共感を呼びにくくなるのである。

ただ、パンチを食らうシーン、腫上がった顔で敵を見つめる山Pの顔には、原作に近い、ジョーのヴィジュアルを感じることが出来たのが救いだった。

白木ジムの令嬢、白木葉子役には、何故香里奈がキャスティングされたのだろうか。
背が大きいのにも関わらずヒラヒラなお嬢様風衣装だったのも非現実的なためか、ただファッションモデルが映っているようにしか見えなかった。まあ事実、モデルが映ってるんだけど。
その原因は、もちろんその場その場での適切な演技プランや、表現力の圧倒的な乏しさからくるものである。
お嬢様っぽくもない、また演技力のない彼女を使うことに何の意味があるのかは、私には分からなかった。
長谷部安春版では、高樹蓉子がこの役だったが、圧倒的に彼女の方が素晴らしかった。

そしてこれは演技がどうこういう以前の話なのだが、ドヤ街の住人達のリアリティの無さには、さらに驚かされた。
というより、いらないキャラクターしかいなかった。
モロ師岡が演じた食堂のおやじは、面白くも味わい深くも無く、この映画の何に寄与しているのか全く分からないし、杉本哲太演じる、自己紹介するだけで、他に何の見せ場もない謎のヤクザは一体何のために現れたのか何の説明もされない。
倍賞美津子が演じた、アル中のおばちゃん、「花村マリ」とはなんだったのか。ヒロイン紀ちゃんを登場させなかった代わりの存在なのだろうか。これも、末代までの謎になりそうである。

そして、そこに魂が宿らない理由のもうひとつは、美術と撮影の、質の悪さだろう。
先日、林芙美子原作、千葉泰樹監督の『下町(ダウンタウン)』を観たのだが、戦後間もない市井の、荒廃した家々が、非常に立体的に、また重量感と不気味さを持って、主人公達の周りをとりまいていた。
このようなコストをかけた、素晴らしい東宝、大映などの見事な汚しセットのレベルまで到達しろというほど、無茶でナイーヴなことは言いたくないが、それでも、当時の市井の生活を熟知したスタッフや研究者に考証させること、表現主義的な、アングルやカメラワークを駆使することで、ここはもっともっとマシなものにできたはずなのである。
現在の日本映画の問題とは、以前の、豊かな撮影技術や伝統などが、ほとんど壊滅してしまったことが最も大きい。
しかし、真摯に勉強しようとする志や、本質をとらまえる明晰ささえあれば、過去の作品から継承することは、間接的には可能なのである。
黒澤明の映画が、どれほど海外の作家に影響を与えたか、そこから優れた作品が生まれているという事実を考えてほしい。
監督や撮影スタッフ、美術スタッフは、こういった作品を撮るのであれば、少なくとも過去の優れた映画の、市井の描き方をリサーチすべきだろう。
これでは、コントの書き割りの延長線上でしかないし、いくら彼らに潤沢な資金を渡したところで、書き割りの豪華版を作ってしまうだけだろう。唾棄すべき怠慢だ。
分からないなら、勉強してから撮れば良いだけのことである。
例えば、それがルネ・クレールやマルセル・カルネでも良かったと思う。
そして、例えば黒澤明の『天国と地獄』のような、「山の手」と「下町」を同じ構図の中でとらえるような、カリカチュアライズされた絵も無ければ、フリッツ・ラングや宮崎駿のアニメーションのような、豊かな地理的知識も構造も投入されず、ただひたすらにセリフで、概念としての貧富の問題が語られるのみである。

それでは、今回の『あしたのジョー』で、監督が見せたかったポイントとは何だったのかというと、主に試合のシーンの漫画的演出だろう。
ここは基本的に、前述の出崎演出に負うところが大きいのだが、「あしたのジョー」における日本の観客の、集合的意識にある、極端な演出の再現なのであるが、例えば『マトリックス』がそうであるように、漫画を無理矢理実写にするような楽しい違和感に溢れ、ここはなかなか成功していると思わせる。
最も興奮させるのは、これも『マトリックス』でやられたことだが、必殺技「クロスカウンター」時のマシンガン撮影(?)による、被写体への回り込みだろう。
『マトリックス』が先にあるため、ことさらオリジナリティがあるとは言いかねるけれど、男子の心として、「必殺技を、色々な角度からじっくりと見てみたい」という、どうでも良い願望を、キッチリと叶えてくれているのである。
『マトリックス』では、カメラが回り込みながらも被写体が少しずつ動いていたのが素晴らしく、「バレットタイム」と呼ばれたのだが、それに対し今回の「クロスカウンター」は、完全に被写体が止まっており、退化した表現のような印象を受けるものの、しかしここはこれで正解なのである。
もうひとつ素晴らしいのは、パンチを受け、醜く歪んでいく顔の肉を、高速度カメラでとらえた演出だ。
ここまで顔がゆっくりと、美しく醜く変化していく様をとらえた映画を、私は他に知らない。
髪の毛が一本一本、意志を持っているかのようにゆらぎ、汗が一滴一滴飛び散ってゆく様は、これだけでなかなかの価値を持つだろう。

このような熱さを表現し得たこと、「燃え尽きることはこういうことだ」という、ジョーと力石の破滅的な躍動を描写できたことは事実で、この一点において、非常に不完全でたいへん不満ながら、今回の実写版『あしたのジョー』は、かろうじて及第であるといえるだろう。

ただ、シナリオの弱さと、ドラマ部分の演出の稚拙さは否定できない。
一番許しがたかったのは、死闘の後、息を引き取った力石の控え室に、ジョーが駆け込んだ後の展開だ。
出崎演出では、ジョーは扉に寄りかかり、死んだ力石を見つめながら、何もできなくなる。
これは、これまでのジョーのキャラクターにある、能動的で直情的な部分を覆すことで、この悲劇が、ジョーに与えた精神的衝撃の深さを物語る、効果的な演出として成功している。
では今回の実写はどうかというと、山Pは泣きながら、遺体を揺り動かし、「りきいしー、りきいしー」と、幼児的に呼びかける。悪夢的コントのようである。
この部分、原作の該当箇所は失念してしまっていて、原作に近くなってるのかもしれないが、これはないだろう。
また、原作にあった深夜の公園での「ふふ、殺しちまったよ」という、冷笑的な述懐も無いことになっている。
ここは、よくやっているロールモデルがあるにも関わらず、最悪の選択をしてしまっている箇所だ。

一年後、失踪していたジョーが、泪橋のジムに帰って、そこでシャドウ・ボクシングをする力石を幻視して、映画は終わるのだが、この流れも、とっても陳腐である。
力石死亡までの、この映画での脚本の流れならば、原作やアニメにあった、「ウルフ金串とゴロマキのドラマ」を最後に挿入し、そこで失意のジョーが立ち上がるようにすれば、もっと意義深いものになっただろう。
というか、たぶん初期の脚本はそうだったのではないかと思う。
杉本哲太の、なんで登場したのかサッパリ分からないヤクザと、試合以外のシーンでは、セリフもなくただ叫んだだけのウルフ金串の存在が、ここで回収されるからである。
それがフイになってしまった理由は、力石との勝負をあくまでメインに持ってきたかったという、リズム上の問題と、上映時間の問題などがあるだろう。
故に、ウルフとヤクザは存在価値の微妙な、不自然な役となり、物語は平面的なものとなってしまった。
これでは、ジョーの精神的葛藤という大事な「核」が抜け落ちているように見え、たいへん無責任に感じられる。
例えば、『剣岳 点の記』や、『アバター』でも、一番あるべきシーンが抜け落ちているという問題があった。
脚本では、もちろん効果的な省略が必要なのだが、あるべきシーンを削ってしまうということは、あってはならない。

無いといえば、ブタの大群を利用した脱獄のエピソードや、減量中のマンモス西が、こっそりジムを抜け出して、夜な夜な屋台のうどんを食いに行くエピソードも割愛されていた。
一応、刑務所でのケンカのシークエンスで、うどんを鼻から出す描写はあったが、あれでは到底収まりがつかないだろう。
何故なら、深夜うどんのエピソードは、鼻からうどんを出すことが重要なのではなく、「常人であれば、減量に耐えられない」という事実を見せたいのであり、そこでさらに力石の辛苦が、ヒリヒリと痛みを持つはずだからなのである。

私が先述したとおり、梶原一騎の勇敢な姿勢は、このような時間的制約や台所事情よりも、真実を希求するという部分にある以上、実写版にも、それに準じる姿勢があるべきではなかったか。そのように思う。

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