『アリス・イン・ワンダーランド』 健全に漂白された世界

ケヴィン・スミス監督による、キリスト教の布教を題材とした痛烈なブラックコメディ、『ドグマ』の冒頭は印象的だ。
マット・デイモン演じる青年が、ジャンボ旅客機でたまたま隣に乗り合わせた若い修道女に様々なヨタ話を吹き込み、「神はいないのだ」と思い込ませてゆく。そして空港に到着した頃には、彼女は完全に教義(ドグマ)を捨てさって、その場で修道服を脱ぎ捨ててしまう。
しかし、じつはその青年の正体は、神から下界へと追放されている堕天使ロキであり、その説得行為は、神へのネガティヴ・キャンペーンだったのだ…!
この、教義を捨てさせるヨタ話として、彼はルイス・キャロルの児童文学、「鏡の国のアリス」のなかの、「セイウチと大工」という、マザー・グースの詩を基にした部分を引用し、その宗教的な暗喩を指摘している。
実際にルイス・キャロルが、宗教批判の意味をそこに込めているのかは、私には分からない。しかし、そういった謎めいた解釈を許すような余裕と曖昧さが、「不思議の国のアリス」や「鏡の国のアリス」の特徴であることは確かだ。

児童文学「不思議の国のアリス」・「鏡の国のアリス」とは、現実社会や人間心理を風刺・象徴しながらも、論理的整合性が狂った、魅惑溢れるマニエリスム的悪夢世界を扱ったものである。
読者が内容を理解できそうになると、劇中の芋虫によるパイプからの煙幕によってアリスがケムに巻かれるかのように、ナンセンスな問いかけが表れ、非論理の森に迷わされてしまう。
何故この作品が、出版当時から現代の多くの読者にまで、熱烈に愛され続けるのかというと、美麗な文体とジョン・テニエルによる、愛らしくエロティックな挿絵も影響が大きいのはもちろんだが、前述した、つながったりつながらなかったりする「夢の論理」が非常に蠱惑的であり、また普遍性に満ちているからだ。これこそがアリス文学の魅力の核といえるだろう。

こういった象徴主義的手法の優れている面は、「秘めた風刺・批判や寓意を込められること」、その上で「論理や社会通念の呪縛から自由であること」、「抽象性・普遍性の獲得」、「表現上の多くの制約を無視できること」、「チャプター同士が、等しく独立した価値を与えられること」などがある。
もともと、伝承やマザー・グースの詩、中国や日本の文学などにも、このようなポテンシャルは見られたが、このような作劇術は、人類が当然発見すべき金鉱脈であり、ルイス・キャロルが意識的にそれを豊かに児童文学として構築したことはエッポック・メイキングであったものの、そうでなくとも、後年、他の誰かが嗅ぎつけていただろう。

さて、ルイス・キャロルの愛すべきアリス文学は、100年以上も前から、数多く映像化されてきた。
今回のティム・バートン版は、ディズニーのアニメーション『ふしぎの国のアリス』を基に、成長したアリスが再び不思議の国に迷い込み、剣を握って王国の危機を救うという趣向だ。

ディズニーアニメーション『ふしぎの国のアリス』は、「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」を翻案しながらも、非常に良くできた傑作だ。
それは、もちろんアニメーションという制約上、ジョン・テニエルの挿絵のような、優れて繊細な領域にまでヴィジュアルを向上させるまでには至らないものの、アトラクション「イッツ・ア・スモール・ワールド」も担当した天才的なアーティスト、メアリー・ブレアによる全体への豊かなイメージも、作品世界を充分に美しく表現するということに寄与していたし、何よりも、アリス文学の魅力を損なうことのないように、作品を構成する柱を、丁寧な態度で、壊れないようにしっかりと残し、翻案した脚本を作り込むことができたという功績が最も大きいだろう。
もちろん、ここに奇跡が起きているというわけではない。監督や大勢の脚本家が、真摯に作品に取り組んだ結果が、ディズニーアニメーション『ふしぎの国のアリス』を、充分にミステリアスで、愛らしく、エロティックに存在させているのだ。

ここまで言うと、今回のティム・バートン版が、いかに間違った作られ方をしているか、いかに原作の意図を理解していない、または無視しているかという事実が、浮き彫りになるだろう。
アリス文学の核とは、現実との関連性を持ちながらも、ナンセンスな非論理世界を舞台とした、「夢の論理の作劇」である。
ティム・バートン版に、そのような優れたナンセンスさがあるだろうか。さらに寓意、風刺、抽象性があるだろうか。
アリスの迷い込むワンダーランドが、主に悪い意味で、非常に理解しやすく、何が何を象徴しているか、子供でも容易に分かってしまうのは問題ではないだろうか。
赤の女王が権力を振り回す悪の王国は、姉が体現する「幸せな人生」を象徴しており、それは、欺瞞とまやかしの中で成り立っており、それを守護し担保するのは、「社会通念」という巨大な怪物というように。
そこには、謎めいた暗喩は存在せず、社会性をそのまま愚直に「アリス的なるもの」に置き換えたようにしか感じられない。
故に、もはやアリスはワンダーランドに行く必要すらない!現実で思い悩み、勝手に自己啓発をしてれば良いだろう。
近親者や関係者の前で、勝利宣言をしたアリスが、(周囲の人間にとって)意味不明な踊りを見せるという行為が、極めて馬鹿らしく見えてしまうのは、そのためだろう。

今回の『アリス・イン・ワンダーランド』は、単純な「悪い魔王とモンスターを打倒し、ファンタジー世界に平和をもたらす」という、使い古されたテンプレートに、アリス風の要素を添加しただけに過ぎない。
それを証拠に、お馴染みの不思議で狂ったキャラクター達は、整然と論理性を持って、打算的な行動しか取っていない。
キャラクター達は、「お前、本当にあのアリスか?」と言っていたが、そう言っているお前らこそ、「誰だ?」と言われかねないほど、異常なほどにまともになっているのである。
そして、入れ子構造になっているその物語が、ただ「アリスの自己啓発」や「女性の地位向上」などへの方向へフォローする役割を果たすだけなのは、極めて不幸だと言わざるを得ない。
結果として、ルイス・キャロルの文学とはほぼ何の関係もない作品になったばかりか、代わりとなる美点を見つけづらい、非常にありきたりで保守的な失敗作となってしまっている。

見どころは少なく、いくつかの細かな美術の面白さと、レイ・ハリーハウゼン風の、モンスターとの決闘シーンくらいだが、これらはアリス文学を題材としなければならない箇所ではないはずだ。
ティム・バートンはどういうつもりでこのような作品を制作したのだろうか。
おそらく、ディズニーや株主などの意見を尊重した結果なのだろうとは思うが、『ゴジラ』を愛し、畏れ多いという理由から、ハリウッド版の監督を辞退したティム・バートンは、おそらく『ゴジラ』ほどの愛情を、アリス文学や、ディズニーアニメーション『ふしぎの国のアリス』に対し、持っていなかったのだろう。
『ピーウィーの大冒険』の方が、よっぽどアリス映画だったよ。

2 thoughts on “『アリス・イン・ワンダーランド』 健全に漂白された世界

    ピンプル へ返信する コメントをキャンセル

    メールアドレスが公開されることはありません。