『スカイフォール』とは何だったか ハイランドの大地に刻み込まれたもの

エンターテイメント作品でありながら、時代錯誤ともいえるサイレント期の芸術作品のような、極端な表現主義への回帰。そしてまがまがしいまでの悪魔的な儀式への歪んだ偏愛が、この謎めいた『スカイフォール』の本質である。
このような非商業性を、「007」ボンドシリーズという、きわめて商業的なプログラム・ピクチャーの枠のなかに、中心部分として包含させたということは、奇態な、また面白い試みであるといえる。

『スカイフォール』はダニエル・クレイグが主演する新ボンドシリーズの3作目にあたる。
このシリーズは、007の荒唐無稽な世界観を現代的に再解釈し、またジェームズ・ボンドの成長物語という位置づけからも、非常に考え抜かれてつくられた傑作シリーズになっていることは前にも述べた。
とくにマーク・フォースター監督の魔術的カメラワークによる『慰めの報酬』は素晴らしい。これはよくアメリカの「ボーン・シリーズ」からのインスパイアとも言われるが、彼の撮影技術は、そのようなライブアクション性や手持ちカメラを駆使した、むしろ反映画的だからこそ面白いといえる、ある種の興奮とは異なり、あくまで従来の映画表現のなかでアクロバティックなカメラワークを目指し、その可能性を追求するというもので(例えば、ロープを使用した見事なギミックを、長回しとモンタージュで見せるなど)、このあたりの嗜好性の違いは、注意深く峻別しておきたいところではある。
バイクやカーチェイス、列車での格闘が繰り広げられる冒頭のシーンを見て、やはりというか、サム・メンデスのアクション演出の圧倒的凡庸さが露見してしまい、不安を感じさせるシークエンスで『スカイフォール』は始まるのだが、上記のような意味において、サム・メンデスの資質はそのような、マーク・フォースターなどのアクションの面白さを継承するようなものでなく、別のところにある…ということが、メンデスの過去作を検証するまでもなく(検証すれば、よりそのことが裏打ちされてしまうのだが)、冒頭部分でなんとなく分かるということになる。

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ストーリー上に示された、復讐すべき「組織」との戦いが、今後の軸になっていくというのが、シリーズ2作目までの流れであった。
しかし『スカイフォール』は、ストーリーの流れも、また作品の立ち位置も全く違う、全然別のものになっていた。
ボンドが突き止めていくはずだった「組織」の謎、そして戦いの行方は、何事も無かったかのように完全にスルーされているし、そもそも「新米007」として少しずつ地位を確立していくはずだったジェームズ・ボンドは、なぜかいつの間にやらベテランになっており、「世代交代か…」なんてつぶやいてる。「新ボンドシリーズ」という革新的な試みを、知らないうちに反故にされてしまったことに、軽くめまいを覚えさせられるのである。
「新米ボンド」シリーズが2作目まででまだ終了していないのならば、まずそれを三部作として完成した上で、違うアプローチをとるというのが道理だろう。
しかし、それを完全に捨て去ってまでも、異なる何かを表現したいというのがメンデスの強い意向であり、制作側もそれを汲んだのであれば仕方がない。
そして『スカイフォール』の内容は、しかしそのさらに斜め上を行く奇妙なものだったのである。

観ている間、非常に居心地が悪く、エンターテイメントという意味で、完全な失敗作だとすら思った。
私の場合は、観ながら後半だいぶ経ったあたり、スコットランドを舞台にした戦闘が始まる箇所まで、自分がいま何を見ているのかが、ほとんど判断ができなかった。
その大きな原因のひとつは、ストーリーにおける、リアリティや合理性の完全な破綻である。
ハビエル・バルデム演じる元英国スパイ「シルヴァ」が今回の悪役だ。彼はジュディ・デンチ演じる英国情報局諜報部のトップである「M」を、過去の作戦において見捨てられたという私怨から殺害しようと、国際的な犯罪グループをつくり暗躍している。
シルヴァは、英国諜報部の能力をはるかに凌駕した洞察力と、コンピューターの知識によって、情報局で爆弾テロを起こし、その後007によってわざと逮捕され、あらかじめ計画しておいた仕掛けによって、諜報本部の独房から難なく脱走し、さらには武装して、Mの出席する公聴会へと向かい、彼女を銃殺しようとする。
この元スパイは、優秀でありながら、過去に香港で独断の作戦を決行したために、Mに見放され、5人の捕虜と引き換えに敵国へ売られてしまったという。
そのとき彼は、あらかじめ奥歯に詰めてあった毒薬を飲んで自殺を図ったが、運悪く生き延びて、おそらくは敵のひどい拷問に耐え忍んだのだった。

彼の計画の内容を整理して考えると、「英国スパイを5人以上殺すこと」、「Mに自分の罪を思い出させること」、「毒薬によって崩壊した顔面をMに見せ付けること」、「Mを殺すこと」が、彼が恨みを晴らす(またマザー・コンプレックス的な、複雑な思慕の情)という意味において、必要な行為だったのだろう。
問題は、「この計画以外にそれを達成する方法が無かったのか」ということである。
復讐を果たすために、諜報員のリストを盗むのも、爆破テロを起こすのも分かる。しかし、諜報部にわざと収監されるというような、異常なほど高いリスクをとるという行為は異常だ。
また彼は自分のPCのデータに仕掛けておいた罠の発動により、諜報本部の全てのハッチを開放することで脱走に成功する。しかしこれには、「諜報局の制御システムとつながったコンピューターを使用した上で職員が罠に引っかかる」ことと、「牢の扉がコンピューターで制御されている」という前提条件が必要である。
爆破事件によって、諜報部はロンドンの地下に移されたばかりなので、彼は短期間のうちに、本部の構造、システムの仕組みを丹念に調べ上げ、逃走経路までしっかりと計画していたのだろう。
だがこれは、警備員が気を利かせて、扉に南京錠でもかけておけば、全てが水泡に帰すような脆弱過ぎる計画と言わざるを得ないし、自分が収監される場所が、諜報本部の決められたケージの中に違いない、ということに疑いが無いところも甘すぎる。
そもそも諜報部にとって、凶悪犯罪者を収監するだろうひとつだけのケージの扉を、コンピューターの回線をつなげて遠隔制御するという必要がどこにあるのかも謎である。
このずさんな脱獄計画とともに、すべて彼の思い通りに裏をかかれてしまう諜報部のずさんさもひどいと思う。
そして、最終的にMの元に辿りついた彼は、拳銃を自分とMの頭部に押し付け、心中しようとしたのである。
それをしたいのだったら、まわりくどいことをしないで、Mの自宅をその優秀な情報網で調べ上げ、ボンドが本作品のなかでやったのと同じ様に単身で忍び込んで、自分の崩れた顔面を見せつけてから心中すればよいだろう。
ここまで見ると、この悪役の行動のあまりの支離滅裂さは、彼が完全に狂っていたことからきている、というのが分かってくるのである。
メンデスの言によると、本作はクリストファー・ノーランの『ダークナイト』を下敷きにしているらしい。そう聞くと、あのヒース・レジャーが演じたジョーカーのように、悪役の無軌道な行動も、狂った計画も理解できないこともない。

『ダークナイト』ではジョーカーのみならずバットマンさえもが狂態を見せていた通り、それでは『スカイフォール』ではジェームズ・ボンドも狂っているということにならないだろうか。
公聴会での襲撃からなんとかMを救い出したボンドは、そのままMを連れて、かつて子供の頃に住んでいたスコットランドの実家まで敵をおびき出すという作戦を考え付いた。
この作戦が、ボンドによる独断専行の暴挙であり、英国への忠誠を破るような行為であることは言うまでもない。なぜこんな発想になるのかというと、それは「自分がスパイとして復活し、悪と張り合う力を取り戻すため」だという。
やはりこちらもめちゃくちゃであり、敵に劣らず「狂っている」といえる。そしてMも、あろうことか、そのような狂った提案に同意してしまう。もうここまで来ると、誰しも狂っているとしか思えない。
映画における、それぞれの役割を明示する象徴主義的な試みとして、その論理はかろうじて(本当にかろうじて)分からなくはないものの、リアリティとしては全く破綻している。ここではメタ的な視点さえ感じられ、『スカイフォール』は、臆面も無く「ボンドシリーズの意味性の解体」を顕示してるようにも見える。

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さて本題だが、本作のテーマは「007の復活」である。そして、さらにそれは「英国の復活」を意味している。
経済も駄目でハイテクも駄目で、英国の国力やプライドは既に地に落ちているということを、『スカイフォール』では、英国諜報部の失態、ボンドの肉体と能力の衰え、また冒頭の落下で示してみせている。
考えてみれば当然の話で、たとえ映画だとしても、英国のスパイが世界を救うなんて、ことに現代においてはリアリティに欠け過ぎている。
「アメリカ51番目の州」などと言われるくらい、経済や政治でアメリカの犬の様な扱いになっている(その意味では日本と変わらない)英国に、そもそも世界の危機に本質的な意味で関わる力など、もうだいぶ昔からありはしないのである。
だから劇中登場するターナーの絵画に描かれた、曳航される古びた船というのは、年齢なりに老けたボンドを通し、英国そのもののみすぼらしさ、そしてそれを通し、時代錯誤的な滑稽さまでをも表しているはずだ。
メンデスはその、誰も言わなかったデリケートな部分、しかし本当のところに手を突っ込んだ。それが、かつて伝説だったスパイの衰えという状況を、前作までの流れを無視してまで用意した理由だろう。

一度失墜すると、人間は自信が無くなるもので、ボンドガールが絶体絶命の危機にあるのに、ボンドは射撃の技術によって彼女を助けることを、リスクをおそれ断念してしまう。ヒーローとしては失格と言うしかない。
だがこれを克服せよというのは難しい話だ。何故なら、ことはボンド個人の問題に収まらず、ここでは英国全体の自信喪失にも重ねられているからである。
だからボンドが映画の中でその能力や伝説を復権させるのであれば、ある程度リアリティのある、英国復権案としても描く必要があるということになる。

そこで今回、目をつけたのがスコットランドだったのだろう。
都市化、工業化が進み、開発され尽くしたといえるイングランドに比べ、本作でロジャー・ディーキンスの美麗な撮影が見事に画面に収めたように、スコットランド、とりわけハイランド地方には、おそらくまだ手つかずだった頃の野生の原風景の面影がまだ残されている。
唐の詩聖、杜甫が「国破れて山河あり」とうたったように、国が疲弊し落魄したとしても、厳しく美しい大地にこそ、いまだ我らアングロサクソンのスピリットが存在するはずだというのである。
これは、ボンドの生家がスコットランドにあるというイアン・フレミングによる原作の設定も、もちろん利用されているのは間違いないが、メンデスがそこに突破口を見出だしたからこそ、これを活かしたというのは紛れないであろう。
かくしてボンドは、生家に立て篭もり最強の敵集団と対峙するという、リアリティ上は完全にわけのわからない破綻した行動をとってしまうのだ。

この寒々しくも美しい風景は、スコットランド、ハイランド地方南西部にある「グレンコー渓谷」である。「グレンコー」とはゲール語で「嘆き」を意味する。
グレンコー渓谷は、スコットランド人なら誰でも知っている、歴史上きわめて残虐な惨劇、「グレンコーの虐殺」の舞台となった地なのである。
17世紀末、この地方はまだイングランド王の権勢が及びきれない地であった。
王はこの地を統治するハイランド人の各族長達にそれぞれ、「新年が明けるまでに我に従え、従わないのなら血の制裁を与える」という内容の脅迫的な誓約書を送付する。
態度を保留していた族長達も、期日が迫ると制裁をおそれ、続々と署名の場へと向かった。その中に、1月1日までに間に合わなかった一族がいた。マクドナルド氏族である。
しかしこれは、署名の場所を変更したり関所で足止めをするなど、イングランドの意図的な謀略による遅延であった。期日の過ぎた署名は無効とされ、マクドナルド氏族数十人は、その多くが虐殺された。死者には子供も多く含まれていた。
このことが知れ渡ると、イングランドは国内外から強い批判を受けたという。
このような血塗られた悲しい過去のある、寂しく終末的な、そして呪われたイメージが、最終決戦場として選ばれているのだ。

しかし、さらに注目すべきは、その生家周辺での戦闘シーンだ。
前述したが、ハッキリ言ってメンデスのアクション描写に、ハラハラドキドキの興奮や、アクロバティックな快感などはあまり期待できない(それでもエレベーターの床につかまって上昇するシーンは素晴らしかったが)。
それはメンデスの能力的な問題でもあるし、それ以前に、彼自身がそこを問題にしていないのは、異様に気味の悪い対称的な美術や唯美的な撮影に表れている。
つまりメンデスはここにおいて、収められた風景を、ただ人物を引き立てる背景として利用しているのではないし、そこで起きるアクションも同様、もっと他の意味を、表現主義的な手法を用いて描いているということになる。
ボンドはこの戦いにおいて、爆風、火炎、地下逃走、水中戦を経験するが、それらが妙にシンボリックに表現されているのにも気づくだろう。

話を転じて、先ほど「英国の復権」と述べたが、『スカイフォール』を理解するために、そもそも英国とは何なのかをここで振り返りつつ、また本質的なエキスに近づいていきたい。

英国は島国であり、その大地は「ブリテン島」と呼ばれる。そこには、紀元前1000年以上前から、中央アジアの草原から渡来した「ケルト人」が入植していた。
しかし5世紀になると、ゲルマン系の人種が侵入し始め、ケルト人達は支配され同化の道を辿るか、僻地に追いやられた。
ブリテン島を手中にしたゲルマン系サクソン人は、「アングロ・サクソン」=「アングリア(イングランド)のサクソン人」と呼ばれる。そしてこのアングロ・サクソン人が、現在の英国の基礎をつくることになる。
このゲルマン系の民族が、キリスト教化以前に信仰していた伝説が、「北欧神話」である。

北欧神話は、九つの世界からなる神族と巨人族の戦いを中心とした物語なのだが、この大きな特徴は、「ラグナロク(神々の黄昏)」と呼ばれる、その種族間の最終戦争の部分にある。
神々は、ラグナロクにより神族が滅亡し、世界が終わることをすでに察知し、運命として受け入れ、それでも来るべき戦いに備えている。これは非常に悲観的な内容で、神話としては珍しいものといえるだろう。
ラグナロクのもたらす「世界の終わり」とは、「天が落ちる」ことであり、つまりは『スカイフォール』と同義である。
スコットランドを代表する詩人、ロバート・バーンズは、代表作”My Love is Like a Red, Red Rose”「わたしの愛は、赤い赤い薔薇のように」という愛の詩のなかで、” I will luve thee still, my dear,Till a’ the seas gang dry”(スコットランド訛りの英語)「私は愛する、海が全て涸れるまで」という決意の表現があるが、ADELEの歌う『スカイフォール』のテーマソング(「スカイフォール」に向かうMの心情を表す)も、その別の表現で、世界の終わりを前にして「天が落ちても私たちは立ち向かう」という、これも愛の決意がテーマになっていることは注目してもよいだろう。

『スカイフォール』に北欧神話がインスパイアされているのは、シルヴァのヘリ襲撃シーンで、『地獄の黙示録』の、音楽を流しながら空爆するシーンを想起させるものになっていることから類推できる。ちなみに、武装ヘリと音楽の組み合わせは、これがパロディとしてとくに笑えるようなものでないことと、あまりに意味が薄いことを考えても、ここでの引用は、『地獄の黙示録』のパロディ以上の意味を持たされていると考えるのが妥当である。(ここでは、爆発を予感させるジョン・リー・フッカー「Boom Boom」がフィーチャーされているが)、ワグナーの「ワルキューレの騎行」(ワルキューレは、北欧神話における、戦場において勝敗を決する存在)であった。
さて、「スカイフォール」とは、英国の黄昏であり、また北欧神話における「ラグナロク=最終戦争=神々の黄昏」であることを理解したうえで、このラグナロクの発端となった、神話上の重大な事件について語りたい。

「バルドル」は、神々の中で最も美しく愛される、光の神である。彼は、自分が死ぬという内容の悪夢に悩まされていた。
バルドルの身を案じた母フリッグは、バルドルを傷つけないよう、世の全ての「風・火・土・水」つまり四大元素から生成された生物、そして無生物に対し、「バルドルを傷つけない」と契約させた(神が絶対的な存在ではない北欧神話において「契約」は重要な意味を持つ)。
このことでバルドルは、全てのものから肉体を傷つけられない「無敵の存在」となった。
神々はそれを祝って、バルドルに向けて様々な武器を投げつけるという遊びを始めた。彼の肉体は、どんなものをもはじき返す。これが面白く、さらにものを投げつける。バルドル自身も、この遊びを楽しんでいた。
しかし世の中にはひとつだけ、四大元素から生成されず、神々の恩寵を受けていないものがあった。それが、土の養分を必要としない、他の木に寄生して育つ「ヤドリギ(宿り木)」である。
巨人族の血を引き、悪戯好きの神であるロキは、盲目の神ヘズをたぶらかし、彼にバルドルへ向かってヤドリギを投げさせた。これによってバルドルは絶命する。
光の神が死んだことで、世界は闇に包まれる。これがラグナロクへのトリガーとなった。
シルヴァは、この悪戯好きの神ロキのようでもあるし、神から愛されない、四大元素の理(ことわり)の外に置かれるヤドリギのようでもある。

ここで、先述した『スカイフォール』のアクションについて思い出してもらいたい。
ボンドは爆風に耐え、火炎と戦い、地に潜り、水に入った。つまり北欧神話の魂が根付いたスコットランドの大地で「風・火・土・水」の通過儀礼を受け、神々の恩寵を授かるのである。
もともとサム・メンデスの映画における、撮影への絵画的こだわりは珍しくないものの、アクション映画にも関わらずの、ここでの異常に美的な、そして奇妙でシンボリックな撮影は、この儀式性を強調するものだと思えてならない。逆に、そうでなければ説明のしようがないほどの、訳の分からないおかしなシークエンスである。

ヤドリギ(神に愛されない)であるところのシルヴァは、英国の国防の希望である(と劇中で示されている)Mを絶命させ、また一方で神の力を得たボンドは、シルヴァに神の鉄槌を下す。論理的にも非常に美しい構図である。
このような見方をすると、筋がめちゃくちゃでリアリティの欠片もぶっ飛んだ、超展開の『スカイフォール』も、存在価値が出てくる。
英国人の深い深い記憶の奥、DNAのひだに、この神話の世界と悲劇的な歴史が刻まれている。
『スカイフォール』は自信を失った全ての英国人の心の奥底に、そして先祖から与えられた高貴な精神に呼びかける。「原点に戻ろう、やり直そう」と。
ジェームズ・ボンドが諜報部に帰還すると、新たなMが待っていた。Qもいる。マニー・ペニーもいる。そう、新たな新米ボンドシリーズも、とうとうボンド映画の出発点に到達した。ボンドも原点に帰ってやり直すのだ。

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このように、象徴主義的な暗喩に満ちた、不気味な『スカイフォール』の脚本や演出は、深く考察する余地のあるミステリアスさを有し、エンターテイメントの枠を完全に逸脱しているといえよう。
サム・メンデスの作品の中でも、意外なことに最も実験的であり、かつ芸術性も高いのではと思わせる。
しかし、しかし。それでも私がこの映画をそれほど高くは評価したくないのは、それでもあまりにストーリーがむちゃくちゃだからである。この神秘性を保ったままでも、もう少し腑に落ちるようなストーリーを用意できなかったのだろうか。
ボンドは確かにシルヴァを倒すことに成功した。その功によって彼の地位が復権し、伝説的なスパイとして、また諜報部に帰還することになる。これは理解できる。だが、Mが死んでるじゃないか。
たとえMが「スカイフォール作戦」に同意したとしても、ボンドの行為は独断専行の狂ったものであることは変わらない。これによってM…現役の諜報部局長が殺害されてしまったというのは、さすがに大失態だと言わざるを得ない。
当然ボンドには苛烈な処罰が与えられるはずである。内容がむちゃくちゃな上に、華麗な結末を用意したために、異常なまでに道理の合わないふざけたストーリーになっているとする指摘は免れない。
荒唐無稽な路線を変更し、新たにリアリティのあるシリーズに生まれ変わった、このクレイグ・ボンドシリーズは、ここにきて、ある意味最も荒唐無稽で、訳の分からないものになってしまった。

メンデス、もっとマジメにやれ!!

ところで、ボンド映画生誕50周年の記念作として、『スカイフォール』には往年のボンド映画へのオマージュがいろいろと隠されているようだ。
小ネタとしては、シルヴァが軍艦島で飲んでいるウィスキーは、スコットランド、スペイサイドの名門「マッカラン」の1962年もので、ちょうどボンドシリーズと同じ、50年前のボトルを開けていることになる。
そしてMが自宅で飲んでいたのも、同銘柄のマッカランであった。こういう細かいところからも、シルヴァの、Mへのマザー・コンプレックスが垣間見えて楽しい。

 




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