『ダークナイト ライジング』を徹底検証

『ダークナイト ライジング』は、クリストファー・ノーランの新しい「バットマン」三部作の完結篇にあたる。
コミック作品の映画化におけるリアリティの追求は、近年のトレンドであり、ティム・バートン版の『バットマン』シリーズでも、既にそのような試みは見られていたが、クリストファー・ノーラン版「バットマン」のアプローチの端緒として直接的な原因となり、商業的にも先鞭となったのは、とくにサム・ライミの『スパイダーマン』だと思われる。
かつて騎士物語や西部劇の保安官等がその責を担った英雄譚のように、アメリカの「ヒーロー映画」は、社会問題や心理学的見地から、その時代の正義のあり方を問い直すという意味で、非常に今日的だ。
具体的には、アメリカという国がこれからどうあるべきかという指針を思考するという映画になり得るポテンシャルがあるということである。
アメコミ原作を含んだ、アメリカのヒーロー映画の醍醐味とは、まさにそこにあるといえるだろう。

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ノーラン版「バットマン」は革新か

「バットマン」は、数度にわたり映画、実写とアニメーションのTVシリーズ等が作られてきた、アメコミ原作ものでも最も人気の高い作品だが、このノーラン版の目立った特徴は、「暗い、深刻、理屈っぽい」というあたりになるだろう。…そして、「長い」というのもある。ノーラン版「バットマン」では、他の映像化作品と比較して、ポップさやユーモアを排除するという方法がとられている。

その改変はクリストファー・ノーランの、作家としてのもともとの趣味や個性の表出でもあるのだろう、犯罪映画のテイストと、ドキュメンタリー映画の迫真性を取り入れ、反コミック風にすることで、あえて違和感を発生させ、それ自体を作品のエッヂ(突出した特徴)として利用しているということなのだと思われる。
このリアリティの追求は、カメラが揺れるドキュメンタリー風撮影や、見事に臨場感のある都市の空撮、登場人物の実在感を重視した脚本や演技、より現実的な美術と野外ロケ撮影、ハンス・ジマーによる重厚なスコアにまで共通して見られる姿勢だ。
例えば、『ダークナイト』冒頭での銀行襲撃シーンのような、リアリズムに徹した演出を見ていると、その不自然ともいえる漫画的快楽を排した演出姿勢に、われわれは自分が何を見ているのか分からなくなってくる。現実のアメリカの風景に、ジョーカーやバットマンが紛れ込んでくるのである。
こういった、どこか殺伐とした特徴的な演出方法は、ファンタジーとしてのキャラクターの生気を奪い、イマジネーションを退化させ、活劇としての面白さをスポイルしている部分もあるのだが、同時に、圧倒的なシリアスさで観客を惹きつけることで、作品の価値をカヴァーしているという指摘が出来るだろう。
だが「バットマン」を描くときの、それでも逃れきれない「漫画的な荒唐無稽さ」と、リアリティ重視の演出スタイルは、やはり噛み合うものではなく、その違和感にある種のスリリングな面白さを感じもするし、また、作品の意義をも曖昧なものにしているのではと感じさせもする。
リアリティを追求すればするほど、「荒唐無稽な内容」の荒唐無稽さが枷となって、良くも悪くも、作品を一層アンビヴァレントなものにしていくのである。
だがある意味では、これは面白い試みでもあると思う。ただよくある凡庸なアメリカン・コミックを、それなりにリッチに演出しただけの映画と比べれば、ノーラン版「バットマン」は、危うくも、よほど個性があるからである。
2作目の『ダークナイト』が、とくにカルト的な人気を集めたのも、この「アンビヴァレントさ(両義的葛藤状態)」に秘密があるだろう。

しかし、ノーランの「バットマン」を語るとき、評価している観客同士であっても、何故か議論が噛み合わなかったり、反撥の原因になったりするのをよく見かける。
それは、「バットマン」という作品自体の持っている「複雑さ」に起因するものだと思われる。
1939年に生まれた「バットマン」には、複数のコミック・アーティスト達によるいくつもの版の原作コミック、スピンオフの「ジャスティス・リーグ」、小説版、アダム・ウェスト主演の往年の実写TVシリーズや、いくつものアニメシリーズ、実写映画には1940年代に作られたふたつの連続活劇もののシリーズ、アダム・ウェスト主演映画版「オリジナル・ムービー」、ティム・バートン監督版、ジョエル・シュマッカー監督版、そしてノベライズ作品やヴィデオ・ゲームと、考えうる限りのメディア・ミックスを果たした、超人気作品なのである。これらほぼ全てを網羅する観客は、相当な「バットマン」マニアであることは間違いない。そこまでの知識の無い観客達には、「バットマン」についての前提知識の差が、様々な段階で見られることになる。

そして、「バットマン」に限っては、ただ源点に遡ればその本質が掴めるかというと、そうでもない。存続過程で、様々なアーティストの意匠が加えられ、作品の表現に新たな概念が加えられてもいるからだ。
つまり、観客ひとりひとりのイメージする「バットマン像」が多岐にわたり、しかもそれらの評価も各人で異なるため、そもそもノーラン版を観るまでも無く、いつも「バットマン」自体の評価には混乱が発生することが必至なのである。

ノーラン版の2作目、『ダークナイト』は、近年でとくに人気が高い作品だが、これを評価する観客も、けして一枚岩ではなく、それぞれの違った立場から、違う理由で評価しているように思われる。
その中には、例えば「近年のアメコミ原作映画を、単純に楽しんでいる観客」と、「アメコミ原作映画があまり好きではないが、ノーラン版は好きだという観客」の両者が、まず挙げられる。
前者は、「よりリアリティを持ったアメコミ映画」として『ダークナイト』を評価しているだろうし、後者は、「アメコミ映画らしさがないアメコミ映画」だからこそ評価できると思っているだろう。この両者は、近しいように見えて、内実、そこに全く逆のベクトルでそれぞれ評価していることになる。
今回の『ダークナイト ライジング』が、くっきりと賛否が分かれたのは、この両者が完全に割れたからだと思われる。前者は楽しみ、後者は楽しむことができなかった。これは、微妙な均衡で成り立っていた、アンビヴァレントなバランスが崩れたことを意味している。

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クリストファー・ノーランと、『メメント』と「バットマン」シリーズで共同脚本にあたった、弟ジョナサン・ノーラン達の、シリーズを通したアプローチは、複数の原作コミックや複数の悪役をミックスするというもので、本作も同様のメソッドが採用されている。
それは、例えばとくに「ダークナイト」という呼称を生み出し、絶大な支持を受けたコミック版原作者のひとりであるフランク・ミラー版の「バットマン」から派生した、リアル志向の流れを汲んだものからの引用であり再解釈である。
それをよく知らずにノーラン版を観て「アメコミを超えた」と思っている観客が多いかもしれないが、ここで身上になっている、徹底したリアリズムや深遠な表現、哲学性については、すでにコミックでは描き得ている部分がほとんどなのだ。
だから実際に、ノーラン版が「変革した」と思われ評価されている脚本上の興味深い部分は、コミックをなぞっている点がほとんどだとさえいえる。つまり、ティム・バートンやジョエル・シュマッカーが描かなかった、より現代的な「バットマン」コミックのイメージを総合した映画化と考えてよいだろう。
ノーラン版バットマンは、例えば荒唐無稽な箇所、「コウモリのコスチュームを着て悪人を狩るヒーロー」という前提を、ブルース・ウェインの病理として表現し、ジョーカーに「お前も狂っている」と指摘させることで、「あり得なさ」を逆にリアリティの方向に引っ張るというような表現を用いてきた。
そのような哲学的問答が、ノーラン版の特徴(文学的であり非視覚的)でもあるのだが、バットマンの狂気は、もともとコミック版において、はるかに深く丁寧に描写されていることは指摘しておくべきだろう。
そういった意味では、ここで脚本上のノーランの独自性は、概ねコンセプトと、取捨選択のセンスに留まるということになる。
ノーランが原作を凌駕し得たのは、実写であるが故の実在感を利用した、さらに徹底したリアリティ感覚の映像表現についてだ。それは前述したような「ドキュメンタリー表現」の導入による、「現実」と「バットマンの世界」のボーダーを、限りなく無くそうという試みであり、それは演出上の奇策でもあるといえる。
だから実際は、脚本では現在のアメコミを「映画」として再構成しつつも、演出上は「反アメコミ」だということになる。
前述したような、『ダークナイト』に違和感を持たなかった観客に対し、それを持ってしまった観客、とりわけ「原作コミックに詳しい観客」の多くは、その知識がおそらくはノーランと同等(またはそれ以上)であるが故に、その独自性の小ささを見抜くことができる。そして、「反アメコミ」的な演出に憤慨すらするだろう。
何故ならノーラン版は、都合よくコミック版の哲学性を利用するわりには、コミックの表現上の美点、例えば幻想的であったり、カリカチュアであったり、躍動的な快感であったりする、つまり「アーティスティックなクリエイティヴィティ」を無視しているからだ。
これらコミックのアート性は、アメコミの絵柄・演出に触れてない観客には分かりづらいかもしれない。とくに近年の「バットマン」作品には、ノーラン版よりもはるかに陰鬱で狂気に満ち、ほとんどサイコホラーにしか見えないようなものもある。
だが、そこにあるのは、ノーランのやったような、ひたすら現実に近づけようとする試みではない。あくまでコミックの面白さを追求する上で、現実を超えた世界を表現しようとする信念を感じるものである。

そういう表現を切り捨てるノーランの心理に、「コミック的表現を信用せず、映画の写実的表現よりも、ひとつ下に見ている」部分が全く無いといえば嘘になるだろう。そして、原作ファンがそこを怒る権利もあるはずだ。
『ダークナイト』評のときに既に書いたが、そもそもクリストファー・ノーランは、アクション映画やコミック風の映画を撮る上では、突出した才能に欠ける作家である。ハリウッドの無数の監督の中でも、標準以下とすらいえるかもしれない。
それは、例えばかつてディズニー・スタジオで個性を発揮していたティム・バートンの持つような豊かなイマジネーション、さらにジョエル・シュマッカー版のバットマンのファンに悪名高い『バットマン&ロビン』に比べても、絶望的に貧困な絵づくりや、取捨選択や省略がうまくできないというような演出・編集からも理解できるだろう。
とくに恋愛描写は不得意中の不得意だ。これは『ダークナイト ライジング』の不可解で説得力の無い、いくつかのロマンス描写を見れば明らかなはずだ。
だがそれらが妙なリアリティを発生させるという結果にもつながっているのは、構図やアクションシーンの野暮ったい間の抜け方が、現実と地続きのように感じるからだ。
それは『インセプション』のアクションや夢の世界の造形、雪山でのアクションシーンなどが、イマジネーションに溢れていないからこそ、逆に現実感を持って恐怖を醸成することに成功している事実と通底したものがあるだろう。
だから、ノーランが彼自身の「バットマン」シリーズで、自らの才能を生かすには、おそらく前述したような演出上の奇策をとる以外に方法がなかった。いや、というよりそもそも彼は、おそらくそういうふうにしか映画に関われないのだ。
彼は、自分の才能の欠如をおそらくは意識していて、その上で優れた映画を撮るべく、弱点を武器に変えながら、少しずつ実直に前進を見せるのである。


ポー「大鴉」の後ろにディケンズの影

クリストファー・ノーランの脚本上のねらいについて、他の角度から考察してみたい。
もともとコミック版「バットマン」着想のモデルになったのは、エドガー・アラン・ポーの、アメリカ文学の最高傑作のひとつに位置づけられている、謎めいた物語詩「大鴉(The Raven)」である。

ここで「大鴉」の物語を簡単に紹介しよう。
恋人を亡くし、絶望に打ちひしがれている青年の自室に、窓の外から大きな鴉(からす)が入ってくる。そして大鴉は「バラス(知恵の女神バラス・アテーナー)の胸像」の頭上に降り立つ。

戯れに青年が鴉の名を尋ねてみると、なんと鴉はそれに答えた。「”Never More”(もはやない)」と。
人語を話すことに驚いた青年は、鴉に何度か話しかけてみるが、鴉は”Never More”と繰り返すのみであった。おそらくは、この鴉を以前飼っていた人間の口癖だったのかもしれない。それでも青年は鴉に話しかける。
夜が深くなり、部屋の空気が濃くなってきて、何故か青年は焦燥感に駆られてくる。
青年が鴉に向かってわめく度に、鴉は”Never More”と繰り返すのみだ。
最後に、青年は「私は再び彼女と死の世界で出会えるか?」と尋ねた。
鴉は答えた。「”Never More”」。
青年は狂乱し、「鴉よ、冥界の岸へ戻れ」と命令する。しかし鴉はバラスの胸像の上から動かない。
発狂した青年は、大鴉の影の下に魂を閉じ込められ、”Never More”と叫び続けるしかなかった。

コミック初期から、バットマン誕生の経緯は、この「大鴉」登場シーンが念頭にあると考えてよい。
もともと、ポーの「大鴉」は、とくにアメリカ人ならば、多くの人間が触れ、基礎教養に含まれている文学作品である。だから、コミック作品においても、このような要素が引用されるのは、むしろ自然な導きからだと考えるべきだろう。
そして、フランク・ミラー版の「イヤー・ワン(Year One)」において、コウモリが胸像の上に降り立つなど、その意図はきわめて意識的に表現される。

このような引用の先には、主人公ブルース・ウェインが経験した、「両親の死」という悲劇と孤独が重ねあわされており、またコウモリという不気味な象徴に、主人公の心が支配され発狂していくという契機ともなっている。
ブルース・ウェインはバットマンとなり、ゴッサム・シティに巣食う悪党やマフィアを狩る不気味な、そして闇を抱え静かに発狂したダーク・ヒーローへと成長していくのだ。

後にバットマンを苦しめていく悪役も、明らかに狂っている者達である。構造的に、彼らは「対バットマン」的悪役として、バットマンの存在に対応して想像されている。それ故に彼らはバットマンの二重写しとなっており、バットマンの狂気が反映した存在だといえるだろう。
バットマンは自らの反射と終わり無く戦っていく存在であり、その戦闘は、自己との哲学的対話である。
このポテンシャルは、ノーランも抜け目無く拾っている。ラース・アズ・グールや、とりわけジョーカーが、実際にバットマンと「俺とお前は同じだ」などと対話をしてしまうという、直接的表現でこれが描かれていることは言うまでも無い。
ちなみに、悪役が哲学的な問答を仕掛け、作品のテーマを必要以上に代弁してくれるというのも、ノーランのシリーズの特徴だといえよう。映画は基本的に、「映像で伝える」媒体なので、これには違和感を感じる観客もいるだろうが、例えばギリシャ哲学や禅僧の優れた問答は、それ単体で芸術的価値があることを考えれば、それが鈍重で、反映画的なアプローチであっても、その内容に価値がありさえすればいいのだ。

ジョナサン・ノーランは記者会見時に、英国人作家チャールズ・ディケンズ「二都物語(A Tale of Two Cities)」を、『ダークナイト ライジング』の物語のベースに使用していると語っている。
その内容、ふたりのよく似た男がひとりの女を愛し、犠牲になるという点を見ても、前作『ダークナイト』より「二都物語」を使用していることは明らかであり、であればノーラン版「バットマン」は、シリーズ全体を通しディケンズ文学が背景にあるという読み方もできるはずだ。
じつは、前述した「大鴉」のエドガー・アラン・ポーは、ディケンズ文学の研究をしていて、もともと「大鴉」に現れる「しゃべる鴉」は、ディケンズの小説、「バーナビー・ラッジ(Barnaby Rudge)」に登場する鴉をモデルにしていることが分かっている。
つまりノーラン兄弟は、「バットマン」の源流に遡ると、アメリカ文学のポーに辿り着き、さらにその先にはディケンズ文学があると読んでいるわけである。
イギリス出身の映画監督が、アメリカを代表するコミック・ヒーローである「バットマン」を、イギリスの作家をその端緒として引き合いに出して作品化してしまうということに関しては、アメリカの観客も、もう少し敏感になってもいいかもしれない。

 

 真面目なジョーカー、こわれゆくバットマン 

2作目、『ダークナイト』には注目すべき点があるので、もっと述べておきたい。
言うまでも無くそれは、『ダークナイト』撮影後、程なくして急逝したヒース・レジャーが演じた、「ジョーカー」のキャラクター造形、そして、それに引っ張られるかたちになった、テーマの奥深さだ。
私は、ヒース・レジャーのジョーカーとしての演技を、世評程にはあまり評価していない。それは、髪を振り乱し、虚ろな目つきで奇行を演じる姿が、いかにも「正常な人間が狂気に近づく」努力をしているように見えるからである。つまりは、重度の精神病者のイメージの安易な模倣である。
ティム・バートンの『バットマン』でジョーカーを演じたジャック・ニコルソンの演技プランは、おそらくは狂人がコメディアン風の演技をしているといったもので、こちらの方が高等な技術を必要とするはずだし、よりジョーカーの本質に迫っているといえよう。
さらに、ヒース・レジャーのジョーカーは、ピエロ風のメイクがひどく乱れ、手にもメイク時の白粉が付着しているが、「精神病者は、身なりを気にしないだろう」という解釈は甘いように思える。ジョーカーは、バッチリと、正常な人間よりも完璧なメイクを施してこそリアリティが発生するのではないか。身なりに気を使わないのであれば、そもそもピエロのメイクをする理由も無い。
ただ、ノーランのリアリティ演出と、ヒース・レジャーの精神病的演技が異様にマッチしていて、場面ごとに「何かヤバいものを見ている」感覚を与え、見ている最中は興奮させられてしまうのも事実だ。
『ダークナイト』が広く評価されている理由のひとつに、このインパクトが強い、「分かりやすい狂気」の表現があげられるだろう。
ジョーカーの犯罪行為の目的は、命懸けで手に入れた札束の山を躊躇無く燃やす場面からも分かるように、悪役によくあるような、富や権力欲などではない。いうなれば、人間の理性と欺瞞への挑戦である。
それはよりノーランらしい、ユーモアの欠如した、信念にあふれる真面目なジョーカーであり、これはそれほど悪くないと感じる。

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象徴的なのは、バットマンやゴッサムの市民に苛烈な選択を突きつける、一種のテストをすることで、彼らのモラルを量ろうとする箇所である。
人間は正常であるが故に、金を得ようとしたり保身に走ろうと、善性を失ってしまう。バットマンも例外でなく、ジョーカーに人質に取られた両者を殺害するという二択を迫られたとき、人間性故に、自分の愛する女性を選ぼうとしてしまうことになる。
だが、ジョーカーは狂人であるために、善悪の二元論の葛藤から自由な位置で、それに苦しめられる人間の狂態を観察することが出来るのである。
ジョーカーは、その能力を発揮すれば、ブルース・ウェインに準じる軍事力や技術力を手に入れられるはずだ。
だが彼は数的な不利を保ったまま、ほとんど無防備な状態でバットマンと対峙し、ゲリラ的に爆弾を設置することで彼に対抗しようとする。
向かってくるバットポッドの正面で仁王立ちする彼の姿を見ても分かるとおり、無防備で狂っているからこそ、バットマンはジョーカーを殺すことが出来ず、勝利することも出来ない。

バットマンの出現によって、より狂った、より凶悪化した悪役が登場するという皮肉な構図は、「報復によって、新たな脅威が生まれる」という、アメリカの政治状況のカリカチュアライズでもあるだろう。もちろんこれは、コミックでも暗示され、TVアニメーション版でも指摘されていた部分だ。
果ては、ゴッサムシティのどこかに潜伏しているジョーカーを探し出すため巨費を投じ、市民の携帯電話を利用して、街を巨大な盗聴システムで監視し始めるバットマンは、市民の命を守るためとはいえ、明らかに純粋な正義とは逸脱することになる。
ここで思い出すのは、盗聴機をアメリカの有力者の住居などに仕掛けたFBI初代長官エドガー・フーヴァーであり、さらに2001年にブッシュ政権が成立させた、政府当局の権限を大幅に拡大させた対テロ用の法律、「米国愛国者法(USA PATRIOT Act)」だ。
「愛国者法」は、テロ防止を理由に、国内の人々のプライヴァシーや人権に踏み込む危険な法律である。その内容は、入国者の拘束、承諾の無い家宅捜索、令状を必要としない「電話、電子メール及び信書、金融取引の記録の閲覧」、そして図書館の帯出記録閲覧(映画『セブン』で描かれた違法捜査が合法となってしまった!)や、所得情報を、司法当局が調査できるというものだ。
しかしこのような法律は、人権保護の意味で、合衆国憲法に反することは間違いなく、実際に連邦裁判所がこの条項に対し、違憲であるとの判断を下している。
これは、政府が9.11テロへの国民世論を利用した、共和党による帝国主義の実現のひとつと見られても仕方がない愚挙であろう。ここでは、テロから守られるべき国民自体が、今度は政府の脅威にさらされるという、「二重の悲劇」が起こっている。
『ダークナイト』では、ちょうど病院の爆破の直後にバットマンの違法捜査が開始されており、ここに一連の問題を重ね合わせていることは明白だ。そしてバットマンは、この「大いなる力」に、魅了されすらもする。
また、香港で犯人を捕獲してゴッサム・シティに連れ帰るのは、国外での暴力的措置であり、武力を利用した国外のフセイン逮捕にも重ねられていただろうし、また、ハーヴェイ・デントによるジョーカーの部下への苛烈な尋問は、テロ容疑者への拷問を意味しているだろう。バットマンは、ハーヴェイに「お前までそんなふうになるな」と言う。

『ダークナイト ライジング』に登場し、ゴッサム・シティの犯罪抑制の最大要因となっただろう「デント法」は、犯罪を未然に防ぎ、犯罪者を逮捕しやすくし、厳罰を与えるのに効果があるような内容の法律だと思われるが、本編ではこれに対し具体的な説明はない。
よく「デント法の中身がよく分からない」という声も聞くが、「デント法」は、おそらくは、前述したようなブッシュ政権が樹立した「愛国法」を、さらに発展したものであると思われる。
つまり、これが適法されることで、犯罪を防止する代わりに、人権がかなりの部分で制限され、司法当局や警察、検事の裁判所での権力が増大し、有罪率が多い代わりに不当逮捕や冤罪も多いという、明らかに市民にとっては最良の状態ではない社会になっていたはずだ。
犯罪や汚職、警察の腐敗が横行していたもともとのゴッサム・シティと、犯罪に関与する疑いのある市民が、やみくもに投獄され、またあらゆるプライヴァシーが司法当局によって監視され、悪用の危険もあるゴッサム・シティ、どちらがよりマシなゴッサム・シティであるかという選択が、ここで突きつけられることになるのである。

このあたりを見ると、ノーラン版「バットマン」は、とりわけアメリカの罪の部分、脅威に対するアメリカ政府の強硬な姿勢と歪められた正義が、時代の要請とともに、バットマンの肩にも重くのしかかってしまったことを描いていると考えられる。
『バットマン ビギンズ』は、アメリカの軍備拡大路線と、それを憎むテロリストを生み出したと言う状況の醸成が描かれ、『ダークナイト』は、テロリスト殲滅のための、他国への攻撃を含めた過剰自衛、そして国民をも巻き込んだ常軌を逸した捜査をなぞっているようにも思われる。
アメリカの正義の問題、政治的な問題に踏み込んだ本シリーズは、演出による不出来な部分が少なくないものの、通常のアメコミ映画の枠を超え、もっと大きな普遍性の獲得に成功しているといえる。
その意味において、ノーランの意図はきわめて鋭い冴えを見せていると言ってよいだろう。

 

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 ジョーカーとベインはどちらが脅威か

上記のような、さまざまな要因がそれぞれ個別に支持された前作までの流れを受けて、トリロジーの最後の作品となる『ダークナイト ライジング』は、さまざまな意味で大きな期待を受けてしまうことになった。
悪役ひとつとっても、そもそもコミック版にしてから、ジョーカーは別格の存在であり、奥深さと普遍性を有するキャラクターだったので、それが登場させることが出来ない本作は、深い内容を描くことが難しくなるのが必至だということは、事前に予想されていたところだ。
ここで選ばれたのが、ジョーカーとはタイプの全く違う、コミック版で怪力によりバットマンの背骨を折ったという「ベイン」だ。
トム・ハーディ演じるベインは、実際悪くない。腕力でバットマンと正面から素手で渡り合い、堂々と圧倒し勝利してしまうシーンのマッチョイズムの顕示は痛快ですらある。ベインの打撃力やスピードはそれなりに見ごたえがあり、とくに終盤見せた、柱を抉り取る、フックからの高速連続ボディ・ブローの、巻き込まれたら即死してしまいそうな脅威はよく描けている。
『ダークナイト ライジング』は、相変わらず野暮ったくはあるものの、前2作よりも、ベーシックなヒーロー映画としての手際やアクションの撮り方は、ある程度改善されていっているように見える。
そういった意味において、バットマンがフィジカルに脅威を与えられ、殴打され殺害されるのではという危険は、十分にスリルを持って、スペクタクルとして描き得ていたのではないかと思われる。
だが脚本上の問題で、その脅威がスポイルされていき、ベインの真の目的がひとりの女性への思慕であったことが明かされると、彼の存在意義をきわめて矮小なものに狭めてしまった。「結局、色恋かよ…」と、思わずつぶやいてしまった箇所だ。
少し前のシーンでは、ベインは群集の前に立って、シェイクスピア俳優よろしく、大演説をぶっていたのである。あれだけドラマティックにベインの演技を盛り上げ、執事アルフレッドに「彼の強さは確固たる信念から来ています」とまで言わせ、せっかくベインのカリスマ性を強調したシーン全てが、観客の失望につながる結果にしかなっていないのは、裏切りに近いと思う。
前作では、底知れぬ悪意を持った狂人を悪役にするという、きわめてアグレッシヴな姿勢を見せていたのに対し、今回は古臭い浪花節が前面に押し出されてしまっている。

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ベインについては、多くの不満点がある。
悪役が重要な「バットマン」シリーズであるからこそ、その悪役の個性や本質に迫った描き方をするのが、映画としての筋の通し方であろう。
ベインはもともと明晰な頭脳を持ち、論理的思考でバットマンの正体を割り出したほどのスマートさを見せるキャラクターではあるものの、その最大の特徴は、やはりマッチョイズムであろう。
であるならば、あの暴走トラックを追うような空中アクションのスペクタクルをクライマックスに持ち込まず、あくまでバットマンとベインの肉弾戦が決着となるべきだ。
ぶつかり合いで、徐々にお互いの機能を失っていく、「肉体の対話」を描いてこそ、ベインを悪役へと据えた意味があるのであり、その戦いに「アメリカの姿と復権」を重ねるのが、ノーラン版「バットマン」としての本道だったのではないか。
結局、ベインはキャット・ウーマンが操縦するバット・ポッドから放たれた小型のミサイルによって、吹っ飛んで息絶えてしまった。

本作は、前2作と比較しても、脚本の不備が非常に多いことが、多くの観客から指摘されている。
最も深刻な部分は、悪役の行動の理由付けや手段が一貫性を欠き、納得しづらい部分だ。バットマンは、犯罪が起こってから出動する受身の存在なので、物語を能動的に引っ張るのは、悪役の立てた計画に拠らざるを得ないから、これは致命的である。
そんなベイン一味のクーデター計画のフローから検証していきたい。

    1. ゴッサム・シティの下水道に秘密の地下組織をつくり、孤児などの貧民を集めテロリスト・グループを結成。(武力の保持)
    2. 物理学者を拉致。身代わりの死体を用意し、学者を死んだものと思わせる。(核爆弾の用意)
    3. 証券取引所を急襲し、株売買を操作するための暗号を入手。これを悪用し、ウェイン財団のみを狙って破産に追い込む。(バットマンへの攻撃)
    4. ウェイン財団所有の武器、武装設備を奪う。(バットマンへの攻撃、武力の保持)
    5. ウェイン財団所有の核融合炉を奪い、物理学者に命じて、それを核爆弾に改造させる。(核爆弾の用意)
    6. バットマンをおびき寄せて倒すが、殺さずに遠い異国の牢に閉じ込める。(バットマンへの精神的攻撃)
    7. ベインの地下アジトに踏み込んだゴッサム市警の警官達の退路を爆破し、彼らを閉じ込める。(警察能力の無効化)
    8. ゴッサム・シティの橋を次々と爆破し、外界からの連絡通路を封鎖し、ほぼ完全な孤島とする。(街の要塞化)
    9. スーパーボールが行われているスタジアムのフィールドを崩落させ、犯行声明を発表する。(街の支配)
    10. 核爆弾を起動し、解除の方法を知っている物理学者を、衆人環視のなか殺害。「市民のひとりが起爆スイッチを持っている」と宣言(本当は自分が持っている)。(街の支配)
    11. ハーヴィー・デントが殺人鬼であったことを暴露し、デント法による収監を無効と主張。刑務所を開放する。(街の無秩序化)
    12. 核爆弾が自然に爆破するまでの長い期間、武力で実効支配しながら、悪に染まっていくゴッサム・シティの成り行きを観察する(街の破壊)

かなり複雑で手がかかっているのが分かる。これが『ダークナイト ライジング』が、観客を無駄に混乱させる要因となっている。
この計画の最終目的はふたつある。『バットマン ビギンズ』でバットマンによって倒された悪役・ラーズ・アル・グールの「罪の街ゴッサムを滅ぼす」という意志の引継ぎと、バットマンへの復讐である。
だからこそベインは、ゴッサム・シティを占拠し、デント法の欺瞞を暴き無効化、囚人を解放し、街を混沌状態にした。
ここでベインは、前作のジョーカーと同じように、市民にチャンスを与えてもいる。つまり、閉鎖された空間の中で善良な市民達が結束し、新たな秩序を取り戻すことができれば、「堕落したゴッサム」ではないため、破壊されることはない。ジョーカーの計画を、今度はゴッサム・シティ全体で行おうというのだ。
とはいえ、今回のチャンスを生かすことは、あまりにも一般市民にとって困難だ。彼らにとって、いまやゴッサムは、核爆弾を持ったテロリストに武力で支配されているという、あまりにも極端な状況になってしまっており、その中で正常な判断や正義を求めるというのは酷な話だろう。
そして、そもそもこのベインが市民に決断を迫った、という真意自体が、観客にとって分かりづらい。上映時間のわりに、その説明がおざなりになってしまっている。

異国の牢にバットマンを幽閉したベインは言う。「一度希望を見せてから絶望に突き落とす」ことこそが最大の精神的苦痛であり、ゴッサム・シティの市民にもそれを味わわせるのだ…と。
だが、ゴッサム・シティに希望は訪れただろうか。劇中の描写が少ないが、見る限りでは、この占拠によって喜んだのは、ベインの部下達や、自由になった囚人、極端な不満分子達であり、街の有力者達は次々に処刑され、その他の一般的な市民は、家でおとなしく自衛しているだけのようだ。
街に隔離され、強盗やベイン一味を恐れ、ろくに外出すら出来ない、おそらくは最も多数派である一般市民は、贔屓目に見ても「希望を見ている」状態とは考えにくい。
この時点で、ベインの計画は意味を成していないにも関わらず、そのこと自体を、彼はさして気にしてすらいないようだ。
「ベインの計画案は、これ以外になかったのだろうか?もっとシンプルかつ確実に目的を果たすやり方が、もっといろいろあったはずじゃないだろうか」、このように観客に思わせる余地を与えてしまっている。
ジョーカーの仕掛けた「囚人のジレンマ爆弾作戦」の方が、よほど純粋で理解しやすい。

街を、悪と混沌がはびこる状態に戻してから壊滅させるという目的があるにせよ、その壊滅させるベストな時期が、いまひとつ判然としないのも問題だ。
バットマンが帰還するだいぶ前から街は荒廃していたようであるし、いつでも街を滅ぼすのが可能なのに、ただ核爆弾が自然に爆破するまで待っているだけだとしたら、その間にバットマンに攻め込まれるという状況に陥った一味は、意味なくマヌケに立ち止まっているだけ、ということになる。
何故ここまで無理をして時間をかけなければならないかというと、ブルース・ウェインが投獄されてから、治療と修行を終え、バットマンとして復活するまでの時間を「映画が」必要としたからであり、脚本の都合上、ベインはただやみくもに待たされているのである。本来ならばベインの計画に合わせ、バットマンの側が、急いで牢を脱出しなければならないはずだ。

数ヶ月の間生き埋めにされていた警官たちが地下から脱出すると、衣服の乱れもほぼなく、ベインが率いる市民軍と元気に戦闘する場面に至っては、ほとんどギャグにしか見えない。しかもその戦い方は、無策にも、大挙して突っ込むという信じがたい作戦だった。
彼らは、この長期間どうやって生活をしていたのか、そして、この期間考えていた戦法が、愚直な正面からの殴り合いだったのか。このリアリティのあまりにも欠如した姿に、彼らはもう人間でなくロボットとしか思われなかった。今まで、現実とのボーダーを無くそうというスタイルを貫いてきただけに、よけい不自然さを感じてしまう。

『ダークナイト ライジング』では、荒唐無稽な部分を荒唐無稽なものとしてそのまま表現している箇所が、シリーズ中最も多く見られる。これでは、自ら特異性を捨て去ってしまったも同然である。
そもそも、ノーランが普通の脚本で、普通にアメコミ映画を演出しても、優れた作品に仕上げ、さらに普遍性を持った意義のあるものにすることなど、ほとんど絶望的なはずだ。
しかし、彼はあえてそこで勝負し、おそらくは「前作の成功はヒース・レジャーの力だ」という一部の世評を覆すという意思もあったのかもしれない、このあたりは自らのクリエイターとしての演出力で、ねじ伏せようと思ったのではないかと思われる。
ノーランは、ゴッサムの市役所前での、ベイン軍と警察との乱闘について、「サイレント期のスペクタルを表現しようと思った」と述べている。
このスペクタルのヴィジュアル・モデルとなっているのは、アメリカ史上最大の壊滅的な株価大暴落、「ウォール街大暴落(Wall Street Crash of 1929)」の、群集の混乱状況であるだろう。
「サイレント」の群集スペクタルで思い出すのは、例えばD.W.グリフィスの『イントレランス』、そしてフリッツ・ラングの『メトロポリス』における群集の暴動シーンなどだ。
現在の映画制作の規模は、当時の大作のそれよりも、かなりスケール・ダウンせざるを得ないものの、『ダークナイト』の成功によって資金をより多く獲得したノーランは、そのような伝説的大作に近い表現が出来得る状態に、作家として興奮したことは想像に難くない。
だが、このスペクタクルが、ふたつの勢力のぶつかり合いであるならば、その両方の心理描写を周到に行ったうえで、少なくともその一方くらいは、観客に感情移入させる余地を与えなければならなかった。
このリアリティの欠如と、バックグラウンドの描きこみ不足による説得力の欠如により、残念ながらこの試みは完全に失敗していると言わざるを得ない。
これに対して、冒頭の飛行機を使ったアクションは、その時点ではベインの行動の謎に、サスペンス的演出という意義が重なっているので、あまり違和感を感じず楽しむことができる。

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「社会の癌」バットマン

市民の決断が重要視されているのに、市民の行動や感情の動きがあまり描写されていないのも大きな問題だ。
これについては、複雑な事情があるのではないかとも思う。
制作陣は、記者会見において、「この暴動の描写は、N.Y.のウォール街占拠デモ(Ocuppy Wall Street)に関係はあるのか」という質問に対し、「関係は無い」と明言している。
「ウォール街占拠デモ」とは、一般市民が、アメリカの経済格差問題への不満を、富の象徴であるウォール街を人の輪で封鎖することによってぶつけ抗議するという運動である。
ノーラン達は、そもそもウォール街占拠デモの報道があったときには、もう脚本を書き上げていたのだという。
むしろここでは、先述の1929年の「ウォール街大暴落」が下敷きとなっており、その状況に、現実が繰り返し追いついてきたという偶然の一致である。
メイキング映像を見ると、先述の暴動シーンには、撮影の準備だけで8ヶ月を費やしているらしい。この脚本が通り、プロジェクトが始動し始めた後では、よほどのことがない限り、またワーナー・ブラザーズ上層部の英断を期待しない限りは、各シーンの大幅な変更は難しいだろう。
見ようによっては、この市民デモは、ベインによって扇動されたおろかなゴッサム市民と重ねられてしまうおそれがあっただろうし、実際に一部では指摘されている。
ノーランがゴッサム・シティのシーンをいくつもカットしているという話も漏れ聞く。これをあわせて考えると、おそらくは偶然の一致で似たようなシチュエーションが発生してしまい、同一視されるのを怖れた制作陣が、最終判断でいくつものゴッサム市民の描写をカットせざるを得ない状況に追い込まれたのではないかということだ。
何にしろ、ここで主役になるはずのゴッサム市民達の描写は、あまりに少な過ぎる。

だがここでノーランが、経済問題や社会問題のことを、全く考えていなかった訳ではないのが分かるのは、ブルース・ウェインの描写である。
ノーラン版「バットマン」が、「アメリカの問題」を色濃く反映していることは、前にも述べた。
アメリカ(ブルース・ウェイン)は、テロリスト(ジョーカー)との戦闘によって、純粋な正義の心を失い、さらには糾弾さえされる存在となっていた。それ故にブルース・ウェイン自身は、ほぼ全ての活動を中止し隠居している状態で物語が始まる。
今回の一連の事件を振り返ると、バットマン=ブルース・ウェイン自身による行動が全ての原因になっている、というところに注目すべきだろう。
ベイン一味の復讐の理由は、バットマンの行動によるものなのは言うまでも無いが、ブルース・ウェインが孤児院などへの社会福祉への奉仕を止めてしまったこと、そして戦闘車両「タンブラー」などの軍備が奪われたことが、ベイン軍の増強につながり、今回の核爆弾に作り変えられてしまう核物質も、ウェインのエネルギー事業への投資が原因であった。
実際のアメリカ社会も同じように、過剰防衛や報復行動が新たな死者を生み、企業の社会貢献はその利益に比べ明らかに微々たるものに過ぎず、103もの原子力発電所と冷戦時の作戦用に造られたという放射能施設は、実際にテロリストの攻撃目標として狙われているのだ。
これらが意味するのは、「アメリカ自身が全ての災厄の元凶であり、巡り巡って自身がその報いを受けている」ということである。
この徹底した批判的視点は、さすがにアメリカ出身の監督からはなかなか生まれてこない切れ味で、非常に評価できる部分であるといえよう。

奴隷解放の父と呼ばれた、第16代大統領エイブラハム・リンカーンは、アメリカ社会について、このように指摘している。
「私には、近い将来の危機が見える。・・・あらゆる富は少数派の手に握られ、この共和国、人民が支配する国は、破壊される」
リンカーンの指摘は現実のものとなり、アメリカ議会は、現代の日本や多くの国と同じように、有力な企業の中の、少数の人間たちによって支配されている。彼ら企業は、利益と利権の独占の目的で、あらゆる法律を操作し、コントロールするのだ。それが、深刻な格差問題をさらに悪化させていることはいうまでもない。そう考えると、微々たる政府の社会保障や、企業の寄付などは、都合の良い目くらましに過ぎないのだ。また、アメリカの国防費は、教育費の7倍であり、保健医療費の15倍である。
企業の利益追求と、パラノイア的な軍備の増強…この問題の象徴となったのが、今回のブルース・ウェインであるのは明白だろう。

チャールズ・ディケンズの「二都物語」の精神は、ここで生きている。
「二都物語」は、ディケンズ唯一の本格的な歴史小説であり、ジョークやユーモアがほとんど登場しないという特徴がある(これはクリストファー・ノーランの作風と合致している)。
ディケンズは、幼少の頃に困窮生活を送った経験があり、貧困層の暮らしを目の当たりにし、またイギリスの階級社会の矛盾も感じていたはずだ。
「二都物語」は、より良い社会を渇望する意志によって、社会のあり方を思考するという作品でもある。『ダークナイト ライジング』の下敷きとするには適切である。

反面、あまりうまくないと思うのは、ブルース・ウェインが富や軍備を奪われた後の描写である。
ブルース・ウェインは、剥がされ破壊されたバット・スーツを、爆発が迫った核兵器のタイムリミットを意識しながらも、何がしかの手段で用意し直し、また着てしまう。
全てを奪われ、牢獄に、負傷した状態で放り出された彼が、命綱を捨てて足場に飛び移ったとき、彼はただ一個の肉体であった。彼は全てを捨てて、過去の自分を捨て去ってゴッサム・シティに帰ってきたはずなのである。
であるならば、バットスーツを纏わずにベインと対峙するという方法もあったと思う。今やベインを含む「影の軍団」は「持つもの」であり、ブルース・ウェインは「持たざるもの」であるべきはずだから。
よりによって、バット・ポッドの武器によって無惨にもベインを一撃で吹っ飛ばし、飛行用ビークル「バット」に乗って物量で圧倒し、タリアを空中から追いつめるという展開は、依然として「持つもの」の態度を崩されてはいない。これでは、バットマンから資金や軍備を奪った意味が無いだろう。
最終決戦において、今まで夜の活動が多かったバットマンが、白昼堂々と戦うのは、「アメリカの正義の復権には、あらゆる隠蔽を排除する」という意味があったはずである。
ちなみに、本作において「デント法」の欺瞞を暴くことが重要であったのも、隠蔽への糾弾の意味となっており、ベインが自らを「必要悪」と呼んだのは、実際には彼の行動が、結果的にはより良い正義のためのプロセスとなっていることからもきているはずである。

 

立ち上がるチャールズ・ディケンズ  

バットマンが閉じ込められた牢の話をしたい。ベインがバットマンを、地獄の絶望に突き落とすことを意図して閉じ込めたアレである。
今までリアリスティックな姿勢を見せてきたシリーズにしては、なんとも漫画的で安っぽいセットに見えた。ノーランのイマジネーションの貧困さが露呈してしまったシークエンスだといえるだろう。
「奈落」と呼ばれる難攻不落の堅牢なので、見るからに、絶対に脱獄不可能な設計でなければならないはずなのに、ただ筒型の内部をよじ登るようなものであり、かつそれほど難易度が高くなさそうに見えるのも問題だ。もちろん、これは『バットマン ビギンズ』で描かれた井戸を連想させるものである必要があったのは理解できるが。
それにしても、ジャンプをしなければならない箇所の困難さも、そこでジャンプをする必然性も、映像を見る限りではあまり伝わってこない。潤沢な制作費を投入したわりに、この程度の表現しかできないというのは、映像作家としては少々まずいのではないかと思わせる位のズサンさであった。「ジャンプが成功した、失敗した」という情報が、全く身体性を伴っていないのだ。

チャールズ・ディケンズは、1857年、「リトル・ドリット(Little Dorrit)」執筆に際し、取材のため「マーシャルシー監獄」を再訪している。
そこは、ディケンズにとって生涯忘れられぬ場所であったという。
チャールズ・ディケンズが12歳のときに、彼の父親ジョンは、借金の未払いのためにマーシャルシー監獄に投獄されてしまったという。
さらに家族は、チャールズひとりを除いて、なんと全員監獄に入ってしまった(当時のイギリスは、家族も希望すれば監獄へ入れることになっていた!)。
チャールズは家族と離れ、ひとりで粗末な部屋を借り、靴墨工場へ働きに出なければならず、その劣悪な環境の中で過酷な労務を強いられることとなったのだ。
そして、このようなあまりにひどい経験が、彼の小説の主要部分に何度も形を変え、それを暗示するように登場する。ディケンズの小説の根幹に、この少年期の大いなる絶望があったのである。
だがディケンズ文学において重要なのは、それでも、降りかかる理不尽な災難や人物へ対し、つのる復讐心を押さえ、負の感情から開放されなければならないという信念である。
「リトル・ドリット」においてディケンズは、精神を「監禁状態」に追いやり、自分の都合の良いようにキリスト教の教えを解釈し他者に害を与えないこと、キリスト教の本質的理解を深める重要性を語った。

このような本質的な意味において、クリストファー・ノーランは、「ライジング(立ち上がること)」を描くために、より「絶望」に肉薄し、その描写に力を使うべきだった。
ディケンズの「オリヴァー・トゥイスト(Oliver Twist)」や「クリスマス・キャロル(A Christmas Carol)」が読者の心を深く打つのは、底辺の視点を常に忘れていないからだ。そしてもちろん、「二都物語」も。
「奈落」の不可解な甘さに加えて、ゴッサムの孤児の貧困描写についても、類型に過ぎるのは、ノーランがそもそもそのような問題に、実感を伴ってないからだろう、そういう意味での彼の作家としての足腰の弱さは、ここで露呈することになる。
アン・ハサウェイ演じる怪盗が、少年同士のひったくりの現場に居合わせ、被害にあった男の子を救い出しリンゴを齧るシーンは、聖書の「失楽園」の箇所の引用であろうが、貧困を十分に描かないわりには、そういった部分では暗喩を仕掛ける余裕があるのである。

 

バットマンはゴッサムに希望を与えたか

ハーヴェイ・デントは、『ダークナイト』での演説で、法律を無視した私刑を秘密裏に行ったということについて、「いつの日かバットマンは罪を償うだろう」と演説している。

これに呼応するかたちで『ダークナイト ライジング』では、バットマンがゴッサムを守るために、爆発が迫った核爆弾を洋上へと運搬し、犠牲になるという展開を見せる。TVアニメ「鉄腕アトム」の最終回を想起させる最期だ。
ゴッサムの子供たちが空を指差す。「あっバットマンだ!」だが、この演出は、どちらかといえば「スーパーマン」のものである。
バットマンらしくない解決方法であるし、爆弾を運び水平線に消え去る映像が、どうにも間抜けに見えてしまうことは避けられないだろう。
ちなみに、この爆弾にまつわる間抜けな右往左往は、一部のファンから、アダム・ウェスト主演映画版「オリジナル・ムービー」で、バットマンが爆弾を持って浜辺を走り回るコメディ・シーンに酷似していると指摘されている。

飛び立つ前、バットマンはゴードン本部長に、自分の正体を明かす。
幼い日に両親を亡くしたブルース・ウェインは、当時警察官だったゴードンに慰められ、彼にあこがれて正義の道へと進む決心をしていたというのだ。
そして、その正義の心こそが本当のヒーローだと語った(これを語っている間にも、核爆弾のタイムリミットは迫っている)。それ故にバットマンは、「ひとりひとりがバットマン」だということを宣言して消えていくのだ。
バットマンという存在が消滅しても、市民の心の中に、正義の象徴としてバットマンは残り続けるというのである。
ゴッサム・シティは、バットマンの巨大な像を建造することで、正義の指針を得ることになるのだが、このあたりは少し馬鹿馬鹿しいかもしれない。
ともあれ、「バットマンの復権」を「正義の復権」と重ね合わせ、その先に、「イラク戦争や国内問題などで傷ついたアメリカの復権」に指針を与えたという意味で、ノーラン版「バットマン」は、その役目を終えることに成功したということになる。

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クライマックスからラストまでの流れで、観客は、ブルース・ウェインが飛行ビークルから脱出していて「じつは生きていた」ことを知ることになる。

この「じつは生きていた」というのは、多くの作品にとってかなり危険なものであるということは、言うまでもない。
このおかげで、観客が味わった感動が無効化され、直前までの、執事アルフレッドを演じるマイケル・ケインが、子供のようにしゃくりあげ大泣きするという大芝居をした意味がなくなってしまっている。これは、ベインの顛末と同じような脱力展開である。

さて、ノーラン版「バットマン」の着地点は、果たして最良のものだっただろうか。
私は、まだ問題をはらんだ『ダークナイト』のラストの方が、「バットマン」作品としてはしっくり馴染み、考えさせるようなものになり得ていたのではないかと思う。
実際の社会は依然として暗く、戦争・紛争も、国内問題も道筋が立たない。これを、作品の中で無理に解決してやる必要はない。どのような作り方をしたとしても、それは絵空事に近いようなものに見えてしまう。
とくに、ノーラン版「バットマン」は、リアリティを追求したダークな風合いがあったからこそ、その価値があったのである。これでは、よくあるコミック・ヒーローの陳腐な映画と、本質的に変わらないことになる。
そればかりか、『ダークナイト』で自ら罪を引き受け、警察に追われたバットマンの孤高の決断は、『ダークナイト ライジング』では否定され、そのことが「デント法」の成立を助けてしまう。
悪と正々堂々と渡り合う「ホワイトナイト」の脆弱さは、『ダークナイト』ですでに描かれており、やはり3作目は、2作目で描いた、徹底した悪の強さと苦い現実というような要素さを取っ払ったおかげで、きわめて単純化した正義の勝利に帰結してしまい、はるかに浅薄になっていることは否めない。
「彼はヒーローじゃない、静かなる守護者、目を光らせる番人、ダークナイト…」
ゴードン本部長が息子へ語りかける『ダークナイト』のラストが、ノーランの「バットマン」には相応しい。

 


 

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