『ゼロ・グラビティ』わたしの肩の上の天使

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あの長回しのアクション・シーンが印象的な『トゥモロー・ワールド』の監督、アルフォンソ・キュアロンの新作ということで、宇宙飛行士が猛スピードで振り回され宇宙空間に投げ出される予告編を、劇場で初めて見たときに、「むむっ、これは・・・」と思わされたというのは、この予告編からカッティングされたアクション・シーンが、ワンカットだけでできていたためで、「まさか今回は、映画全編が長回しのワンカットで構成されているのではないか」という予感を持ったためだ。
だが、本編を観るとやはりそんなことはなく、当たり前のようにカットがどんどん割られていくのだったが、そのように誤解させるほどに、「キュアロン=長回しの作家」という印象は強い。
『ゼロ・グラビティ』のカットも、やはり比較的長尺が多い。なかでも、ISS(国際宇宙ステーション)が、飛び交う破片に巻き込まれぐしゃぐしゃになっていく様を、途切れることなく、縦横無尽にとらえるカメラワークを誇示するカットは圧巻だといえる。
この長いカットを見ながら、ここで与えられる迫真性の理由と、キュアロン監督が長回しにこだわる理由を同時に考えていた。

映画においてしばしば長回しが感心されるというのは、撮影において、カメラを途中で切ることができない時間が長くなってしまうため、製作の難度が高くなってしまうからだ。
映画撮影は、出演者が多ければ多いほど、演技やセリフの言いまわしが複雑なほど、カメラワークや演出が凝っているほど、失敗の要素が大きくなり、多くの綿密な計算と段取りが必要だ。
そのような緊張状態の時間が延長される長回しという手法は、ひとつのささいな失敗が、製作上の大きなダメージとなることから、限られた撮影日数と予算のなかで、スタッフや出演者達の負担を大きくするのである。
もちろん、これは演出としても利点がある。
映画はいったんカットが切り替わってしまうと、時間が寸断されたような印象を与えるために、持続していた観客の緊迫感が、ある程度途切れてしまう。また、「編集が加わっている」という意識を持たせ、「作りものを見ている」という印象を強めてしまうことになる。
演出プランにもよるが、一般的に「長回しとは」、映画が「つくりもの」だという違和感を軽減させ、迫真性を高める効果があるのである。
オーソン・ウェルズの『黒い罠』では、クレーン撮影を含めた長いカットの終了間際に、技術的に難しい爆発シーンを含めるワンカットで、当時の観客の度肝を抜いた。
『トゥモロー・ワールド』でも、『黒い罠』のオマージュが見られるので、キュアロンの長回しへの意識は、ウェルズの革新的な姿勢へのあこがれがあるという指摘が、とりあえずできそうだ。

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しかし『黒い罠』がその一部分でしか技巧的な長回しを用意していないのとは異なり、『トゥモロー・ワールド』では、それがいくつもいくつも用意されている。
その粘着的姿勢はもはや、物語を追うことよりも、長回しを見せることが目的であるように思え、病的な信念すら感じさせる。
それは、出演者達が劇中、口だけを使ってピンポン球をキャッチボールするという、アクロバティックなパフォーマンスをした後で、複数のカースタントを含めた、多くの段取りを要するアクションを取り入れた、長い長いワンカットからも理解できるだろう。
キュアロン監督はわざわざ、難しい段取りのワンカットを、意識的にさらに困難なものにしているのである。
しかし、ここで同時に感じてしまうのは、この宴会芸とも呼べそうな「ピンポン球キャッチボール」が、作品の価値自体に寄与するものというよりは、ただ撮影の難度を上げるだけのものとして機能してしまってはいないか、ということである。
もし、この「ピンポン球キャッチボール」が感心に値するというのななら、他の映像作家達も、映画の中で長回しをやるときに、「宴会芸を絡ませれば、より評価される」ということになってしまう。
ここでは、そもそも映画の迫真性を高める効果を持つ「長回し」が、ただやみくもに撮影技術を見せびらかそうという目的に堕しているという点で、技術の目的が転倒してしまっている例だといえるだろう。
さらに『トゥモロー・ワールド』の、このワンカットでは、カメラの痕跡を消すために、やむを得ず車内シーンでCGを使っているという。
長回しにおいて、撮影した素材にCGを追加するという行為は、それをやってしまった時点で、もう「なんでもあり」になってしまう。それがカメラの痕跡を消すだけのものであったにせよ、長回しの「難しさ」というのは、それを含めてのものであるはずだ。
そもそもキュアロン監督は、「ピンポン球キャッチボール」を、カットのなかにねじ込んでまで、撮影の難度を上げて感心させようとする姿勢を見せていた。そこにCGを使用するというのは、「自分が言い出したルールを勝手に破っている」ように見えてしまうのである。
このことから、アルフォンソ・キュアロンという監督からは、「長回し」という、丹念で精緻な作業へのこだわりと努力という、ポジティヴな印象と同時に、そういう意味では、かなりやぶれかぶれな、職人的矛盾を抱えた作家性を感じるところではある。

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宇宙を舞台とした『ゼロ・グラビティ』でも、キュアロンはこのような矛盾した問題を継続している。
本作は、もちろん宇宙空間でのアクション撮影は行っていない。そのほとんどのシーンで、大部分CGアニメーションによって映像が作られている。それ故に、カメラが被写体の周りを自在に浮遊し、例えば、宇宙飛行士のかぶっているヘルメットの内外をカメラが通り抜けてしまうという、現実離れしたカメラワークが容易になっている。
つまり『ゼロ・グラビティ』は、実写作品というよりは、実写を一部利用した、リアルなアニメーション映画であるといった方が、実状により近いだろう。であれば、切れたカットをひとつに繋ぎ、ワンカットとして表現することすらも容易である。この時点で、長回しを成立させる撮影の難度という意味は、もはや意味をなしていない。
にも関わらず、宇宙服を着た人物の運動表現に、CG特有の不自然さからくる、いささかの難を感じつつ、ここでの長回しに、ある種の迫真性を感じてしまうのは何故だろうか。この理由はおそらく、舞台が宇宙であることが大きい。
同じようなフルCGアニメーションを、地上を舞台に展開した場合、本作のレベルのCGで、膨大な情報量を表現することは難しいし、いまどきのCG表現に慣れきっている我々観客の眼に、長時間にわたってリアリティを供給し続けるというのは、やはり困難であろう。
それが、ひとたび無機的でシンプルな宇宙空間の景色を舞台にしてしまうと、コンピューターの仮想世界のなかで、現実感を失わない程度のリアリティを堅持したままで、自由にカメラを動かし、被写体の運動を創造することは、比較的実現しやすくなってくるのである。
そしてまたここでは、仮想の物体を自由に動かし、材質やスピードから、物体の運動のベクトルと衝突の結果を自動的に演算し映像に表現してくれる、最新鋭で高性能な3DCGソフトが大活躍しているだろう。
だからここで、長回しの面白さをかろうじて維持しているのは、このコンピューターのかたちづくる仮想世界における、現実に近い運動表現の精密さであるはずだ。
この運動における仮想表現が作中で活かされているのは、宇宙空間で有事の際、物理法則の特殊性によって、普段なら何でもないような、ちょっとしたミスを一瞬でも犯しただけで、死が確定する宇宙空間の表現に、物理的に深刻なリアリティを与えている点である。
そしてこの緊張感が、撮影の困難さというメタフィジックな意味において、「長回し」によって与えられる緊張感とも合致する。ただし、これがCGアニメーションである以上、この緊張感はフェイクなのである。
しかしそれを、舞台設定のアドヴァンテージと、仮想現実を生み出すCGソフトの優秀さという合わせ技によって、観客の眼に誤認させることで、『ゼロ・グラビティ』は、CG表現を「長回し」という枠のなかで輝かせることに、かろうじて成功しているといえよう。

 

『ゼロ・グラビティ』のテーマの考察に入ろう。
物語の筋自体は、宇宙空間(地球の重力場)から地球へ生還するというだけの、きわめてシンプル過ぎる構成になっている。
その分、各シーンを眺めているだけでも、それまでのひとつひとつのシーンへのこだわったライティングやカメラワークに、エンターテイメントとしての絵づくり以上に、深刻な意味性や象徴性が与えられていることが想像できる。
本編は、その象徴的な映像の大部分に音楽が使用されているが、ここからも、ただ脚本を分かりやすく伝えたり、アクションを引き立てたり、状況説明の映像を繋ぎ合わせていくだけでなく、何より映像と音楽が表現する感覚的な世界自体を味わわせようという意図を感じるところだ。
であれば、そこに流れる音楽自体にも、作品のテーマに肉薄する表現が行われているだろう。

作曲者スティーヴン・プライスによるスコアは、電子楽器とストリングス、そして女性ヴォーカルを駆使しつつ、宇宙の非常で冷徹な世界を強調し、またはいくらかのあたたかみを補強していく。
そして、トレント・レズナーやジョニー・グリーンウッドに代表されるような、「テクノロジーを意識した現代的内省」というトレンドに接近しながらも、あくまで控えめな姿勢で、映像との融合という、映画音楽家としての仕事に没頭しているように聴こえる。
最も印象深いのは、サンドラ・ブロックが演じる、宇宙空間でミッションを進行中のライアン・ストーン博士が危機に陥った際に、重々しく暴力的に繰り返し現れる、本作のタイトルでも流れるメイン・テーマ曲のヴァリエーションである。
この曲が、次第に危機的になってゆく映像と連動しながら、少しずつヴォリュームを増していき、死を強く予感させていくという意味で、たいへん不気味に配置されていることが分かる。その気味の悪さは、死神が奏でる不吉な行進曲のようである。

『ゼロ・グラビティ』は、自在なカメラワークによってアクションをフェティッシュに、しかし興奮を与えようとする、紛れもなくエンターテイメント作であることに間違いない。楽しいところでは、宇宙服を脱いでいって薄着になっていくという『バーバレラ』のパロディという観客サービスさえ見られる。
だから、観客を惹きつけるため、主人公であるライアン博士が、幾度も死の危険に直面することは、むしろ自然であるといえる。
また、ロン・ハワード監督の、実話を基に作劇された『アポロ13』を見ても、宇宙飛行士に降り懸かるトラブルが、想像を絶して厄介で、困難なものになりがちであることは理解できる。
とはいえ、『ゼロ・グラビティ』でのライアン博士の、度を越えたツイてない境遇というのは、それでも執拗過ぎるように感じるし、自然現象以上の、意志的な「意地の悪さ」を感じるところだ。あたかも死神に捕らえられた人間のように。

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ここで、死神が登場する別の映画、イングマール・ベルイマン監督の『第七の封印』の話をしたい。

『第七の封印』の主人公の騎士は、不意に現れた死神に捕らえられ、冥界に連れ去られようとしている。そこで騎士は一計を案じ、チェスの勝負に勝てば、死への猶予をもらうという約束をする。
この作品には、信心深い旅芸人も登場する。彼は聖母マリアと幼子イエスの姿を見たことで、神の福音に与(あずか)る。これによって彼は死神の姿をも発見し、いち早く死の運命から逃れ得ることができ、死を一時的に回避することになる。
同時に彼はまた、死神が人々を連れ去り、ダンスを踊らせる場面をも目撃することになる。死神に見入られたものは、全て同じように手を繋ぎ、死のダンスを踊らされている。
これは、老若男女、貧富美醜を問わず、死は人間に対して平等に適用されるものということを示すものだ。そしてそこから一時的に逃れ得ることができるとすれば、それは神の啓示を受け取った者に限られるのである。

『第七の封印』を想起させられるというのは、『ゼロ・グラビティ』におけるライアン博士が、この映画の騎士同様、死神に捕まえられているように見えるからだ。
死に脅かされ続ける彼女は、「手をひとつでも間違えたら死に至る」という、「死のチェス・ゲーム」で、死神と戦っているようでもある。そして、多くの人と同様に、「死のダンス」を踊らされる運命にある。
彼女がこの絶対に逃れられない運命から一時的に脱することができるとするならば、それはやはり『第七の封印』の善良な旅芸人のように、神の啓示を受けなければならない。

また少し話を変えよう。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、守護精霊の存在を信じていた。ソクラテスはその精霊のことを、「ダイモン」と呼んでいる。
彼によると、ダイモンは「善霊」と「災霊」に分けられ、自分には「善霊」が宿っているのだという。

ある日ソクラテスは、友人達と一緒に町を歩いていると、ある曲がり角で「気をつけろ」というダイモンからの警告を受け取る。
ソクラテスは、その曲がり角を曲がることをやめるが、友人たちはそのまま曲がって行く。
すると出会い頭に、彼らは豚の一群とぶつかり、散々小突かれて地面に叩きつけられたという。これが精霊ダイモンの予言能力である。
ソクラテスによると、ダイモンは人間に必ずついているものだが、世俗的なことにうつつを抜かしていると、その予言の力は弱まっていくという。

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現在の西洋社会においても、この概念はかたちを変え存在している。ダイモンの「善霊」は守護天使(英:Gardian Angel)と呼ばれ、「災霊」はデーモン(英:Demon)と呼ばれ、よりはっきりと二分された概念となった。
守護天使は、キリスト教のカトリックでは、人が誕生するときに必ず一人つく守護霊であるといわれている。例えば、目の見えない子供が、守護天使のおかげで川に落ちないという話が、奇跡として伝えられている。
この守護天使とデーモンの関係は、英米の漫画やアニメーションなどではお馴染みの、両肩に乗っかって「善悪」をそれぞれに促す役割として、ユニークに表現される。

さて、このような宗教観には、一見関係がないように見える『ゼロ・グラビティ』だが、作品を注意深く見ていくことによって、宗教的な象徴に支配されていることが分かる。
より宗教色が分かりやすいのは、ロシアと中国のISS(国際宇宙ステーション)に搭載されていた宇宙船「ソユーズ」、「神舟」のコクピットにそれぞれあった、「聖人クリストフォロス」とキリストの図が印刷されたカードと、中国の「弥勒佛」像を、意味のあるものとして印象的に写していることだ。この信仰の印は、本作のテーマに信仰が深く関わっていることを示唆している。

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ロシアのソユーズのコクピットにあった「聖人クリストフォロス」は、「キリストを背負う者」という意味の名であり、カトリックでは現在は軽視されているが、ロシア正教において、とくに信仰の対象になっている。
クリストフォロスは、キリストを背負って移動を助けたことから、「旅行者の守護聖人」と呼ばれる。おそらくこのことから、ロシアの宇宙飛行士は宇宙旅行のお守りとして、コクピットに貼り付けていたのだろう。
そしてこれは同時に、「ライアン博士を乗せて運ぶ」という役割を負ったソユーズを象徴しているのである。
また、中国の「神舟」のコクピットにあったのは、手を合わせ膝を崩した「弥勒佛像」であった(これは中国のメディアが監督にインタビューしていることからも明らかである)。
弥勒佛は、唐の時代に実在した仏僧「釈契此」(しゃくかいし)の別名で、弥勒菩薩の生まれ代わりとされている(日本では七福神の「布袋」と呼ばれる)。弥勒佛像はその愛嬌のある姿から、中国における、とくに民間的な信仰の対象として、最もポピュラーな像である。
これらは、世界各国の人々が違う神を信仰しながらも、各々に超常的な力を信じ、それが自分を救ってくれるという、世界に対する希望、そして生きることへの執着を示している。

ジョージ・クルーニー演じる宇宙飛行士コワルスキーが聴いていた曲が、カントリー・シンガー、ハンク・ウィリアムズ・ジュニアの歌う、”Angels Are Hard to Find”(天使は見つけにくい)であったことは注目すべきだ。
この頼れる男・コワルスキーは、ライアン博士にとって、何度も命を救ってくれる恩人として描かれる。
彼は、冒頭で宇宙空間に投げ出されたライアン博士を救出していなければ、自力で生還できていたかもしれないし、また、彼女をISSに到達させるため、自分を犠牲にまでしている。
ISSにたどり着いたライアン博士が、彼方に遠ざかってしまったコワルスキーと通信しようとしてつながらなかったのは、おそらくコワルスキーが、ライアン博士が自分をソユーズで捜すことをあきらめさせるために、自身で無線通信をオフにしたからのように思える。成り行き上とはいえ、このコワルスキーの献身は、ちょっと度を越えているような気になってしまう。
ここで注目すべきは、ソユーズが燃料切れで、自ら酸素の供給を切り、自殺をしようとしたライアン博士の夢に、何故か彼が現れ、解決策を暗示する場面である。
予知夢というのは、世界中の伝承や概念として、比較的身近に感じられる奇跡体験の例であるが、キリスト教圏においては、夢で悩みの解決策を教えてくれるのは、主に天使や守護天使、ダイモンでいうところの「善霊」の役割、ということになっている。新約聖書では、キリストの養父である「ナザレのヨセフ」の夢に天使が現れて、キリストの危機を伝え、災難を回避させようとしている。
“Angels Are Hard to Find”が示すように、献身的にライアン博士を助け、夢のお告げで災難を回避させるコワルスキー飛行士は、彼女の守護天使として描かれているということになるだろう。

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守護天使というのは、あくまで超常的存在である。中世の社会ならいざ知らず、科学的な実証が優先される現代において、このような存在は、キリスト教信者の大部分ですら本気で信じていないかもしれない。
だが、前述したような戯画的な表現のように、自分の両肩に乗って善悪を左右する「守護天使」や「デーモン」は、この葛藤が人間の「心の揺れ」であることを示唆している。
つまり現代社会における、リアリティのある「守護天使」や「デーモン」の存在とは、「人間の内的な善悪の象徴」として理解されるのである。

それでは、ライアン博士における善悪の葛藤とは何であったか。
心の底で彼女を支配していたのは、幼い娘の死であったことが、彼女によって語られている。
「幼稚園で転んで頭を強く打って死んだ」という、あまりにあっけない死は、彼女自身が言うように、「車を運転するだけの毎日」という表現によって、彼女から生きる希望と生きる実感を奪っていることが分かる。
ライアン博士は、娘への罪悪感と、酷薄であっけない現実への虚無感から、無意識的に生きることを肯定的にとらえられない部分があった。だから彼女は、生きるための作戦を考えることを早い段階で放棄し、「娘に会える」と、ソユーズの中で自殺を図ったのだろう。
このときの彼女の精神は、生命の溢れる地球ではなく、真っ暗で果てしない死の世界、虚空の宇宙空間に向いていたといえる。詩人ダンテの示したキリスト教を基にした地獄、煉獄、天国を描いた「神曲」において、善良な死者が迎えられる天の国は、宇宙空間にあるとされている。そして彼女がいる場所は、地球と宇宙空間の、ちょうど境目なのである。
しかし同時に、彼女のなかにはまだ、生への執着や希望が残っている。そのポジティヴな精神の力が、彼女の夢に守護天使・コワルスキーとして、顕在化させたのだ。
このライアン博士に起きた奇跡は、彼女に対し、死の運命にあらがう力を与える。彼女は娘が亡くなって以来、初めて生への強い実感をふたたび呼び覚ますことになる。そして今まで隣にいたコワルスキーに、事故のあった日、娘に伝えられなかった「あなたの靴が見つかった」という言伝(ことづて)を頼み、行動を開始する。これは、娘への罪悪感を断ち切り、「自分自身の生を精一杯生きる」という宣言だろう。
そして宇宙センターには、「どんな結末になろうと受け入れる」と伝える。生きる力を取り戻した彼女にとって、やるだけやって失敗した際に死を受け入れるという姿勢は、ソユーズの中で死を願ったときの姿勢とは180度反転している。
ライアン博士が乗り換えた神舟は、帰還船に分解され、摩擦熱による炎の尾を引きながら、地球の外気圏を、成層圏を突き抜けてゆく。今まで、死神の支配していたような不気味なテーマのなかで、控えめに不安げに弱く響いていた女性による歌声は、ここで音量を上げ、生の凱歌を歌い上げる。

帰還船が着水した場所は、湖のほとりだった。
自力で泳ぎきり、宇宙空間で弱りきった脚で、「アニメーションではない実写の」大地に立ち上がったライアン博士の肉体を、カメラは下から仰角でとらえる。その姿は、巨人であるかのように堂々としていて、広大な暗黒空間で弱々しい胎児のように表現されていた、宇宙におけるライアン博士とは対照的である。それは、キリストが一度死んだのちに蘇ったのと同様、ひとりの人間の「再生」を表すものでもあるだろう。

大事な人間の死や、突発的なトラブルなど、生きることで人間は辛い目にも危険な目にも遭う。そのような圧力が、本作の原題”Gravity”(重力)の意味である。しかしそれに対抗する力が人間の内的世界にあることを、ときに死神に抵抗する守護天使として、または力強い行動という発露として示されることを、正面から映画は描いている。

アルフォンソ・キュアロンによる、この長回しを駆使して描かれる人間ドラマに、素直に感動するか、クサいと感じるかは観客によって分れるところだろう。

 




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