『ドライヴ』 半死半生論

『ドライヴ』は、非常に個性的で稀有な映画だ。
一見、よくありそうな犯罪小説を題材にしたB級アクション作品で、だからこそ「こういう、地味でお金もかかっていないが、かつて60、70年代に多く生産されたような、肩肘張らない滋味溢れるアクション作品を、現代でももっと日常的に見たい」とも思わされるのであるが、その実、このような作品は、思い返してもあんまり無かったように思われる。
何故なら『ドライヴ』は、大掛かりなノワール作品以降の、『俺たちに明日はない』などに代表される、このような等身大的なB級犯罪映画のエッセンスを、注意深く分析・解体していき、それらしく再構築したものだからである。
だから、それら本物の犯罪映画とは、最終的な手触りが、根本的に異なる。

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このアプローチに一番近いように感じられるのは、クリント・イーストウッドの、西部アクションを解体・再構築した一連の作品、例えば『荒野のストレンジャー』、『ペイルライダー』、『許されざる者』などだろう。

これらが、本質的に通常の西部劇と異なるのは、イーストウッドの『許されざる者』公開時の観客のリアクションを調べると、より理解ができる。
古くからの西部劇ファンは、イーストウッド演じる無法者ウィリアム・マニーの、卑劣とまでいえるアンチ・ヒーローぶりに、アレルギーにも似た拒絶反応を見せた。
それもそのはずで、この映画のクライマックスにおいてイーストウッドは、連綿と続いて来た西部劇の、暗黙の倫理・制約を、意識して破壊したのである。
これは、イーストウッドの『許されざる者』が、「西部劇を殺した」と言われた所以でもある。
ともあれ、このような発想が出てくること自体が、イーストウッドが従来の西部劇と全く異なるアプローチを取っていたということの、証左になっているだろう。
つまり、かつての2タイプの西部劇、「史学的な叙事詩」と「徹底した大衆娯楽」、とりわけ低級なものと思われていた後者の要素を、現代的に洗練させ、例えれば、安価な(しかし力のある)パルプ雑誌を、現代美術館に、額装し陳列するような行為(レディ・メイド)にも似ている。
もちろんそれ以前に、マカロニ・ウエスタンのセルジオ・レオーネが『ウエスタン』などで先行して同じようなことをやっているし、ハワード・ホークスが『リオ・ブラボー』においてもその再構築的な萌芽を見せている。
つまり、西部劇をメタ・フィジカルにとらえるという、細分化されたジャンル的ラインが、徐々に強く意識化され成長していった歴史も存在するということである。
そして、『ドライヴ』は、現代劇でありながら、その後継にあたるものであるだろう。

『ドライヴ』で描かれる、流れ者が、女性とその子供のために、命を張って対決に挑むという構図は、とくに『シェーン』の要素を、強く意識しながら、全体的に引用していると考えられる。
それ故に、一連のイーストウッド映画に感じるのと同じような、「従来の本格的な映画ではない」という点で、ある種のうさん臭さが『ドライヴ』に漂うのは必然であろう。
ただ、これがかつて、停滞した西部劇の中でささやかに行われていても、現代の犯罪映画にはほとんど見られなかった流れであることも、『ドライヴ』に、特定の映画ファンが警戒感を感じる理由なのだとも感じるところである。
ただ、その中でも多くの観客は、すでにイーストウッドの再構築的作品に触れており、許容し得ているだろうから、個人的には、そのような懐疑姿勢は不要であると考える。
そうなると問題は、『ドライヴ』そのものが、再構築的な映画として、優れた先進性と、クォリティを担保しているかという点に絞られる。
私は、これも大幅にクリアーしていると考えている。

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『ドライヴ』がどのような凄さを持っているか、今回はシナリオを注意深く考察することでは、なかなか見えてこないように思われる。
何故なら、監督の意図は、「脚本をうまく映像で表現すること」ではなく、「ほぼ演出のみで先進性を表現すること」であったはずだからである。

その目論みのひとつは、極度にセリフが排され、演技者のささやか(あまりにもささやか)な表情で感情を表現するという箇所である。
驚くことに、「ドライバー」を演じたライアン・ゴズリングや、少女のような人妻を演じたキャリー・マリガンの、そのときそのときの顔を見ただけで、いや、逆にだからこそ胸に響くような、強い感情を表現し得ているところは、素直に賞賛すべき部分だろう。
この映画では、主人公ドライバーの過去は、直接的には何も語られない。
主人公が働く自動車工場の経営者が、「この男は突然フラリとやって来たんだ」と語るのみである。
しかし、言葉少なに彼女を見つめる瞳や、口角の角度や頬の緊張、バーやストリップ小屋でのやりとり、または残虐なヴァイオレンス・シーンと、その後彼女を見たときの、諦観が内に込められた寂しげな表情に、この男の過去は、抽象的に、しかし十分に理解することが可能なのである。

彼女が人妻で子持ちなのにも関わらず、純粋な少女のような容姿を保ち、またロリータ風ファッションをしているのも重要な描写である。
ドライバーが彼女に惹かれたのは、彼が犯罪に手を染めながらも、汚れのない世界に憧れ、放浪していたという人間性を表しているからである。
そして彼らの出会いから、恋愛の進展や、それが潰えるまでの流れが、声無き声によって優雅に描かれていく。
奇しくも二人の出会いの場であるエレベーター内で、ヒロインを守るために刺客を殺さなければならない箇所では、いささか唐突に感じられるものの、彼女にキスをすることで、純粋な恋愛感情を、まだ純粋なままでそこに留め置こうとする刹那的な願いが込められていて、グッと感情が揺り動かされる部分だ。

ここまで、セリフを排した上で、饒舌に感情を語る手腕を持った、ニコラス・ウィンディング・レフン監督の技量には、凄まじいものがあることは確かだ。
そしてその姿勢は、セリフの排除だけに留まらない。
例えば、ヒロインの夫を脅す暴力的な借金の取り立て人の残虐性を強調する際に、直接的な暴力を描かず、血まみれで倒れた夫だけを写す省略であったりとか、その小さな息子に銃弾を持たせ、大事に保管するように告げること(最終的にその銃弾が父親の眉間を貫くという、異常な警告)などが、切迫した状況を暗示し、かつて悪党の世界の渦中にいて、その危機を察知することのできるドライバーが、強盗計画に参加せざるを得ない説得力を醸成させるスマートさは、芸術的ですらあると感じられる。

このおかげで、『ドライヴ』は映像詩的な、いささか嫌味ともいえるような格調の高さを担保しているといえるだろう。
ここは、先述したセルジオ・レオーネの『ウエスタン』の、セリフの全くない、しかし饒舌に感じられる、緊迫した長い冒頭のシークエンスにも酷似している。
加えて、画面の色調や、時折挿入される、デヴィッド・リンチの映画にあるような重低音のノイズなどが、映画全体を統一された演出で引き締め、これも再構築的でタイトな印象を与えている部分である。
さらに80年代風の、ややレトロな、タイトルなどのアートワークに加え、往年のマニアックなポップスやテクノ・ミュージックを劇中曲として利用している部分は、作品を非常に個性的で奇妙な手触りにしていることも指摘しておくべきだろう。

しかし、『ドライヴ』において、最も重要でメタ・フィジックな箇所は、そのラストにある。
ここまでの展開でドライバーは、その献身的努力とは裏腹に、ヒロインの理想を崩し幻滅させ、しかし健気にも彼女やその息子を救うために、周到に矮小化され描かれた悪漢との取引に臨み、殺し合いに発展する。

この緊迫のラスト・アクションで、両者の影しか写さないのは、通常の感覚からすると、相当に異様な演出だといえよう。
よくあるアクション映画は、映像のスケールや役者の動きのダイナミズムを魅力としてとらえているが、ここではそういった価値観が通用しないのだ。
確かに、中盤の展開で、強盗計画が悪漢の周到な罠であり、技術のある他のドライバーとのカー・アクションにもつれ込む箇所では、そのようなアクション映画の魅力を描いてもいたが、爽快だったのはほぼそこのみであったことを考えると、ここはむしろ、カー・アクションとしての最低限のサービスをしたものであり、本質は別なところにあることを指し示してもいるはずである。

影のみで見せる殺し合いは、暴力のスマートな省略であるだろうし、どちらが死んだかを、次のシーンまで引き延ばすミステリーにもなっているが、最も重要なのは、ここで影が融合するように見えることで、両者の持つ、そして観客が考える「正義と悪」という観念を、混乱させ、不安に陥れる効果があるということである。
それは、その前に描かれた、マスクを着用して浜辺で悪漢を殺す復讐劇と同様の意味が持たせられている。
つまり、自分の信じる純粋さを防衛する過程で、自分自身が悪に染まっていく過程の恐ろしい描写なのである。
彼の、サソリがプリントされたジャケットが、殺人のたびに血にまみれていくのは、そのことを表現しようとする、これもメタ・フィジックな視点からなのだろう。
常識的に考えて、血だらけのジャケットを着てレストランに入店するのは、どう考えても奇妙だ。
この映画は、そのコーディネートされた色調や曲が示すとおり、作り手の心象風景なのである。

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ドライバーは、『シェーン』同様、腹部に致命傷を負って、死の危機に瀕する。
腹部の深い傷と相当量の出血というのは、現実でもそうであるように、映画においても、死を暗示するものである。
だから『シェーン』は、その有名なラストシーン、「シェーン、カムバーック!」の呼びかけに応えないシェーンは、その後、馬上で死を迎えたことを予感させるものである。
面白いのは、結局シェーンは、死んだのか死ななかったかを、ぼかしたまま終了してしまうところである。
つまり、二通りの可能性を示唆し、観客の想像の予知を残す、開かれたかたちでの作品のありようがここで示されているのである。

これを、『ドライヴ』ではさらに深く追求し描写する。
悪漢を刺し殺した後、ヨロヨロと愛車に向かうドライバー。彼は、運転席に座り、ゆっくり目を閉じる。
カメラは、その彼を長回しでとらえている。異様に長い間を持たせる。
曲が徐々にフェード・インしてくると、ドライバーはおもむろに目を開き、エンジン・キーを回す。
そして車は発進し、何処かへと向かってゆく。同時に、ドライバーの部屋に行くが、会えないヒロインをワンカットで映す。
しかし、ドライバーはおそらく彼女の下へ帰ろうとしているはずである。
問題は、そこへ向かおうとするドライバーが、生きてるのか死んでるのか、『シェーン』同様に分からないということである。
ヨロヨロと運転席に乗り込んで目をつぶったとき、ドライバーは、本当は死んでいたようにも見える。そして、汚れた肉体を捨てて、魂になって、意志だけ(そしてゴースト・カー)が彼女のいるところに向かっているという解釈も可能なのである。
前者ならば彼女はドライバーと再開できるし、後者ならば会うことはないだろう。
『ドライヴ』は、意識してその二つが重ね合わされているのである。

その状態、いわば「半死半生」は、とくにキリスト教圏では、宗教的な意味をも持つ。
キリストは死後復活するという、人間の力を超えた奇跡を起こしたと伝えられる。
無論、映画において、普通の人間が生き返ることは、リアリティのあるストーリー展開の中ではあり得ない。
しかし、生きてるか死んでいるかよく分からない、または今にも死にそうな人間というのは、ある種、最も神に近い神秘的な存在であるとも考えられる。
それは、キリストの死体が、「生き返るかもしれない」という期待の中で神秘性を発揮するという道理に近い。
ここで思い起こすのは、先述したイーストウッドの『荒野のストレンジャー』や『ペイルライダー』などである。

ここでイーストウッド自身が演じた流れ者は、死んだはずの男であったり、亡霊だと疑われるような神秘的な存在だった。
そして、生きているか死んでいるか判然としないからこそ、悪漢を圧倒しつつ打倒することが可能なのである。
イーストウッドの『許されざる者』では、老いぼれたウィリアム・マニーが病気になり、さらに保安官によってしたたかに痛めつけられるという受難を経て、逆に圧倒的な力を取り戻す端緒になったことからも、このような信仰的な事情を類推することができる。

また、ジム・ジャームッシュの『デッドマン』はさらに解りやすい。
ジョニー・デップが演じる半死半生の男「デッドマン」は、半死半生の状態であるが故に、無敵のガンマンとして顕現するのである。

 

 


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