『エンジェル ウォーズ』 ロボトミー少女はギークの夢を見るか

セーラー服やミニスカートをひるがえした美少女達が、SF、ファンタジー、軍事、オリエンタルな各妄想世界で、日本刀やマシンガンを武器に、派手なCGバトルを繰り広げるという、オタク馬鹿丸出しな、かなり恥ずかしくなってくるような題材であることは間違いない。
これを、『300』や『ウォッチメン』などの、とくにコミック原作を翻案した映画を成功させてきた、CG映像が身上のザック・スナイダーが監督したのが、『エンジェル ウォーズ』だ。

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しかしこんな極端な内容の割には、脚本がわりと込み入ったものだったので、まず先にその構造を検証したい。
ストーリーは、回想や妄想、さらに妄想内妄想など、役割の違うエピソードを分割し配置しているので、一見複雑には感じるのものの、昨今のアメリカ映画によくあるような、時系列のシャッフルというのは無いので、その点はオーソドックスで読みやすいといえるだろう。
以下それらを、それぞれのピースごとに、6つ程度にまとめてみる。

(1)母親に死なれた少女(エミリー・ブラウニング)が、継父から虐待を受ける自分の妹を拳銃で救おうとするが、誤って妹を殺害してしまう(またはそのように思い込む)。

(2)少女が精神病院施設へと送られ、今にもロボトミー手術を施されようと、眼前にアイスピックをつきつけられるまでの5日間。

(3)娼館で卑猥なダンスを強要される、「ベイビードール」という源氏名をつけられた少女(エミリー・ブラウニング)が、脱走するために同じ立場の少女達を仲間にし、犠牲者を出しながら、そして自分自身を犠牲にして「スイートピー」(アビー・コーニッシュ)を脱出させることに成功する。

(4)異世界での美少女戦士達のバトルゲーム。ステージクリアするごとにアイテムを手に入れる。※(3)に適宜挿入される

(5)ロボトミー手術を施され廃人となった少女が、看護士に虐待を受けている最中に救出される。

(6)「スイートピー」がバスに乗り、帰路へとつく。

この中で、客観的な事実として描かれていると思われるエピソードは、(2)と(5)のみである。
つまり、ほとんどが少女の妄想に基づいている作品なので、観客が『エンジェル ウォーズ』を観て混乱するとすれば、このような脚本の奇態さからきているだろう。
しかしながら、(1)は少女の主観的な回想であるものの、妹が死亡する瞬間の混濁を抜きにすると、比較的客観性を保っているように見えるので、これも現実に準じたエピソードだという見方が出来る。
ちなみにここで妹が継父によって襲われるシーンは、『散りゆく花』のリリアン・ギッシュのイメージを引用し、悲劇性を盛り上げている。

(2)は、事実として描かれているものの、少女が入所してから手術までの5日間を、非常に短く、またほとんどが割愛して描かれているため、その間、実際に何が起こったのかを、この時点では観客が知ることはできない。
その謎は、この後描かれる少女の、都合よくソフトに再構成された偽の記憶の回想を追ってゆくことによって明らかにされていく。

問題はこの(3)からなのだが、この(2)と(3)のつなぎ目、つまり「ロボトミーされようとするベイビードールを、舞台で演じるスイートピー」の目線へと受け継がれるという、意図が不明瞭に感じる描写が、かえって作品を読み解くヒントとなるのだが、ここは少し複雑なので後述したい。

(3)は、今にもロボトミーを施され、廃人となる刹那に見た、少女自身の施設入所から現在までの、ひどく混乱した回想である。
混乱している理由は、「実の妹を殺害してしまった」という罪悪感からくる精神的ストレス、そして「ベイビードール」が複数の所員により性的虐待を繰り返され、「事実を事実として記憶したくない」という、彼女自身の精神的な防衛本能が働いたためだと思われる。
ここでは、客観的事実である(2)、(5)に現れる登場人物が、別の役割で登場する。
精神病入院施設は娼館に、性的虐待は、ソフトな表現…「強要される卑猥なダンス」という隠喩として用いられる。
しかし、この虐待はあまりにも陰惨で、彼女の心に重大な傷を作ったらしく、ここの記憶のみ、丁寧にももうひとつ妄想が加わる。つまり、妄想内の妄想である。
ここでは、「性的虐待」が「卑猥なダンス」となり、さらにそれが異世界でのバトルゲーム、すなわち(4)という表現に転化されている。

客観的事実である(5)によって、観客は手術が行われるまでの5日間の真相を知らされる。
そして彼女の陶然とした表情のアップから、観客はもう一度、彼女の脳内を見せられることになる。それが、「スイートピー」が追っての手を逃れ、無事に家に帰るという(6)、希望的妄想なのである。
これが、『エンジェル ウォーズ』の、複雑に感じられる脚本の構造的概要だ。
その根拠は、主人公であるベイビードールの内面にさらに迫り、彼女の目線で物語を追っていくことによって明らかになるだろう。

ベイビードールは、実の妹を殺害したと思い込んでおり、そのことが彼女を苦しめ、体は精神病院の中にありながら、心はさらに精神的牢獄の中に閉じこもっていた。
ロボトミーの恐怖にさらされることで、施設を脱走することを決意した彼女は、一緒に脱走する仲間を集め、さらに自分の体を施設職員達に積極的に与えて油断させてまで、ナイフやライターなどを盗み出し、脱走計画を進めていく。
そしてこのような、常人ではとても耐えることのできないような陰惨な試練を乗り越えることができたのは、「ここは娼館なのだ、娼館なのだ」という自己暗示、また「これはゲームなのだ、ゲームなのだ」という自己暗示によってである。
そして、そこに少女を誘ってくれるのは、彼女の守護天使、「賢人」である。
冒頭で、「守護天使は老人のかたちにも少女のようにもなる」と言っているが、ここでは、彼女にとっての守護天使、言い換えれば「心の拠り所となる象徴」が彼の姿だったことが示されている。
劇中では明かされないが、それは彼女の実の父親の姿なのだと考えるのが妥当なところだろう。
しかし、順調に運ぶかに見えた脱走計画のなかばで、仲間がナイフで刺されてしまうという、重大なアクシデントに見舞われることになる。
※この箇所はあくまで「娼館」のイメージ内でのことなので、実際に仲間が殺されているかどうかは不明だが、(5)での厨房での描写を見る限り、刃物にまつわるトラブルがあったことは確実である。
犠牲にあったのは、施設の少女たちの姉御的存在の「スイートピー」の妹である(ここも、実の妹であるかどうかは確定的ではないが)。
死の間際、「お姉ちゃんだけは家に帰って、私の気持ちをママ伝えて…」とこときれるスイートピーの妹の願いを目の当たりしたベイビードールは、施設逃亡時、門の前で、スイートピーと自分、どちらが警備員の目を引きつけるかという二者択一を迫られたとき、自分自身が犠牲になるという決断をする。
それは、自分が守りきれなかった妹への、ベイビードールの贖罪であったはずだ。
かくして、彼女は捕縛され、ついにロボトミー手術を受けることになる。
アイスピックが目の前に突きつけられ、精神の死を迎えようとする直前、彼女の脳裏には、地獄のような日々の全てが、都合よく訂正されたかたちで駆けめぐる。
それは、他人を救ったことで罪をほろぼした彼女への、自分自身への「赦し」でもあっただろう。
術後、廃人となった彼女の表情が、幸福感に包まれ、天使のようにイノセントな描写をされていたのはそのためである。

そして最後に彼女が夢見るのは、「スイートピーが無事に脱出する」というイメージである。
ここに登場して彼女を助けてくれるのが、「賢人」であることから、これはやはり妄想の世界であり、ここでのスイートピーは、彼女の願望が作り出した幻影であることが分かる。
ここで冒頭同様のナレーションが被さる。
「これは誰のための夢だったか?誰が主人公だったか?」
主人公は、ベイビードールではなくスイートピーだったということを強調しているのだ。
しかし、ここはそのまま受け取ると、作品全体をミスリードしてしまうことになる。スイートピーが妄想世界の、もしくは映画全体の主人公だとするには、あまりにも辻褄が合わないからである。
このセリフは、「物語の主人公はスイートピーであり、また自分はその守護天使だったのだ」というハッピーエンドを捏造することで、自分を納得させようとする、彼女の願望の表れだったと見るべきだろう。
目の前にあるアイスピックが、すぐさま自分の脳を破壊する、そのような人生の最期は、紛れもなく悲劇であると彼女は考える。
だから、彼女は、「この人生の主人公はスイートピーだったのよ!私は彼女の守護天使だったのよ!」と思いこもうとする。
そして、その設定に沿って、大急ぎで記憶を書き換える。アイスピックが刺さり、すべてが終わる前に。
それは、先述した(2)と(3)のつなぎの部分が証明している。
手術台に座る舞台劇を演じていたのは、ベイビードールではなくスイートピー・・・これは「主人公すり替え願望」であり、その彼女、つまりベイビードールのかたち作るスイートピーが文句を言うように、「ロボトミーなんて客に受けないわ!」というのは、「このようなラストはふさわしくない」、「こんな人生は受け入れられない」という、ベイビードールの心の叫びだっただろう。
しかし、スイートピーが主人公であり、自分は彼女を助けるわき役であったとしたなら、それが彼女の書き換えた記憶であり、さらに「うまく逃げ仰せた」という妄想を加えることで、ハッピーエンドを完成させるのである。

では、『エンジェル ウォーズ』は全く救いのない、ただの陰惨な映画だったのか?というと、けしてそうではないと思う。
ここで描かれたテーマは、「想像力、妄想力というのは、あらゆる困難を乗り越える力になり得る」ということである。
最悪な状況に陥って、誰一人自分を助けてくれる者がなく、今にも殺されようとする瞬間にも、人は想像力によって幸せになれる可能性がある、ということ。
たとえそれが逃避であっても、嘘であっても、想像力だけが、何人も侵すことのできない最後の自由であるということ。
もっといえば、じつはそれだけが人を真に幸せにできる鍵なのではないか、ということである。
近年の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『パンズ・ラビリンス』などが先発としてあるため、とくにオリジナリティがあるというわけでなく、また個性的な意匠が加わっているとは思えないが、このテーマ自体は素晴らしいし、さらにそれをエンターテイメントとして成立させようとする意志は、評価できるのではないかと思う。

また、本作で度々描かれるオタク的なSF世界のバトルを、「逃避」と位置づけることで、「オタク的なるもの」の病理を、ザック・スナイダーは表現しようとしているようにも見える。
私は、とくに日本の近年の漫画やアニメーションにおけるいわゆる「萌え」と呼ばれるような表現に、非常な苛立ちを感じることがよくある。それは具体的には、このような萌え美少女を中心に据えた作品に登場する「美少女」の内面の、空虚さへの違和感である。
彼女たちの価値を支える多くの点は、とくに男性の観客(読者・視聴者)が感じる、性的な魅力であることは言うまでもない。
であるにも関わらず、彼女たち自身は性的なものに対する意識に無頓着であることが多く、劇中で男性キャラクターと交際しようとする場面は、極めて稀である。
それは、オタク系の評論家が論じるような「ホモソーシャル空間」という、異性を排する世界観の実現であるのだが、何故このようなものが想像され好まれるのかというと、それは観客が、劇中の美少女キャラクターへ向け、恋愛感情を持ってしまうということが、現実の状況としてあるということだ。
しかしそれは裏を返すと、彼女たちの、本来、人間ドラマとして描かれるべき自由意志を摘むことでもある。
私は、最近ではすでにパターン化されてしまった、その不自然に去勢され理想化されたキャラクターのことを、その意志薄弱さから、「ロボトミー少女」というように呼んでいた。
もちろん、漫画・アニメーションに登場するキャラクター自体に人格は存在しない。だから、どのような描き方をしようが自由だとは思うが、そのような不自然なキャラクターによって描かれるドラマは、身勝手で、普遍性をなくした、下らないものになってしまうことは明らかである。
なので、今回『エンジェル ウォーズ』でたまたま私が問題視していた「ロボトミー」というキーワードが登場することについて、そういった作劇についての倫理的問題に、ザック・スナイダーが言及していることに、感覚的にすぐ理解することができた。
もともとザック・スナイダーが『エンジェル ウォーズ』を撮った目的は、リミットを解放したオタク世界を構築することだったのは言うまでもないが、無責任でひとりよがり的なバトルシーンを描く代償として、現実の社会性とバランスを取ろうとした結果、「ロボトミー少女」という辛辣な表現を登場させたということは、指摘しておくべきだろう。

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しかし、どうもこの映画、『300』や『ウォッチメン』などとは異なり、アメリカ国内外の多くの観客からの評価が芳しくなく、シンパシーを与えることができなかったようだ。
それは、先述したテーマと、実際の作品の演出が難解で難しかった…というよりは、むしろそれらの描き方に大きな矛盾があるからだと考えられる。
まず、少女の精神的な葛藤が、ロボやマシンガン、日本刀やドラゴン、ミニスカセーラー服として表現されて、果たして良いものなのだろうか、という問題である。
この箇所で観客の多くが感じたであろう違和感は、「これは主人公の少女の理想化された世界じゃなくて、ザック・スナイダー、お前の理想世界だろ!!」という点だろう。
このどうしようもない違和感は結局、作品全体を通して続き、テーマを不明瞭にし、意味なく物語の理解を阻害し、かわりに観る者にストレスを与えてしまうことになる。

そしてテーマを勘案して、そのイデオロギーをはっきりと裏切っていると思えるのは、やはり彼女たちの、性的に強調されたコスチュームだ。
ヒラヒラとスカートがひるがえり、ときおりパンツを見せながら戦うような必然性は、どこからきているのだろうか。
そこから、この世界を想像した少女が、今まさに行われているであろう、施設職員による性的暴行に対し、「ん?まんざらでもないんじゃないの?」という印象を、ザック・スナイダーの意図にかかわらず、観客に与えてしまうという危険性があることは否定し難い。
もっといえば、この少女(ベイビードール)は、施設に入る前から長いつけまつげを装着し、ケバいメイクをしていたし、施設内でも、妄想世界の中でも、すべてこのケバメイクで通している。
この点についても、最初から最後まで、主人公の少女が、男からの視線を意識しているという印象を与えてしまう。
ただ、このメイク論に関しては、「男性目線」ではない、自意識にかかわるなんらかの価値観が彼女にあるのかもしれない…という可能性は残していると思うのだが、それならそれで、ある程度メイク問題については作中で描いておくべきであるとは思う。
このような扇情的な姿勢で、同時に性差別的なものを扱うという行為が、ザック・スナイダーが意図したバランス感覚とは別のところで、このふたつのテーマを、どちらもスポイルしてしまった。
簡単に言うと、女性の悲しみを描くにはパンチラが不謹慎だし、純粋にパンチラを楽しむような(そういうものがあったとして)映画にもなっていないということである。
ザック・スナイダーがここに気づけなかった(または気づこうとしなかった)ことは、脚本家・演出家としては、どうしようもなく大きな失点である。
この無理矢理な世界観を無理に整合させようとするなら、その世界に導いた「賢人」が、実は今は無き父親で、ベイビードールが幼い頃にずっと聞かせ続けていたベッドタイム・ストーリーであった…とするなら、まだ理解は可能ではあると思うが、それでもそれが作品を飛躍的に良くすることがないだろうと思うのは、やはり世界観がナンセンスに過ぎるからであろう。

これは、『エンジェル ウォーズ』はザック・スナイダーのオリジナル脚本であるので、単純に作家として、テーマの整合性、またそれを収斂させていく技術とが足りなかったということだと思う。
『300』や『ウォッチメン』が良くできていたのは、もともと原作のテーマや演出が優れていて、「これをどのように映像するか」ということのみに注力できたからではないか。
ただ、それは悪いことではなく、例えば増村保造が論文で黒澤明と市川崑の特質の違いを述べたように、ザック・スナイダーは、優れた原作を料理するという、得意な領域で技術の向上を図れば良いだけの話である。

さて、『エンジェル ウォーズ』では、彼が得意なはずのCGを多用したVFX表現にも、このことが悪影響を及ぼしている。
やはり、もともと明確なヴィジュアルが用意されている、もしくはヴィジュアルを想像させるような原作があってこそ、そこにツイストを加えて、例えば『300』であったなら、兵士達が崖から落ちていくような表現を、通常の実写映画であれば行われないような、影絵のような形式的で不自然な撮り方で、独創性を高めることができていたのだということがいえるだろう。
だから、『エンジェル ウォーズ』の見どころは、紛れもなく異次元バトルシーンにあるように作られているものの、注力されるパワーが世界観の想像のみに留まり、他の面での工夫が少ないために、そこが極めて凡庸で退屈に見えてしまう。
バトルシーンの全てが、「どこかで見たようなもの」のミックスであり、オリジナリティがないことについては、それこそが監督の意図したものであるならば、責められるべき点ではないのかもしれないが、それでもタランティーノが『キル・ビル』でやったような面白さをまるで獲得できていないのは、事物を消化しきれず、さらにそれを元のネタと同じような意味合いで使用してしまったということにもあるだろうし、またザック・スナイダーの趣向のつまらなさにもあるだろう。
オタクカルチャーにもいろいろあるだろうが、監督が「クールだと思った」とインタビューで述べ、抽出したものが、非常にチャイルディッシュでセンスが無かった…(これは各人によって意見の異なるところかもしれないが)、そしてそれがバレてしまった…というのが、『エンジェル ウォーズ』の、最大に恥ずかしく、失敗している点のように私は思う。
そのために、娼館でベイビードールが「こんなのみたことない!」と評価されるようなダンスを披露したときに、わざわざつまらないバトルシーンに切り換わり、その、さぞやものすごいであろうダンスシーン自体が見られないことが納得いかなかった。

 

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