サースティ・スカラーと名の付くバーで、デカい「GAP」のロゴが胸に目立つパーカーを着た、クリクリヘアーの青年が、なにやらすごい早さで、連れの女の子にまくしたてている。
「すごいスピードでついていけない、話があちこちにとぶし…、いま、何の話題を話していたんだっけ?」
少しとまどう女の子に、構わないといった態度で、次々と思い浮かぶ複数の話題を、同時進行で止まらずにぶつけていく青年。
彼は、のちに”Facebook”というインターネットのソーシャル・ネットワークサービスを立ち上げ、創始者として莫大な収益を得て、「ビル・ゲイツに迫る男」と呼ばれることになる、ハーバード大学の学生、マーク・ザッカーバーグだった。
「ぼくが大学のファイナル・クラブに入ったら、君もパーティに招待してあげる。普通なら君が会うことができないような参加者たちと会えるよ」
「私が…普通なら会えないような…ですって?」
彼は、悪びれもせず続ける。
「勉強なんてすることないさ、君はボストン大学だろう?」
彼女…エリカ・オルブライトは、一瞬、絶句したのちに、文字通り怒りに震えた。
彼女は、マークに一方的に別れを告げた後、こう付け加えた。
「彼女ができないのは、自分がオタクだからだと思ってるんだろうけど、そうじゃない。アンタの性格が最低だからよ!!」
そう言われたマークは、すぐには事態を飲み込めなかったが、エリカが店を一人で出てしまい、サースティ・スカラーにひとり取り残されると、やっと慌てだした。
大学の寮に帰ると、彼は早速コンピューターを立ち上げ、自分のウェブログに、実名で彼女への誹謗中傷を書き連ねていた…。
事実を脚色したという映画、『ソーシャル・ネットワーク』の、99回ものテイクを経て撮影されたという短い冒頭部分は、その情報量の多さにも関わらず、端正で無駄のない完成度を誇っている。
観客がまだ気づかない、マークの致命的な性格的欠陥を、エリカがズバリと言い当て、しかしその指摘すら彼は「不当なもの」と思いこみ、あまつさえ幼稚な復讐の手段にうったえるのである。
マークの差別的発言は、ハーバードの学生という立場から見たら、真実なのかもしれない。しかし、真実だとはいえ、言ってはならないことがある。
「ぼくは正しいことを言っているのに、彼女はどうしてそれを分かろうとしないんだ?」
彼は、そのような物の考え方をする人物なのだ。
そして、その彼を演じたジェシー・アイゼンバーグの硬質で神経質そうな顔と貧弱に思える肉体は、陰険さとコンプレックスにまみれている。
そこから映画のラストまでは、そのことを実証していくパートとして機能する。
もちろん、”Facebook”の社会的成功譚や、「排他的コミュニティ」のアイディアを盗まれたと主張する大学の先輩、ウィンクルボス兄弟からの告訴、また、同じく創業メンバーでありCFO(最高財務責任者)を務めていた、エドゥアルド・サベリンからの告訴、mp3共有サービス”Napster”を19歳で開発したという天才、ショーン・パーカーとの出会いなど、見所はたくさんあるのだが、これらのエピソードは、マーク・ザッカーバーグの天才を示すとともに、彼の性格的欠陥をも浮き彫りにする。
このジャスティン・ティンバーレイクが演じる、ショーン・パーカーは、他人の意見を聞かない孤独な人間という点で、マーク・ザッカーバーグと非常に似た人間として描かれ、それはマークが強くショーンの人間性に惹かれ、信奉してしまうという展開で、そのことがさらに後押しされている。
他人に惑わされず、自由に生きているように見えるショーン・パーカーは、マークの理想を体現した存在なのだ。
“Napster”は、高校時代、スポーツマンに彼女を取られ、見返してやろうと思ったことからスタートさせたものなのだと彼は語る。
「今でも彼女を思い出す?」というマークの質問に、「全然思い出さないね」と彼は豪語してみせるのだが、実際は当時のことが頭から離れず、未成年の女の子にばかり固執し、プログラミングでつぶしてしまった青春を取り戻そうと、日々ドラッグ・パーティーを開こうとするさみしい男だったのである(ちなみに彼も実在の人物なので、ここは非常に辛辣なのだが…)。
ラスト・シークエンスは、親友であったはずのエドゥアルドからの訴訟の話し合いをしている法律事務所で、同席した女性弁護士とふたりきりで残される場面だ。
彼女は、マークからの食事の誘いを断ったあと、彼に、エドゥアルドへ賠償金を支払い、示談にするようサジェッションする。
現実の世界での彼らの人間性は、もちろん映画とはいささか異なるのだろうが、少なくとも映画内のエドゥアルドは、和解金を受け取り、少しでも”Facebook”からの利益を受け取るべき存在として、同情的に描かれている。
法的にはともかく、これは絶対的な「真実」を希求していけば良いなどという問題ではない。これは人情的な観点から見なければならない問題なのである。”Facebook”の莫大な利益から鑑みれば、和解金など、さして問題にもならない額なのだから。
「あなたは最低ではないけど、そう見える生き方をしている」
真実や効率性だけを追求し自分の意志に反する物には挑発や攻撃を加えてきた、しかし、それでこそその精神が”Facebook”に望外な成功をもたらしたわけだが、それは人間の生き方としては異常だったのだということを、ここで初めて彼は教えられるのである。
何故、今まで頑なに周囲の否定的意見をシャットアウトしてきた彼が、やっとそれに気づけたのかというと、弁護士のセリフが、エリカに以前言われたものにオーヴァーラップしたからだ。
また、ひとりきり残されたマークは、ノートPCを広げ、”Facebook”にアクセスし、検索窓に”Erica Albright”と打鍵してみる。すると、彼女もまたユーザーとして、”Facebook”に登録していた。
少しためらったあと、彼女へ「友達申請」をするマーク。
エリカは、おそらくこの申請を拒否するかもしれない。しかし、もし彼女へメッセージを伝えることができれば、彼は初めて自分の非を認め、謝るはずだ。
本当は、あのサースティ・スカラーで彼女と別れた晩に、彼は中傷エントリーを書くことをせず、彼女に謝罪のメールを送るべきだったのだ。
映画の冒頭から、ラストまでの紆余曲折は、マークが失敗をし、そのことを謝ることができるようになるまでの、精神的成長の道程である。普通の人間ならば容易にできることだが、結果的に親友を裏切り、深く傷つけてしまった後に、やっと彼はその境地に到達することができたのだ。
良いプログラマーとして、また良い起業家として、人間性は必要条件ではない。
プログラムのスクリプトは、ただひたすらに効率的でありさえすれば良いし、企業は、ただひたすらに利益を生むことだけが至上命題であるからだ。
だから、マーク・ザッカーバーグはそのルールの中で、縛られずのびのびと活躍することができたし、生身の人間として、人間性の有無が問われるケースに直面することは極力避けられてきたのだ。
伝記映画は、その多くが、事実の面白さを追求しすぎて、その分、各エピソードをテーマに収斂させることが難しくなり、結果的に散漫な印象になってしまうことが多いが、『ソーシャル・ネットワーク』は、マークの「失敗」と、「謝罪への決意」という、「問題」と「答え」で、映画をサンドイッチすることによって、非常に明確でスマートなものにすることに成功している。
そのため、小品としての価値は高まったが、題材の割には、作品のテーマが粋で、しかしあまりにも軽妙になりすぎてしまっているという指摘もできるだろう。
『ソーシャル・ネットワーク』が、どことなく玄人好みの雰囲気を発し、批評家の受けがすこぶるいい最大の理由が、ここなのだろうと思う。
しかし、脚本の完成度を高める方向に向かいすぎたことで、失うものもある。
デヴィッド・フィンチャーはもともと、VFXやケレンのある、躍動的な映像が得意な監督だが、近年はより地味な箇所にその技術を発揮しているため、演出自体も地味になってきていて、もはやCGが使用されているのかどうかすら、もうほとんど分からなくなってきているケースもある。
ちなみに、本作で印象的なのは、リッチでハンサムで、ファイナルクラブの会員でもあるボート部の双子、ウィンクルボス兄弟のヴィジュアルの面白さだ。
これ、双子の片割れをアーミー・ハマーという役者が演じているのだが、もうひとりを、ジョシュ・ペンスという役者に演じさせ、編集時にCGでアーミー・ハマーの顔を、ペンスの顔の上から付け足すという特殊効果を加えたのだという。つまり、ジョシュ・ペンスはフェイス・オフ状態ということ。…この試みは狂っていて素晴らしい!
通常ならこういう場合、アーミー・ハマーが一人二役を演じて、あとから合成するものなのだが、この奇妙な手法が、彼らのヴィジュアルを、人工的で非常に奇妙なものにしている。
また、テームズ河を、最近一部で流行っている、ミニチュア模型風に見えるような特殊効果が成されているところも、何か不気味な感じがした。
だがそのような一部の特殊なシーン以外は、今回はとくに、美術やカメラワークの美麗さや、センスの冴えは随所に見られるものの、脚本の意図を尊重し、常につつましくオーソドックスなスタイルで撮っているため、このよく出来た脚本の示すテーマとの相克はほぼ見られず、自動的にその革新性は、あくまで脚本に準じたものとして求められることになる。
だが脚本は、私がこの、さして長くもない文章でおおよそのテーマを説明し切れてしまうほどに、複雑なものではなく、例えば小説でも十分に描くことが可能だといえるだろう。映像や音響がテーマをきしませる動きを見せない以上、それは脚本に従属するものでしかない。「映画でなければならない」強い理由が見つけられないのである。
本作のような、「実在の人物の人間性を否定的に描き、憐憫の情まで与えてしまう失礼な映画」といえば、すぐに思い出すのが『市民ケーン』だが、実際『ソーシャル・ネットワーク』は、「新しい『市民ケーン』」という例えられ方をしているようだ。
だが、『ソーシャル・ネットワーク』には、熟練した職人の冴えを感じるものの、『市民ケーン』のような、新しい地平を切り開く革命的な映画を完成させようという意志は希薄ではなかったか。
それは、実際に”Facebook”で新しい地平を切り開いたマーク・ザッカーバーグを描くときに適切なメソッドたり得ていただろうか。
アメリカに君臨し、メディアを牛耳る新聞王ハーストに、できる限りの凶暴な演出で挑んだウェルズと比べ、フィンチャーの試みは徹底性を欠いているのではないだろうか。
「コミュニケーション不全の人間が、社会的なネットワークを構築してしまう矛盾」…。
こういった問題を、なんとなく高所から睥睨し、”Facebook”の本質が若者の病理から来ているというマイナス面を拡大し、とらえてしまっている危うさ…つまり、一歩間違えば、新しい文化への老人の愚痴となってしまう危険性もまた、『ソーシャル・ネットワーク』は内包している。
記事へのコメント: “『ソーシャル・ネットワーク』は新しい「市民ケーン」足り得るか”