『インセプション』 観客のリアル・ワールドも包含する夢の階層

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文明が消え去り、住民が消え去り、ライフラインのみが奇妙に残存する、荒廃した友引町。
およそ何十年、何百年の時が経過したのだろうか、生徒の消えた友引高校の、朽ち果てた木造モルタル三階建ての校舎の大時計には、針も落剥し、その周囲をカモメが旋回している。
かろうじて生き残った人類は、限られた数名の大人達と、限られた数名の高校生だけだ。彼らは歳をとらず、亡霊のようにそこに生き続け、「友引高校文化祭前日」という毎日を繰り返し続けている。
全体、こんな世界が存在し得るのだろうか?もし、あるとすればそれは…
一介の男子高校生、諸星あたるも、生き残りの一人だ。彼は繰り返す終わらぬ日々のために、精神は麻痺し、恍惚とした表情を浮かべ、この廃墟と瓦礫が散在する荒野の中で、廃人同然となり果てている。

これは、押井守監督作『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』のオープニングのシークエンスだが、奇妙なことに、クリストファー・ノーランの新作、『インセプション』の、老いたサイトウの城を舞台にしたオープニングと、ほとんど同じ意味合いを持った内容となっている。
何故、これが奇妙に思えるのかというと、これらの作品が、違う筋立てでありながら、夢の世界を描いていく上で、他にも非常に多くの類似点に満ちているからである。
まるで、夢の世界を描くということに、このような何らかの共通した認識が必要であるとでもいうように。

先程のオープニングは、どちらも、時系列の順でいえば、終盤のシークエンスであり、その後、時間をさかのぼり、未来の友引高校から過去の友引高校、未来のサイトウの城から過去のサイトウの城へとそれぞれ舞台が変化し、すんなりと時系列を組み換えず進行してゆく。
シークエンスごとに逆に遡り、複雑に感じられるノーランの『メメント』が、それでも整合性が取れているように感じられる一方で、逆にシンプルであるはずのこれらの作品の冒頭部分が、このような配列になっているのは、奇異に感じられる部分だろう。
両作品には、エッシャーのモチーフが度々登場する。
押井守が、『ルパン三世 ルパン対複製人間』の、エッシャーの絵を基にした背景が登場する、ユーモラスなシーンについて、「これでは表面的で意味がない。エッシャーの世界を表現するのであれば、作品の構造そのものをエッシャーのようにしなければ駄目だ」といったようなことを発言しており、それを自分でやったのが『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』なのだという。
つまりそれは、エッシャーを象徴する「循環する階段」を、時系列の組み換えによって脚本上に成立させようとする試みであり、そしてそれは、そのまま『インセプション』の演出にも当てはまるだろう。
『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』の当時のパンフレットにも、『インセプション』のポスターにも、エッシャーの絵をイメージしただまし絵が描かれているところから、この両作品は、それ自体がエッシャーをモチーフにしているのだとするのは、論拠としてそんなに弱くは無いだろうと思う。

さて、このように作品を循環・円環状に見せかける、ということは、どのような効果があるのか。
多くの押井作品や『マトリックス』、『ある日どこかで』、『ラ・ジュテ』のようなタイム・トラベルもの、『赤い影』、『4番目の男』のようなオカルティックな作品でも見られるが、これらに共通するものは、運命論を引き受ける姿勢である。
入り口の無い、出口も無い、登場人物の行動が、何か大きな流れに支配されたように表現される映画というのは、「運命」がドアをノックする音に、ただ耳をふさいで震えるしかない人間(登場人物)を閉じ込めた檻のようであるし、また、「脚本」に支配された映画内人物をメタフィジックに表現する手段でもあるかもしれない。
そしてさらに、それは終わることの無い、輪廻転生の恐怖をも示唆し、また、それをフィルムという円環に閉じ込め、一日のうちに何度もリピートするという行為の、奇妙さや不気味さを指摘することにもつながるだろう。

仏教における、「輪廻転生」とは、悟りをひらき涅槃に至るまで、永遠に生き死にを繰り返さねばならないという概念だ。一番イメージしやすいのは、双六で、円環構造になっているいくつかのマスの中に自分の駒が入ってしまっている状態である。ある指定されたマスに到達しない限り、延々と廻らせられるというあれ。その規模が非常に大きくなったものが、生命の輪なのである。
気の遠くなりそうな生きるものの大きな奔流と、膨大な時間。しかしながらそこには、「悟り」と「涅槃」という出口、一片の救いがあるように思える。
『インセプション』の恐怖は、そこに留まらない。
「涅槃」に到達したものの、実はそこは、さらに大きな、しかも「より安定している」ことで、現実と見紛ってしまうような、さらに大きな円環構造のひとマスに過ぎないというのである。
今いる世界が夢の中だとして、我々は、何度目覚めれば本物のリアル、本物の涅槃へと到達できるのか。このとてつもなく巨大で終わりの見えない円環のつながりの終わりは結局存在せず、やはりその巨大な連なり自体が、さらに円環状になって、結局、元にいたところに戻ってしまうかもしれないのである。
この恐怖構造の醸成は、『マトリックス』がこのデカルト的な恐怖に耽溺しすぎず、英雄譚、もしくは救世主伝説としての役割を持ってしまったために感じる不満を乗り越えて、極めて重要な普遍性の獲得に寄与できている。

さて、私たちをも含めた、この円環世界の中では、その上限が実感できない以上、一時的であっても、そこに存在し、生活を始めなければならないはずだ。
『インセプション』の世界では、「紛れも無い現実」は存在しない。夢と現実の判断装置である独楽は、これがいつまでも廻り続けようが、途中で倒れようが、さして意味は持たないだろう。
何故なら、トーテム(夢と現実の目印)を考案した場所が、すでに夢の中であるならば、その上の階層ではそのルールが適用されるはずが無いからだ。
つまり、ディカプリオ演じる主人公コブがラスト・シークエンスで独楽を回しながら、その挙動をしっかりと確かめないのは、そのことにすでに気づいているからであり、「自意識が存在する場所であればそこは現実」だとする姿勢は、デカルトの存在証明に近いものだと考えられるだろう。
マリオン・コティヤール演じる、コブの妻が、さらに一階層上で、眠るコブを眺めているのかも知れないのだ。その可能性に、始終脅かされているということが、妻を死に至らしめたかもしれないという悔恨よりもさらにシリアスに重く、コブを神経症に陥らせていたのである。
しかし、コブの自意識が留まる階層が現実である保障が無いのと同様に、その一階層上ですら現実であるという保障がない以上、もはやコブのいる場所が現実であるかどうかは、むしろ重要な問題ではなく、コブがそこを現実と捉えられれば、そこは現実だと考えるべきなのである。

『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』には、「夢をあやつり、人々に邪鬼の種を植え込んでは悦にいる悪しき鬼」である、「夢の邪鬼と書いて夢邪鬼」が登場するが、彼は、夢からいつまでも抜け出すことのできなくなった諸星あたるに、こう提案する。
「夢やからこそ、やり直しがききますのんや。なんべんでも、くり返せますのや。な、こういうの知ってまっか?蝶になった夢を見た男が、目をさまして、果たしてどっちの自分がホンマやろ、もしかしたら、ホンマの自分は蝶が見ている夢の中におるんとちゃうやろか。まあ、夢やら現実やらいうて、しょせん考え方はひとつや。なら、いっそのこと夢の中で面白おかしう暮らした方が、ええのとちゃいまっか?」
しかし、あたるは、それでも現実に帰還しようとする。そうして彼が目覚めた友引高校は、文化祭当日の朝であった。
だがここが本当に現実であるといえるのだろうか。ラスト・シークエンスで、「あいつらには進歩とか成長とかいうもんが、まるで無いからな」と、誰かがつぶやく。
そして作品のタイトルが、やっとこの最後のシークエンスに登場するのだが、それは実は、友引高校にかけられた大看板だったのである。
ちなみに、ノーランの側は、彼の劇場公開作品に共通している演出とはいえ、作品のタイトルが最後に登場する、という事実も、両作品に共通している点だ。

少なくとも、『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』も、『インセプション』も、もちろん現実の物語では無い。映画という形をした、誰かの夢なのだ。
だが、私たちは上映後も、その作品構造の地獄を継続することになる。今見た夢が入れ子状になっている以上、今の自分自身が、「映画を観た夢」を見ているのだということを、証明することができないからだ。
そして、このふたつの作品は、私たちにそういった事実に気づかせるという点で、そして、作品を楽しませるためにこのような要素があるというよりは、このような恐怖を味わわせるために、作品世界を構築し、そしてそのこと自体が狂気を感じさせるという点で、全く同じ役割を担わされたものだといえるだろう。

『インセプション』が、『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』よりもさらに徹底しているのは、夢の世界のディテールの作りこみにおいてである。
日本では「虚無」と訳された、夢の中の牢獄は、オリジナル版では”limbo(辺獄)”と呼ばれる。
「辺獄」とは、ダンテの「神曲 地獄篇」にも登場するが、カトリックの、以前の教義に存在した、死後、生前の軽度の過失のために天国に到達できなかった者が、魂の救済を待つ場所の概念で、「煉獄」、「地獄」の手前にあるとされている。
仏教的な円環構造に加え、月と地球と太陽のスイングバイを思わせるような、さらに大きな構造の円環を描き、さらにそこに、カトリック的世界観、もっといえば、ダンテの「神曲」の、縦に伸びる構造が添加されているのである。
このことで、『インセプション』の世界観は散漫になるばかりか、より大きな強度を手にしているのが、非常に不思議な部分だ。
さらに、そこへ時間の概念が加わる。下層へは、「夢の中で夢を見る」ことで到達することができるのだという。
そして、下層に行けば行くほど、時間が引き延ばされる。下方に数層進むと、数十年そこで生活したとしても、現実世界では数時間しか経過していないという、「逆竜宮城」状態が実現されるのだ。

このような、病的にも思える情報の過剰さを獲得しているという点において、『インセプション』は、デカルト的問題を表現した映画として、『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』を乗り越える位置にまで、ようやく映画を到達せしめた。
実際の多層構造の夢に、このようなはっきりとした物理法則が成り立つのかは分からないし、現実的では無いのかもしれないが、このような複雑すぎるファクターを組み合わせ、大きな矛盾が無く、「スパイ大作戦」や『スティング』のようなグリフティング・エンターテイメントを成立させつつ脚本を完成させるという、気の遠くなる、それでいてバカバカしい偉業を達成し得たのは、やはり『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』と同じく、「終わらない夢の継続」に、観客自身の現実を参加させるという目的のためなのである。
その根拠は、「夢」の設計が「映画」の制作に酷似するように描かれている点と、エンディングクレジット時に、映画が「夢であること」を表す劇中のテーマ、「水に流して (”Non, je ne regrette rien”)」が流れることから明らかだ。

そうしてそれは、「映画は夢である」というノーランの宣言でもあり、そのことが新たな「映画と観客との関係」を明示し得たという点で、革命的な事件であるということがいえよう。
このことが、『インセプション』に重大な価値を与えているのである。
本作品は、さらに夢と現実の恐怖を、多層構造を持ち出すことによって、よりそれを現実のものとしたということで、映画史に刻まれるべきマイルストーンと認識されるべきものになり得たのだと思っている。

さて、私はそれでも、クリストファー・ノーランの、演出家としての能力を、狭い意味で、未だに凡庸だと判断している。
『フォロウィング』、『メメント』、『インソムニア』、『バットマン ビギンズ』、『プレステージ』、『ダークナイト』、そして『インセプション』に至るまで、ヴィジュアルセンスやユーモアセンスの点で、ノーランが凡百の映画監督に比べ、優れている部分は少なく、『インセプション』の数々のシーンで明らかなように、演出上のオリジナリティも無い。
この、女性の体の肉付きにも例えられる、「映画的豊かさ」の欠如のために、ノーラン映画は、貧弱な骨と皮のみの存在に近い印象を受けるのである。
夢の描写について、ジャン・コクトーの極めてロマンティックな傑作『詩人の血』の唯美的な演出と比べると、哀れにも感じるほどの両者の才能の差が、厳然と存在している。

だが、それでは例えば『メメント』の、『インセプション』の存在価値が全く無いのかというとそうではない。
『メメント』や『インセプション』の優れている点は、「複雑で面倒くさい状況を、誰にでも分かりやすいように整理し、まとめ上げている」ということだ。
今回の『インセプション』も、そこまで夢の描写に具体性を与える必要は、通常無いはずで、もっと抽象的な方が、表面的には「夢らしい」し、観客の理解も容易なはずなのである。
この、無意味な試みにも感じられがちな、世界のディテールの構築に必要とされたのは、ノーラン個人の病的な執拗さに他ならない。
「病的に執拗」であるという過剰さが、『インセプション』を、未踏の地へと進ませたのだ。
その点で、この才能は、新たな、それでいてある意味でユニークなオリジナリティであったということを、認めざるを得なくなるだろう。
どうであれ、この驚嘆すべき『インセプション』を傑作だとすることに、全くためらいはない。

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