『はじまりのみち』は敗北の映画である

「映画監督・木下惠介生誕100年プロジェクト」として、松竹が木下惠介の映像をデジタル・リマスターしたり、新たにソフト化したり、海外などで特集上映したり、関連映像作品を作ったりして、様々なコンテンツの同時展開を狙ったのだが、そのひとつが、木下惠介の若き日を題材にした原恵一監督作品、『はじまりのみち』だ。

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原恵一監督といえば、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』が印象的で世評も高く、またかなり長いキャリアを持つアニメーション監督であるが、実写作品を撮るのは今回が初めてだ。
とはいえ木下惠介監督とは全くつながりがないというわけでもなく、原監督は木下惠介からの影響を以前から口にしていた。
近年では、「クレヨンしんちゃん」の映画版や『河童のクゥと夏休み』など、現在の日本のアニメーションでは非常に珍しい「人情もの」を意識した作品作りを続けており、その意味で木下作品とリンクする部分があったのだろう。

『はじまりのみち』を観て「明らかにおかしい」と感じるのは、ひどくスケールが小さいということだ。
これは、「木下青年が病気の母を疎開させるためにリヤカーで山越えをする」という実話を題材にしているという地味さからくるだけではなく、撮影や演出全般についての狭小さへの違和感である。

この映画はおしなべて、「人物を含めた遠景のショット」が非常に少なく、いわゆる「寄りの絵」ばかりで構成されている。
基本的に、映画は「引きの絵」を撮る方が難度が高いことは言うまでもない。
遠景は画面に余計なものが写ってしまうことが多く、その全てをコントロールすることが難しい。さらにここに役者の演技という要素が含まれることで、非常に撮影が難しくなり、撮影時間が制限されたり、リテイクを多く必要とするだろう。とくに時代劇や、今回のような戦時中の時代を題材にした作品では、現代的な建造物の写りこみに注意しなければならないという問題もある。
「引きの絵」が無いことは、作品に貧しい印象を与え、リズムを単調にする。
もちろん作品によって(木下惠介の『風前の灯』が小さな家一軒のセットだけで映画を成立させていたように)それを必要としない場合もあるだろうが、『はじまりのみち』のように、「山越え」を描き、野外ロケをしている場合、映画ならではのスケール感や臨場感を表現するためには、ぜひともこれが欲しいはずである。

原恵一監督によると、本作の撮影期間は3週間しかなかったということらしい。しかも実話や脚本が暑い時期の設定であるはずなのに、11月の山中での野外ロケである。
実際に映画での山登りシーンで、役者に「暑い、暑い」と言わせているが、その温度が映像からはまるで感じられないのも、これが影響しているだろう。
撮影期間が短いということは、ロケハン(撮影の下見)もあまり十分ではなかったのではと想像される。だから魅力的で難度の高いショットが非常に少ない。ともかく、いろいろな条件によって「写ってはいけないもの」があまりに多すぎる。
だから、この映画のカメラがいちいち役者に寄っているというのは「演出」でなく、制約による苦肉の表現だということが理解できる。
とはいえ、例えば望遠などを利用し、暑くないのに暑いように見せかけたり、時期的なものを人工的に配置したりなど、映画撮影の経験による技術によって、それはいくらかはカヴァーできるのではないかとも思う。
その工夫ができてないのは、監督が不慣れだったり、力量が不足しているともいえるだろう。

「山越え」以外にも、空襲シーンや、街が焼け野原になるシーンでは、ライトだけで爆弾投下を表現していたりなど、明らかに映像的に陳腐な誤魔化しをしており、映画をある程度鑑賞しているものであれば、この節約行為に、ある程度の辟易と諦念を与えられるだろう。であれば、この描写は無い方がマシで、どこかにその予算を注力し、各シーンを豪華にした方が有意義に違いない。
そして決定的な失敗は、監督・木下惠介が、スタジオで堂々演出しているシーンが無いということだ。このシーンが無いために、主演の加瀬亮が「木下惠介である」ということが、セリフとそれらしい演技だけのものでしかなくなっており、説得力に全く欠けていると言わざるを得ない。
ここは、「白いスーツを着て海岸をひとり歩く木下惠介」というイメージ映像を挿入するという演出をしているものの、やはり「誤魔化し」以上のものになってはいない。
もちろん、当時のスタジオや機材、それらしく見えるスタッフや役者達を配置するのには、予算と時間、手間が絶対にかかることは言うまでもない。しかし、このような難しい表現をするからこそ、「映画を撮る」という意味もある。しかもこれは松竹による、社をあげた「映画監督・木下惠介生誕100年プロジェクト」の一環である。ここで松竹のスタジオは全面協力をしてはくれなかったのだろうか。
『はじまりのみち』に使われているのは、いくつかの小規模なセットのみであり、どちらかというと、ほとんど自主映画の規模に近い程ではないか。

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また『陸軍』の実際の映像が一部引用されていたり、いくつかの木下作品がダイジェストされているが、それが非常に長い。もともと短い上映時間のなかで、オリジナル映像が少ないことから、一本の映画作品として、しっかりとした完成度すらないということになる。
私が非常に失望したのは、この映画に全く無いスペクタルシーンを、木下の『陸軍』の引用で済ましているところだ。
もちろん『陸軍』のラストシーンは素晴らしい(私は、田中絹代が庭で立ち止まる箇所の方が好きだ)。ここには、大勢のエキストラが投入され、非常に難度が高い、壮麗で力強い表現になっている。この「力強さ」こそが、『はじまりのみち』に欠けているものである。もしこの引用が無かったらどうなっているか想像してみて欲しい。
そしてその映画ならではのスケールを、木下映画の表現に頼っている。頼らざるを得ない。そのような状況自体が、木下映画への「敗北」である。
『はじまりのみち』は、「戦時中なので自由な映画が撮れない」という話であるはずなのに、現在の日本は(松竹では)『陸軍』のラストシーンようなスペクタル表現を一個も実現できないのか。
これでは、自由な表現が出来るようになったはずの現在よりも「戦時中の方が映画は良かった」という結論になってしまうじゃないか。
『はじまりのみち』は、ほとんど宣伝がされず、公開規模も小さいために興行的に失敗しているが、この予算と内容、松竹の協力体制を見る限り、「あまり大々的なものにしたくない」という会社の意向を感じるところである。
理由は分からないが、ある時点でこの映画の規模を縮小しようという決断がされたのではないだろうか。
であれば、古いコンテンツ(木下映画)を効率よく販売してやろうという下心しか残らなかったということになるし、そこにもちろん、松竹による木下監督への尊敬の念も感じない。

それはそれとして同情するものの、それ以外にも、『はじまりのみち』にはいくつも問題点がある。
まず脚本が生き生きとしていない。
この映画では木下惠介は陰気に描かれるが、とにかくただただ陰気である。
確かに、横堀幸司著「木下恵介の遺言」や、長部日出雄著「天才監督 木下惠介」を読む限り、木下惠介はそれなりに陰気ではあるが、彼の頭の良さから来る機転や、学歴コンプレックス、または漬物が大嫌いだったりするような個性がほとんど描かれておらず、映画監督としての優れた感性のようなものも、描かれてなくもないのだが、まあきわめて希薄である。
ちなみに木下惠介の「漬物嫌い」は有名で、小道具として食卓に漬物を置かざるを得ないときは、スタッフは監督に気を遣い、生野菜を切って漬物に見せかけるほどだったらしい。
それは、彼の実家が漬物屋であり、子供の頃に漬物の汁の入った桶の中に転落して頭から突っ込んだというのが原因ということだ。

陰気なら陰気で、作品の中でユーモラスな描き方をする方法だってある。
例えば旅館を舞台に以下のような場面があってもいい。
便利屋「あれれ、なんだいあんた、漬物食わないのかい」
木下惠介「…」
木下兄「いやこいつはね、漬物が嫌いなんだよ、匂いさえ嫌なんだ」
便利屋「へええ、珍しい、なんでまた」
木下兄「いやこいつはね、子供の頃ね…」
木下惠介「…(ガタッ)」腹を立てて部屋を出て行き、河原に向かう
木下兄「ああそうか、これは言わない約束だった」(ここから子供時代の回想シーン)
登場人物が少なく、またせっかく話術が達者なユースケ・サンタマリアを、木下の兄として出演させているのだから、掛け合いの面白さで引っ張っていく方法があったように思われる。
『はじまりのみち』は、「お涙頂戴」のシーンで構成されているが、その演出に観客が自然に入り込めるような取っ掛かりが非常に少ない。
濱田岳のコメディ演技だけに寄りかかっているせいで、他の出演者の影が薄いばかりか、そのなかで濱田岳ひとりが馬鹿みたいに見える。

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脚本のなかでも、河原での便利屋との会話から『陸軍』を引用するという箇所は、悪夢のようだった。
なんと便利屋は(奇遇にも!)木下『陸軍』を観ており、目の前にいるのが木下監督とは知らずに、「あの映画の最後は良かった、あの映画はああいうこと(母の愛情・反戦のテーマ)が言いたかったんじゃないのかなあ、ああいう映画がまた観たいなあ」と言ってくれるのである。ここでの便利屋は、もう評論家の視点すら獲得している。
このおかげで木下青年は、軍部から抑圧されて失っていた、映画への熱意を取り戻すのであるが、いくらなんでもそんな奇跡的な展開は不自然すぎる。一番言って欲しいタイミングに、彼にとってピンポイントの賛辞が全て得られるのだ。
いくら「便利屋」とはいえ、脚本を書いた原恵一でさえこのキャラクターを便利に使いすぎだろう。あまりにもズサンでイージーな描写だと言われても仕方が無い。例えばこれが、兄が画策して言わせていたのだとすれば面白いが…。
そもそも、戦争のために好きな題材の映画が撮れないというのが木下の不満であるはずなのに、軍部から『陸軍』を批判され、新たな特攻隊の映画の企画(これももちろん国策映画)を降ろされたということで、映画監督を辞めようとする、という冒頭の理屈すらまるで理解不能である。問題提起さえ満足に出来ていない、幼稚な脚本だと言わざるを得ない。

情感を描いた演出においては、さらに失望させられる。
旅館に到着した木下が、泥がついた母親の顔を丁寧に拭き、髪を整えてあげるシーンは、他人の前で母の威厳を損なわせたくないという、母への愛情とやさしさを示す見せ場となってはいるものの、そこにあまりに大げさな感動的音楽が流れる。一同が圧倒され、出演者達の顔に照明さえ当てられるという、まるで「仏を見るよう」な描写は、あまりにも、あまりにも演出にセンスが無さ過ぎる。見ている側すら恥ずかしくなってしまう。
加えて気になったのは、鼻水や粘液を出すような、俳優の泣き顔のアップである。

「木下惠介アワー」という、木下恵介プロダクションによる、彼自身や弟子筋の監督らが撮ったテレビドラマシリーズがあった。
木下は、弟子の演出家に「これ見よがしの感動シーン」については、遠慮なく文句をつけ、泣き顔をハッキリと撮るようなことを嫌い、泣かせるのであれば、例えば後姿を撮るように指示していたという。
原恵一監督は本気で木下惠介監督を信奉しているのだろうか。私には、そうは思えない。

『はじまりのみち』のラストは、木下作品のダイジェストで締められる。
十数本紹介される、素晴らしい作品群は、引用者の意図とは別のところで、『はじまりのみち』自体のレベルの低さを証明することになってしまった。
このような状況は、『ヒューゴの不思議な発明』と全く同じだった(ただしヒューゴは撮影所で仕事をしてるシーンがある分、まだ救いがあった)。
その最後の引用が、『新・喜びも悲しみも幾歳月』の劇中の一言であり、ここが『陸軍』のラストとも重なり、『はじまりのみち』ともリンクする多層的な仕掛けとなっている。
本作で唯一評価できる箇所であるが、これも映画オリジナルの部分でなく、木下作品に頼ったものであるということが悲しい。

 

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