カンヌ監督賞『エリザのために』-見たくないものを見るまなざし-

ルーマニアは、EU加盟国の中でも、ブルガリアとともに「最貧国」とされている。国外に出稼ぎに出る国民が多く、日本でも、東京の夜の街で働くルーマニアの女性が多かったりするという話を聞く。
本作『エリザのために』で描かれるのは、そんなルーマニア国内の窮状だ。

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プロデューサーのなかに、ダルデンヌ兄弟の名前がある。カンヌ最高賞を受賞した『ロゼッタ』や『ある子供』など、社会の底辺であえぐ人々の姿を描き、貧困や人権蹂躙の実態を告発してきた映像作家だ。
しかし、貧しい低賃金労働者の生活を描くプロレタリアート的な作品と、本作が少し違っていて興味深いのは、そういう社会のなかで比較的地位が高く、愛人を世話して不倫関係を続けているような中年の男性医師を主人公にしているという点だ。

そんな医師の娘で、英国留学を控えている優秀な学生エリザが、通学中に暴漢に襲われるところから物語は動き始める。暴行は幸いなことに未遂に終わったものの、エリザは精神的なショックから、留学のための卒業試験中に涙が止まらなくなるなど、心や体の変調によって事件の影響が顕在化してしまう。

本作によって、カンヌ映画祭で監督賞を受賞したクリスティアン・ムンジウ監督によると、本作で起こる事件は、首都ブカレストで実際にあった強姦事件から着想を得ているという。報道では、被害女性は街の雑踏のなかを引きずり回されていたが、誰も止める者がなかったと伝えられている。

主人公は娘のエリザのために、あらゆる手段を講じて進路をひらいてやろうと、自身の行政関係者へのコネを最大限に利用し、不正に卒業試験の便宜をはかってもらうべく暗躍する。
この、なんとしても娘を国外に出してやりたいという焦燥の背景にあるのは、国内の貧困と治安の悪化がある。画面に映される北西部の地方都市の荒廃は、いかにも事件が起きそうな、不穏なリアリティを作品に与えている。ひしゃげたままになっているベンチやさびれた公園、煤けた公団住宅、徘徊する野良犬…。行政の機能不全が目に見えて実感できる。

それにしても、そもそも何故こういう状況になっているのだろうか。
その答えは、ソ連軍に占領された40年代から始まったチャウシェスク政権の時代にさかのぼる。
独裁体制のなかで築かれた、権力者による政治的な腐敗は、その後1989年の政変による民主化後も慣習として残ってしまったといわれ、加盟したEUでも問題視されるほどだった。

不正が行政の停滞や貧富の格差を招き、さらなる貧困と治安の悪化の原因となっていたのだ。
本作の主人公は、そのような「結果」に対し、その原因となった「不正」によって対処しようとするのである。この悪循環こそが、ルーマニアの病巣そのものであり、本作が告発する貧困の源泉である。

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一連の流れを追っている観客は、それでも娘を想う親心に同情できる部分があるはずだ。しかし、その「方法」について、主人公のリアリストとしての政治力は、ある種の精神的限界を指し示してもいるように思える。
主人公の母親(エリザの祖母)は、チャウシェスク政権下で、おそらくさらなる困窮を味わった世代だ。彼女は腐敗に対してさらに達観した立場を取っている。そのたくましい鈍感さというのは、主人公の世代の社会観とはまた異なる断絶を感じるものである。
物語の顛末がどのようなものになるのかは、もちろん本編を観てほしいが、以前書いた『グランド・ジョー』ともリンクしているため、併せて鑑賞することで理解が深まると思う。

「ニコラス・ケイジが『グランド・ジョー』で演じる、アメリカ南部の狂気」

ルーマニアの歴史や政治になんて興味がないという人も少なくないかもしれない。だがこれは、根っこでは日本の状況ともつながっている普遍的な問題である。
社会の状況をよりひろく捉え、歴史的ダイナミズムをより深く感じ取る呼び水として、または、世界をより正確に理解するために、本作を観る意義は大きいはずだ。

本作に感じる最も優れた点は、絶望と向き合い続ける姿勢である。誰もが目を背けたくなる真実の姿を描くからこそ、ダルデンヌ兄弟や、ムンジウ監督、さらにジャファール・パナヒ監督やジャ・ジャンクー監督は、甘い感傷や幻想を打ち破る感動を与え、国際的に高く評価される。
自国の汚い部分を隠し、ただ美しく素晴らしいものだと喧伝するような映画などを、世界は求めていない。


『エリザのために』公式サイト 2017年1月28日から順次公開


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