『御法度』土方が斬った桜の樹は何だったのか

以前観た映画をもう一度観直すと、よく新たな発見があるものだけど、今回はその作品について「考え違いをしていたんじゃないか!?」…という話。

『御法度』は、司馬遼太郎の短編集「新選組血風録」のなかの「前髪の惣三郎」と「三条磧乱刃」を原作とした、大島渚監督の最後の映画作品である。
監督の言によると、「ヴィスコンティ映画を目指した」そうであるが、言葉通り、男色をテーマとした妖しく退廃的な群像ドラマとして極めて完成度が高く、私が観た大島作品のなかで、最も好きな一作でもある。

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本作の物語は、新選組に入隊した前髪の美少年・加納惣三郎が、隊内に「衆道(=男色)」の嵐を巻き起こし、また刃傷・殺人沙汰を引き起こしたことで、隊の規律のため、結果的に斬られるというものだ。
問題はラストシーン、ビートたけしが演じる新選組副長・土方歳三が、路傍にある桜の樹を一閃、斬り落とすという箇所なのだが、私は今までそのシーンについて、加納惣三郎という「化け物」、そして同時に、衆道へと誘う悪魔のような誘惑に揺れてしまった自分への嫌悪の発露なのだと理解していた。
確かに表面的にはそうに違いないのだが、しかし、この間見返してみて、そこには違う意味合いが含まれているのではないかと思い始めたのだった。

その疑惑の端緒となったのは、前半のシークエンスの、土方と新選組隊長・近藤勇との、ふたりきりの会話シーンである。
ここで、近藤は加納が誰と付き合っているのかということを土方に尋ね、「たいしたことではない、気になるのか?」と逆に質問されると、こう答えている。
「前にも一度あったではないか。あれは池田屋の頃、何故か隊内に衆道の嵐が吹き荒れた。誰もが熱に浮かれたようだった。…また、ああなっては敵わぬ」
本作の物語のなかでは、加納惣三郎が中心になって衆道の嵐を巻き起こしたというのは確かなことだ。しかし、こんなことが「前にも一度あった」ということは、今回、衆道の嵐が巻き起こったという状況に、加納以外の原因が何かあったのではないだろうか。
前髪をたらした美少年が入隊しただけで、隊の風紀がそこまで乱れまくるというのも解しづらい話である。
ならば、加納ひとりを斬ったところで問題の根は解決せず、同じことが繰り返されるだけなのではないだろうか。だとすれば、『御法度』は新選組にとって、ただの一エピソードにしか過ぎない出来事だったということになってしまう。
作品全体の描写を細かく拾っていくことで、この疑問に一応の答えが出た。それらの箇所をつまびらかにしていき、作品の深みにせまるのが、この記事のねらいである。
ちなみに、ここで問題にするのは、あくまで映画の内容についてのみであり、原作の意味については完全に除外するものとする。

加納惣三郎が、田代彪蔵と共に新選組に入隊したとき、近藤と土方は揃って加納の美貌に目を見張った。
しかし土方が真に注目したのは、そのときの近藤の表情であった。「珍しい、近藤さんがこんな顔をするのは…そのケは無い筈だが?」
また、近藤が加納の話題を出したときも、土方はいち早く反応し嫌な顔をする。
何故土方は、近藤の加納への感情に神経を尖らせるのか。これは、一番隊組長・沖田総司の台詞から分かる。
「近藤さんと土方さんの間はどうなんです。私には、お二人の間には、誰も入れない暗黙の了解があるような気がします。それが新選組なのです。ところが、ときどきそこへ誰か入ろうとする。近藤さんが迂闊に入れようとするときもある。土方さんは、それを斬る」
「総司黙れッ!」
土方が声を荒げるということは、図星なのだろう。同門の幼馴染であるにせよ、近藤と土方との間には、隊長、副長という関係を超えた何かがある。それは、たとえ恋愛感情ではないにせよ、少なくともそれにごく近い親密さなのだろう。土方が狼狽するのは、それが対面上「恥ずかしい」ことであることを示しているからだ。
実際に、伊武雅刀が演じる新選組参謀・伊東甲子太郎が近藤に接近する度に、土方は苛立ちを隠せず、反抗的な態度を見せる。非常に可愛気のある嫉妬の発露である。
そしてまた、土方が近藤に対してするのと同じように、そんな土方の心情に目ざとく注目している沖田自身も、土方に対して同じ感情を持っているようにも感じられる。
映画における各シーンにおいても、近藤と土方のツーショット、土方と沖田のツーショットが複数回配置されており、そこにそれぞれの関係、感情の機微が強調されているのは確かだ。

沖田は、「誰も入れない暗黙の了解があるような気がします。それが新選組なのです」と言った。
隊の最大権力である、この二人の関係に深く介入できない彼にとって、新選組の本質とはそのように映るのだろう。
加納に群がる隊士のひとり、田口トモロヲが演じる湯沢藤次郎は、「皆、あの四人(同門の近藤、土方、沖田、六番隊組長・井上源三郎)には遠慮している。皆が遠慮しているから、この四人の権力は崩れない」と指摘する。
一隊士としては、新選組は、この同門(天然理心流・近藤道場)としての精神的つながりが強い四人から構成される派閥が支配しているように映る。
つまりこの作品では、新選組の権力のピラミッドは、上部をこの同門四人が占め、さらに頂点を近藤と土方が押さえていることになっている。

近藤と土方がふたりきりで話しているときに、近藤は加納のことを質問しようとして、思わず「惣三…」と言いかけて、「加納はー」と言い直している。
ここから分かるのは、近藤は自らの小姓とした加納のことを、ふたりきりのときに、または誰もいないひとりきりのときに、密かに「惣三郎」と呼びかけているということである。
田代彪蔵も、加納のことを「惣三郎」と呼び、そのことを自ら「愛しい念者の名を呼んでおったのじゃ」と説明するが、近藤にとっても、加納は愛しい念者であったのではないだろうか。

沖田は、「狂人、狂人を知るという訳ですね、土方さんは狂人の親玉だ」と言っていたが、そもそも新選組とは、幕府の体制を維持するため、倒幕派など「刃向かうものを斬る集団」であり、隊内の結束のために仲間すら次々に粛清していく集団である。
前述したように、近藤と土方の「誰も入れない暗黙の了解」が新選組の本質であるとすれば、それが「狂っている」ことで、死に直結する厳粛な法度で縛られた新選組全体が、狂った集団になっているのも道理である。

今回の騒動は、その「誰も入れない暗黙の了解」に加納が入り込み、近藤の精神が浮ついたところから始まっている。
それを察知した土方は動揺し、嫉妬に狂う。さらに、それを察知した沖田が動揺する。
新選組の権力のピラミッドの上部で、嫉妬の炎が燃え上がる。この浮ついた空気が、一般の隊士達に波及してゆく。
かくして新選組は、「誰もが熱に浮かれたよう」になり、「衆道の嵐が吹き荒れ」ることになる。
「また、ああなっては敵わぬ」と言っていた近藤自身、そして土方自身が、この騒動の主たる原因となっていたのである。
これをきっかけとして、今まで加納に懸想(恋い慕うこと)していた田代彪蔵以外にも、五番隊組長・武田観柳斎、湯沢藤次郎などが次々に懸想し、「衆道のケ」が無かった井上源三郎、監察・山崎烝(すすむ)までが、その道に入りかけてしまうというような異常事態を引き起こすことになる。

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その一方で、多くの隊士達に言い寄られる加納の心はどうだったのであろうか。
終盤で明かされる通り、加納が「願をかけて」前髪を切らないほどに恋していた念者とは、沖田総司のことであった。
序盤において、元服し髪を切るタイミングはいくらもあったことを考えると、早い時期から、加納は沖田に恋をしていたものと考えられる。
だが加納は間もなく、「中間(ちゅうげん=公家・寺院などに召し使われる男)部屋で衆道を覚えた」という同時入隊の田代に、積極的に言い寄られる。
二人が肉体の関係を持ったことは、土方がこの二人に稽古の立会いをさせ、田代に比べ一段は腕が上回るはずの加納が、完全に威圧されまったく歯が立たなかったことから推量できる。おそらく閨(ねや)のなかで、加納はいわゆる「受け」の立場であり、また精神的にも支配されていたということだろう。土方はこれを見て「…こいつら、出来たな。そういうものか」と合点している。
この様子を見ていた湯沢を始めとして、「加納と田代は出来ている」という「うわさ」が広がったことで、加納は浮ついた隊士達に、本格的に言い寄られるようになった。
土方が後に、「男どもに嬲られている間に、化けもんが棲みついたんだろう」と振り返ったように、おそらく加納は、複数の隊士と肉体の関係があったのだろう。
だが加納は、監察・山崎に「君は誰と結縁(けちえん)している?」と聞かれたときに、「誰とも…」と答えている。
山崎は、加納が複数の隊士と出来ていることを知らないので、おそらく肉体関係を結んでいるのは誰かということを、マイルドな表現で聞こうと「結縁」という表現を使って訊いたのだろうが、加納は「将来を約束し、添い遂げる相手」という意味で受け取っていたように思われる。

湯沢をその手にかけ、山崎を襲撃し、さらにその現場に田代の小柄(こづか=小刀)を残すという、加納の不可解な行動についても考えておきたい。
加納が「結縁」したいと思っていた相手は沖田なので、自分に対して結縁を迫り、田代にも自分にも害を及ぼそうとし、騒動を起こそうとする湯沢は、加納にとって邪魔な存在であった。
まったく歯が立たない田代と同じように肉体関係のある湯沢を加納が殺し得たのは、湯沢の腕が悪かったことに加え、おそらく湯沢が田代程には加納の心を掴めなかったということもあるのであろう。ただ、それだけに田代はさらに厄介な存在なのである。
だから自分を振った山崎を利用して、田代を隊規違反によって間接的に殺そうとしたのだと考えられる。「局中法度」には、「私ノ闘争ヲ不許」という項がある。破れば斬首である。

だが、その討ち手として加納が選ばれることは、加納自身にとっても意外なことだっただろう。
しかしこれは加納にとって、ある意味都合が良い。隊士によって田代が斬首されるとして、その際に田代が何を口走るか分かったものではないからだ。問題は、自分が田代を討ち得るのかという一点である。
ちなみに、討ち手に加納を選んだのは近藤だが、沖田はこのことを土方に質問する。「近藤さんは加納を好きなのですか?」これに対し、土方は断固否定する。

河原での加納と田代の対決は、予想通り加納が劣勢となり、追い詰められる。
いよいよ刃が自分の身に食い込もうとする刹那、加納は「もろともに…」とささやく。これを聞いて一瞬ひるむ田代。
この機を逃さず、加納は瞬時に自分の小柄を抜き払い、田代の胴を斬る。
とどめにふた太刀を加えてから首を切り取るところを見ると、加納は、自分を好きに支配していた田代に対して恨みを持っていたことが窺える。
ちなみに、「もろともに…」というのは、沖田が予想したように、「奴らが閨で戯れ交わしていた睦言(むつごと)」なのであろう。
閨のなかでは「もろともに」果てようという意味であり、対決の場面では「もろともに」死のうという意味に変換される。
そもそも加納が新撰組に入った理由は、土方が「何も考えちゃいないよ」と喝破するように、とくに強いものはない。強いて言えば、本人曰く「人が斬れることでしょうか」ということだが、さしずめ裕福な商家の御曹司として退屈していたときに、人殺しの「匂い」を刺激的に感じ、寄り付いてきたということであろう。
もともと持っていた殺人衝動に加え、男たちに嬲られ、また沖田への恋心が重なったことで、狂気の殺人者として成長してしまったのが、終盤の加納惣三郎なのだ。

この処置を見届けた土方と沖田が屯所に帰る道すがら、沖田は「そうだ、用を思い出した。ちょっと中州まで引き返してきます」と、ひとりで走り去っていく。その後姿を見つめる土方は、「お前が惣三郎にではなく、惣三郎がお前に懸想していたのか」と気づく。
沖田は河原で土方とふたりきりのときに、「雨月物語」の例を出して衆道の話をきり出した。
これを聞いて、土方は沖田が加納に惹かれているのではないかと疑いを持ったのだが、実際にはその逆だったのである。

では、加納はいつ沖田に懸想したのか。それは、土方に田代を討つように命じられたすぐ後である。
土方に「願をかけておりまする」と言ったということは、その時点では沖田に自分の気持ちを伝えていないはずだ。そして、田代を討つときには、沖田は懸想されたことになっている。
おそらく加納は、無事に田代を斬りおおせる自信があったわけではなかった。だから死ぬかもしれない戦いの前に、沖田に想いを告げたのである。
加納が田代の討伐を命じられた後、誰もいない夕焼けの寺の階段で、加納がひとり座っているカットがある。これは短いので、見落としがちの箇所である。
加納は、沖田に恋文を送り、寺に呼び出していたのだ。しかし、待ち人は来なかった。

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沖田は加納に懸想されたことをきっかけにして、衆道について考え、衆道についての暗示のある「雨月物語」を読む。しかし、そこに近藤と土方、土方と自分へと地続きの何かを発見しているようにも思われる。
士道と尊敬には、衆道と色恋が地続きに存在する。土方と沖田は、会話の中でそのことに思い当たってしまっている。
土方は唾棄しつつ「化け物め」とつぶやき、さらに「惣三郎め、美男過ぎた。男どもに嬲られている間に、化けもんが棲みついたんだろう」と言った直後、路傍の桜を斬り落とす。ここで映画は終わる。

さて、土方が斬った桜の樹とは何だったのか。
確かに、沖田も指摘していたように、土方は加納に対して複雑な感情を感じていたのは事実だ。しかし彼はそれのみを断ち切ったわけではない。
前述したように新撰組の本質とは、近藤と土方の「誰も入れない暗黙の了解」から成っている。
士道と色恋が地続きに存在することに気づいてしまった土方は、健全なものだと思っていた、近藤に対する自分の感情のなかに、加納と同じ化け物を見たのである。
隊の規律を守るために、一種の狂人と化した加納は斬らなければならなかった。
しかし、加納が消えたとして、近藤と土方の関係性の内容に変化が無いのならば、また以前や今回と同じように、新撰組に衆道の嵐が吹き荒れることになるだろう。これから新撰組がさらに大きな組織となろうとする矢先、それは体面上あってはならなかったのだ。
この事実に気づいてしまった土方は、加納と夜桜に象徴された、自分の中にいる化け物を斬ることで、同時に近藤への愛情を捨て去ったのである。
土方は、隊のために自分を捨て、恋を捨てた。そのように考えると映画全体が、土方を主人公とした、せつなくも美しい失恋の物語になる。
『御法度』は、新撰組の始末記のひとつやただのミステリーでなく、もっと美しくロマンティックな世界を描いていたように思われるのだ。

加納が言っていた「もろともに」というワードで思い出す、「金葉集」に収められた前大僧正行尊の歌がある。

もろともに あはれと思へ 山桜
花より外(ほか)に 知る人もなし

これは、山中で修行中の僧正・行尊が、ひとりきりで山桜と出会ったときの、せつない心を詠んだものである。
しかしこれはまた、土方の心の寂しさを表しているようでもある。

 


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