あなたの目になりたい

多くの作品を残しながら、過去も現在も、日本で観ることのできる作品が非常に少ない、フランスのサッシャ・ギトリ監督。
なんとフランス本国でもソフト化されてなかったり、観ることのできる機会が限られているという。
その幻の日本未公開作品のひとつである、『あなたの目になりたい』が、このたび日本で公開された。

フランスの舞台の演出家でもある彼らしく、その作風は洒脱で楽しいし、非常に洗練されている。
とはいえ、この作品に限っては、フランスがドイツ占領下にある時期に撮られたものなので、そのことが、テーマやストーリーに暗い影を落としている。

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冒頭、ふたりのフランス紳士が、美術館の展示品を観ながら会話している。
「カミーユ・コロー、ルノワール、マネ…、君はこの芸術家たちの作品にどんな感想を持つかね?」
「うむ、我々は戦争では負けたが、芸術、そして精神性の面ではむしろ勝利したのだ」
自らも絵の勉強をしていたアドルフ・ヒトラーは、印象派など新しい芸術作品を、「退廃美術」として迫害したことを指しているのだろう。
これはフランス人としては少々ストレート過ぎる負け惜しみ表現であるが、市民を啓蒙し、勇気を与えんとする、舞台人ならではのエールなのであろう。
占領下ではこの位の朴訥さが必要であり、それだけに、おそらくこういうシーンにささやかな快哉を唱えたであろうフランス国民の心境は相当に悲惨だったのだろうなと想像される。
映画では、食料や衣類などの闇取引が、パリところどころで行われている描写もあった。

といってもこれはあくまで恋愛映画なので、やはり一組の男女、そしてそれにまつわる数人を中心に、ユーモアを交えてストーリーは進行していく。
この「男」を、俳優でもあるサッシャ・ギトリ自身が演じ、「女」は、彼の当時の妻が演じている。
このカップル、下手をしたら「女」の方が孫に見えるくらい歳が離れているので、恋愛映画としていささか不穏な雰囲気ではあるのだが、サッシャ・ギトリの鮮やかで詩的な軽口が、それを曖昧にしてしまう。とにかくすごいプレイボーイだ。
その語り口というのが、浮世離れした禅問答的な会話にも通じ、ヌーヴェル・ヴァーグの走りというか、そのモダンさにはとにかく感激してしまった。

ストーリーは後半、男の視力が失われることによって、恋人と別れることを決意するという、悲劇的な展開を迎える。
男がまさに目が見えなくなるときの、カウンセラーとの会話がこの映画の白眉である。
「先生はどのような容姿をしておられるのですか?」
「まあ、それこそ私が聞きたいことなのですわ、私は、あなたが目が見えなくなってから、初めて会う人間なのでしょう?私は、一体あなたにどう見えているのかしら?」
このカウンセラーは、いつも目が不自由な人間と話しているので、最近では目が見える人間と話すのが苦痛なのだという。
何故なら、目が見える人間は、目が見えるが故に深く考えることをしない。目が不自由な人間は、不自由であるが故に、人の気持ちや、繊細なニュアンスを感じ取るような感性を獲得するのだという。
そして、「あなたには私が(見えなくても)見えているのですね?素晴らしい!これこそ私がこの仕事に従事している理由なのです!」とカウンセラーは感激する。
この女性カウンセラーは、同情心よりも、社会への貢献や信仰心よりも、遥かに強い知的好奇心に突き動かされ、カウンセリングを行っているのだ。
であるならば、カウンセリングを受ける方も気が楽だし、お互いに経験を与え合うこともできる。
このような、偽善的ヒューマニズムに頼らない哲学を、今から60年以上前から持ち合わせ、臆面もなく表現していたサッシャ・ギトリ監督というのは、本当に明晰だし、モダンな人なのだと思う。

さらに、女中が誤って落下させ壊してしまった絵画について、男に「絵が壊れたとしても、目の見えない私の中では、その絵は永遠にそこにあり続ける」
と語らせる。
この映画は、目の能力を失う男を描きつつ、国家のありようについても描いているのだろう。
サッシャ・ギトリはサンクトペテルブルグ出身で、もともとは外国人である。だが、自分を受け入れ、舞台という場所を与えてくれたフランス、パリの文化を愛すること、生粋のフランス人以上であったそうだ。
ドイツの侵攻により、その自由が失われてしまったフランスで、彼は映画を撮る。その苦しみと大いなる喪失感を、自身が盲人を演じることで表現してもいるのだ。だからこそ、視力を失った「男」の元に「女」は戻ってくる。
多少無理があろうとも、彼は、この映画の中で自身が演出したとおり、蹂躙されたパリの漆黒の闇の中で懐中電灯が灯るような、ささやかな希望を描かずにはおれなかったのだ。

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