ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 【レビュー前編】

「神を殺した俺達は、どんな贖罪の祭り、どんな聖なる劇を考案しなければならないか?
この儀式は、俺達にとって手に余るのではないか?
俺達がそれを行うには、自らが神になる必要があるのではないか?
これより偉大な所業は、未だかつてないのだ。」
-フリードリヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」-

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『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』は、近年つくられた、アニメーションを含む映画作品全体の中でも、最も野心的で、反権力的で、豊かでありながらストイックに、重要で普遍的なテーマを扱った、稀有な傑作だった。
私は「破」公開時に、このブログ記事にて同作を批判し、それに対し一部ファンから反発的なコメントも少なからず頂いた経緯があるのだが、そのような当時感じた私の不満が、「Q」単体においては、ほぼ全て解決され、旧劇場版と同様に、現代の多くの観客たち、とくに新しい世代の若者が鑑賞する価値のある、はるかに志の高い作品に変貌していた。嬉しい驚きである。

前作までとは、脚本、作画、演出にまで渡って、全ての質が劇的に向上しているのも大きいのだが、前二作「序」、「破」、とくに後者の、「世界を犠牲にして、ひとりの女の子を助ける」という、まさに「エヴァンゲリオン」の旧作を端緒として派生した、アニメ系の映像作品や小説などの一部でブームとなった、いわゆる「セカイ系」といわれる類の内容を、あえて逆にそのまま安易に模倣し提示したような結末を、今度は全く反転し、「否定されるべきテーゼ」としての存在に置き換えてしまった「Q」の手法は、かつてない驚異的なものだ。
このような、「否定されるべき内容を一本の作品として制作する」ようなことを、連続する物語とはいえ、劇場用作品という枠で実行してみせるという革新性と覚悟には興奮を覚えさせられた。
そしてその感覚は、旧劇場版で味わった、ある種の精神的病理の陳列を見た、あのキルゾーンに踏み込んだ体験にも酷似している。「破」までで、自分の中で興味も薄れ、半ば終わっていたはずの「エヴァンゲリオン」が、またしても凶悪なかたちで帰還したのである。
「Q」における、今までの新劇場版と比較したときの、作画を含めた全体の大幅なクォリティ向上は、優秀なスタッフやパワーを、「Q」、そしておそらくは次回作にとくに注力させていたことを意味する。
「アニメ界を代表するスタッフが集結した制作陣」という触れ込みで「破」を観て、全く納得のいかなかった私も、「Q」のヴィジュアルや圧倒的なコンテのキレを観て、さすがに得心がいった。総監督・庵野秀明は、おそらくはここ以降に照準を合わせた、制作上のマネージメントをしていたのだろう。

そしてまた、この「Q」という、紛れもない傑作の存在自体が、私の「破」レビューにて、「身勝手なつくりごと」で、「クォリティに問題がある」とした前回までの酷評が正しかったことの、逆説的な証明ともなっていると思う。
とはいえ、とくに「破」の品質の低さと存在価値の小ささは、「Q」の成功によって完全に救われるというものではない。「Q」が素晴らしい出来映えであるからこそ、「破」における、とくにドラマパートの話法や、緊張感のない弛緩した画面設計や作画、陳腐な会話などは、なかったことにしたくなるのである。
前回の「破」レビューは、ほとんど内容にも触れなかったが、語るべき内容自体がそもそも何も無かったということもある。
TV版のブラッシュアップに過ぎなかった、そして部分的にはそれよりも劣る部分すら散見された、「序」、「破」の、性急なダイジェスト的内容とは異なり、「Q」はその冒頭より時間をたっぷり使って、充実した新しい試みの戦闘シーン、サスペンスや繊細な感情を、余裕を持って表現していく。
ここから、作品の場面を追いながら、語るべき価値のある「Q」の内容を、可能な限り深く検証していきたい。

「破」の結末部分にて、初号機を覚醒させ、綾波レイを第10使徒のコアより救い出し、それをきっかけとしてサード・インパクトを起こしかけた碇シンジは、月より飛来した、渚カヲルのEVA-Mark.06によって、そのコアに謎の槍を刺され活動を停止した。
これによって、人類を滅ぼすサード・インパクトは阻止されたはずだった。

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「Q」のオープニングは、宇宙空間を舞台に展開される。
衛星軌道上を周回する、キューブを接合した立体十字型の黒く巨大な棺に、碇シンジは初号機ごと凍結されていた。
アスカとマリは、それぞれ2号機改と8号機に搭乗し、ロケットで打ち上げられる。初号機強奪作戦の決行である。
アスカは、地球より追撃してきた、そしてシンジが収監されている棺に仕掛けられていた、合わせて二体のネーメジス・シリーズ(後述)から攻撃を受けるが、苦しむアスカの叫び声に応えるように、突如機動した初号機のアイ・ビームによって助けられ、かろうじて作戦を遂げる。
この時点で、観客にいくつかの疑問が発生する。初号機は誰によって凍結されたのか?また、なぜそれをミサトらが強奪する必要があるのか。この疑問は、この直後晴れることになる。
この、多くがCGによって展開されるアクションは、「破」の第8使徒(旧作におけるサハクィエル)との戦闘で使用されたそれに比べると、人物の線画と馴染んでおり、また宇宙空間の暗い画面が映像の不自然さを抑えているため、比較的端正に感じられる。
この後のエヴァンゲリオンによる戦闘は、手描きの動画が中心となるところを見ると、新劇場版は、引き続き手描きとCGの可能性を同時に追求していくというスタイルで進行しているらしい。
ただ、少し異なるのは、新しい試みの、流麗なカメラワークである。グルグル動く視点は、ひとつ上の次元のアクションに挑戦した結果だろう。これは非常に楽しい。

強奪された碇シンジは、極寒の血の海に浮かぶ戦艦の中で目覚める。
そこには、服装が代わり、いくぶん面変わりしたミサト、リツコ、日向、青葉、伊吹などおなじみのネルフ主要メンバーだったはずの面々に加え、新たなメンバーが、艦の整備に忙殺されている。
そこに、新手のネーメジス・シリーズが広範囲から包囲を開始、艦に対して飽和攻撃(対象の防衛能力を超えた一斉攻撃)を加えようと迫る。
2号機出撃を目にしたシンジは、「僕も出撃します!」と訴えるが、リツコやミサトから「エヴァに乗る必要はない」、「あなたは何もしないで」と冷たく一蹴される。
さらに、新たに加わった艦のクルー達に至っては、シンジに対し、憎悪の眼差しを向けてくるほどだった。
この戦艦は、ネーメジス・シリーズに対し、この「パイロットによって操縦されたエヴァンゲリオンを、敵の撃破のために直接使用しない戦い」において、初勝利を飾る。
意表をついた展開だ。これまでのエヴァンゲリオンの世界とはまるで違うものを見せられている気がする。
「男はつらいよ」シリーズの冒頭でおなじみの夢オチのように、この後シンジがベッドで目を覚まし、知らない天井を見上げることになるのだろう…やれやれ。そのように思いながら私は見ていた。
いや、まさかパラレル・ワールドに、シンジひとりがジャンプしたわけでもあるまい、という悪い予感も同時にあって、この展開の場合、「エヴァンゲリオン」という作品全体がどうでもよいものになってしまう可能性がある。

ネーメジス・シリーズとの戦闘後、ようやくアスカやミサトによって、真相がシンジに説明される。
「破」のラストシーンでシンジが気を失ってから今までの間に、なんと14年の歳月が流れていたというのだ。
かつてのネルフスタッフ達とは異なり、アスカやマリは、外見上は年を取っていない。アスカによると、それは「エヴァの呪縛」であるらしい。
冒頭の強奪作戦は、この直前の出来事であったことも、この事実から類推できる。
ゲンドウや冬月を除くネルフ職員達は、ネルフを脱退し、ネルフやゼーレに対抗する組織、「ヴィレ(WILLE 独語で「意志」)」として、かつての自分達の組織との戦闘状態に突入していた。
そしてこの戦艦は、ヴィレの主要兵器AAAヴンダー(独語で「希望」)と名づけられていた。
ヴンダーの手にした「神殺し」の力は、覚醒した初号機を取り込んで動力源として活用したことで生まれているらしい。
また、ヴンダーを攻撃したネーメジス・シリーズとは、ネルフ、またはゼーレが、おそらくは覚醒した初号機の力を研究・利用して開発した、おそらくはS2機関(永久エネルギー「生命の実」)を搭載した「コア・ブロック」を動力とする人工の新兵器であり、人類補完計画を阻止しようとするヴィレを滅ぼすためのものだということが、ここまでの会話から類推される。
ネーメジス=ネメシス(Nemesis)とは、ギリシャ神話の女神の名で、「神の罰」の象徴である。
人類を補完し、神へ贖罪することが目的のゼーレにとって、それに対抗し、醜く種を生きながらえさせようとするヴィレの存在は、そのまま神への冒涜といえる。
これに対しヴィレは、これまで、アスカとマリをパイロットとした二体のエヴァで対抗してきたようだ。
人類補完計画を遂行しようとする勢力と、それを阻止しようとする勢力が、双方とも神の力を利用して総力戦を繰り広げている、というのが「Q」の世界だ。

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第10使徒との戦闘時に助け出したはずの綾波レイの状態について質問すると、「綾波レイはもう存在しない、初号機のコクピットは、シンジ君以外は空だった」と告げられ、混乱するシンジ。
そして目覚めたときから、気がつくとシンジの首に巻き付けられていた首輪についても説明される。「DSSチョーカー」と呼ばれるそれは、遠隔によるミサトのリモコンの操作、またはインパクト発動時のリスクを検知することによって、首輪をするものを殺す装置だった。ヴィレにとって碇シンジは、それほどまでに脅威となっていたのだ。
そこにレイの乗ったEVA-Mark.09が現れ、ヴンダーの機体を破壊し、シンジをヴィレから再強奪する。
レイが死んでいなかったことを確認したシンジは、ミサトを嘘つきだとなじり、Mark.09とともにヴンダーを離れることを決める。
マリは8号機でその頭部を破壊したが、Mark.09は首から上を吹っ飛ばされた状態で、何事もなかったように艦から離脱した。マリ曰く、有機的に変化することのできる機体を持つそれは、「アダムスの器」という、特殊な出自のエヴァであるらしい。
リツコにも急かされ、とっさにDSSチョーカーを使用すべくリモコンを手にしたミサトは、そのボタンを押せなかった。
彼方の空に消えていくシンジを見つめながら、「バカシンジ」といつも彼を呼んでいたアスカは、「あれじゃバカじゃなく、ガキね」とつぶやいていた。

ここまでが「Q」の、ミステリーとアクションが同時に展開される、ちょっと長めの導入部である。今までの設定や雰囲気を打ち崩すものだともいえるかもしれないが、これは単純に映画作品のストーリーとして面白い。
「序」や「破」は、前述したように、その特性上、映画作品としての時間の使い方ができておらず、ドラマとしてのスペクタクルがほぼ機能していなかったことを思い返すと、「Q」の、格段に面白くなっているストーリー・テリングには心奪われるものがある。
パラレル・ワールドとミスリードさせる、構造上のスリリングさを味わわせながら、世界が曖昧にゆらいでいくようなシンジの心許なさを、観客にも疑似体験させ、シンジの心理と同調させるというつくりも見事だ。
なにより、「14年後の世界」という設定が意義深い。14年といえば、旧劇場版が公開してから、「Q」公開年までの歳月と重なる。
新劇場版は、旧劇場版より後の世界を描いていくこと、そしてもう一度何らかの結論を、懐古でなく現在の時間の中で再び提示し直す、ということの宣言をしていることになる。
パイロットの姿が成長していない「エヴァの呪縛」とは、庵野監督が所信表明で述べていたように、旧劇場版終了から今日まで「エヴァよりも新しいアニメはありませんでした」という挑発的な言動をまた新たに誇示しているということだろう。
そしてまた、「エヴァンゲリオン」をいまだに卒業できていない当時の視聴者・観客が、あの頃より全く成長できていないのでは、というメタフィジックな表現なのだろう。

アニメーションでリアルに描写するのは困難だといわれている戦艦アクションにも、制作者が現行、精一杯の技術で、ギリギリまで楽しく見せてくれるというのも楽しい。
なかでも、ミサトによる無茶な命令の下、空中で垂直に艦を回転させつつ敵を振り回し撃破するという、バカバカしくも斬新な発想のアクション・シーンを、庵野監督が過去の焼き直しである新劇場版がヒットしている裏で、ひそかに妄想していたと考えると、SF特撮への愛情にほほえましささえ感じる箇所である。
ちなみに、強奪作戦や戦艦の戦闘で使用されているいくつかの楽曲は、「エヴァンゲリオン」の旧作を制作したガイナックスの、庵野監督作品「ふしぎの海のナディア」で使用されていたものであるし、今回はその合唱曲アレンジ版も披露される。
ヴンダーの搭乗員のひとりは、声優に「ナディア」の巨大飛行潜水艦、「ノーチラス号」のネモ船長を演じた大塚明夫を起用している。
そもそも、ヴンダーの元になった、ジュール・ヴェルヌの「海底二万里」を原作とする、「ナディア」におけるノーチラス号のデザインは、さらに、円谷プロの往年の特撮作品「マイティ・ジャック」にその多くを負っている。
「マイティ・ジャック」は、空飛ぶ潜水艦に乗り込む秘密組織”MJ”が、世界を支配しようとする悪の組織”“と戦うという物語であったことも思い返すと興味深い。
「ヴンダー(奇跡)」の名の由来は、旧作からのミサトの座右の銘である「キセキ」からとられたものであることは明白だが、同時に、クジラのような外観や機体のカラーリングを見ると、「ウルトラマンタロウ」の空中戦闘兵器「スカイホエール」から着想を得ているようにも見えるし、鳥が巨大な羽を広げたような部分からは、巨大ロボットが登場した初のアニメ映画『やぶにらみの暴君(『王と鳥』)』に出てくる幸運の鳥「ワンダーバード(英名)」を想起させたりもする。
実際にこれらの作品が、機体のデザインに影響しているのかは分からないが、おそらく庵野監督がメカのデザイナーに対し、いくつかのSF特撮やそれに類する作品群のイメージを総合したものになるように要望したことは間違いなさそうだ。
ヴンダーは、ミリタリー風のデザインが主だった、かつてのエヴァの世界観とは全く異なったもののように見える。しかしもともとエヴァンゲリオンという作品自体が、円谷特撮やアニメーション作品、戦争映画などの要素の寄せ集めであったことを考えると、このような手法こそが、そもそものエヴァンゲリオンの製作手法そのものであったことに思い至るだろう。
つまり、劇中の14年の歳月という設定が、よりデザインにファンタジックな要素を加味しただけで、この「ヴンダー」という存在こそが、「エヴァンゲリオンという作品」の本質を示しているということもいえよう。

ネルフを離脱し、新たな意志のもとメンバーが集った「ヴィレ」はまた、かつて「エヴァンゲリオン」をつくったガイナックスから、新しい「カラー」への移行を象徴してるようにも見える。
だから、シンジに対して「もう14年前みたいなことは勘弁してよ!」という意味のことを、口ぐちにののしるクルー達の心情は、旧作における庵野監督の暴走演出に対して、カラーのスタッフ達が言っているように感じるし、またそれを自嘲的に描いているのだろうと思えてくる。これもメタフィジックな視点から読むと楽しい箇所である。

その後、物語の舞台はネルフ本部へと移る。
荒廃し、職員のいなくなった本部には、歳月なりに老けたシンジの父親の碇ゲンドウ指令、冬月副指令、そして変わらぬ姿の綾波レイと、新しいエヴァパイロット、渚カヲルがいた(多くとも、これよりプラス・アルファーの人員しかいないだろう、どうやって運営しているのだろうか…)。
簡素な部屋を用意されたシンジは、そこで数日間無為な日々をおくることになる。
前作でコアより救い出したはずのレイは、そのことを覚えていないようだし、シンジとは会話がかみ合わない。
荒廃した本部施設をよるべなく逍遙するシンジに、ネルフの新しいエヴァパイロット、渚カヲルが声をかけ、ピアノの連弾をしようと持ちかける。
ピアノを弾くことができなかったシンジは、カヲルとのピアノの連弾を、連日練習していく課程で、カヲルと心を通い合わせていく。
世界に裏切られた孤独なシンジが、渚カヲルの友情によって癒され、心を開いていくこのあたりの描写は、とても丁寧に、繊細に表現されていて見応えがある。
演奏とともに、楽譜の上に二頭の空駆ける白馬がディゾルブされる箇所にはちょっと意表を突かれ笑ってしまったが、今までの演出にはなかった、美しい叙情表現である。

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しかし、ある日支給された学生服を着たとき、そこに書かれた「鈴原トウジ」の名前を目にしたシンジは、大きく動揺することになる。
「元気少ないね…」心配するカヲルに、シンジは、友達の状況や、真実が知りたいことを吐露する。
それに応え、カヲルは、今や地下ではなく、上空に飛び出てそびえ立っているネルフ本部から、世界の状況を俯瞰させる。その情景は、大地獄絵図だった。
赤く染まっているのは、海だけではない。地表も全て鮮血で染まり大きく裂け、不気味な模様の月は地球に大接近し、建造物は根こそぎ破壊し尽くされ、巨大な十字架が地表に刺さり、夥しい数の巨人が、その奇妙な躯を晒して朽ち果てていた。
シンジが眠っている間、世界はサード・インパクトにより、ほとんど終わっていた。
「全てのきっかけとなったのは、シンジくん、君なんだ」とカヲルに言われ、シンジは驚愕する。

ここで生まれるのは、「サード・インパクトはどの時点で発したのか」という疑問だ。
「破」のラストで、たしかにシンジの暴走によってサード・インパクトは起きかけていた。しかし、それは渚カヲルによって阻止されていたはずである。
しかしカヲルは、「シンジ君がトリガーとなった」と明言している。そしてそれは「ニア・サード・インパクト」と呼ばれているらしい。これを信じるならば、「破」のラストは、この惨事を引き起こした直接的な事象ではなく、これをきっかけとして、その後に本格的なサード・インパクトが再度発生したということになる。
このサード・インパクトにまつわる真相は、この後、ターミナル・ドグマ(ネルフ本部のある「黒き月」再深部)において、断片的なかたちで明かされることになる。
ちなみに、シンジが目撃した世界の、月面の不気味な血の格子模様を見ると、旧劇場版でのサード・インパクトの途中で失敗し停止したような状態に重なる。つまりこの現在の状態は、人類補完計画の過程でストップした世界であることも理解できる。
ここで真に驚かされるのは、「ロボットアニメの主人公が、人類の大量死滅の元凶になった」という超展開だろう。
旧劇場版も同様に、このような戦慄すべき風景の中で終劇を迎えた、というのは確かである。だが、今回はストーリーの途中の時点でこの壮絶な展開が描かれるのである。
つまり、渚カヲルの登場する旧作のテレビシリーズの筋を、一応はなぞりつつも、実際には「サードインパクト失敗後」という、旧劇場版の世界のその後を描いているということになる。
そして新劇場版の碇シンジは、この人類大量死滅という大いなる罪を背負ったまま、主人公としてまだ何かをやって行かなければならないのである。そして、この先何をしようと、決してこの罪が許される訳はないだろう。ここまで追いつめられ、逃げ道のなくなった主人公を、他の映画作品をいまつらつらと思い返しても、私は見たことがない。
この一点においてだけでも、新劇場版の新たな展開は、ただごとではない。どうするのだろうか。
そもそも「序」、「破」は、碇シンジが、あまりにも世界から祝福され過ぎていた印象が強い。
確かに、巨大な謎の気持ち悪い敵と死闘を繰り広げなければならない日常は困難だろう。そして、「人類を救う」という崇高な使命を果たす充実感と自信、苦痛を克服し大切な人を守ったという達成感も、碇シンジはそこで得ていたはずだ。
しかし、ここでの超展開においては、新劇場版で築き上げてきたほぼ全てが否定され、「あなたは人に誉められる、立派なことをしたのよ」と励まされていたシンジの世界、立ち位置が反転し、ほとんど全人類から憎悪の対象にすらされているのである。

「破」レビュー時にいただいたコメントや、当時の「破」への好意的な意見を散見すると、よく見られたのが、旧作に比べて、「シンジが成長した」という見方であった。
当時も同じようにそれらを否定したのだが、そもそも旧作の「エヴァンゲリオン」が、かつての凡百のロボットアニメから差別化され、新鮮さを獲得し得た要因は、とくに終盤、主人公をとことん追いつめ、グジグジと悩ませたような陰鬱な表現が、当時のアニメーションの枠から、完全に逸脱するほどの「痛み」を、ある意味では私小説風に、また哲学的に、あるいはほとんど嫌がらせ的に表現したことに負っている部分も大きいはずだ。
そのような、監督本人や、現代の視聴者・観客にも共通する実存的な苦悩ともシンクロした、普遍的な問題を提示し、アニメーションによくある、使い古されたポジティヴな成長物語を超えたことが、「エヴァンゲリオン」の大きな魅力だったのである。
つまり、碇シンジの「序」や「破」でのポジティヴな「成長」とは、よくあるロボットアニメの枠の中での、規定された退屈なものでしかなく、きわめて低いハードルへの挑戦だったということである。
そして劇中においても、このことは既に、シンジが父親や冬月によって、行動や心理を、じつは巧みにコントロールされているということを示す複数のシーンを見ても明らかである。
思い返すと、前作の「翼をください」の劇中使用にすら、悪意が込められていたように思える。
「今日の日はさようなら」を、残虐なシーンであえて使用していたのと同じように、「翼をください」も、人類大量死滅のトリガーを、逆説的な意味で、感動的に盛り上げていたのである。ここは旧劇場版の人類補完シーンの、ポジティヴな楽曲に乗って、人々が死んでいくのと同じ構図だ。
シンジは、「世界がどうなってもいい、綾波だけは助ける」と願って、実際にサード・インパクトを起こそうとしたわけだが、これを見て、「シンジが成長した」、「感動した」と思わせたというのは、意図したミスリードの成功といえるだろう。

「Q」では、いつにも増して、シンジが、とくにミサトをはじめとする旧ネルフスタッフ達から不当な扱いを受けていると指摘する向きもある。
だがシンジは自分の意志で、レイを救う代償に、世界の終わりを受け入れていることを思い出して欲しい。
人類の命運を握るエヴァパイロットとして、精神的に問題があることは明白だし、この後起こったことを考えると、彼は紛れもなく人類にとっての犯罪者だともいえるだろう。
シンジは、パイロットとはいえ、ネルフの一員に過ぎない。人類を救うための行動ならば、ある程度の自己判断が許されるとしても、危険にさらす行動は絶対に許されないのだ。
「序」で、「ミサトさん達はズルいですよ」と、ネルフの職員達に反発するシンジに対し、ミサトは、サード・インパクトのリスクを説明し、職員全体、人類全体が運命を共有しており、全ての人間が命を賭けていることをちゃんと説明している。
その意味において、シンジは本質的に、「特別な人間であってはならない」のである。
こういう点を見ると、「Q」が思いつきでなく、このような展開へ転がしていくための伏線が、すでにいくつかばらまかれていたことが確認できる。
もちろん、第10使徒をトリガーとするサード・インパクトをくい止めたという点で、シンジには酌量の余地はある。とはいえ、生き残った人類により裁判にかけられ、死刑に処されても不思議はない状況だ。
ヴィレは、そんなシンジを殺すのではなく拘束し、おそらくは機密事項扱いにして、表には出さず隔離する予定だったのであろう。
それが、ミサトがシンジをエヴァに乗せ、第10使徒のコアからレイを救い出すことに、心情的に応援してしまったことへの、精一杯の贖罪であったと考えられるのである。

シンジに対する扱いについて、そもそも、「エヴァンゲリオン」の旧作からの設定自体に違和感を覚えてしまっている人も多いだろう。
14歳の少年を、人類を救う過酷な戦いに放り投げておいて、ゲンドウもミサトもネルフ職員達も、この作品の大人は、自分達の都合を優先させるばかりで、少年の心情や幸せについて、全く考えていない。それが身勝手で不快だというのである。確かにその通りだろう。理不尽で、冷酷で、独善的で、身勝手だと思う。
しかし、現実の世界とはむしろそういうものなのだ。「大人は判ってくれない」のである。
全ての人間が、恵まれた環境におかれ、公平な扱いを受けられるわけではない。限られた条件、限られた選択肢の中から、我々は不平を漏らさず、でき得る限り最良の生き方を、自分の責任で模索しなければならないのである。
その事実を、よくある、主人公が甘やかされたアニメ作品のように、耳障りのよい嘘をつかずに、逃げずに提示してくれているのが、「エヴァンゲリオン」の誠実さであり、優しさであることに気づかなければならない。
おそらく、そのリアルな痛みから「逃げないこと」が、庵野監督の自分に課した試練なのだろう。
気持ち良くしてくれるだけの商品をあくまで追い求めていたいのであれば、いつまでも「少年漫画を夢見て」いる「ガキ」でしかないだろう。「エヴァンゲリオン」とは、そういう作品である。

前回のレビューにおいて、新劇場版制作のための所信表明「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」を引き合いに出して、私はその有言不実行について批判したが、「Q」では確かにこの所信表明において示した志を、しっかりと実行してくれている。

「自分の正直な気分というものをフィルムに定着させたい」
「疲弊する閉塞感を打破したい」
「現実世界で生きていく心の強さを持ち続けたい」
「閉じて停滞した現代には技術論ではなく、志を示すことが大切」
「主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話」
「わずかでも前に進もうとする、意思の話」
「曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話」
-「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」抜粋-

「エヴァンゲリオン」の旧作が終了してから、評論家や若手の社会学者などが、「時代の空気」として、この作品を利用し現代社会を語っていた経緯がある。「ゼロ年代」というワードも散々使われてきた。
しかし、人間社会や、人間の希求するものが、10年、20年という枠でそう変わっていくものだろうか。
全ての優れた絵画も、文学も、アニメーションも、芸術と呼ばれるものは、そのようなスパンとは無関係に、一様に真理、普遍を目指すことが大目的となっていることは言うまでも無い。
旧作は、かつて監督が到達し、生み出したある種の新たな哲学であり、普遍的な生きる指針であったといえるだろう。
正誤は問わずとも、それが人間にとって最も重要なものだと信じる意志が、作り手自身が本気で信じていることが、まず必要なのである。新劇場版で、それがおいそれとキャッチーなものに置き変わるとすれば、もともとそこにたいした価値はなかったということになってしまう。
だから、「エヴァンゲリオン」の旧作を、「社会や時代と寝た」作品として語るというのは、その人がそもそも作品を甘く見て馬鹿にしているからだろう。
またそのような見方で新劇場版を評価しようとしてしまえば、「破」から「Q」への反転に対応することなどできないだろう。
そのような弁舌の人は、審美眼も無く、作品への鑑賞姿勢が根本的に間違っているため、結局、新劇場版シリーズ全てが終了した後の、後出しジャンケンでないと、怖くて作品について決定的な意見を出せないはずだ。だからこの時点で、「Q」がこれだけで単体として、アニメーション史に残る傑作であることを理解することすらできないのではないだろうか。
「Q」は単体で重要なテーマと真実が十分に描ききれている。無論、「途中のエピソード」としての役割以上の、映画作品としての面白さと、豊かな哲学性にあふれ、閉塞性を打ち破る、様々な「外」への扉となり得る描写にあふれている。

自分がサード・インパクトの原因であったという事実を知って間もなく、シンジは冬月によって、母親ユイが、初号機のコアに制御システムとしてとらわれてしまったこと、そして綾波レイは、その母親の遺伝子とリリスの魂を掛け合わせたクローン人間であることを知らされる。
舞台設備のように、暗闇から現れる初号機の磔台と綾波シリーズの頭部。この演出は、衝撃的な真実が明かされる舞台装置として非常に効果的で、かつての「エヴァンゲリオン」が持っていた、舞台劇の側面を思い出させるものになっている。
ただシナリオの説明をする場面に留まるのでなく、ここが「Q」全体の中でも、とくにエッヂの立ったグロテスクな見せ場となっているところが素晴らしい。
シンジの母親ユイがコアへと飲み込まれる直前の、汚れのない天使のような姿と、綾波レイが量産されてゆく狂気と悲しみが、ダブル・イメージとして印象的に表現されることで、この箇所は旧作よりもはるかに心を揺るがせられる。
本作の美術における、狂気を表出させ地獄のようなヴィジュアルを、工夫を持って表現していこうとする姿勢は特筆すべきである。とにかく、悪意が含まれたような狂った絵が次々に見られるというだけで楽しい。
「Q」は、各場面がエンターテイメントとしてのスケール感を表現していくと同時に、象徴的意味合いとして芸術的価値を獲得できてもいるという点において、新劇場版において、はじめて旧作の内容を、本当の意味で描き直すことができたといえるだろう。
またこの場面で冬月は、ゲンドウが、自らの魂における「莫大なリスク」を払っていることにも言及する。これについては、おそらく続編において詳述されるだろう。

いまネルフ本部にいる綾波レイは、自分が助けたレイではなく、綾波シリーズのひとりに過ぎなかったことを知ったシンジは、いよいよ自我を崩壊させる。
世界を破滅させ、綾波を救えてさえいなかった…。本部施設の廊下が、リアリスティックで詳細なCGで実写風に描かれ、絶望が現実的な痛みをともなって描かれる。ここは、無軌道なカメラワークを実現するための3D表現なのだろう、心理状態と合わせて、吐き気をもよおすようなめまいに観客を誘う演出で、最高に素晴らしい名シーンである。
自室で絶叫するシンジ。成り行きとはいえ、14歳で無差別殺人者となってしまったシンジの、牢獄での地獄の心理的葛藤だ。はっきりとした意図がなかったにしろ、いや、だからこそ若年の犯罪者の心理にせまってゆくという意味において、非常にリアリスティックなモチーフを描いているように感じられる。
精神的な成長期に取り返しのつかない重罪を犯してしまい、裁判や獄中において、社会や現実の状況に触れたことによる絶望と悔恨は、彼にとって、人間的成長を与えられるチャンスだろう。
だが、その成長自体が、シンジを決定的に追い詰めていくだろうことは想像に難くない。旧作を含めても、これ以上深刻で痛切なところまで迫ってはいなかったはずだ。
もう本当にこの映画、どうなってしまうのか…。

なんとこの後、「Q」は怒涛の展開で、この苦悩をさらに狂態化させて、予想を超えたこれ以上の地獄を見せてゆく。
展開の解説はもちろん、本作における重要なテーマの考察や、後半の人類補完に関わる複雑な構図について、本レビューの「後編」にて詳述したい。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 【レビュー後編】

 


 

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