『クローズEXPLODE』豊田利晃の居心地悪い楽園

『クローズEXPLODE』は不良漫画「クローズ」の映画化作品三作目で、今作で三池崇史監督から、豊田利晃監督にバトンタッチしている。
原作漫画家の高橋ヒロシは今までに実写の企画を断っていたが、三池監督が演出することで了承したというし、作風の相性は良好で、小栗旬、山田孝之らをキャストに配した、原作の世界から時系列を一年前に戻したオリジナルストーリーで実写化された『クローズZERO』二作は、興行的に大きな成功を収めた。
このバトンタッチは、三池崇史監督が『クローズZERO II』において番格の卒業を描き、その一年後の物語を継承することで、映画監督にとっても、ある意味「番格の継承」ということを意識させずにおれない。
また豊田監督は、映画監督として現役中に覚せい剤取締法に違反し、執行猶予付判決を受けている、本来の意味で「アウトロー」であり、彼の不良への理解は、三池崇史をもはるかに凌駕しているのではないかと思わずにはおれない。

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少年漫画が次第に複雑化し発生した「不良漫画」ジャンルの歴史を簡単に要約すると、60年代の「ハリスの旋風」、「夕やけ番長」という、これまでの青春スポ根漫画を、学園でのケンカ要素と、弊衣破帽のバンカラ・テイストを加味し変化させたものが草分けだといえる。とくにここで登場し、また彼の他の作品でも展開された、漫画原作者・梶原一騎による、いささか陰のある「おとこ」論は、その後の少年漫画・青年漫画における、よりピカレスクロマン的な価値観の醸成につながったと思われる。
およそ70年代の「男一匹ガキ大将」がこれを自己解釈し、一方で「嗚呼!!花の応援団」のような破天荒なギャグ作品も生まれた。
このような流れを受けつつ、もう少し生活に根ざしたものに作品をスケール・ダウンさせる代わりに、リアリティを獲得した作品に、80年代からの「ビー・バップ・ハイスクール」、90年代の「今日から俺は!!」、「ろくでなしBLUES」などがあった。これを経て「不良漫画」が、日本のヤンキー文化のなかで、ある種スタンダードなものになっていったように思われる。
その結果、90年代以降の「不良漫画」は、「ハリスの旋風」、「夕やけ番長」のような一般性が喪失したものの、限定された枠のなかで、より安定した支持を受けることになっただろう。
「クローズ」は、このマーケットが決定され始めた90年代の典型であって、その価値観のなかで突出した印象は無いものの、高橋ヒロシの趣味や資質が、当時の不良漫画の流れに、疑問なく乗っかっていたことで、平易で読みやすく、またヤンキー文化にしっかり則し、その価値観を否定することのない、「不良に優しい」漫画になっていると感じられる。

そこで描かれたのは、いわゆる「ホモソーシャル」といわれる、同性の空間のなかでのドラマであり、かつ「ケンカが強い」、「男気がある」という価値観が信奉される狭い領域を、可能な限りファンタジックに拡大させた社会である。ここではほとんど女性が登場しないし、たまに登場しても、その個性が一人歩きし、そこで描かれる社会や価値観を揺るがすものとはなり得ない。
これは、ある種の少女マンガで描かれる「恋愛的世界」の裏返しのような世界観であって、これら両者は、男子的・女子的な特有の憧憬を、排他的なまでに追求しているという意味において、同一のものであるといえる。
映画化シリーズにおいても、女性の描写は簡素で弱い。
『クローズZERO』でヒロインを演じた黒木メイサの役は、ほとんど内面が描かれない、よく分からない人間だったし、『クローズEXPLODE』で浅見れいなが演じる場末の中古車店の娘の役は、「私はタイヤやオイルの匂いが好きなんです」ってセリフがあるような、男の世界に理解がある、「歩み寄ってくれる女」という、都合のいい存在が理想化された状態としてしか描かれていないように、ひどく無神経で雑な女性描写が展開されている。

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とはいえ、映画『クローズZERO』二作は、女性にも支持され動員数に影響を与えている。
これは、原作漫画には希薄だった、若手キャストによるイケメン要素が加えられていることが大きいだろう。このねらいは、企画段階から重要な魅力要素として、自覚的に用意されたものであるはずだ。
だが、主演の小栗旬が演じる「滝谷源治」のさわやかでかわいげのあるイメージは、原作漫画の主役のワルぶった「坊屋春道」のそれとかけ離れており、それが作品全体の印象を異にしているのは事実である。
原作者の高橋ヒロシが、実写企画をそれまで拒み続けたことと、オリジナルストーリーとして許可を与えたということを考え合わせると、「クローズ」で自分が考える不良のかっこ良さが、イケメン俳優によって漂白されることを嫌っていたのだろうことは、想像できる(その後、映画に合わせスピンオフ作品も描いている)。
だから、漫画「クローズ」よりも、比較的一般性を獲得し得た、映画『クローズZERO』シリーズは、その代償として、原作のスピリットを一部あきらめているということになる。
その弱点をできるだけ補填するのが、Vシネマなどで極道ものや、「岸和田少年愚連隊」シリーズなどを監督した経験のある三池崇史という、説得力のある存在であるだろう。
また、三池崇史監督が演出した「喧嘩の花道」シリーズに主演していた、やべきょうすけが、『クローズZERO』の主な舞台である鈴蘭男子高校のOBを演じるという、作品世界を超えた説得力が、作品の価値観がブレる危うさを回避し、最低限のリアリティを守る要因になっている。
『クローズZERO』の一作目は、それらの要素がうまく運び、往年の『悪名』や『不良番長』、『現代やくざ 人斬り与太』シリーズを髣髴とさせる、久々にガツンと来るシリーズが開始されてような感覚が、確かにある。
とくにこの作品にしっかりと背骨が通っていたように見える大きな要因は、「男の値打ちとは何か」という、梶原一騎的な問いかけに立ち戻っている部分だと思われる。具体的には、主人公・滝谷源治が、腕力だけで鈴蘭男子高校の生徒たちの人心をつかもうとして失敗し、悩むような描写だ。
もちろん、喧嘩上等の価値観が猖獗(しょうけつ)する環境において、身体能力とリスクを冒す度胸は、「テッペン」に君臨し、「男の中の男になる」ことを実現するために必要不可欠なものである。だがそれだけでなく、不良達が惚れるような「器量」もまた備えなければならない。
ここでは従来のヤクザ、幡随院(ばんずいん)長兵衛や、清水の次郎長から連綿と続くような「侠客」のスピリットを再評価するような意味合いが、むしろ新しいテーマとして、明確に立ち上がってくるのである。このヤクザ映画的方向性が、 『クローズZERO』に、原作以上の普遍的要素を与え、内容的な成功の大きな要因となっているのである。
そして、この「鈴蘭のテッペンに立つ」ような、現代社会において、時代遅れで陳腐なものとされ、捨て置かれるような価値観やロマンティシズムが、逆に今だからこそ力を持つとすれば、日本社会全体が、目先のカネや功利主義を追い求め、「無駄なこと」をあまりに排除しようとするような空気に満ちている、という状況からなのかもしれない。
二作目、『クローズZERO II』は、前作と同じような要素や描写にあふれているものの、前作で描ききってしまったテーマの繰り返しと徹底性の欠如のために、精細を欠いたものになってしまっており、作品としての力が数段落ちている。
ここで再認識させられるのが、テーマの重要性である。意義ある人間ドラマを描くときに、しっかりとした背骨を通すか否かということが、作品の価値に大きく作用してくる。

それでは、これを受けた豊田利晃監督が、『クローズEXPLODE』でやったことを検証していきたい。
豊田監督の映像作家としてのジャンル的な領域は三池監督に近く、だからこそ今回の引継ぎが行われたのだとも思われるが、その作家性の中身については、異なる点が多い。
三池監督は、ギャグを含めた軽快な演出や、アクロバティックな演出を散りばめながら、とくにこのような商業的な意味の強い作品においては、あくまで「映画的」なオーソドックスさを守る。分かりやすいのは、『クローズZERO』二作における、群集シーンなどのスペクタクルを強めるため、「引きの絵」やフィックス(「止めの絵」)を多用して、端正な画面をつくることを基調にしていることである。
対して豊田監督は、基本的には、彼の傑作『青い春』や『ポルノスター』に代表されるような、手持ちのカメラを利用し、全体的に躍動感のあるドキュメンタリー的な撮り方をするのが特徴的だ。
なので、『クローズZERO』の群集シーンや、工場を背景とした会話シーンに見られる、カメラを対象から離したような、商業的価値観における職人的な技術に裏打ちされる、キッチリとした画面づくりにこだわらない豊田監督は、群集を被写体とする場合も、ときに接近的に対象を捉えるため、画面の端が歪むような画面になってしまっても、とくに罪悪感を感じているフシはない。
なぜこれが非商業的な価値観なのかというと、画面の歪みやカメラの移動やブレが、撮影者の存在を観客に意識させることにつながり、物語へ没入することを阻害するからである。

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では、そのようなドキュメンタリー性が醸成する、プラスの効果とは何だろうか。
同じように高校の不良学生を描いた『青い春』では、通常ならば雰囲気を壊してしまうような不安定なカメラワークが、あたかも、そこに存在するひとりの学生の視点のように感じられ、逆に臨場感を与えているように見える。
それは、ゴダールの虚構性や、深作欣二の『仁義なき戦い』シリーズの実録風演出という意味合いでもなく、「何者でもない人間の寄る辺の無い孤独感」を感じさせ、そういった意味においては、トリュフォーの『大人は判ってくれない』をも想起させる。
それは、人生のある時期における、無知や視野狭窄によって生み出される、悲しみと隣り合わせにあるせつない美しさであり、この厳しさが『青い春』の輝きを担保しているはずである。
だから、三池監督は演出面においては「神の視点」、「大人の視点」でクローズの作品世界を解釈し、豊田監督はより学生自身の体験や感情に寄り添った演出になっている。

それぞれの「クローズ」のアクションシーンの撮り方にも、映画における哲学の違いが見て取れる。
団体同士の肉弾戦など、漫画的な誇張の面白さ、極端な絵を映画に持ち込むことで生まれる、ウォシャウスキーの『マトリックス』的なある種のユーモア、血だらけフェイスというおかしなメーキャップなどを見せながら、あくまで被写体の「見映え」という、花鳥風月的な表層的価値観が感じ取れる三池版に対し、豊田版は、立場的に大きくそれに準じながらも、あくまで「学生目線」を守ろうとする。
それが分かるのは、東出昌大と早乙女太一が演じるクライマックスの殴り合いにおいて、互いのパンチが相手の顔面にヒットする度にショットが切り返されるという、編集による、主観的な臨場表現である。

ここで問題になってくるのは、このような作家性の違いがあった上で、『クローズ』シリーズがヒット作品であることから、続編を撮るにあたって、前作までのあれこれの価値観を引きずったものにしなければならないという、シリーズを受け継ぐ者特有の不自由さである。
これに対し、『クローズEXPLODE』は、前作の要素をそのまま模倣する。
狂言回しとしての、やべきょうすけの使用、ロックバンド THE STREET BEATS による同じオープニングテーマを、三作続けてさらに再利用すること、リンダマンこと林田恵とタイマン勝負する場面を、ラストのシークエンスに、またもや選択することなどである。
『悪名』における、勝新太郎が唄うところの河内音頭とは異なる、本質部分とはさほど関わらないように感じられる反復的な取り組みのせいで、単調に感じた『クローズZERO II』と同じようなマンネリ感が、ここに生まれているのは確かではある。
シリーズ作品の宿命的なイージーさと保守性を感じるものの、豊田監督にとってこの態度は、どうでもいいので前作までのそれと同じもので構わない、というある種のシニカルな開き直りとも受け取れ、作品をある程度スポイルさせているのは確かだ。
しかし、このことが逆に、三池監督との違いを分かりやすく際立たせもする。

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脚本の内容としては、どちらの作品も、「クローズ」のきわめて閉鎖的な世界を、新たに大人の目線で理解しようとしている。
『クローズZERO』では、学園抗争の上部にヤクザ同士の縄張りを取り合う抗争を設定することで、この両者の覇権を握る意味の違い、経済性・功利主義に反する、男のロマンという純真さを際立たせ、同時にドラマ的なダイナミズムの醸成にも成功した。
これに対する、豊田版は非常にユニークなアプローチを取る。
事態の裏にヤクザの経済的な思惑があり、それが不良の純粋さを強調するという構図は同じだが、そのヤクザの驚くべきチンケさ、場末の国道沿いの中古車店を脅し取り「風俗ビル」を建てるという、リアリティある卑俗さが、親分を演じる板尾創路のスケール感の無さ、また彼が一時期、芸能活動を自粛していた過去の行状のイメージも相まって、三池版では、時折風俗店に斡旋される女性を、静かに暗示するに過ぎなかった、『仁義無き戦い』のようなヤクザ世界のロマンの否定を、豊田版はしっかり描いていることが分かる。
ここでは、『クローズZERO II』において、ロマンティシズム維持のため誤魔化すしかなかった、鈴蘭男子高校を卒業する不良達の未来へのどん詰りを、卑近な現実との折り合いを見せることによって、フォローしていることに気づかされる。だからこれは、三池版の甘さのアンチテーゼとも受け取れるのである。
また、やべきょうすけ演じる元ヤクザが就職する国道沿いの場末の中古車店が、ヤクザの「陰」に対する「陽」の存在になっていることが面白い。
つまり、この世界観を見る限り、不良達がどちらの道を選択するにしても、厳しい現実との折り合いが余儀なくされることは避けられないという、漫画「クローズ」の優しさを否定する、暗い展望が描かれているのである。
しかし、これは意義あることではないかと、私には思われる。「クローズ」の世界が初めて、ファンタジーに終わらず、現実との問題にリンクしているのだ。
だから、中古車店に火を放ち、ヤクザの道に本格的に足を踏み入れようとする早乙女太一演じる鈴蘭男子高校の生徒が、命懸けで説教する、やべきょうすけ演じるOBに対して、「鈴蘭に何があんだよ!!」と、テッペンを獲ることの無意味さを絶叫するシーンは、シリーズ全体を通した白眉であるといえるだろう。

作品全体を見ると、やはり、三池監督よりはるかにナイーヴな作家性を持つ豊田監督は、この「クローズ」のファンタジーに対して、 東出昌大が演じた主人公のように、その価値を信じきれずに戸惑う部分も多かったように感じる。
だから、前述したような、青春の悲しみと未来への絶望を描いている部分以外の熱量は一貫して低く、『青い春』において、監督の主観的な演出が、精神的にも新井浩文の演技にシンクロしたような表現は希薄である。
『現代やくざ 人斬り与太』を想起させる銭湯のシーン( 勝地涼の愛らしさなども手伝って)などの、一部きらめく描写を除けば、総合的に三池版程はうまくいっていないかもしれない。
しかし、それでも豊田監督が謹慎後に撮った諸作品における、予算や撮影期間の少ないところからくる弱い表現に比べると、『クローズEXPLODE』が、圧倒的に面白く、見どころが多いのは確かである。
シリーズ続投は不明だが、豊田利晃監督による、よりリアリティのある主観的で視野狭窄な不良青春映画が、もっともっと観てみたい。

 



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