何故『セブン』はハッピー・エンドなのか

以前観た映画をもう一度観直すと、よく新たな発見があるものだけど、今回は、「全然考え違いをしていたんじゃないか!?」…という話。

デヴィッド・フィンチャーの『セブン』という作品は、いまだに彼のベストワンだと思っている。
何故なら、彼の他の監督作に比べ、脚本が圧倒的に優れていて、文学的、哲学的な価値さえあるからだ。
脚本家アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーは、長年このアイディアを持ち続け、ブラッシュ・アップしてきたという。
彼の書いた脚本の中でも、『セブン』は、観客の趣向におもねるような、通常の脚本の作られ方をしていないということもあって、はるかに上質で、意味のある出来となっているといえるだろう。
しかし、私はこの作品のラストを、つい最近まで、バッド・エンドだと思っていた。
「猟奇犯罪者の目論見通りに事件は推移し終結を迎えるが、最後にモーガン・フリーマン演じるサマセット刑事が、ヘミングウェイを引用し、それがこの絶望的なラストの一条の希望として描かれている。
…というような内容なんだと判断していたものの、じつは逆に、猟奇犯罪者が敗北していた、つまり、正義が勝利するハッピー・エンドだったのじゃないか、ということである。…たぶん。
もしも、このエントリーを読んでいるあなたが、すでにそのことに気づいていたとしたら、この先は読まなくても良いと思います。

以下、実も蓋もないネタバレになるが、ラストまでのストーリーをかいつまんで説明したい。

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サマセット(モーガン・フリーマン)なるベテラン刑事は、陰惨な事件を目の当たりにしなければならない、自身の仕事に嫌気が差しており、引退を決めていた。
だが、あと一週間と迫った任期中、あまりにも異常な「七つの大罪」連続殺人を担当することになる。
これは、「大食、強欲、怠惰、肉欲、高慢、嫉妬、憤怒」をテーマに、それらを犯す罪びとを、犯人が神の使者(死の天使)と成り代わり、各々象徴的な方法で殺害していくという、あまりに異常なものだった。
サマセットの捜査の相棒となるのは、田舎から配属されてきた若い刑事ミルズ(ブラッド・ピット)。
ふたりは、犯人の住処を発見し、あと一歩のところまで犯人を追い詰めるも、取り逃してしまう。
しかし、サマセットの退職を待たずして、突然、犯人ジョン・ドウが血だらけの姿で警察署に自ら出頭して来たのだ。
しかも、まだ「嫉妬」と「憤怒」殺人を犯す前に、である。
「犯行を自白することを条件に、私の指定する場所に、一緒に来て欲しい」…犯人の申し出た取引に乗って、その目的地へと向かう3人。
そこには、ミルズ刑事の妻の生首があった。
怒り狂ったミルズは、犯人の頭部に銃口を向ける。
眉間を弾丸で貫かれる直前に、犯人がつぶやく。「私は、ミルズ君の家庭に嫉妬したのだ」
嫉妬した犯人と、憤怒にかられたミルズ。
ここに、犯人の計画した最後の贖罪、「嫉妬」と「憤怒」が完成する。

簡単に言うとこんな感じのプロットなんだけど、ここの最後の部分に嘘がある。
犯人の計画は、じつは最後の最後、ミルズ刑事によって、未然に防がれていたのである。
それを説明する前に、何故そのような結末に至ることになるのかを、先に述べた方が良いと思う。

『セブン』のテーマは、主人公サマセット刑事の内面が、事件によってどのように変化していったのか、という部分に、端的に象徴されている。
サマセットの人格を一言で表すとすれば、「厭世観」になるだろう。
ひどい事件ばかりを担当してきたせいで、彼はすでに「性悪説」で人を見るようになっていて、だからこそ田舎でのんびり孤独に暮らしたいと願っている。
そんなときに起きた「七つの大罪」連続殺人は、彼に新たな嫌悪感を加えつつも、皮肉ながら、ある種のシンパシーを与えることにもなる。
「田舎への逃亡」と、「罪びとへの攻撃(殺人)」。その方法は違えど、紛れもなくこの犯人は、自分自身同様、強固な「厭世観」に支配されている…と感じるのだ。
意識的にしろ、無意識的にしろ、彼が熱心に犯人の哲学に固執し、「神曲」や「失楽園」を読み漁り、没頭するのは、そのためなのである。
このあたりは、むしろ刑事サスペンスの常道のひとつであるともいえる。
同時にサマセットは、ミルズ刑事の自宅に招待されたときに、希望に満ちた若いミルズ夫婦と接することで、そちら側にもシンパシーを感じはじめる。
サマセットは、「人間性」と「非人間性」、この両極端な秤の上を右往左往するような、どっちつかずの存在になってゆくのである。

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ちなみに、「サマセット」という名は作家のサマセット・モームからきていると思われる。
サマセット・モームの代表作、「雨」、「赤毛」などの作品は、人間の中にあると思われていた善性、「慈しみ」や「真実の愛」と呼ばれるものが、それを信じていた人間の内面にある獣性によって蹂躙され、虚しく敗北するという物語である。
そのような人間への不信感、懐疑的まなざしを持つキャラクターとして、「サマセット」という名前が引用されているのだ。
そして、この『セブン』において、サマセット刑事は、善性と獣性のどちらが勝利するか、その戦いを目撃してジャッジする、公平な判断者としての役割を担わされることにもなってゆく。

そんなサマセットに、ミルズの妻が、子供を産むかどうかについて、相談することになる。
このようなひどい社会で育つ子供は、幸せになれないのではないか、という不安を、彼女は持っていた。
たぶん、彼女は最初から産むつもりではいるのだが、人生経験を積んだサマセットに理屈を説いてもらうことで、背中を押して欲しかったのだろう。
「産まないのならミルズには言うな。もし産むのなら、思いっきり甘やかしてやれ」とサマセットは答える。
確かに、こんな社会で育つ子供の将来は暗いのかもしれないが、彼は、若いミルズ夫妻に未来の可能性を感じ始めている。
それは、過去の自分が下した判断への後悔と贖罪の意味もあったかもしれない。
このときからサマセットは、多少イリーガルな方法を使ってでも、犯人を強引に逮捕しようとし始める。
これは、引退前に犯人を捕まえ、少しでも良い社会を作らなければならない、という意思の発露なのだろう。

さて、この辺でラストシーンの問題に戻ろう。
希望の象徴である彼女が無残な姿になったのを見たとき、そしてミルズが犯人に銃口を向けたとき、サマセットはどう感じたのか。
サマセットの理性と感情は、ここで分裂することになる。
理性は、彼がそのまま叫ぶとおり、「犯人を殺してしまっては、彼の贖罪を完成させることになってしまう!ミルズ、撃つな!」という理性的なもの。
しかし感情では、「ミルズ、このクソ野郎を殺しちまえ!」と思っているのである。
なぜそう言えるのかというと、ミルズが撃つまでの葛藤の長い間、それを止めることを途中で断念しているからである。
もうひとつの根拠は、じつは、「ミルズが撃つ前にサマセットが代わりに犯人の頭部を撃つ」という展開の脚本も、当初は存在していたらしいからだ。
また、職務を離れた人間として、ミルズを止める権利jがないと思い当たったこともあるだろう。
このような状況で、サマセットは金縛りにかかったように、何もすることができなくなり、事実上犯人殺しを黙認することになる。
ここでは、サマセットは傍観者として、物語の中心から一歩引いた立場となる。それは、我々観客の視点に近いといえるだろう。

『セブン』のストーリーを思い返すと、一見、ミルズは犯人やサマセットに比べて、キリスト教についての知識が無く、また興味も無いように見える。しかし、傍観者となったサマセットよりも、実はミルズこそ、犯人と対峙するに相応しい存在なのである。

ここで物語を少し遡って、ミルズとサマセットが、SWAT部隊とともに犯人の待ち構えていると思われる住処(結局はジャンキーの部屋だった)へと向かうシーンを思い出して欲しい。
車中で、ミルズはしきりに、ある男の名前を思い出そうとしている。彼が過去に一度だけ銃を撃ち、射殺した犯人の名前である。
(追記:コメント欄にて複数の方に指摘されましたが、犯人でなく犯人逮捕に向かって命を落とした警察官の名前の誤りです)
何故、このときミルズはその男の名前を思い出さなければならなかったか。
そもそも、ここにSWAT部隊が帯同されているのは、犯人がわざと残した手がかりをもとにつきとめた場所に向かっているからであり、爆弾や射撃などの罠を警戒しているからだ。
つまり、ミルズはここで死の恐怖に直面した兵士のような状況なのである。
この状態で、自分が死に関わった人間の名前を思い出そうとするというのは、神への懺悔をする理由以外に考えられない。
「神様、私の罪をお赦しください、××××の魂をお救いください」と、ミルズは心の中で唱えたかったはずだ。それが果たせないから、彼はイラついていたのだ。
つまり、ミルズは、少なくともサマセットよりも、はるかに信心深いのは間違いない。
彼は田舎の両親に、おそらく強い信仰心を植えつけられていたのだろう。そして、正義を執行する刑事という仕事を選んだのだ。

ミルズは人間の善性を信じている。そして、神の子羊として、人間を守るために正義を成そうとする。
ジョン・ドウは、人間を野獣のようなものだと思っている。だからそれを滅ぼそうとするし、同じ欲望を備えた自分をすら殺そうとする。
ここで『セブン』という作品は、本当の姿を現すことになる。
『セブン』は、何故神学的なモチーフを扱っているのか。それは、おどろおどろしい猟奇殺人の恐怖を盛り上げるためだけではない。
この作品のテーマは、「人間は獣である」という哲学と、「人間は善である」とする哲学との対決であり、両者の神学論争なのである。

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銃口をジョン・ドウの眉間に向けているとき、ミルズは何を考えていたか。
ここも分裂故の葛藤が発生しており、その感情は、ブラッド・ピットがより分かりやすい顔の演技で示している。
無論、感情は、「このクソ野郎を殺してやる!」というもの。この表情は、「憤怒の顔」といえる。
理性は、「この男の思い通りに撃ったところで、彼女は戻ってはこない」といったもので、それは「泣き顔」として表現される。
この「憤怒の顔」と「泣き顔」が、短いスパンにて交互に現れる。ちなみにこの葛藤のシーンは、ブラッド・ピット畢生の素晴らしい演技だと思う。
永遠にも感じる、この緊迫した葛藤の繰り返し。この長回しに、ふいにごく短いワンカットがモンタージュされる。それは、彼の妻の笑顔だ。
この直後、迷いなく彼は犯人の頭部を、正確に撃ち抜く。

この刹那、ミルズは何を考えていたか。
確かに、彼は「憤怒」と、「悲しみ」や「理性」の間で揺れていた。
しかし、「憤怒」の状態で犯人を撃てば、それは犯人の勝利でもある。
これに打ち勝つには、目の前で恍惚の表情を浮かべている犯人に対し、「撃たない」という選択をするしかないはずだ。
ここで、彼の妻の笑顔が脳裏を横切る瞬間に、ミルズに劇的な感情と理性の変化が起こり、分裂していたはずのそれらが一致する。
「撃たないことが犯人への唯一の復讐方法だが、それでは、彼女はどうなるのか」
「たとえ犯人が勝利したとしても、彼女の無念は晴らさねばならない」
ここでミルズが犯人の誘惑に打ち勝ったとしても、犯人はその後死刑にならないかもしれない(死刑が無い州もある)し、もしかして精神鑑定で無罪になる可能性もあるのだ。
最後に残された妻の尊厳を守るために、信念を持って、ミルズは犯人に敗北し、罪人になることを受け入れるという選択をする。
だからこそ彼は迷いなく引き金を引くことができたのだといえる。

このときのミルズの感情は、「憤怒」でないばかりか、キリストが他人の罪を引き受け身代わりになったという、犠牲的精神を思い起こさせるほど、崇高なものに昇華していたのではないか。
ここでの彼の顔を見て欲しい。憤怒の顔でなく、冷静な表情で引き金を引いていることが分かるはずだ。
…ということは、どういうことかというと、ミルズは犯人の計画を、犯人を殺害しながらも阻止するという大逆転、ウルトラCに成功しているのだ。
「憤怒」の状態でミルズが犯人を撃たない限り、「七つの大罪」連続殺人は、その意味が半ばなくなってしまうはずである。
ジョン・ドウは、その事実に気づかないまま死んだかもしれない。
しかし、ミルズはすでに復讐などどうでも良い境地に達していたのである。

この、「人間性の勝利」ともいえる奇跡を目の当たりにしたサマセットも、「厭世観」を凌駕する希望を見出した。
緊急逮捕され、護送されてゆくミルズを眺めながら、サマセットは心の中でヘミングウェイのことばをつぶやいていた。「世界は素晴らしい、戦う価値がある」
いや、世界は依然としてひどいものである…しかし、彼はその後の部分には賛成したいと思った。
「戦う価値がある」というのは、負け惜しみや強がりではない。ミルズは実際に、犯人との神学論争に勝利していたのだから。
そう考えると、やっぱりこの映画、ハッピー・エンドだよ。

 




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