『ザ・ゲスト』 映画の常識を切り裂く訪問者

これから制作を控える、ハリウッド実写版『DEATH NOTE』の監督に抜擢された、まだ30代前半の新鋭、アダム・ウィンガード監督。彼の現時点での代表作であり最大の出世作になったのが、異色のスリラー、『ザ・ゲスト』である。風変わりで、楽しさと驚きに満ちた新感覚の作品だ。この作品の魅力と、その新しい構造については、ぜひとも言及しておきたい。

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軍人の長男が戦死して悲しみの中にある家庭に、同じ部隊を除隊したという男が遺言を伝えにやって来る。ピエル・パオロ・パゾリーニの『テオレマ』がそうであったように、美しく気さくな男は、巧みな言葉と献身的な行動によって、急激に家族と親密になってゆく。しかし、徐々に異常性を発揮していき、事態はおそろしい方向に急速度で突入してゆく。
この男は何者なのか?あるときは予想を裏切り、あるときは物語の定型にあえてはまることで、映画は何度も観客の安易なイメージを覆し翻弄する。そして、最後まで観たところで、「何なんだ、これは」と、謎は深まるばかりである。とにかく、このような映画は見たことがない。
そして、ステレオタイプな映画の展開をよくわきまえている観客であればあるほど、この映画の展開の罠にはまっていくだろう。これは、監督のジャンル映画への理解と勘の良さ、そして反逆精神をも示している。

『ザ・ゲスト』は80年代や、その周辺の年代を意識した音楽が全体に流れ、ニコラス・ウィンディング・レフン監督の『ドライヴ』の雰囲気を連想させる。もちろん『ドライヴ』のみでなく、このように過去の映画作品の匂いを追った、ワンダーな感覚やファッションを取り込むヴィンテージ志向は、近年のトレンドであるといえよう。
これに類する映像作家は、ポール・トーマス・アンダーソン監督や、『裏切りのサーカス』のトーマス・アルフレッドソン監督、『ジャッキー・コーガン』のアンドリュー・ドミニク監督、俳優出身の俊英アレックス・ロス・ペリー監督など、次々と挙げることができる。その他様々な有望な監督が、CG映像の発展に背を向けるようにアナログの魅力を追いかけている。これは一種の大きな潮流として心に留めておくべきだろう。
そのような過去の作品の引用は、あたかも、iPodで様々な年代の膨大な曲目リストからシャッフルして聴くように、頓着なく良いと思ったものを無節操に取り入れるような、時代にとらわれたくないという、現代的な自由さと、自身が古くなってしまうことへの忌避や恐怖をも同時に感じるところだ。

それにしても、この若い監督の、堂々とした語り口、余裕を持ったサスペンス・シーンの醸成、常識を逸脱した悪ノリの見事さはどうだろう。
例えば、家族を画面に映したあと、カメラが回り込み母親の悲しみの表情をとらえ、視線の先の息子の肖像を映す。さらにカメラが回り込み、玄関のドアが画面のフレームに収まると、その外にはもう「ザ・ゲスト」が立っている。この叙情性に欠けるリズムは、ある種の俯瞰的視線を感じさせ、その絵の明快さはサイレント映画を想起させ、コメディー的ですらある。
この時点で、映画はすでに、サスペンスとファミリー・コメディーの横断を予感させ、構造的なスリルを観る者に与えるだろう。その不穏さは、このような映画を成立させる困難さの予感からもきているはずだ。
少年とともに「ザ・ゲスト」が学校の不良達を追い、バーでボコボコにするまでのシークエンスの、観客の予想を超えることが全くない場面なのに、ショックを与えようと急がず落ち着いたリズムで見せきるような、全体を意識したペース配分には、年齢に不釣合いなベテランの余裕を感じてしまう。

英国のグッド・ルッキングな俳優ダン・スティーヴンスが演じる、少しずつその正体の片鱗を垣間見せていく、ヒーローなのか悪役なのか判然としないこの荒唐無稽なキャラクターは、米国の正義のために戦う元軍人のコミック・ヒーロー「キャプテン・アメリカ」になり損ねた異常者のようにも感じられる。
観客の立場からは、このような捉えどころのない主人公の謎の行動に振り回され、本作をどのように楽しんだら良いか混乱させられるのは確かだ。しかし、だからといってストレスがたまるというようなことはなく、シーンごとの瞬間瞬間は、面白がって観られることもまた確かである。

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ジャンル映画志向でありながら、それを異なる意味合いとして新たに定義する、いわゆる「レディ・メイド」と呼ばれる方法で、意識的に新たな表現を切り拓いた作家といえば、重要な一人としてクエンティン・タランティーノ監督が挙げられるだろう。それは、何のジャンルにも吸収されない、いわゆる「オフビート」とも異なり、積極的にジャンル的価値観に染まりつつ、同時にジャンルそのものを俯瞰し乗り越えようというスタイルだ。
しかし、『ザ・ゲスト』はタランティーノ作品の亜流とは、また異なるように感じられる。本作は、ユーモラスな雰囲気を要所に感じながらも、コメディーの枠にとらわれず、サイコ・サスペンス、コンバット・アクション、ショッキング・ホラーと、既存のジャンルに収まるかと思うと、次々にそれらジャンルを横断し移り渡っていく。そして、それらが溶け合っているわけでなく、それぞれが独立して存在しているのが異様なのだ。
そして、そのことが、不思議と全体の調和を崩していないことは、もっと奇態に感じられる。それは、ジャンルを横断し続けるという意味において、全体が統一されているからだろう。紛れもなく映画作家の個性と試みによる、興味深い実験の成功であり、発明である。

なので本作は、ウィンガード監督と脚本家サイモン・バレットの意欲的な過去作『ビューティフル・ダイ』や『サプライズ』のようなカルト作品であることをやめないし、その上で、より一般的な観客を惹きつける力を獲得しているように見える。
というのも、従来の芸術映画やオフビートな演出が、コアな観客やマニアックな観客を中心に支持されるのに対し、本作のような方法では、ジャンル映画そのものの表面をなぞりながら、その表層的な面白さで観客を惹きつけることができ、また同時に映画全体では、今までにない挑戦的な表現を追及することも可能になるのである。

捉えどころのない謎の、しかし魅力的な男「ザ・ゲスト」。次々にその態度を変えてゆく彼の造形そのものが、映画自体の試みをも体現しているといえる。
商業的にも前衛表現にも対応し機能し得るスタイルの、ひとつの発見という意味において、このような表現がこれからの映画で活かされるかどうかに関わらず、『ザ・ゲスト』の小さくない達成は、映画史の中で記憶に留める価値のあるものになっているだろう。


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