『ヒューゴの不思議な発明』 メリエス賛美は「映画愛」か?

ジョルジュ・メリエスという人がいる。
手品師として劇場を経営し、リュミエールの発明した「映画」に出会い、あまりにも有名な『月世界旅行』をはじめとして、トリックを利用した多くの特撮映画を作り上げた、魔術的映画監督である。
また、オートマトン(からくり人形)による自動筆記の機械を作っていたこともあるらしい。
この逸話から、絵本「ユゴーの不思議な発明」が生まれ、またそれをマーティン・スコセッシが映画化したのが、『ヒューゴの不思議な発明』である(主人公の名前は、フランス語の発音から英語の発音に変化している)。

この映画は、子供向けの作品として提出されているものの、本国の批評家の評価も軒並み好く、アカデミー賞で5部門を受賞し、作品賞は獲れなかったものの、最後まで本命とデッド・ヒートを繰り広げるなど、非常に世評が高い。
ストーリーは、孤児の少年が古い機械に隠された謎を解き明かし成長していくという、ジュブナイル風の冒険譚でありながら、映画制作の現場のマニアックなディテールを紹介しだしたり、映画黎明期の作品をいくつも取り上げるなど、大人の映画好きが好むようなものに、内容が徐々にシフト・チェンジしていく。
リュミエールに始まり、メリエスやグリフィス、チャップリンやハロルド・ロイドなど、映画人が紡いだ夢の世界を、ロマンティックに表現してしまっているという、つまり熱のこもったウェットな演出で、黎明期の映画を持ち出してきて、泣かせにかかってくるのだ。

HUGO

映画内で映画史に触れるという手法がとられた映画には、例えば、膨大な過去の映画をコラージュした『ゴダールの映画史』があるし、溝口健二や山中貞夫をフィーチャーした、市川崑の『映画女優』もある。最近も、ジャック・タチの映画を登場させた『イリュージョニスト』があった。
だから『ヒューゴの不思議な発明』が、その点において、極めてオリジナリティがある、というわけではない。

この作品において最も重要だと思われる、メリエスの過去を語った、あまり長くはないパートでは、彼の今までの経歴が駆け足で描かれる。
見ものなのは、自身が建設した撮影所での、メリエスの映画撮影の情景だ。
当時のセットを再現し、彼の魔術の秘密に、観客が触れることのできる瞬間である。とくに巨大怪獣(ドラゴン)出現の箇所(おそらく映画初の怪獣特撮)は、圧倒的な実在感で素晴らしい。

だが本作の場合、ひとつの作品として全体のバランスを考えると、かなり奇妙なスタイルになっているということは間違いないだろう。
はっきり言って、オリバー・ツイスト的な孤児の奮闘物語と、メリエスの映画制作にまつわる物語は、ほとんど関係があるように見られない。
このふたつを物語上で融合しようとする意志を、強くは感じられないものの、その代わりに、過去の映画作品のオマージュ・シーンを少年のドラマに滑り込ませていくことで、どうやらこれらをリンクさせようと考えているようだ。

ストーリー上で鍵になる『月世界旅行』の月面到着シーン以外に、例えば一番分かりやすいのが、劇中でも紹介されていた、ハロルド・ロイドの『要心無用』だろう。
これは、ロイド扮する田舎出の青年が、成り行き上、衆人環視の中でビルの壁のぼりをする傑作コメディだ。
この壁を登っていく所は、無数の楽しいアイディアが投入され、もちろんギャグ作品として相当に笑える上に、高所恐怖スリラーとしても本当にハラハラさせられる。
このアクション箇所は、ヒューゴ少年が駅の大時計の分針にぶら下がるシーン、また、サシャ・バロン・コーエンが演じる駅の警備員が、腕だけで壁をよじ登っていく箇所でも使われているだろう。
ちなみに、ジャッキー・チェンが『プロジェクトA』でぶら下がるシーンも、『要心無用』のオマージュであることも有名だ。
また、映画の発明者であるリュミエール兄弟による、観客が席から逃げ出そうとした逸話で有名な『列車の到着』も、何度も引用され、新たに3D映画として「飛び出してくる」迫真性を表現しようとしている。
クロエ・モレッツが、駅から降りてきた観客達に踏まれそうになってしまうシーンは、元ネタがよく分からないが、ドライヤーの『吸血鬼』の、虚空を見上げるような主観的シーンに、ヒッチコックの『下宿人』でガラスの上を歩かせる演出を組み合わせているように感じた。
ここでのクロエ・モレッツの恐れ戦くリアクションは、サイレント風のオーヴァー・アクトだ。

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このような一連のパロディ演出を見て違和感を感じたのは、これが子供映画でありながら、子供を喜ばせるようなものとして、しっかりと成立させようとする意志が弱いということだ。
なるほど、過去の映画作品への偏愛やクラシック趣味を盛り込むことはいいだろう。しかし、その要素が作品の構成要素としての必然性が低ければ、唐突なものとして映ることになるだろうし、さらにそれがあまり面白くもなく、そんなに魅力的でもないために、マニアックな知識の披露としての意味がほとんどになってしまうということである。
時計の針につかまってぶら下がるシーン、列車が脱線するシーン、踏み潰されそうになるシーン、また、ねずみのおもちゃが動き回るコマ撮りアニメ風演出など、どれも、それらが単体の魅力を十分に発揮できているものではない。
これは、マーティン・スコセッシ監督が、この手のエンターテイメント映画や、児童作品の演出に慣れていなく、さらにそこまで興味が無いからだろう。
サシャ・バロン・コーエンを使った、いくつかのスラップスティック・コメディのシーンも、もちろんたいして笑えるものではない。
基本的に、コメディ表現は器用な感覚的手腕が必要とされるため、スコセッシ監督にそれを望むというのは無理な話かもしれない。

冒頭の、パリから鉄道駅の構内にカメラが突入していく3D表現は、本作の見どころではある。
このワンカットの3DのフルCG映像は、駅だけでも構成ポリゴン数3500万が必要とされ、シーン全体では、1台のPCでレンダリングに17万時間の計算量があったという。これを5つのオフィスで、計1000台のPCに作業を分担させたという話だ。
だが、これが本当に資金をかけたほどの迫真性を持ち得ているかどうかは、疑問に思う。
この箇所については、本作のイメージづくりに役立っただろうと思われる、ルネ・クレールの『巴里の屋根の下』の冒頭映像を観て比べて欲しいと思う(パブリック・ドメイン作品)。

このパリの情景は、驚くべきことにセットで作られているが、この神経が行き届いた美術とカメラワークに比べると、『ヒューゴの不思議な発明』の冒頭映像は、極めてイージーでつまらないものに感じられてしまう。
もちろんこれらは単純に比べられるものではないのかもしれないが、もっとアイディアや省略演出を駆使することによって、もっと効率よくスマートに観客を楽しませることができたのではないだろうか。
どちらにしても…これは全編を通して言える事だが、スコセッシの撮る映像の質感が、いかにもハリウッド大作調の照明と色合いで、美術にも、当時の美しさを伝えるフェティッシュ的な感性が行き届いていないため、往年の名作映画を紹介する箇所以外の、本編映像の美的な価値は低いといえるだろう。

では、この映画の優れていると思われるような点は何かといえば、端的に言うと、映画制作の面白さと情熱、観客を喜ばせたいという気持ちをストレートに表現する箇所、例えばみんなで古いフィルム上映を観ながら、楽しんだり懐かしがっているシーンを、ひたすらウェットに描いている部分にあるだろう。
しかし、私はこれもどうかと思う。というのは、ここでもスコセッシの能力が発揮されていず、ひたすらに凡庸なもの(『ALWAYS 三丁目の夕日』で描かれるようなノスタルジー表現)にしかなっていないからだ。

『ヒューゴの不思議な発明』を、「映画愛」という言葉を使って褒め称える人がいる。
では、「映画愛」とは何だろうか。
私がこのような言説に強く反撥を覚えるのは、この作品はただ映画作家について取り上げ、また当時の作品群の演出をイージーに分かりやすいかたちで、パロディとして引用しているだけだからだ。
ほとんどの映画作品は、もともと演出の模倣で成り立っているところがある。映画制作者は、自分の脳内のヴィジュアルとともに、他の映画の記憶を引用して映画を作る。その多くの作品は、『ヒューゴの不思議な発明』に比べ、映画への愛情が希薄だとでもいうのだろうか。
先ほど例に出したジャッキー・チェンの『プロジェクトA』のアクションは、ロイドの活劇を、同じように自分の命を賭け再現し、また、実際に落ちてみるという、映画活劇の世界をさらに切り拓いていこうという情熱が感じられるものだ。そのような熱意こそが、真の映画作品への愛情なのではないだろうか。

そもそも、メリエスやリュミエール、グリフィスに対して、「映画愛」という言葉が通用するだろうかという疑問もある。
メリエスは、映画を通して、自身の魔術(トリック)、SF世界を表現しようと思ったはずで、映画という媒体を、あくまで道具として利用し、使役したのだと思う。
だからこそ彼の作品は唯一無二であり偉大なのだ。
我々は、メリエスの作品に「映画」を感じるのではない。メリエスの映画を通し、メリエスのイマジネーションを体験するのである。
それを、「映画愛」や「映画」という枠の中に押し込めるということは、メリエスの偉業を矮小化することに他ならないだろう。

『ヒューゴの不思議な発明』における、フランシス・デ・ラトゥーラ演じる老齢の女性と、リチャード・グリフィス演じる老紳士が、お互いの犬を遊ばせて会話をするシーンは、役者の顔を見せたいのか、カットを何度も切り返す、スコセッシの悪夢のような手際の悪さが確認できる。
こういうとこをクラシックにスマートに撮ってこそ、往年の映画へのリスペクトにつながるのではないだろうか。

マーティン・スコセッシの『タクシードライバー』での、技巧的ではないが、若さと野心に溢れる即興的な撮影と演出。映画の凄さというのは、むしろそこに宿っていることは間違いがない。


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