美しき城門を破壊せよ – 『家族の肖像』は、ヴィスコンティ芸術の到達点である。

イタリアを代表する名匠、ルキーノ・ヴィスコンティ監督の没後40年 、生誕110年を記念するということで、このたび『家族の肖像』が「デジタル完全修復版」というかたちで、39年ぶりに公開される(2017年、2月11日より岩波ホールにて上映。以後全国で順次公開)。
個人的にも、ヴィスコンティ最高傑作だと感じる本作の絢爛たる世界を、今までヴィスコンティ芸術に縁がなかった観客も、ぜひ体験して欲しいと思う。
ここでは、本作『家族の肖像』の描いていたテーマについて、あらためて考察していきたい。

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ある貴族の末裔が屋敷のなかにこもって、勝手気ままに生活している様子を描く、J.K. ユイスマンスの「さかしま」は、長い間、個人的に最も重要な小説だった。
壁にはギュスターヴ・モローなどの象徴主義絵画、床には、甲羅に宝石を象眼された亀を放し飼いにしている。
ひきこもった男による、研ぎ澄まされた美意識とデカダン趣味に彩られた部屋の中は、一般社会から隔絶された一つの理想世界となっているのだ。
この部屋が提示する、「反功利主義」、「反生産性」という価値観の顕彰は、同じように、経済とか実効性のような、多くの人が第一目標と定める無神経な価値観に馴染めず、内的世界に耽溺し続けたいと願っていた、私のモラトリアムに寄り添い追認してくれる数少ない作品だった。

貴族的な退廃美や美青年の肖像を描き続けてきた、自身も貴族の城で育った映画監督、ルキーノ・ヴィスコンティは、まさにその優れた知性とセンスによって、史実を基にした大作『ルートヴィヒ』を完成させることで、劇中に登場する、ヘレンキームゼー城の「鏡の回廊」よろしく、絢爛たる退廃と狂気の大伽藍に彩られた「さかしま」的世界を最も見事に映像化し得たといえよう。
その毒気が身体を侵すのか、ヴィスコンティは『ルートヴィヒ』製作によって病に倒れることになる。本作『家族の肖像』は、自分の健康状態が許す範囲である、屋内セットのみに限定し撮影された作品だ。
その経緯から、前作と比較すると脂の抜けた小品だというイメージを持ってしまうが、実際に作品と対峙すると、その印象は覆る。

『家族の肖像』は、「さかしま」的問題をさらに継続するものとなっている。バート・ランカスターが演じる老紳士は、やはり外界から隔絶された空間で、美術品や高価な調度品に囲まれて暮らしている。そこに四人のかしましい男女が入居してくることで、老紳士の作り出した空間は、文字通り「破壊」されていくのである。
観客も、当初は彼女たちを、静寂を乱す無神経で野蛮な闖入者だと思うだろう。

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老紳士は絵画を眺めながら、そこに描かれた「家族」の姿を眺める。
絵画とは、鑑賞者が目を向け、そこから何かを能動的に読みとらなくては、何も物語ることはない。その硬質さが心地よいし、自分の領分を必要以上に侵されることもない。それは、過去にいろいろあったことを想像させる老紳士が繰り返し夢想する過去の亡霊との対話と同様である。
だが実際の「家族」とは、もっと面倒くさく、無遠慮で、こちらのペースを乱してくるやっかいな存在だ。また、政治的な価値観や性格の不一致によってぶつかりあい、傷つき、疲弊していく。しかし、そのややこしさや喧騒に、ある種の暴力性がはらむからこそ、老紳士の閉じられたこころの城の門を「破壊」し得る槌(つち)となり得るのである。
そして、その門が開きかける瞬間の、何ともいえないなまめかしさはどうだ。

ここでバート・ランカスターの肉体を通して描かれる、ヴィスコンティ自身の救いと失意は、『ルートヴィヒ』の硬質的な世界に決着をつけ、「さかしま」の閉塞的テーマに穿たれた外への出口である。
「さかしま」のユイスマンスは、後にカトリックへの帰依によって光明を見いだした。ヴィスコンティは『家族の肖像』で、人との面倒な関わりを描くことにより、ついに彼が建造し続けてきた閉じられた城から抜け出すことに成功したのだ。


2017年、2月11日より岩波ホールにて上映。以後全国で順次公開。

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