男たちの不毛なゲームを描く『ストロングマン』は、世界の閉塞を象徴する。

船をチャーターし、数日ものエーゲ海クルーズを楽しむ6人の中年男性たち。彼らは船がアテネに帰港するまでに、「誰が最も優れた男か?」を、採点し合うゲームをすることを思いつく。ベルトの位置、窓の拭き方、就寝時の寝相、血糖値の値、携帯電話の着信音など、お互いのありとあらゆる行動に対して、加点、減点を判断して順位を決めていく。

これが、ギリシャ映画『ストロングマン』のあらすじだ。不毛かつシュールである。観客は、彼らが一番になるため必死にお互いに向けてアピールしまくる姿を見せられることになる。だが点数をつける基準が曖昧なため、そこに競技としての興奮はなく、男たちはひたすら滑稽に描かれていく。そこには、女性の監督アティナ・ラヒル・ツァンガリの冷めた視線もあるのだろう。
監督とともに本作の脚本を手掛けるのは、45日以内にパートナーを見つけなければ動物にされてしまうというエキセントリックなブラック・コメディー、『ロブスター』の脚本家、エフティミス・フィリップである。そう聞くと、本作『ストロングマン』の奇妙な設定も、なんとなく納得できる。

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中年の男の不毛なゲームに興ずる姿を描く本作、「一体これは何なんだ」という声も上がるのではないだろうか。
本作を読み解く手掛かりとなるのは、原題である”Chevalier”(シュヴァリエ)、つまり「中世フランスの騎士」を意味し、またその「称号」を意味する言葉である。船上の彼らが熱中するのは、「騎士道精神」における男としての承認欲求に他ならない。
日本に置き換えれば、これは「武士道精神」にあたる。狭い空間のなかで、日本のおじさん同士が「武士道」、「漢(おとこ)」などと口にして競い合っていたら、やはりさぞ滑稽だろうと思う。つまりは、そういうアナクロニズムを笑い飛ばす映画である。
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」などと言う「葉隠(はがくれ)」、明治維新の志士たちの勤皇精神、大和撫子、日本男児、教育勅語、江戸しぐさ、野球道…。
世界中の多くの国々が、近代化、民主化されたいまとなっては、これら思想は前時代の遺物である。
だが、「男だろ!」とか「女の子なのにねえ」なんてセリフが、まだ現役で使われているように、『ストロングマン』で描かれるバカバカしさというのは、一笑に付して片づけるわけにもいかないだろう。
ドナルド・トランプは、大統領選において、”Make America Great Again”(アメリカを再び偉大にしよう)と呼びかけ勝利した。
だが、彼の言う「グレイト(偉大)」とは、グローバル化に逆行し、人種差別などの諸問題をも含んだ、過去の亡霊の召喚を意味するものであったようだ。

本作の製作国であるギリシャは近年、経済状況の悪化により、財政赤字を減らすために支出を減らす緊縮策をとっていた。だが、2015年にとうとう国民の不満が高まり、EUが提示する、緊縮による再建案を拒否するという国民投票の結果が出た。しかし、この世界との関係から切り離されるドメスティックな決断は、最終的にギリシャ国民のためになるのだろうか。

現在、世界経済の趨勢を握るトランプ大統領やプーチン大統領らが強権的に進めるのが、他国に対し強い態度をとる「ストロングマン外交」であるといわれる。しかしポピュリズムを背景とした、国内に都合の良い外交を行うことで、そのしわ寄せは世界経済の不安定化を招く危険性がある。『ストロングマン』は、そのような閉塞的な世界の潮流を敏感に感じ取っているようにも思えるのである。


『ストロングマン』公式サイト 2017年3月25日から順次公開


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