『アンストッパブル』は映画そのものでありアメリカそのものである

トーマス・エジソンよりも、よりリュミエール兄弟が、「映画の父」として我々に親しまれるのは、その発明時のいきさつや進化の過程、その妥当性というよりむしろ、彼らの芸術的感性が、現代の「映画と呼ばれるもの」に非常に近いところにあったからだと思われる。
観客がパニックに陥り客席から逃げ出したという『列車の到着』は、映画の黎明であったと同時に、人々の恐怖や興奮にうったえる「アクション映画」の始まりでもあった。
記念すべき「アクション映画」が、列車を題材にスタートするというのは、非常に示唆的だといえる。
映画を美学的なものとしてとらえたとき、その特長…つまり、現実のパースペクティヴと、現実の運動を、これ以上ない写実的正確さで平面に再現することが可能なのだ…ということを明示し表現するうえで、「列車」という題材ほど、それに適ったものはなく、また、そこに直感的に気づいたリュミエール兄弟の感性にも驚かされるのである。
馬が走る、鳥が飛ぶ、雲が流れる…というような題材に比べ、はるかに運動が純粋であり、かつ連続性と持続性をともない、フレーミングをも規定してしまう「列車の運動」を記録した『列車の到着』は、それ故に、感動的なまでに美しい。
この表現は、「映画」が、多くの芸術家達が膨大な時間をかけ希求してきた、「人類の夢」のひとつ足り得るものだったということを、雄弁に語ってくれる。

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アメリカの文明の躍進は、その広大な土地を移動すること、また、資源を安定して運搬する手段にかかっていた。
例えば『幌馬車』やハワード・ホークスの『赤い河』に顕著だが、幌馬車隊やキャトル・ドライヴを描いたアメリカ映画を観れば、自然的地形や空間的距離が、いかにそのような作業を困難にし、また危険であったか…ということを想像させてくれる。
だからアメリカに何よりも望まれたのは、「大陸横断鉄道」、及びそれに準じる鉄道網の完成であったし、時を経た現在も、それはアメリカの主要な輸送手段として充分に機能している。
ジョン・フォードの『アイアン・ホース』を観れば、様々な民族の膨大な労働の結晶である「大陸横断鉄道」の完成が、アメリカのアイデンティティーを支える根幹のひとつとして、「アメリカ魂」、「アメリカの誇り」にまで昇華されていることが、感動とともに理解されるだろう。
つまり、奇妙に聞こえるかもしれないが、アメリカにおいて「鉄道」とは、独立宣言の建国の誇りと理念同様に、もはやアメリカ国民の考える「アメリカ」そのものなのである。

トニー・スコットの新作、『アンストッパブル』が、魂が震える「アメリカ映画の代表」として、またさらに、映画の根源的魅力を掬い取った「アクション映画の代表」として存在するように見える理由は、上で述べた文化的・美学的基盤が根底に存在するからである。
また、この作品が映画史的に重要に語られることになるだろう理由は、この脚本が、極めて純粋であるからだ。
「暴走した列車を止めようとする」という短い説明だけで、概要を表現できてしまうシンプルさ。
映画内の前進する動力やブレーキの物理的運動の理解が、そのシンプルさとしっかりと噛み合い、退屈に受け取られかねない、この、本質的に「悪漢が存在しない」映画が、根源的な純粋性と強度を獲得できている要因となるのである。

「鉄道」が「アメリカ」であるならば、論理的に、その暴走は「アメリカの暴走」でもあるだろう。
ひとつの過失やこじれが、偶然性と権力の保身によって、とてつもない悲劇を生む可能性がある。アメリカがその悲劇を引き起こしたのであれば、その補填を、全ての国民が全力で行うべきであるという、「前進と抑制」の理念。
「アメリカの魂」の復権が、ここで語られているのである。

しかしさらにその価値を押し上げ、意外な展開を見せているのは、トニー・スコットの演出である。
相変わらず、カメラの躍動性が素早いズームなどによって強調され、フォーヴ的な直感と暴力を感じる作為的編集が、ともすれば「乱暴すぎる」とか「素材の魅力を失わせる」と思わせるような装飾が行われ、事実、『エネミー・オブ・アメリカ』のように、実際に散漫なものになってしまっているケースも少なくないのだが、意外にも、この極めて人工的な演出が、前述の「純粋性」を損なうような結果にはなっていない。
『アンストッパブル』のクライマックスは、脱線・大災害の最大の危機である、「大曲がり」なる線路の急カーブのシークエンスだ。
多くの監督や観客が考えるように、映像とは、CG表現が最も顕著だが、加工に加工を重ねれば重ねるほど、その迫真性が失われるのは、紛れも無い事実である。
しかし、『アンストッパブル』のクライマックスがそれでも、極めて人工的な演出の中で、凄まじいリアリティを持つことができたという事実は、一体何故なのかということを、我々は考えられなければならない。

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私は、これはトニー・スコットの演出の手法が、作品が撮られ続けるうえで、より自然にフィルムと親和性を持つことで実現された「一貫性」によるものだと思っている。
「トニー方式」と呼べるこの独特なスタイルは、冒頭の大仰なディーゼル機関車777号の偉観から始まり、クリス・パイン演じる新米の車掌が、自宅から出勤するシーンの、サイドミラーへの主観的(?)なズーム、リュー・テンプル演じる溶接工が、ダイナーで食事しながら携帯電話で話すシークエンス、さらにヘリを使った運転士救出シークエンス、そして暴走する列車の天井を走るデンゼル・ワシントンを、乱暴にブレるフレームが側面でとらえるカットなど、これらが、ほぼすべて並列の扱いをされていることが、映画全体の統一性を生み、必ずしも「ナチュラルに撮る」こと、または『クローバーフィールド』のような、「ドキュメンタリー風に撮る」ことだけが迫真性を生むわけではない、という事実に気づかせてくれる。
つまり、近年のよくあるアクション映画の装飾的なアクションシーンが、「退屈な作り物に見えてしまう」という事実は、その装飾そのものが問題なのではなく、作品自体が同様のメソッドで撮られていないことに対する違和感より起因していたものだったのではないか、ということだ。
もちろん、トニー・スコット自身はそのことを理解していたからこそ、このメソッドを自らのスタイルとして、完成の域にまでまで近付けられたのだろうし、今回の『アンストッパブル』での驚異的成功に結実させることができたのだと思われる。

『アンストッパブル』は、映画の進化のひとつのかたちであり、そのひとつの完成に触れることのできる稀有な作品であるとともに、直球的なアクション映画として、誰もが楽しめる娯楽作でもある。
暴走列車の貨物から穀物が飛び散るシーンがあまりにも象徴的だが、それが立派な、連綿と受け継がれる紛れも無い「娯楽的アメリカ映画」として、過去、世界で観られた西部劇のように、多くの現代の観客が享受することができた愉悦と影響力は、計り知れないものである。

2 thoughts on “『アンストッパブル』は映画そのものでありアメリカそのものである

  1. hychk126
    2011年1月18日 at 6:56 PM

    hychk126です。こんばんわ。私も観てきました。
    比較的小作りなこの映画を、根底にある”文化的・美学的基盤”から大掛かりに称賛するk.onoderaさんの姿勢に、私も賛同します。…にも関わらず、自分ところではあえて重箱のスミを突くような小さな不満点を並べ立ててみることにしたのは、実は、ひととおりこちらで必要な褒められ方が全部なされてしまっていたから、というのが本当のところです。
    (先にこちらを読むべきではなかった。いつもは気をつけているのですが。)

    素材の魅力を損なわせるトニー・スコットのあの目まぐるしくて”スタイリッシュ”だったりする映像を、私はここ数年でやっと評価したい気持ちになってきてまして、でもそれをどのように表現して救ってやればいいのか悩んできたのですが(笑)、k.onoderaさんは、一貫性による説得力で完成されたメソッド、という表現をされていたのが非常に興味深かったです。
    私も引き続きトニー・スコットを追いかける中で考えていきたいと思います。

    では、本年もよろしくお願いします。

  2. 2011年1月19日 at 12:56 AM

    hychk126さん、いつもありがとうございます。
    本年もよろしくお願いいたします。

    この単純なアクション映画を、映画黎明期の鉄道のモチーフやアメリカ史と絡めて語るのは、あまり映画を観ない人からすれば、かなり奇態に思うでしょうが、hychkさんのように映画を日常的に観てる人であれば、説明するまでもない常識的なことなんですよね。
    その辺の着地点がいつも難しくて、エントリーを読んでくださる方に、どのあたりまで説明しようか、悩んでしまうところです。
    気がつくと、普通のことをダラダラと書いているだけだと思うことがよくあります。
    このエントリーについても、オリジナリティのある部分は「一貫性」の箇所くらいだと気づきました(笑)。

    トニー・スコットの目まぐるしい映像は、たしかに従来のシネフィルの価値観からすると、軽薄に見えるのは確かです。
    で、それがミュージッククリップの映像とどう違うのか、そもそも違う必要すらないのか、私もよく分からないところではあります。
    しかし、どの道を通ったとしても、最終的にはその作家自体の哲学や技術に収斂されるのかもしれませんね(というと無責任に聞こえますが)。
    ただ、私たちが翻弄されるように、容易に判断できない領域の作品であることは確かで、それがこの作品が侮れないものであることを証明しているように思えます。
    後でそちらにもおじゃまいたします。

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