『必死剣鳥刺し』 クライマックスは見どころだが…

阪本順治監督の『新・仁義なき戦い。』は、旧作ファンの私にとって、それなりに新しい工夫はいろいろ見えるものの、結果的には失望させられた作品だ。
その要因はいろいろあるものの、最大のショックは、小指を包丁で切断する、いわゆる「指詰め」のシーンだ。
豊川悦司演じるヤクザは、鼻歌でもうたいそうな優雅さで、足を重しにして、サクっと自らの小指を、あっけなくスマートに切断してしまうのである。
賢明な当ブログ読者には言うまでも無いことだと思うが、『仁義なき戦い』での菅原文太の指詰めシーンは、散々怖気づき、それでもやっとのこと切った直後、その指がスポーンとはねて、鶏小屋に紛れ込み、みんなで慌てて探し出そうとするという、驚愕的に面白い展開になっているのだ。こんなアイディアは、『赤ちゃん教育』などの、異常なまでのコミカルさを発揮するハワード・ホークスにさえ編み出せるかどうか判らない。

ここで言いたいのは、前述のシーンに代表されるような、豊川悦司の無機質でクールでスマートな佇まいだ。
陰鬱にも見える鋭い眼光と、意外なほど高くつぶれた声。只者ではない雰囲気と、大きな体格。
『椿三十郎』の敵役ならまだしも、藤沢周平の善良で実直な主人公像には、だいぶそぐわない。
それでも、『必死剣鳥刺し』の主人公は、例外的に、クールでミステリアスな部分も、一応は確かに持ち合わせてはいる。
しかし、やはり本来、本作は、感情移入を強く要求される、大衆的なテーマと面白さを生かした作品であろうとするべきなのは、言うまでも無い。
その姿勢が要請されるのは、原作の、良い意味で、簡潔で単純で朴訥としている構造からも明らかであり、逆に言えば、曖昧な描写が許されないほどに、決まりきった世界観を表現しなければ、格好がつかないものとなっているだろう。
事実、山田洋次監督の「隠し剣」シリーズはそのように撮られており、さらにその全てが、エンターテイメントという枠の中で成功している。
とくに『たそがれ清兵衛』においては、そのような面白さを担保したまま、さらに『地獄の黙示録』をも凌駕するかに見えるほどの神話性を獲得できている。
だがそれも、大衆性という土台を仕上げた上での、あくまで余剰的なものだということを忘れてはならない。
それは原作の構造上の問題に他ならず、これを無理に変えようとするならば、様々な齟齬が生じてしまい、結局はオリジナル脚本を書いたほうが、はるかに具合が良くなるはずなのだ。
そして、やはり豊川悦司は、人間くささを要求されるような『サウスバウンド』と同様、いつものクールな豊川悦司であることをやめなかった。
この配役と演技のおかげで、「愚直さ」と「必死さ」を強調しなければならなかった本作は、「ミステリアスさ」と「余裕」を、無駄に意識させるものとなってしまった。

本作、『必死剣鳥刺し』というタイトルからは、「必死になって鳥を刺すように剣を突く映画なのだろう」と考えてしまうが、もちろんそのままの内容で間違いが無かった。
この作品の売りは、この必殺「鳥刺し」も披露される、壮絶な長丁場の殺陣だという。
配給はこれを、「日本映画の歴史を塗り替える名シーン」とさえ呼んだ。
確かに、そこには真に「日本映画の歴史を塗り替えた」傑作、『雄呂血』をも想起させるような、血みどろの壮絶さと悲壮さを感じるところであり、思わず興奮させられてしまったことは事実だ。
この、無残な斬り合いのシーンからは、「残酷絵」と呼ばれる、一部の悪趣味な浮世絵や、または小山ゆうの「あずみ」の殺陣をそのまま実写にしたような(つまり映画版の『あずみ』シリーズは「あずみ」とは別物である)、絶望と悪夢感をヒシヒシと感じることは、しっかりとできる。
また、吉川晃司と豊川悦司の大柄な肉体が、いかにも狭い日本家屋の中で対峙し斬り合う、ひとつひとつの所作の楽しさは、映画が、モンタージュを重視して成長してきたという道程に感謝したくなるくらいの幸福さを与えてくれる。
次々と致命傷の太刀を総身に喰らいながら、それでも何度でも立ち上がる主人公の姿は、志村けんがやっていたようなギャグ、「いつまでも死なない侍」を想起させられ、思わず笑ってしまうのが難点ではあるものの、フィルムの回転数を巧みに操りながら、極彩色の鮮血を堪能できる、稀有な体験と言ってもいいだろう。

しかし、この作品自体を褒める気にならないのは、このクライマックス以外のシーンが、とてつもなく不出来であるからに他ならない。
それは、前述の演技の問題に加えて、本作全体の、演出や脚本における、徹底さと正確さと想像力の欠如からきている。

まず、豊川悦司演じる侍が、このような極めて奇態で卑怯とも言える秘剣を編み出すことになった背景が、ほとんど説明されないのはおかしい。
「鳥刺し」のような狂気の剣を考案する者は、相当酔狂な伊達者か、死を免れないような戦いを前にしたような人物であるべきだ。
どの時点で「鳥刺し」を編み出したのかは明示されないが、そういった場面やシチュエーションは、この主人公には存在するようには思えない。
そのような違和感を、「彼にはミステリアスな一面があるのだよ…」というような、茫漠とした曖昧表現や曖昧な演技で乗り切るのは無理があるし、第一、作品の核になり得る、主人公の人格を大きく左右する部分をきちんと描かないのは不誠実だ。
「自分ひとりで考案した秘剣」という説明はかろうじてあるものの、それが何故周知の事実になっているのかも謎である。
このあたりも、山田洋次監督の3部作ではクリアーできていた部分だ。

また、前述の殺陣が、従来のチャンバラ映画の枠を壊そうとする気概を感じる反面、他の演出や配役が型にはまりすぎていて、あまりに保守的で工夫が無いために、せっかく用意されたどんでん返しが、全く意味を成していない。
誰がどう見ても、外国人が見たとしても、岸部一徳演じる上役は、「善人のフリをした悪人」であることはバレバレである。
「一見、優しく見える、善人ヅラをした人物の中に、本当の悪人は隠れているのだ」という部分を描かなければならないはずなのに、どう見ても悪人ヅラの役者に悪人の役を演じさせる意味がまるで分からない。
これでは観客の、悪役への憎悪が弱くなってしまうし、観客全員が察するような事実に、終盤まで全く気づかない豊川悦司がバカに見えてしまう。
しかも、風貌や演技が、一見、抜け目が無さそうに見えるために、さらにバカみたいに感じてしまう。

一番がっかりするのは、池脇千鶴演じる、亡き妻の姪との、「禁じられた恋愛」描写だ。
豊川悦司の背中を流したり、スネてみせたりするような、秘めた気持ちを表現すべきところは、最高にセクシーな場面になり得たはずだが、演出やカット割りがいちいち不正確なために、豊川悦司も池脇千鶴も、ただいやらしいだけの二人に見えてしまってかわいそうだ。
この監督は、とにかく恋愛描写が奇跡的に下手だと思う。とくに『しゃべれどもしゃべれども』は、主役達の心の機微や接近が不十分で全く盛り上がらないのに、最後に船上で突然抱き合うというラストシーンが地獄のように不自然で、直視できなかったことをよく覚えている。

ショットも、殺陣以外では、型通りの美しさは見せるものの、とくに良いと思えるような箇所は、冒頭のファーストカット、能を演じる縁者達を後ろから回りこむようなところしか思いつかない。とにかく終始弛緩していた。

心理描写や設定、キャスティングや演技指導などの失敗が多いために、傑作になることができなかった、残念な作品ではあるが、それでもクライマックスの凄まじさだけは評価したい。平山秀幸監督作の中では、非常に成功した作品といえるだろう。

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