『終戦のエンペラー』は、なんちゃってハリウッド映画だった

『終戦のエンペラー』は、予告編を観たときから違和感を感じていた作品だ。「この映画、一体アメリカ人の誰が興味を持つのだろうか」という疑問で、私の頭の中はいっぱいになった。
「太平洋戦争における昭和天皇の戦争責任の有無を、アメリカ軍の将校の視点から描く」という内容は、日本人にとって見れば、それなりに興味深いものかもしれない。何故なら、「昭和天皇の戦争責任」という題材をはっきりと打ち出しテーマとするような映画は、今までに無かったからだ。
だが、アメリカ人にとってはどうだろうか。他国の旧権力者に、戦争を起こした責任があるのかないのかという問題について、太平洋戦争を経験した世代であっても、興味を持つ観客はきわめて少ないように思われる。

IMDB(インターネット・ムービー・データベース)(http://www.imdb.com/title/tt2103264/)やBox Office Mojo(http://www.boxofficemojo.com/movies/?page=intl&id=emperor.htm)でデータを閲覧すると、この映画のアメリカでの興行収入は、実際に驚愕するくらいに低い。
なんと、約3ヶ月の興行で、$3,346,265 。日本円に直すと、約3億円あまりである。ちなみに、異例なことだが製作費は公開されていない。
本作を観ると、ハリウッド作品としてはわりと低予算で撮られていることが分かるが、だとしても、あまりに興行収入が低すぎる。6大メジャー・スタジオの一本にかける製作費+広告費は50~70億円程である。映画会社の純粋な利益は、映画館への収益を差し引いて考えるので、この製作費+広告費の2~3倍は興行収入を上げなければならない。アメリカ本国の興行収入では、最低でも製作費分くらいは回収しておきたいところである。
この稼ぎでは、少なくとも数億円クラスと言われるトミー・リー・ジョーンズの出演料にもおそらく及ばないだろう。本作がハリウッドのなかで異例の低予算映画だと仮定してみても、悪夢的な数字だ。
そのようなマシュー・フォックス、トミー・リー・ジョーンズというハリウッドの俳優が出演しているのにも関わらず、興業収入では、例えばアメリカで最近公開された、インド人しか出演していない、”Yeh Jawaani Hai Deewani”というお気楽インド映画(輸入作品)にさえ負けている。
しかし奇妙なことに、この映画は日本において現在のところ$11,158,598、約11億円、つまりアメリカの興業収入の4倍程の利益は出せている。おそらくこれで大赤字は免れているのだろう。
このデータを見ただけでも、『終戦のエンペラー』は正規の「ハリウッド映画」とは異質のものではないかという疑問がわくのは当然だろう。

ちなみに、本作のメガホンをとったピーター・ウェーバーは、TVの仕事をしていた監督で、長編劇場用作品は『ハンニバル・ライジング』一本のみしか撮っておらず、その後5年間、長編映画を撮っていない。(※この部分について、コメント欄にて誤りをご指摘いただきました。ピーター・ウェーバーは『ハンニバル・ライジング』の前に『真珠の耳飾りの少女』を撮っています)
その理由は、約50億円の製作費を投じた『ハンニバル・ライジング』が、アメリカ本国で約28億円しか稼げず大コケしたからだと思われる。
本作にこの監督が抜擢されたのは、日本を舞台に演出した経験があることと、雇われ監督として使い勝手が良かった点が挙げられるだろう。
そのように感ずるのは、『終戦のエンペラー』の演出や脚本をはじめとした内容すべてが、全く面白くなく、作家性も娯楽性も完全に欠如した、退屈きわまるものだったからだ。
ここで描かれているドラマは、大きく分けてふたつである。昭和天皇の戦争責任を調べるため、日本の要人から証言を得るサスペンス風のパートと、調査をしているアメリカ将校フェラーズと日本人女性との恋愛パートだ。
とりわけ恋愛パートに見るべきものはない。主人公の士官が、何故この女性に惹かれたか、そして互いの人格にどのような影響を与えたかという、恋愛ドラマにあるべき核の要素が、ゴッソリと抜け落ちているからだ。
だから、ここでの説得力がなく、ただ恋愛感情が深まっていくイメージだけの曖昧な描写群は、観客に感情移入を許さないし、もうひとつのサスペンス・ドラマへ何らかの影響をもたらすものになり得ていない。つまり、劇映画としての基本的な型すら崩れているのである。ハリウッド映画の演出・脚本の水準から見て、ここまで雑な仕事はちょっと珍しいといえる。
このことから、この映画における監督や脚本家の「やる気の無さ」が見て取れるのである。

本作の冒頭から奇異に思うのは、米軍が日本の占領・調査を始めるシーンの、不穏な出来事を予感させる音楽についてだ。ここはどうしても、悪役が悪いことを始める感じに聴こえてしまう。しかし、これは曲がりなりにもアメリカ映画のはずなのだ。
アメリカ側からすると、自国民の犠牲が出た戦争において、占領政策をおしすすめるのは当たり前のことなのに、演出がちぐはぐなのである。アメリカ映画だという認識で観ていると、どのような感情を持ってこの演出を受け入れれば良いのか分からなくなる。
この物語は、一応フェラーズの視点で描かれているということになっているので、占領政策に支障をきたしたとき、または恋人の安否が分からないときに、このような不穏な音楽を流せばよいはずだ。
『終戦のエンペラー』はそれだけでなく、劇中においてアメリカの占領政策を批判し、アメリカ人に内省を促すような描写が非常に多い。
例えば、中村雅俊演じる政治家・近衛文麿は、戦争責任を追及しようとするフェラーズに、「我々はあなた方と同じこと(侵略と植民地政策)をやっただけだ」と居直る。この、確かに一理あるけれども、敗戦国の文官としてはいささか強引で、「盗人が盗人を非難する」ような、アジア諸国に対し反省の全く無い意見に対し、フェラーズは言い返すことができない。
このような描写は、むしろ日本政府の言い分を正しいとするような、アメリカ映画としては異質な性質のものになっている。
それもそのはずで、本作の原作は、元毎日新聞編集委員の作家が書いた、「陛下をお救いなさいまし」という、日本の書籍だった。
過去、クリント・イーストウッド監督作に『硫黄島からの手紙』という、陸軍大将・栗林忠道の手紙を元に撮られ、同情的に描いた戦争映画があるにはあった。
だが本作と本質的に違うのは、この同情が、日本の戦争責任を回避させるようなものにはなっていないということだ。

公式サイトを確認すると、この映画のプロデューサーは、奈良橋陽子という日本人だということが分かる。
そして「プロデューサーからのメッセージ」には、こんなことが書かれている。
「劇中に登場する関屋宮内次官は、私の祖父(関屋貞三郎/奈良橋の母方)にあたり、共同プロデューサーであり、息子である野村祐人の曾祖父にあたります。その為、この映画は私たち家族の話でもあります。」
今までの断片的な情報から推測すると、このプロデューサーは、自分がコントロールしやすい映画監督・脚本家を選び、自分自身の思い入れがたっぷりある物語をかたちにしたということなのだろう。
ここでの問題は、「昭和天皇の戦争責任」というシリアスな問題を、宮内庁の役人の子孫、つまり(関係としては遠いとはいえ)、歴史的に天皇とつながりのある人物が映画化してしまったということだろう。
そして案の定、映画はある種の政治的なメッセージを啓蒙するようなものになっている。公平な視点を欠いたまま、それでも映画は、「表向き」公平に天皇の責任を追及しているような体(てい)をとっている。
このように歴史問題を語るという姿勢は、アンフェアだといわなければならない。

注意深く見なくても分かることだが、この映画には、戦争責任について、昭和天皇に不利な要素は一切描かれていない。
側近や関係者の語る証言は、昭和天皇は一貫して「平和主義者」であり、全責任は軍部の暴走にあるという、東京裁判をさらに強く裏付けていくものになっている。映画の中で昭和天皇を悪く言うのは、マッカーサーに対して、悪くないのに「国民に責任はありません、悪いのは私です」と述べた昭和天皇自身のみであった。戦争責任どころか、キリストやブッダに近い聖人としての天皇像がここで描かれている。
天皇という個人の人間性について、映画のなかでどういう着地をしようと構わないが、あくまでこれは「昭和天皇の戦争責任」について考える作品である。そのなかで、昭和天皇に不利な要素を全く除外してしまうというのは、どう考えてもおかしい。
そして脱力してしまうのは、結末においてフェラーズとマッカーサーが「百年調べてもこの謎は分からないだろう」と結論付けてしまう部分だ。
これがおかしいのは、フェラーズの調査において、この映画のなかにおける昭和天皇には、一点の疑問の余地も存在せず、戦争責任が無いことは明白になっているはずだからだ。にも関わらず、彼らは「分からない」と言う。
考えるに、ここで「戦争責任が無い」などと言わせてしまうと、完全に意図が明白な作品になってしまうから、表面的にはバランスをとるという着地をしているのであろう。だが、内容は過激なまでに一方的な昭和天皇の擁護だ。あくまで「公平でバランスがとれた作品」だと思わせつつ、実際には一方に偏った思想を啓蒙しようとするのがねらいなのだと思う他ない。目的はよく分からないが、とにかくこの日本人の制作者が、自分の歴史観を伝えるためにいろいろな作為を行っているのは確かだろう。
このような一部の日本人の思い入れだけで、アメリカ人スタッフ達に、無理に作らせたような独りよがりな映画を、アメリカ人の誰が面白がるというのだろうか。そして、実際にアメリカの観客には無視されている。

昭和天皇が、政府の人事に注文を付けたり、ときに第二次大戦における作戦行動にまで細かく口を出していた、つまりただのお飾りでなかったということは、文藝春秋に載った「昭和天皇独白録」という、昭和天皇が自ら語った内容でも裏付けられている。問題は、これら信憑性のある資料を『終戦のエンペラー』ではわざと触れず、天皇自身の意図すら無視し、全く違う物語を啓蒙しようとしているところだ。
映画のなかの昭和天皇は、マッカーサーよりもはるかに思慮深く品がある「聖人」としてだけ描かれており、人間性をほとんど感じない。
このことから、この映画制作者は、天皇を一個の人間としては見ていず、国民の幸せについて祈るだけの、神格化された「役割」のみを求めているように思える。それはむしろ、制作者自身が尊崇する天皇に対して、酷な要求なのではないだろうか。
比較すると、アレクサンドル・ソクーロフ監督による、同じように敗戦時の昭和天皇を描いた、しかし本作よりも弱々しく人間くさく表現した『太陽』は、はるかに同情的に、天皇個人の視点に立ったものであることが分かるはずだ。映画の出来としても、哲学的な深さも、文学的な価値においても、天と地の開きがある。

日本の敗戦が濃厚になり、政府の決議のなかで、天皇が終戦の決断、いわゆる「聖断」を行ったのは、『終戦のエンペラー』で描かれたとおりであろう。
だが「昭和天皇独白録」を読むと、その後の8月12日、皇族を参集して会議が行われた際に、最も強硬論者である朝香宮が「講話は賛成だが、国体護持が出来なければ、戦争を継続するか」と質問し、天皇は「勿論だ」と答えている。
また独白録「結論」のなかでアメリカとの戦争を始めたきっかけについて、「開戦の際東条内閣の決定を裁可したのは立憲君主としてやむを得ぬ事である」そして、もし開戦に反対したとしても、「国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない、それは良いとしても、結局凶暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になつたであらうと思ふ」と述べる。つまり、自分の選択は最良であったという主張だ。
これらの態度は、国体を最重要視しているというようにとれるし、「悪いのは私だ」という、映画で描かれたような極端な天皇の聖人像は感じ取れない。

天皇戦犯問題の決着は、映画では描かれていない。
12月31日、東京裁判において、被告・東条英機は「日本国の臣民が陛下の御意思に反して、あれこれすることはない」と述べた。
これは重大な証言で、これが真実だとすれば、開戦の意志は天皇によるものであったということになってしまう。
これを受け、天皇を有罪とする各国の検察陣は盛り上がるが、この時点で天皇免責を決定していたマッカーサーの指令を受けているキーナン首席検事は、この証言訂正のため、同じく被告であった木戸幸一などに説得させるという裏工作に動く。
結局、東条はこの説得により、前言を訂正し、天皇に戦争の意志が無かったことを証言した。ここで、はじめて裁判における天皇の免責が決定的なものとなったという。
事実を基にしたのであれば、この決着部分まで描いてもらわないと収まりが悪いのは事実だ。だが、これを除外した理由は想像がつく。

『終戦のエンペラー』では、玉音放送時に軍部のクーデターがあったことをもったいぶって明かしているが、そのような話は、半藤一利原作の日本映画『日本のいちばん長い日』で既に描かれているし、新たな発見のようなものは描かれない。
エンターテイメントとしても、ドラマとしても、また歴史的な重要性も弱い作品だと断じるしかないが、日本人としてもつまらないのに、もちろんこれがアメリカ人の心をつかむものになっているはずがないだろう。

これらのことから、『終戦のエンペラー』はアメリカ映画の皮をかぶった、はじめから日本の観客向けとして作られた、偽アメリカ映画だということが分かってくる。
確かに、アメリカ資本の映画なので、一応はアメリカ映画と名乗ることが出来るかもしれない。だが、アメリカ人をターゲットとしていない映画は、本質的な意味で「アメリカ映画」であるとはいえない。
そして宣伝では、この映画が「アメリカではなく、日本の観客に向けて作られた映画」であるという事実について全く触れていない。つまり、意図して誤認させるようなものになっているのである。
事実、当時の一般の観客による評判を検索しても解るとおり、多くの人はこの映画について、アメリカ側の視点で撮られたものだというように誤解している場合が多い。実際は、ほとんどのアメリカ人がこの映画の存在すら知らないというのに。

では、何故このような「日本向け映画をアメリカ映画だと誤認させる」ような作為が必要だったのだろうか。
本作のプロデューサー奈良橋陽子は、父親が外交官であったことから語学が堪能で、またバンド「ゴダイゴ」の作詞をするなど芸能界とつながりがあったことから、近年は日本を舞台としたいくつかのアメリカ映画で、日本人の俳優をキャスティングするという仕事をしている。
そして、ハリウッド映画『ラスト サムライ』では、彼女は「アソシエイト・プロデューサー」を務めている。
トム・クルーズが主演した『ラスト サムライ』は、アメリカでも1億ドルのヒットを飛ばした成功作であるが、日本ではなんと同額以上の興行収入を叩き出し、アメリカ本国を上回った。
『終戦のエンペラー』は、このビジネス上の成功が前提となって通った企画のはずだ。つまり、今度は制作費を抑えて、完全に日本向けにターゲットを絞って儲けようという話である。

しかし、『ラスト サムライ』を含め、日本でこのような作品が喜ばれる理由は何なのか。
もともと日本では、TVなどのメディアで、「外国人から見た日本」、「日本文化が外国文化に与えた影響」というような内容の特集がよく組まれるし、外国人が日本の文化についてリップ・サービスしているところを強調することが多い。
分かりやすいところでは、有名な外国人スポーツ選手にインタビューするときに、あまり関係のない日本の選手のことを質問する、というのはよくある(「その日本人は悪い選手だ」などと言うわけがない)。
「フランスの印象派の画家達が、日本の浮世絵に着想を得た」なんていう指摘は、耳にタコが出来るほど聴くが、例えばアフリカ美術や中国美術がヨーロッパの美術に与えた影響のような話は、その内容がいかに興味深いかということとは関係なく、あまり大手メディアにおいて紹介されることがない。
このことは、必ずしも日本だけにあるような現象ではないだろうが、このような情報がもてはやされる理由には、自国に関係するものにしか興味を持ちにくい、ということはもちろんではあるが、その先まで追及していくと、「自分の民族が優秀だという話を、他国の人々から裏付けられると、自分が褒められている気がして気持ちがいい」という心理が隠されているはずだ。
これは冷静な目で見ると、見下げ果てた態度だという他はない。何故なら、日本が立派なことをしたり優れた文化を築いてきたにしろ、それは一部の優秀な日本人の仕事に過ぎず、その優秀さを自分の範囲にまで拡大解釈して、手柄をかすめとっているように見えるからである。
「外国人が日本を褒めている」「外国人が日本の文化に感動!」というような情報を探し集めて紹介している醜悪なブログが無数に存在することからも、このような心理が見てとれるのである。

参考:「【海外の反応】 パンドラの憂鬱」(http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/)
「海外の反応 on the web」(http://www.kaigaihannou.com/)
「海外反応!クールジャパン」(http://cooljapaan.com/)

これが問題なのは、「自分の民族が優秀だ」という話を強調し過ぎることで、本当にそう信じてしまって、逆に「他民族は劣等である」という思考に陥ってしまい、人種差別的な思想を醸成する原因になってしまう可能性があるということである。
だが現実には、世界の多くの国の人々は、アニメや忍者オタクなど一部の好事家を除いて、「日本」という国にほとんど興味を持っていないし、実際にインテリを除いたアメリカ人の多くは、日本がどこにあるかさえ知らないという。彼らに日本の偉人を挙げなさいと質問すると、「忍者、侍、ゴジラ」と答える。
それでも多くの日本人は、「日本文化はすばらしく、日本人は優秀だ」という外国人、とりわけ欧米人の評価を欲しがるという背景から、アメリカが日本をリスペクトしたり気にしているように見える『ラスト サムライ』や『終戦のエンペラー』のような性質の映画は、日本でヒットする要素を持ち得ているということになる。
日本人特有の「自分たちが他国からどのように見られているか」という自意識過剰な島国根性を、今回はビジネスとして意識的に利用されたのである。これは同じ日本人としては恥ずかしく思ってしまう事実だ。

 




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