『インシディアス 第2章』ジェームズ・ワンの唯一無二性とは

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一般に最古のホラー映画は、ジョルジュ・メリエス監督の”Le du Diable”(『悪魔の館』)(1896)というサイレント作品だといわれる。
それ以来、西洋では『ジキル博士とハイド氏』(1908)や、エジソンによる『フランケンシュタイン』(1910)、悪魔との契約を描いた『プラーグの大学生』、ムルナウによる『吸血鬼ノスフェラトゥ』などの非凡な作品が制作され、その中でキャラクターとして秀でていたドラキュラやフランケンシュタインは、ベラ・ルゴシやボリス・カーロフを代表とする多くの俳優によって演じられ、その後、英国のハマー・プロなど、クリストファー・リーなどのスター俳優を生み出したりして、恐怖コンテンツの消費・再生産を繰り返してきた。
その反復によって陳腐化してしまったホラー映画は、60年代以降の映画監督達によって、その都度フレッシュな新味が加えられた。
ジャック・クレイトンの『回転』、ジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』、ウィリアム・フリードキンの『エクソシスト』、トビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』、ダリオ・アルジェントの『サスペリア』、ジョン・カーペンターの『ハロウィン』などが、更新される新しい恐怖イメージが与えられた作品の代表例だろう。
このようにホラージャンルの諸作をごくごく簡単に俯瞰してしまうと、その本質は、生理的不快感を刺激するものを扱うことで観客を集めるグロテスクな「見せ物小屋」、または「お化け屋敷」であり、その歴史は、時代とともに目先を変え、看板を書き換えることで絶えず陳腐化をふせぐことに終始してきたことが分かってくる。
西洋の恐怖映画において、とくに時代を超えて長く愛された代表的な看板スターは、「吸血鬼」、「フランケンシュタイン」、「ゾンビ」などである。
これらが陳腐化を長くとどめ得たというのは、そこに人間の実存を問う、根源的な恐怖を含んでいるからだろう。
このような哲学的とも文学的ともいえるモチーフは、ここにおいて恐怖映画を、ただの見世物小屋の出し物を超え、我々を真に震撼させる要素を備えたものにした、という指摘ができる。

日本では、化け猫映画がビビッドな映像を生み出し、商業的にもヒットする一方で、中川信夫という天才的な恐怖映画の監督が生まれている。
『亡霊怪猫屋敷』では、死んだ飼い主の血をぺちゃぺちゃとなめる猫に寄っていたカメラが、スーッと引いた後で、何故か再度カメラが猫に近づいていくという奇怪な演出が行われている。これが不気味なのは、作り手がどうして、カメラをそのように動かしたのかが、観客にとっては全く意味不明だからである。
同監督の『地獄』でも、同様に気持ちの悪い動きをするカメラの動きが確認できることから、監督は何らかの意図を持ってこのようなおかしな演出をしているということになる。

私が以前、テレビ番組の心霊特集を見ていたとき、霊能者と称する人が、霊が住み着いているのではと疑われている家を霊視(霊の存在をチェック)するという企画があって、そのリビングで、「このカーテンの下の場所に、霊が四つん這いになって、首をずっと出したり引っ込めたりしています」と言い出したのを見て、基本的に幽霊の存在を信じていない私でさえも、かなり嫌な気分に襲われた。というのは、自分のあずかり知らぬところで、霊がそんなことを繰り返している理由が全く不明だからである。
この自称霊能者は、「霊の世界というのは、常に人間の常識外にあるものだ」という観念を植え付けることで与える「恐怖の効果」を知っているのだろう。意図が不明瞭な行動というのは、それが理解できないからこそ、見る者にとって著しく不気味に映るのである。

デヴィッド・リンチのTVドラマ「ツイン・ピークス」も、そこに登場する「ブラック・ロッジ」という不思議な空間で展開される、一連のシュールな行動や効果において、その感覚に非常に近い表現をしている。
だが、中川信夫やデヴィッド・リンチのような恐怖表現は、当時ではあまりに新し過ぎたのか、なかなかそれに続く表現者がいなかったように思える。
たとえば「ツイン・ピークス」でも、リンチ自身が演出している回と、他の監督が演出している回を見比べると、その完成度の違いから、リンチが全く別次元に進んでいる表現者だという事実がよく判る。

しかし、その後の日本で、中川信夫的な感性を的確に受け継ぎ、さらに商業的にも成功した映画監督が登場する。いわゆる「Jホラー」の代表作『リング』を監督した、中田秀夫である。前述したような感性が、彼の作品で反映しているというのは、『リング2』における病院での見事なカメラワークでも、はっきりと確認ができる。
中田秀夫はジョセフ・ロージーのドキュメンタリー作品を撮っていたり、また近作『クロユリ団地』では、カラフルな照明を使用したりなど、中川信夫の恐怖映画の演出にさらに接近しているように見える。彼が『リング』で新しい恐怖表現に達することができたのは、むしろシネフィル的な作家であるがゆえ、ということがいえるだろう。
同じように、こちらは主にトビー・フーパーなど英米のホラー作品にとくに詳しい監督・黒沢清の『回路』もまた、新しい恐怖表現の映画として、国内外にエポックな衝撃を与えた。
ちなみに、黒沢監督自身が語るとおり、『回路』は『リング』を強く意識し、カウンターとして提出された作品でもある。
このような「Jホラー」の多くは、『リング』経由で、意識する・しないに関わらず、中川信夫演出の持つ謎めいた意図不明の恐怖を一部継承し、当時の日本映画の停滞を打ち破る普遍的な恐怖効果の手法を獲得し、陳腐化を懸命にふせぎ延命をはかるような停滞したスパイラルのなかにあった西洋的な恐怖映画を、ラディカルな意味で乗り越えることに成功し、また新しい指針を与えたといえるだろう。
そして、そのなかで最も才気を放ったのが『呪怨』の清水崇監督であった。彼は『死霊のはらわた』のサム・ライミに激賞され、現在ではアメリカで複数の映画を制作している。

『呪怨』が素晴らしいのは、その斬新な演出ひとつひとつがヴィジュアル的に豊かであるということ以外に、複数の新たな試みを成功させていることでも確認ができる。『呪怨2』においてそれが最も顕著に表されたのは、「幽霊(怨念)にとっては、時間や空間の概念がない」ということを、見事に映像化し得たことであろう。
「呪怨」という呪い、怨念に一度触れた者は、どこにいようと、呪われた「あの家」に引き戻されてしまう。そしてそれによって死んだ者は、自分が死ぬ前の時間から既に、幽霊として存在していたりして、自分自身や周囲の人間に、それを伝えようともする。
このような、時間と空間を両面で無効化させてしまうような体験は、我々の生活の地続きにある、ある種の違和感や気づきなどとも連動しながら、著しい恐怖として突き刺ささってくる。「映画館を出て、家に帰ってからも怖い」というようなことが、当時盛んに言われていたように思う。

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ここで強調したいのは、「Jホラー」といわれるジャンルが、西洋的な価値観の恐怖とは別の方面から、我々の実存を揺るがす根源的な恐怖意識に届き得たということである。日本のアニメーションが世界的に高く評価されたことと同じように、日本のクリエイター達が、この一連の流れを生み出したことは、紛れもなく快挙である。
だが、『リング』、『回路』、『呪怨』というマスターピースは、最先端の表現方法として、アメリカでも評価され、それぞれリメイクもされたが、いずれも元の作品ほどのインパクトを与えることはできなかった。
それは、「Jホラー」に、従来の西洋的な価値観を付与したために齟齬が発生した結果であろう。
それでも、リメイク版である『THE JUON 呪怨』は、そのまま日本を舞台に撮影したことと、コメディ表現を果敢に取り入れることで、違和感を打破しようとしており、健闘している。
だが、あくまでアメリカ映画に「Jホラー」的な演出を適用しようとするのならば、アメリカ文化のなかで無理なくいきいきとお化けが動けなければならない。そのためには、日本的な感性とアメリカ的な感性のリンク部分を精査し、作り手がそれを的確に把握することが必要になるだろう。

ここまでの「恐怖映画」における、簡単なランドスケープを意識した上で、ジェームズ・ワン監督の『インシディアス』シリーズを考えたい。というのは、この「Jホラー」と西洋的恐怖映画の融合に、現時点で最も成功し、新たな地平を切り拓いたのが、『インシディアス』シリーズだからである。
1977年生まれと、若く見た目も少年のような風貌のジェームズ・ワンは、『ソウ』、『狼の死刑宣告』、『インシディアス』と、様々なジャンルを器用に、というか、器用を通り越して出来過ぎなくらいに映画監督としてのベーシックな能力の高さを持っている、非常に才気あふれる監督である。
また彼は、インタビューにおいて、黒沢清へのリスペクトを標榜してもいるように、おそらくは「Jホラー」の監督達同様に、ある種のシネフィル的リテラシーを有していることは想像できる。これを裏付けるのは、『インシディアス』冒頭の、丸型の室内照明を回転しながら撮る、これも意図が不明瞭なカメラの動きである。まさしくこの意味において、ジェームズ・ワンは中川信夫の間接的な、もしくは直接的な継承者として機能する。
それはもしかしたら、彼がアジア系の人種であることが影響しているのかもしれない。個人的には、彼が「Jホラー」的な表現への深い理解を示している理由として、とくにアジア圏の作家・文化に幅広く、親近感を持って享受していたからなのではと考えている。
おそらくジェームズ・ワンは、恐怖映画における、日本的な感性とアメリカ的な感性を、あらためて勉強することなく、教養として理解できている。そして、それを表現する才能と、発揮できる場を勝ち取ることができている。つまり、新しい恐怖映画を作り上げるうえで、おそろしく稀有な存在なのである。
『インシディアス』シリーズは、だから東洋・西洋の多様な恐怖表現を、ボーダーレスに自由に行き来しながら、のびのびと新鮮な演出をすことができるということになる。
そして、最も注目すべき点は、観客の耳目を刺激することで脅かす「恐怖映画」の要素が、ここでは映画的・映像的な実験場として利用されていることである。

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『インシディアス』が最もエポックだった点は、「生者の世界」と「死者の世界」を、照明効果とスモークなどによって、きわめて明解に映像化したことだろう。
これは、家庭用ヴィデオ・ゲーム(ファミコン、NES)の黎明時代によく見られた、「裏面」の概念によく似ている。つまり、普段見慣れた場所と同じ様に見えるのだが、ちょっと雰囲気が異なり、行動の結果や物理法則、文化などが異なることで、我々の不安感をあおる「ズレ」た空間である。
そこは、時間と空間が無効化されているという意味において『呪怨』の「あの家」のようでもあるし、デヴィッド・リンチの想像した「ブラック・ロッジ」風でもあるし、またジャン・コクトーが『詩人の血』で表現したような鏡の裏の世界にも似ているが、このようにはっきりと幽霊の描写を論理的に明示する、しかも、それをたいしたギミックも使用せず、その描写を達成してしまうというのは、まさにコロンブスの卵のような発想である。
さらに、赤ん坊の部屋と母親の持つ通信機を使った、同じ家の中の異なる場所という、微妙な距離感を利用した恐怖表現も、今までにない試みであった。

一作目で最も面白かったのは、降霊術のシーンだった。
ストロボライトが幾度もまたたく演出のシーンで、出演者の背後にいろいろ映っていた幽霊状のものを見て、私は人間の知覚でははっきり捉えられないスピードの一瞬一瞬に、幽霊や悪魔のようなものが写り込んでいると思い込んでいたのだが、ヴィデオ・ソフト版でこの箇所をスロー再生したところ、全くそんなものはおらず、ただポスターやぬいぐるみが写り込んでいただけだったことに驚かされた。ソフト版を所有してる人には、是非確かめてもらいたい。これは「柳を見たら幽霊と思う」、人間の心理を巧みに利用したものだ。
このように、ワン監督はユーモアを織り交ぜる余裕を見せながら、次々とユニークで新しい演出を見せてくれる。この一作のみに限っても、同時代の多くのホラー作家達に比べ、破格の功績を残していると言っていいだろう。

だが一般的には、その偉業は『インシディアス』の時点よりも、次作の『死霊館』において、決定的に認識されたのではないだろうか。その大きな理由は、『インシディアス』の、ユーモラスかつアヴァンギャルドな演出法に、とまどいを覚える観客が多かったためであろう。
『死霊館』で、この風向きが変わってきたというのは、より分かりやすいゴシック・ホラー的な作品として、これが『インシディアス』とは対照的に、クラシカルな手法で丁寧な演出が成されているからだと思われる。もちろん、『死霊館』のクラシカルに見える演出にも、多様な新しい試みが見られ、だからこそ高い評価を得ているはずである。

しかし、あくまでジェームズ・ワンの前衛性は、やはり『インシディアス』シリーズにあるといえる。とくにこの2作目『インシディアス 第2章』は、『死霊館』の方でゴシック調の演出を行ったおかげで、より遊びが多く見られる。
興味深いのは、ワン監督が、前作よりもさらに意識的に恐怖表現を体系化していることだ。
『呪怨』における時間と空間の無効化概念も、前作とリンクさせるかたちで、複数の場面で取り入れられているし、一人称視点を利用したPOV(Point of view)手法に加え、殺人の被害女性達の遺骸にベールをかぶせ殉教者のごとく並べるような、痛ましくも不気味な犯罪現場を扱ったサイコスリラー的描写、また『シャイニング』のパロディをクライマックスで行うなど、異様さすら感じる、盛りだくさんな恐怖演出の大売出し、詰め込みぶりである。突然、思いっきり平手打ちをしてくる幽霊の肉体の実在感は、笑ってしまったが、ジョン・カーペンター監督の『ザ・ウォード/監禁病棟』を想起させた。

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前作よりも、笑いの要素が突出している印象がある本作だが、プロデューサーであり、ワンとは映画学校時代からの友人であるリー・ワネルが演じる、心霊研究チーム「スペックとタッカー」のドタバタにしても、ヒロイックな活躍が意外な、リン・シェイ演じる心霊おばさんの奮闘も、またジャック・ニコルソン的狂人演技(もちろん、演技をする前からまともじゃないように見えるニコルソンとは、著しく完成度が劣るが)を頑張るパトリック・ウィルソンの父親役と、怪しげなアルファベット・ダイスを操るおじさんとの間抜けな押し問答にしても、恐怖映画にしては、やり過ぎなくらいにユーモラスな描写にあふれていることは興味深い。
これは監督の余裕ともとれるし、またはホラー表現とギャグとの振幅を楽しませるものであるだろうし、そしてそれらが融合した領域の感覚を楽しむためのものでもあるのだろう。
清水崇監督が、サム・ライミ監督と意気投合した話が、このような、ホラーとコメディの近似性だったというから、まだまだこの感覚の先に、新たな鉱脈が眠っていそうではある。

ワン監督は『死霊館』と本作『インシディアス 第2章』を最後に、「もうホラー・ジャンルとは関わらない」と、インタビューで話しているので、おそらくはここで、やってみたいことをほとんど絞りつくしてしまったのかもしれない。
彼は、ホラー・ジャンルにおける惜しい才能と稀有な感性とリテラシーを持った、現代では唯一無二の監督であり、間違いなく映画の金鉱脈を掘り当てた、まだまだやれることが多くあるクリエイターである。だが、これを持ってホラー・ジャンルを卒業し、他のラインを極めようと挑戦することを選択したのであれば、その勇敢さを素直に応援したい。

『インシディアス 第2章』において、私が最も気に入っている演出は、冒頭、カメラが延々と寄っていって、いつまでも接近していく、警察の取調室のシーンである。この不可解さ、不穏さは、中川信夫作品の奇妙なカメラワークを乗り越えたと感じる。

 



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