イーストウッド『許されざる者』の保安官は、何故家を建てているのか。

クリント・イーストウッド監督・主演作品『許されざる者』は、西部劇の名作であるとともに、深く観てみると難解な作品でもある。
そもそもタイトルにある「許されざる者」とは誰のことなのだろうか?
本作では、罪ある人間たちが何人も描かれている。娼婦の顔をナイフで切りつけた男と連れの若い男、人殺しや強盗に明け暮れ仲間までも容赦なく殺害していたという主人公・ウィリアム・マニー、かつての相棒ネッド・ローガン、賞金首を撃ち殺したスコフィールド・キッド、名うての賞金稼ぎイングリッシュ・ボブ、公の立場を利用して強権をふるう保安官リトルビル・ダゲット、娼館の主人・のっぽのスキニーなどである。
子供達などを除いて、この映画に登場する誰もが、何かしらの罪にまみれている。主人公・ウィリアム・マニーにしてからが、悪名高い強盗できわめつきの悪党という過去を持っている。『シェーン』の主人公のような、精錬潔白に「正しい男」など、どこにもいない。
一体、誰が「許されざる者」なのか、この謎には、はっきりと明確な答えはないだろう。何故なら、「誰にとって」許されざる存在なのかが明示されてないからである。つまり、その数だけ答えが存在するはずで、ここではいくつもの意味づけがなされているといえよう。

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『許されざる者』は、公開時に物議を呼んだ作品でもある。「イーストウッドが西部劇を殺した」という声もあった。これは、どういうことなのだろうか。
西部劇というジャンルは、日本においては、勧善懲悪の大衆的時代劇にあたる。基本的には、楽しみ方が限定された、狭い価値観のエンターテイメントである。
19世紀後半のアメリカは、イギリスなどヨーロッパからの移民(先住民にとっては侵略者)が、広大な土地を開拓し自分のものにしていった。この期間は自治が間に合わず、移民の中から、銃などの武器による暴力によって財産などを略奪する「ならず者」が生まれ、のさばった。これに対抗する存在が、町ごとに配置される「保安官」である。
西部劇で描かれる対立構造にはいくつかのパターンがあるが、この「ならず者」と「保安官」による銃撃戦が描かれたものが人気を得て、多く作られている。
だが、辺境の町では人材が少なく、犯罪歴を持っている者が保安官になるケースもあり、土地のならず者と癒着する「悪徳保安官」が利権をむさぼっているケースもあり、これと正義の「流れ者」が対決するという筋の作品もある。
局地的な治安を題材にするという性質上、その内容は、政治的に保守性をともなう場合が多い。先住民やメキシコ人を悪として描いたもの、アフリカ系の人種を奴隷にする歴史を容認するもの、アメリカ南部や、国家主義的な旧弊の価値観を押し付けるようなもの、またその一方で、『大いなる西部』や『真昼の決闘』など、リベラリスティックな価値観で撮られているようなものもある。
だがそれら多くの作品が共通しているのが、「善人が悪漢を倒す」という、勧善懲悪型のカタルシスを全うしようとする根本概念である。
だから、主人公(ヒーロー)となるガンマンは、卑怯な戦い方は絶対にしてはならない。自衛や仲間、女子供を救うとき以外には、銃を極力使わないのが正義のガンマンたる資格だ。
多くの西部劇ファンが、イーストウッドの『許されざる者』にショックを受けたのは、主人公ウィリアム・マニーが、武器を持たない丸腰の男(のっぽのスキニー)を、一方的にライフルで撃ったシーンを目の当たりにしたからである。
全体を通して作品を観ていけば、確かに、イーストウッド演じるウィリアム・マニーには、過去に多くの殺人を犯したダークヒーローといえるし、現代的な娯楽映画の主人公としての資格やキャラクターが与えられていよう。
しかしその行動は、旧き善き、勧善懲悪の西部劇ヒーローの要件には当てはまらない。これは、イーストウッドが過去に監督した『荒野のストレンジャー』や『ペイルライダー』などとも決定的に異なる点である。

イーストウッド『許されざる者』できわめて特徴的なのは、ガン・ファイトにおける異様な不恰好さだ。
西部劇における、銃を使ったアクションは、本来は格好いいものとして描かれがちだが、本作においては失敗ばかりが描かれ、一向にシャキッとしない。唯一、ラストで炸裂するイーストウッドのアクションについても、華麗とまではいかない。
「物書き」ブーシャンプが書く書籍「死のデューク」として美化された、イングリッシュ・ボブの武勇伝は、そのような西部劇の格好つけた所作や英雄譚を冷笑する意味も持たされているだろう。
「死のデューク」の中に、「二挺拳銃」と呼ばれたコーポランと、イングリッシュ・ボブの戦いについての記述があり、それを読んだリトルビルは、「ここに書いてあるのは嘘ばかりだ」と指摘する。そして、コーポランが「二挺拳銃」と呼ばれたのは「奴のムスコが愛用のコルト拳銃の銃身よりも長かったからだ」と明かし、彼らの銃撃戦のマヌケさを暴露する。
「死のデューク」には、可憐な婦人を救うために、ボブが6連発銃でコーポランを撃ち倒す場面がヒロイックに描写されるが、実際はボブの女がコーポランと浮気をしたのが原因であった。
コーポランが酒場に入ってきた瞬間、ボブが銃を撃つが、酔っ払っていたので手元が狂い、銃弾はコーポランの鼻先をかすめる。焦ったコーポランは反撃しようとコルト拳銃を抜こうとして、自分のつま先を打ち抜いてしまう。
その間、ボブは慎重にコーポランを狙い引き金を引くが、またもや狙いが狂って、酒場の千ドルもする鏡を撃ってしまう。この直後、コーポランは再度ボブを狙うが、今度はコルトが不具合で暴発してしまう。
絶体絶命だったボブは、最終的に丸腰のコーポランを撃ったことになる。しかも、肝臓を撃って即死させることができないというおまけ付きである。この一連の流れは、ほとんどコメディーのようだ。
ここでは、旧来人気を集めてきた西部劇のガンファイトが、実際は嘘っぱちであり、真実はもっと生々しく、不恰好なものであるというリアリティを強調する。『ペイルライダー』でイーストウッド自身が描いたような、人間ばなれした唯美的で神話的なアクションをも、ある意味では否定するのである。

また同時に、ガン・ファイトの結果起こる、ガンマンの心理までも、本作では圧倒的なリアリティを持って描写される。
ネッドは土壇場になって賞金首を殺せなくなり、ライフルをマニーに預け離脱するし、キッドは賞金首を殺害すると心に深い傷を受け、もう人殺しはしないと誓う。人間を殺すことが、ここではある種の呪いとして、個人の心をむしばんでいくのである。
それは、味方や動物、女や子供まで殺しまくることに、何の恐怖も罪悪感も感じてこなかったウィリアム・マニーでさえ例外でない。マニーはことあるごとに自分が殺した人物の亡霊をそばに感じ、その手につかまれ、地獄へ引きずられ死んでいくという妄想で怯えている、老いぼれた農夫である。
「殺人」自体に正義も悪もなく、それを犯してしまった人間は、いますぐではないにしろ、いつかその行為の意味に向き合わねばならない。自分が善良さを取り戻せば取り戻すほど、皮肉にも精神が苦しめられていく。これが『許されざる者』が発掘し提示した、新しいリアリズムである。
これは、軍への入隊経験のあるイーストウッド自身の死生観の発露ともいえるだろうし、また太平洋戦争やベトナム戦争以後のアメリカ映画の内省的感覚を、西部劇の世界観に移植したものだという指摘もできるだろう。
イーストウッド演じるウィリアム・マニーは、絶えず過去から復讐される「許されざる者」である。西部劇において、主人公が悪漢を倒すのに、いちいち深い罪悪感を感じていたら、全く話が進まないだろう。その意味において、馬にさえ満足に乗ることのできないマニーも、土壇場でスペンサーライフルを撃てなくなってしまうネッドも、ド近眼のキッドも、全員、悪漢をまともに成敗することができない「役立たず」に見える。だが、彼らが西部劇の世界において役立たずであることは、逆に人間としてはまともなのである。この人間観は、戦争で人間性を深く傷つけられた人々を描いた、ウィリアム・ワイラーの『我等の生涯の最良の年』や、マイケル・チミノの『ディア・ハンター』などを想起させる。
マニーは終盤においてヒロイックな活躍を見せるが、これを正義の鉄槌としてあえて描かないことで、イーストウッドは、「正義の戦争」の否定と同様に、「正義の暴力」を否定した。
このリアリズムは旧来の西部劇の前提となる価値観の否定にもつながり、またそれは観客の側においても、西部劇を過去の遺物として陳腐化させてしまう程の説得力を持っていた。
これが「イーストウッドが西部劇を殺した」経緯である。そしてこの意味においては、監督であるイーストウッド自身が、消え行く運命であった「オールド・ウェスト・アクション(古き良き西部劇)」にとどめを刺した「許されざる者」であるという十字架を、自ら背負っているように見えるのである。
※ “Clint Eastwood” という名前をアナグラムで組み替えると、 “Old West Action” という文字列になる。

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さて、イーストウッドの『許されざる者』は、暴力否定と、無抵抗の人間を撃ち殺したという点を勘定に入れたとしても、爽快感がなく、重々しい印象を与える。その原因は、全編を通して、分かりやすいカタルシスが用意されていないからである。
敵のボスとして登場し、最終的にマニーに成敗されることになる、ジーン・ハックマン演じる保安官、リトルビル・ダゲットは、よく西部劇で描かれるような、ステレオタイプの悪徳保安官ではない。
確かに、銃を所持していただけのイングリッシュ・ボブやマニーを半殺しにし、ネッドに苛烈な拷問で情報を聞き出し、死に至らしめるような行為は、連邦法に抵触することは間違いない。
だが彼は、ギャングと結託して私腹を肥やしているわけでもないし、快楽の意味で殺人を楽しんでいるわけでもない。あくまで、保安官としての職務上の利益、つまり、賞金稼ぎを追い出し、牧童の命を守るという、町の自治・自衛の目的の上でしか違法行為を犯していないのである。
また、不得手な大工仕事で、自分の新居をひとりで建築するものの、雨漏りの対応に追われるという、愛らしい一面もある。
にも関わらず、リトルビル・ダゲットはウィリアム・マニーに殺害される際に、「お前は生きるに値しない」とまで言われている。
マニーがリトルビルを倒すということは、西部劇という前に、劇映画として何らかの意味がなければならないはずだし、これを成立させるために、そこにある種のカタルシスが用意されているはずである、つまり、リトルビルは許されざる罪を犯していると考えなければならない。
では、リトルビル・ダゲットは、どのような意味において「許されざる者」なのだろうか。

リトルビルのやったことを振り返ってみよう。
まず冒頭において、彼は娼婦の顔がナイフで切りつけられた刃傷事件について、裁判を経ずして自己判断で裁定を下している。娼館の主人に対し、主犯に馬を5頭、仲間の牧童に馬を2頭支払うように命じただけだった。被害にあった娼婦にではなく、娼婦を一種の財産とみなし、その所有者とされる主人への賠償のみを優先させたのである。
もちろん、人道的にも疑問の残る判断であり、娼婦の古株・アリスも抗議をするが、彼は聞く耳を持たない。
この保安官の裁定の裏には、基本的に「女は男の所有物」であり、娼婦は馬の代わりになる商品であるという、きわめて保守的な価値観が存在していることは、想像に難くない。
この仕打ちに対し、娼婦達は、今まで彼女達が貯めた金銭を出し合って、懸賞金をかけてガンマンに狙わせるという個人的な復讐をたくらむ。これは顔を切りつけられた被害者・ディライラのみの問題ではない。彼女達にとって、この加害者を殺害し復讐を遂げることは、人間としての尊厳をかけた闘争なのである。
そもそも保安官は、町の自治や風紀を厳しく取り締まる割には、このような売春行為には完全に目をつむっている。このような態度が、彼の独善的で矛盾した恣意性を表している。ウィリアム・マニーは、保安官達と対決するクライマックスのガン・ファイトにおいて、真っ先に娼館の主人であるスキニーを、有無を言わさず撃ち殺すことになる。

娼婦達が牧童に復讐をするためにかけた懸賞金の話が広まると、さっそく、町に賞金稼ぎ「イングリッシュ・ボブ」が現れた。
ボブは、その早撃ちの腕で周囲を威圧しながら、自分の出身国である英国を褒め称え、アメリカを、どうしようもない田舎の野蛮人の住む国だと吹聴している、鼻持ちならない男である。
だがリトルビル・ダゲットは、あらかじめ賞金稼ぎが仕事をできないよう、町に銃を持ち込むことを禁止し、その周知を徹底させていた。
リトルビルは、これを口実にボブの武装を全て没収し、したたかに蹴り殴りつけ、ボブを半殺しの状態にした。
確かに、イングリッシュ・ボブは、牧童達のみならず、町の人々にとっても危険な存在だが、銃を所持していたというだけで、ここまでの扱いを受けるというのは理不尽であろう。
ここでリトルビルが気に入らなかったのは、独立記念日にアメリカの悪口を言いまくりながら、我が物顔で町を闊歩する男の存在である。この小さな町、「ビッグ・ウィスキー」を支配するのは、あくまで保安官・リトルビル・ダゲットであり、それを揺るがす存在は徹底的に排除しなければならないのである。
だから彼は、わざわざ町の人々の目の前で、ボブをリンチし、自らが町の法であることを印象付けたのである。

リトルビル・ダゲットは、西部劇の代表的ヒーロー、ジョン・ウェインが演じる保安官を意識させるよう、イメージがダブらせてあるように見える。
ジョン・ウェインは「デューク」(Duke) の愛称で親しまれたように、『許されざる者』の劇中において、「デューク」という呼称が引用され(リトルビルでなくイングリッシュ・ボブのことであるが)、それを「ダック」と言わせることで、ここにジョン・ウェイン像が、ある種陳腐化された状態で暗示されていることは明らかであろう。

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例えば、ウェインが演じる『リオ・ブラボー』の保安官は、始終ライフルを携帯し、町の隅々まで目を光らせている。
『リオ・ブラボー』の世界観は、テキサスの有力者が、法を無視して町を牛耳っている状態を、一保安官が、部下と協力しながら打破しようとするというものだ。
しかし、これは政治的な観点からは、行き過ぎた自衛手段と国家主義を肯定するように見えてしまうのは確かだ。
「緊急事態」という口実の下で、保安官がライフルを振り回しながら、事態を恣意的に判断し、強権を振るうという状況を許してしまうのである。
もちろんそれが正しい判断である場合もあるだろうが、より事態を悪化させる、間違ったものである場合もあるだろう。
ジョン・ウェインが自ら熱望し監督した『アラモ』は、アングロサクソンがメキシコ軍を破り砦を占領するという、史実を基にした内容を見ても分かる通り、彼のきわめて保守的な政治信条を伝えている。
だから現代のアメリカにおいては、ライフルを振り回すウェインの保安官姿は、保守主義・国家主義の象徴として理解されている。
そして俳優・ジーン・ハックマンは、『クリムゾン・タイド』の艦長役のように、このような堅物の保守おやじの表情をつくるのが、とてもうまい。

クリント・イーストウッド自身の政治思想はどうなのだろうか。
彼は、自宅のあるカーメルの市長を務めた経験がある共和党員であるから、ハリウッド俳優としては珍しく、基本的には保守思想を持った人物であろう。
だが、イーストウッドは、タカ派のジョン・ウェインのように排外主義だったり、国家主義的自衛や戦争の賛美については、反対の意志を表明している。妊娠中絶・同性結婚の擁護、イラク戦争などへの慎重な態度を見ても、それは明らかだ。
自身はアフリカ系・アジア系の人種である配偶者を持ったこともあるので、特定の人種への強い偏見もないはずである。イーストウッドは監督作『アウトロー』においても、異民族との結束を描き、『グラン・トリノ』に至っては、中国の少数民族であるミャオ族の少年に、「アメリカ精神」を継がせるような筋にしている。
『アウトロー』は復讐の話であったが、その後『グラン・トリノ』と『ミスティック・リバー』では、疑惑だけで強硬な手段をとることを戒めたり、やみくもな復讐心を抑制するような内容になっている。裏にイラク戦争に突入した愚行を批判している描写もある。『硫黄島からの手紙』では、日本人の立場から太平洋戦争を描いた。
これらのことから、彼は共和党員でありながら、かなり穏健な思想を持っていて、むしろリベラルに近い印象を受ける。
2008年の大統領選挙で、共和党の、強硬な保守支持派からは嫌われている、ジョン・マケイン候補をとくに支持したことから、彼の立場をよりはっきりと理解することができるだろう。
つまり、イーストウッドは保守主義の中にあって、マケインと同じように、行き過ぎた保守主義である「人種・外国人差別」、「性差別」、「好戦主義」を批判し健全化しようとするような、ある種複雑な役割を引き受けることを選択しているということである。
イーストウッドの政治思想については、その監督作が何より雄弁に物語っている。もちろん、『許されざる者』も例外ではない。

リトルビルは、ビッグ・ウィスキーに銃を持ち込んだウィリアム・マニーを殴打し、また、賞金首を討ち果たしたマニー一味のネッド・ローガンを拉致し、尋問を始めた。ネッドは長い鞭打ちの拷問を受け絶命する。
牧童が娼婦の顔を切りつけた事件では、結局リトルビルは鞭打ち刑を行わなかったことを考えると、おそらくネッドは「黒人であるが故に」、容赦なく鞭打たれ殺されたことになる。そしてネッドの死体は、見せしめとして、酒場の前でさらしものにされた。
リトルビルは、排外主義者であり人種差別主義者である。彼は国家の美名の下で、自衛を拡大解釈し、暴力を振るい、支配欲を満足させる、一種の異常者なのである。
彼は、マニー達のように、個人で殺人を行うようなタイプの悪人ではない。あくまで自己の行動を、国家や共同体の責任とし、自らは安全な位置にとどまっている。
マニーに殺される直前、彼は「何故こんな死に方を…何の報いだ、家を新築していたのに」とつぶやく。つまりリトルビルは、自分の悪行や偏狭な考えを自覚すらしていない。あくまで保安官として正義を行っていると思い込んでいるのである。
それ故に、リトルビル・ダゲットは、イーストウッド『許されざる者』において、最も許し難く、また「生きるに値しない」卑怯者であり、権力を振りかざす危険な存在なのだ。

リトルビルを物語るエピソード中、特異なのは、彼が自分ひとりで家を建てている描写である。
彼は非常に不器用なので、建てつけは悪く、屋根は隙間だらけで雨漏りがひどい。保安官助手が言うように、ガタガタなポーチに、家全体が傾いているというお粗末さだ。
しかし何故『許されざる者』には、このような「保安官が家を建てている」という設定が必要だったのだろうか。
それは、これまで語ったように、本作における政治的な問題を、この箇所が分かりやすく象徴しているからである。イーストウッドが『荒野のストレンジャー』において、町全体を朱一色で塗りたくり、鮮血の死のイメージを印象付けたように。
ビルは、専門家である大工に頼まず、自己判断の素人考えで、ただ見よう見まねで新居を建築している。その結果、家屋を支える屋台骨は歪み、雨水が無数に落ちてくる、住むのには耐えがたい環境が出来上がってしまっているのである。
ここでビルが作っている家とは、田舎町「ビッグ・ウィスキー」全体の象徴であり、かつまた、「アメリカ社会」全体の象徴にもなっている。
つまり、リトル・ビルが法を無視し、保安官の権限を越えた自己の勝手な判断で、娼婦に不満の残る裁定を下したり、ネッド・ローガンを拷問死させるような、強権的であまりにズサンな対応をして、事態をどんどん最悪な状況に突入させてしまったことが、この新居建築に重ねあわされていると考えられるのだ。
国家権力の下、排外主義者や行き過ぎた保守主義者が、アメリカ帝国主義を背景に、他国や他民族を理解しようとせず、戦争や虐殺を引き起こす。そして、世界にとって、またアメリカ国家や民衆にとって、そういう存在が「許されざる者」だという主張である。

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イングリッシュ・ボブをビルがリンチするシーンにおいて、独立記念日に町の建物に翻るアメリカ国旗が画面に映されていたことを思い出してほしい。
クライマックスで、雨の激しく降る町の国旗の前で、マニーが叫び、町の人々を脅すシーンを思い返してほしい。
イーストウッド監督作では、『ミスティック・リバー』のラストシーンのように、国家や政治を考えさせるシーンで、アメリカ国旗を映す。また、宗教的な倫理観を問う場面で、十字架のイメージを印象付ける。
イーストウッド『許されざる者』は、人間の罪悪についての物語であると同時に、政治の善悪について問う作品なのである。

本作では、「天然痘で死んだマニーの妻、若く美人で、誰とでも結婚を望めたクラウディアは、何故、最悪の悪党であるウィリアム・マニーと一緒になったのか」という謎かけが、夕焼けのなかのマニーの家のシルエットが映される、冒頭とラストシーンで語られている。
この謎は、映画の中盤において、顔を切られた娼婦・ディライラとマニーが会話するシークエンスにて明かされることになる。
ディライラは、病気から回復したマニーに、ネッドとキッドが、賞金の前借りで娼婦に「ただ乗り」していることを告げる。賞金稼ぎを依頼した娼婦の義務として、彼女は、マニーも「ただ乗り」する意思があるのか尋ねる。拒否するマニーに対し、ディライラは、自分の顔が傷つけられて魅力が無くなっていることを気にして、「私ではなく、アリスとシルキィがお相手する」ことを伝える。
マニーは、拒否した理由について、「妻への想いが強いから」だと説明する。そして、「君の顔が傷ついているから断ったわけじゃない、君はとても美しい、だからもし自分がただ乗りをするなら、そのふたりでなく君を選ぶ」と付け加える。
残忍な列車強盗で、女も子供も容赦なく殺したマニーは、ここでは傷つけられた女性に対し、できる限りの誠意で、少しでも尊厳を取り戻させようと努力するのである。
もちろん、ウィリアム・マニーが悪党であったことは間違いない。紛れも無い「許されざる者」である。だがここでは、どんな人物であっても、他人に対し想像力を働かせ、優しい心を持つことが大切であり、その努力が、未来をより良い方向に進ませることができるということを強調している。
ウィリアム・マニーは、保安官やその仲間達を殺した後に、「また娼婦の顔を切るようなことがあったら、今度はお前らを皆殺しにするぞ」と町じゅうに向かって叫ぶ。
その脅しの言葉の裏にマニーの優しさが隠されていることに気づいたのは、町じゅうで唯一、彼の優しさに触れたディライラだけだった。彼女は去っていく凶悪な無法者の後姿を見送りながら、ひそかに微笑んでいた。

 




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