『アナと雪の女王』少女を搾取するポップスター・プリンセス

『白雪姫』から伝統的に続く、ディズニー長編映画のプリンセス路線の最新作、『アナと雪の女王』。これが全米のみならず世界的に大当たりして、ディズニー・ピクサー作品『トイ・ストーリー3』を超えて、歴代アニメーション作品第1位という超大ヒット作品となっている。
この結果は内容を見れば、いろいろな意味で、かなり納得できる。今回はその動員数の裏に、どのような背景があるのかを、作品の内容に沿って検証してみたい。

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まず目に付くのは、最新のフルCGアニメーションによる圧倒的な表現力についてだ。
雪の描写だけでも、ディズニーが、とくにこの作品のために独自で開発した3Dレンダリングソフトを利用し、実写映像と区別がつかないレベルのリアリティを獲得しているし、降り注ぐ小さな雪の結晶に無数のヴァリエーションをつくるなど、現場の製作を助ける土台が周到に整備されている。雪が降ったり、地面の雪が飛び散ったりするシーンが非常に多い本作において、このようなCG効果は、表現力と作業コストの両面において、目覚しく合理的に機能しているといえる。
CG特有の利点として、画面内で3Dで表現された立体性からくる、キャラクターの身体性や実在感、それを取り巻くカメラワークの自在さ、ライティングの確かさは、言うまでもなく圧倒的に素晴らしい。
またヒロイン達キャラクターは、シンプルにカリカチュアライズされながら、その漫画的な枠を超えない範囲において、体全体を使って最大限の繊細な演技がつけられていて、人物の感情がダイレクトに伝わってくる。
映像の一瞬一瞬を停めて、一枚の絵として見ると、それらはいわゆる「お人形さん」のように見えてはしまうのだが、その肉体の部分部分がそれぞれ個別に、しかし統制された意志によって運動しているがごとく見せることで、生き生きとした魅力を作り出す。本作はここがとくに繊細で、ミュージカル・シーンとの相乗効果により、エモーションを高めることに寄与できているといえるだろう。
その意味において、絵が動くことで価値を生み出すという、いままでのディズニーが堅持してきた、絵が動くというアニメーションの根源魅力を失ってはいないと思われる。
高度に発達したコンピューターの技術革新というのは、もはや魔法のように感じられてしまう。コンピューターを使用していることは分かっても、この、全てが精緻にコントロールされている美麗な世界がどのような工程で作られているか、多くの観客は、もう想像すらつかないのではないか。

もちろんこれらのノウハウは、各社の技術向上のレースの上で、ディズニー・スタジオや傘下に収めたピクサーの持っていた技術を継承・進化させたものであるだろうし、本作で培った技術もまた、そのまま今後のディズニー作品の製作においても、改良を加えながら引き続き利用されていくだろう。つまり、先人の功績がそのまま次の作品に受け継がれ、部分的にそのままリサイクルされるのだ。
例えば日本の宮崎駿のような、アニメ万能型人間による独裁的な存在を必要としないシステム、先人と現行のスタッフ達が全員で参加する「集合知」のような、ある意味で民主的なシステムというものが形成されているように思われる。
優秀な人的資源はもちろん財産であることに違いないが、おそらくディズニー・スタジオの内部に流用可能の技術財産がストックされていく合理的製作システムにおいて、アニメーターや美術スタッフのひとりひとりの突出した才能や経験というのは、以前ほどには重要視されないのではないだろうか。「その日その時の火事場の馬鹿力」によるスタンドプレーよりも、積み立てた貯金を活用した方が効果的な場合が多くなってきているだろうし、安定した結果を生み出すのだ。
このような組織的な取り組みが可能にした、絶大な安定感というのは、吸収合併を繰り返し、現在進行で肥大してゆく帝国であるディズニー・カンパニーという巨大企業という土壌があることが、もちろん大きく作用しているだろう。
そして、現在のアメリカを中心とした大手のアニメーション・スタジオの多くが、手描きアニメーションの部門を削減し、このような絶対的な合理主義を根本的な優位性として保持しているCGを、メインの表現方法として選択しているというのは、今までに手描きアニメーションの面白さを体験してきた立場としては、その流れを納得し応援するというところまではいかないまでも、理解はできるところだ。

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ここでディズニー・アニメーション・スタジオの過去を振り返りながら、手描きアニメとCGアニメについて考えてみよう。
子供達を喜ばせるような楽しいエンターテイメント作品を制作しながら、また独裁的に、しかし圧倒的なクォリティと狂気のような信念で、アニメーション表現を芸術の頂点にまで高めたのが、ディズニー・カンパニー創設者ウォルト・ディズニーだ。
彼の死の直後から、求心力や絶対権力を喪失したディズニー・アニメーション・スタジオによる手描きアニメーションにおける、才能にあふれた職人的スタッフによる技術やノウハウというのは、徐々に衰退していった。
それに伴い、アニメーション業界におけるディズニーの存在感も小さなものになっていき、企画がなかなか当たらないという不運も重なるなどして、過去の作品をトレース、流用したりするような劇場作品を公開するなど、理念を失い、遺産を食いつぶすような行為も見受けられ、そのような状況は、遠くないスタジオの消滅をも予感させた。実際、ディズニー社はこの時期に株の買い占めによる吸収合併の危機に瀕している。

この下降スパイラルのベクトルが変わり、いわゆる「ディズニー第二次黄金時代」の端緒となったのは、1989年、『リトル・マーメイド』の興行的成功からである。
ディズニー死後からここまでの、作画技術の劣化と技術継承の断絶から、この作品自体の質は、『眠れる森の美女』の洗練を頂点とする、30年にも及ぶディズニー映画黄金期の圧倒的なクォリティと美意識とは比較にならないのは確かである。しかし、監督のジョン・マスカー、ロン・クレメンツによる、ディズニー復権の「ルネサンス的情熱」には、それでも心動かされるものがあることは事実だ。
その努力が実り、当時『リトル・マーメイド』が評価されたというのは、往年の『白雪姫』や『シンデレラ』のような、悪く言えば保守的で現代的でない、良く言えばクラシカルで正統的な物語というのが、観客の目には、逆に新鮮なものとして映ったし、このような安定した物語を、本能的に欲していたからだとも考えられる。
だがしかし、ここから2000年台初頭までの間、相次ぐ企画の成功とともに、新たな世代による作画技術の向上が達成されてゆく。
とくに2002年の『リロ・アンド・スティッチ』でその才能を遺憾なく発揮した、監督とともにキャラクター・デザインを担当した個性的な絵柄のクリス・サンダースや、もはやアーティストと呼ぶべきポール・フィリックスやリック・スルーターのような人材を育てるまでになっている。彼らは、ディズニー映画を支えたアニメーター、ウォード・キンボールの才能を継承した子孫達のように見えるし、また『ふしぎの国のアリス』や『眠れる森の美女』などのイメージ・ボードや色彩設計を担当したメアリー・ブレアの仕事にも比肩する才能を感じられる。

しかし同時に、この時代のディズニー作品のヴィジュアルにおける大きな求心力となったのは、CGの積極導入である。
『リトル・マーメイド』ではあくまで効果として使用されていたCG表現は、『美女と野獣』、『アラジン』などを経て、手描きの作画技術が再び向上していく流れの中、ヴィジュアルを作る上でその割合を増していき、スペクタクルを作り出す過程で必要不可欠なものになっていく。
この頃、ルーカスフィルムのCGアニメーション部門を前身とする、独立した会社であったピクサー・アニメーション・スタジオは、全編3DCGの作品を制作し始め、ついに1996年、『トイ・ストーリー』において、興行的な成功を収めた。『トイ・ストーリー』を監督したのは、ディズニー作品の作画スタッフを経験しているジョン・ラセターだった。
ここから大手映画会社が、本腰を入れたCGアニメーション映画制作に乗り出す。この流れに10年程遅れて、同じく全編3DCGを利用したディズニー作品が、2005年の『チキン・リトル』である。
この10年の間に、ディズニー内部で何が起こっていたか。第二次黄金時代を牽引したディズニー・カンパニー代表・マイケル・アイズナーは、「今後ディズニーはCGアニメを中心に制作する」と、その第二次黄金時代を下支えしてきた大勢の作画スタッフや、代表のアイズナーと共同でディズニーを復興させた功労者ジェフリー・カッツェンバーグなどを切って、フル3DCGアニメーションへの完全移行に舵をきることを宣言したのである。もはや古参となった、『リトル・マーメイド』の ジョン・マスカーとロン・クレメンツ は、このことに失望し、ディズニー・スタジオを出て行ってしまった。
その後、ジェフリー・カッツェンバーグは、ディズニーアニメの「お花畑」のような内容を嘲笑するCGアニメーション『シュレック』を制作し、その興行的成功をもって、ディズニー社に打撃を与えた。ディズニーのCGアニメーションへの移行時期に、業績を悪化させた責任で、「マウシュヴィッツ」と揶揄された、マイケル・アイズナーによる強権的独裁体制は終わりを告げる。

新体制移行後、2006年にディズニー社はピクサー・アニメーション・スタジオを買収する。ディズニーのチーフ・クリエイティブ・オフィサーに就任したジョン・ラセターは、ジョン・マスカーとロン・クレメンツをはじめとする、退職した スタッフ達を呼び寄せ、あらたに一本だけ、『プリンセスと魔法のキス』という手描きアニメーションを制作した。このことは美談としてよく語られるエピソードではある。
『プリンセスと魔法のキス』は、手描きのアニメーターたちの熱意がものすごく、内容も素晴らしい。だが、これに続く『くまのプーさん』の興行成績が著しく悪かったという事情もあって、これ以降、ディズニーは手描きアニメーションを制作していない。
これが最後の花火になるのかは分からないが、いったん手描きアニメーションの制作体制が崩壊し、定期的に作られることが無くなったということは、過去の低迷期同様、長い時間をかけてノウハウを蓄積し直すしかなくなってしまう。これは大げさに言えば、人類の文化的共有財産が失われるということに等しい。
CG作品には前述したような利点は確かにあるものの、よく、「手描きアニメーションに比べてぬくもりが無い」と言われるように、手描き特有の有機的なゆらぎや個々のアニメーターによる個性が欠如していることは確かである。ディズニーの独自性のために、また手描きの文化向上のためにも、なんとかこれを保持してもらいたかった。
だが、フルCGアニメーションである『アナと雪の女王』の爆発的な興業的成功は、その状況を加速させるかもしれない。もちろん、ディズニー・カンパニーは、利益を追求する一企業である。
サルヴァドール・ダリの芸術とのコラボレーションである『デスティノ』や、『ファンタジア2000』など、一部の実験要素のある例外はあるものの、近年のディズニーの姿勢には、もともとウォルト・ディズニー個人が持っていたような、アニメーションを一気に芸術の頂点にまで押し上げようとするような狂気を感じ取ることはできないのは確かだ。

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ここで、本作の物語部分に目を移し、別の角度からこの問題を見ていきたい。
アレンデール王国の王女、エルサは、生まれつき雪や氷を発生させたり操るという、謎の力を授かっており、8歳のときに、その妹・アナを、自分の力が原因で怪我をさせてしまう。
エルサは、自分の力を周囲に知られないため、また妹に二度と危害を与えないために、部屋に閉じこもり、その秘密を唯一知る、両親である王と王妃以外との接触を避けるようになった。
その10年後、王と王妃は海難事故で突然世を去ってしまい、王族はエルサとアナだけになる。他に秘密を知る者がいなくなり、エルサは以前よりも一層、他人と会わないよう、部屋に閉じこもるようになってしまう。
さらに3年が経ち、成人したエルサはとうとう部屋を出て、女王になるべく戴冠式に臨む。だが、そのパーティーの席で秘密の力が列席者に露見してしまい、エルサは失意のまま北の山に逃亡し、そこに魔法の力で氷の城をつくり、一人で孤独に暮らすことを決める。
“Love is an Open Door”(とびら開けて)を歌うアナと、”Let it Go”を歌いきり扉を閉めてしまうエルサの対比、そして一枚のドアを隔て、幼年期から何度もドアをノックし続けるアナと、扉をけして開けないエルサという構図が表すように、エルサの心をアナが開放するように努力するという構造になっている。

これが本作の中盤までの内容だが、脚本とその描写を含めて、ここまでで強烈に引っかかる点がある。それは、王と王妃が死んでからエルサが即位するまでの3年間、王国は誰が治めていたのかということだ。王族が成人するまで、専制君主として即位することができないというのが、おそらくその国のしきたりというのは分かるが、王座が空位であるならば、その間実際に政治を行う者が絶対に必要なはずである。そして、10代の王女たちは誰に教育を受け、誰に育てられていたのだろうか。政治を行っていた者、王女たちの保護者。これらが全く描写されていないというのは、あまりに不自然だ。
これは、脚本家や監督が、それらを重要な要素でないと考え除外した、というレベルの問題ではない。作り手たち自らが、わざわざ王宮を舞台とし、わざわざ王女たちを主人公としているのである。それにも関わらず、その基盤がどうなっているのかということすら全く出てこない、場面の中でチラリとも垣間見えないというのは、その部分の設定を考えていないということだ。
べつにプリンセスを主人公としなくとも、姉妹の愛情の物語は成り立つし、感動を与えられるはずなのである。では何故彼女たちキャラクターは、その基盤もよく分からないような王国の、女王や王女という地位を、作中の設定として与えられているのだろうか。
私がここから直感的に感じるのは、この作品の大枠を主導・コントロールしているのが、おそらく現場の監督や脚本家、スタッフではないだろうということだ。これは作品の根幹に関わってくる部分なので、さらに追求してみたい。

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全世界的な傾向として、「女の子はプリンセスが大好き」なのは、世界共通の認識である。例えば、『ちいさな哲学者たち』 というドキュメンタリー映画で、フランスの幼稚園の様子が紹介されていたが、様々な人種の園児の女の子達は、やはり一様にプリンセスが大好きで憧れてるということがわかる。
なぜプリンセスがそこまで女の子たちに支持されるのだろうか。これは、立場を変えて同年代の男の子の趣向を見ていくとわかる。彼らは、時代により変遷するスーパーヒーローを演じる遊びの中で、怪物など敵を倒すために武器を取り、暴力の限りを尽くすことによって、兵士や戦士として英雄視されることを望む。これはディズニー作品でいえば『ヘラクレス』に相当する価値観である。
幼年期の人間は純粋だとも言われるが、それ故に欲望に忠実な存在であることも確かである。この場合の欲望とは、暴力を振るい敵を支配したいという欲望、また注目され名誉を得たいという欲望だろう。では、女の子によるプリンセス願望における欲望とは何かというと、できるだけ多くの人たちから自分の容姿を賞賛されたい、また社会的地位を手に入れ優越感を得たいという願望であるはずだ。社会心理学的には、このような願望を具現化するような、プリンセスを題材にした作品はヒットしやすい、ということになる。
つまり、ヒロインをプリンセスにするというマーケティング上の利点を前提とし、脚本家はその条件に沿い作劇していると考えられるのである。

近年、ディズニーは そのような分かりやすいプリンセス像を主人公に選ぶことを、意図的に避けてきたはずだ。
『ポカホンタス』、『ムーラン』、『リロ&スティッチ』、『プリンセスと魔法のキス』などのディズニー・ヒロインは、人々の上に立ち、かしずかれる立場の姫でなく、むしろ保守的な概念上の「プリンセス」とは遠い少女たちである。『プリンセスと魔法のキス』に至っては、ヒロインは蛙だ。
このようにヒロイン像がシフトしてきたというのは、現代の問題をテーマに作品をつくるときに、もはや王道的な「プリンセス・ストーリー」を下敷きにすることに限界があったということだろう。またそれは作り手による、観客への誠意でもあるはずだ。ディズニー・アニメを観る大部分が、平凡な少女たちだからである。
アメリカのグローバル的価値観の下、 様々な人種が ヒロインに選ばれるようになってきたのも、現代的傾向だろう。だから、『塔の上のラプンツェル』が非常にわかりやすいブロンドヘアーの典型的なプリンセス像で現れ、臆面もなく「プリンセス・ストーリー」に再度立ち戻った、というのは意外だった。これに続いて『アナと雪の女王』が、またしても分かりやすい古典的な姿をしたプリンセスをヒロインにしたことを考えると、近年のディズニー作品にあった抑制の「たが」が、とうとうぶっ飛んでしまったことを示している。

このような少女の願望を商売にしてきたアメリカの代表的企業が、バービー人形を販売してきたマテル社である。
「バービー プリンセス&ポップスター」は、そのバービーを主人公にした、フルCGのミュージカル・アニメーション(オリジナル・ヴィデオ)だ。製作しているのは、「トランスフォーマー」など、おもちゃ会社をスポンサーにしたCG作品を手がけている、レインメーカー・アニメーションだ。これが非常に興味深いので、内容を紹介したい。

バービーは、この作品では、ある王国の王女様で、秘密の魔法の力を持っているという設定だ。
彼女は、キーラという世界的な女性ポップスター(アイドル歌手)に憧れていて、姿かたちが似ている彼女と入れ替わることを思いつく。プリンセスであるバービーと、ポップスターであるキーラのダブル・ヒロインである。
女の子があこがれる 二大要素、それがプリンセスであり、同時にポップスターであることを、経験的にマテル社は熟知しており、マーケティング・リサーチもしているのだろう。これも相当にクォリティが高い作品だが、正直言って、「ここまでやるのか」と思うくらい、少女の人気を得ようと徹底されているつくりだ。
その後ストーリーはなんやかやあって、魔法の力が盗まれることを防ぎ、王国の危機を救った二人は、そろってコンサートで歌い踊りまくる。このシーンでプリンセス・バービーは、夢見ていたポップスターになり、「なりたかった自分になれた だからこのときを楽しまなくちゃ」と歌っている。

『アナと雪の女王』は、一応、アンデルセンの童話「雪の女王」を基にしているらしい。だが、内容は「女王が氷の城に住んでいる」という設定以外、全く無関係である。どちらかというと、エルサが「歌うプリンセス」として”Let it Go”を歌ったような内容と似ているのは、「バービー プリンセス&ポップスター」の方であり、こちらが原作だと言われた方がしっくりくる。
ちなみにバービー作品ではディズニーに先んじて、「バービーのラプンツェル 魔法の絵ふでの物語」という、グリム童話「ラプンツェル」を題材にとったCGアニメーション作品を完成させている。

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ここで私は、ディズニーがバービー作品からアイディアを盗んでいる、と言いたいわけではない(本当は少し言いたい)。それよりも、これらが同じ意識で作られていることを指摘したいのだ。
マテル社が、バービー人形の売り上げやグッズ販売を目的に、レインメーカー・アニメーションに様々な要望を送り、仕事を依頼したように、ディズニー・カンパニーの上層部が、マーケティング・リサーチを利用した要望を、現場に押し付けたのは、おそらく同じような構図だろうということだ。
そうでなくて、脚本家や現場の人間から、「ダブル・ヒロイン」だとか、妙にポップスター的なミュージカルシーンを中心に作品をつくるというアイディアが、自発的に出てくるとは考えにくいからである。

さて、これの何が問題か。人によっては、「需要と供給が合致してる状況の何が悪いの?」「作品が商品で何が悪い?」と言うかもしれない。
確かに、「消費者が望むものをつくる」ことは、資本主義社会の常であり、また、おもちゃ会社とアニメ業界との相互依存関係も、世の常ではある。
「機動戦士ガンダム」だって、おもちゃ会社の要請に従って、最低限の要望に沿うような設定を作った上で作劇をしている。
だが、ここで重要なのは、現場がそのような「売らんかな主義」を押し付けられて作品をつくることになったとしても、それをあくまで「最低限」に留めることはできるということであり、それがつくり手の矜持であり誠意であるということだ。
受け手を喜ばせる事がいつでも誠実ではない。つくり手がその時信じてる事を、必要あらば、スポンサーやおもちゃ会社をだまくらかし、受け手が期待していなかったものを作ることができる。例えば、「新世紀エヴァンゲリオン」という作品がそうだった。しかし商業主義に毒されてる観客は、不幸にもそれこそが不誠実だという錯覚に陥ることもある。
観客の要望は多くの場合、漠然として貧困なものだし、その様な集合的欲望に沿うものを作るというのは、作家をその枠に縛る弊害がある。子供に向けたアニメであれば、消費物を超え、大きな驚きと、人生に深い影響を及ぼすのは、彼らが見たことの無い新しい価値観を、作り手の側が提示することではないだろうか。

そして、そのような観客を喜ばせる要素を優先させることで、前述したような設定の不備や、脚本がいびつになってしまうという弊害が、実際に起こっているというのは、間違いない事実だ。
エルサは一人で山の上に上り、氷の城をつくり閉じこもる。魔法で氷を作り操ることができるが、それ以外の、人間が生きる上での能力を全く持っていない彼女が、誰もいない場所で生活することは、不可能なはずである。
アレンデール王国にしろ、氷の城にしろ、ただの漠然とした「城」という貧困な概念しか感じとれない。しかし、それを観る観客が求めるところの多くは、おそらくその表層部分にしか興味がない、だから描く意味がない、これで十分だという判断なのだろう。

本作と同時期に公開されている、ディズニーの実写作品、『ウォルト・ディズニーの約束』は、まさにこのことをテーマにした作品である。
『ウォルト・ディズニーの約束』は、『メリー・ポピンズ』原作者と、それを映画化しようとするウォルト・ディズニーとの話し合いが難航したという事実をユーモラスに脚色した物語だが、何故原作者がそれほど映画化の際に注文を多く与えたのかというと、彼女が原作に懸けている信念やこだわりは、作品が彼女自身の人生そのものであること、そして、読者である子供たちに、自分が体験した真実を伝えようとしたからであり、ウォルト・ディズニーは、彼女の強い反発を通じ、児童文学の奥深さに気づかされてゆく。
私は子供の頃『メリー・ポピンズ』を観て、「2ペンス」の部分とか、煙突掃除のくだりとかという部分を、妙に啓蒙的に感じて、つまらなく感じたのだが、むしろそういう部分はいまだに印象的に覚えている。その正体は、じつは作家の志であり意地であり人生だったということが、『ウォルト・ディズニーの約束』で納得させられた。
そのような、作家の信ずる「真実」を描くためなら、観客を退屈させる部分があってもいい、というような強い信念が、『アナと雪の女王』に、決定的に欠けている部分だと感じる。
本作において、全てを解決するのは、漠然とした「愛」という概念である。姉妹がお互いに愛し合うこと。王女として民衆を愛すること。それが全てを解決する。
実際、民衆は、普通の人間にはない魔法の力で王国を危機にさらしたエルサ女王について、どのように思っていたのだろうか。おそらく、女王を憎んでいた者もいるはずだろう。しかし、それは描かない。そのような民衆をエルサが許すにしろ、罰を与えるにしろ、観客にとって、大団円の気持ちよさに水を差すような要素にしかならないからだ。そして、二人のキャラクターが分かりやすく「悪役」になり追放されることで、彼らは、一連のマイナスの感情を全て引き受けるスケープ・ゴートにされている。
スパイスやシュガーをふりかけ、真実から観客を遠ざけることにより、この物語はかろうじて成立し、商業的な成功を達成したのである。

 




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