『GODZILLA ゴジラ』再定義される「怪獣」

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『ダークナイト』や『ウォッチメン』、『300』、『パシフィック・リム』、『マン・オブ・スティール』など、コミック原作やオタク向けの題材を、大人や広い観客層にも楽しめるような、リアリスティックな路線で実写映画化することでヒットを連発してきたレジェンダリー・ピクチャーズが、東宝から『ゴジラ』使用の権利を譲り受け、(東宝担当者は「出演者」を貸し出したと表現)ハリウッドでの再映画化に挑んだ。
それ以前にも、ローランド・エメリッヒ監督による映画化作品『GODZILLA』があったものの、そのシリーズ続編が制作されることがなく、そこから今回の映画化までに長くブランクがあったのは、このエメリッヒ版が、興行的には成功したものの、内容について非常に評判が悪く、続編構想が頓挫し、その後怪獣映画そのものが企画として通りづらくなってしまったという経緯があるからだ。

宇宙人襲来を描いたSF映画『インデペンデンス・デイ』の大ヒットでノリに乗っていたエメリッヒ監督は、前作同様にギャグをふんだんに取り入れ、コメディ色の強いアクション映画として、当時ゴジラを描いたが、無駄な描写が信じ難いほど多く、例えば、エメリッヒ作品をこれまでTVの批評番組で酷評しまくってきた、有名映画評論家のロジャー・エバート氏と、シカゴ・トリビューンのジーン・シスケル氏をそっくり真似たキャラクターを登場させ、間抜けに描いているシーンを入れているくらいだ。
ネタにされた評論家は「くだらない」と、さらに酷評し、「どうせ私達を出すのだったら、ゴジラに踏みつぶされるくらいの描写を見せるべきだったね」とコメントしている。
なかでも、ゴジラの爬虫類的なデザインやフルCGの演技(アニメーション)、何故かリアリティにこだわった爬虫類的生態、重厚感に欠ける身軽さ、そして放射能をはじめとする、恐怖や畏怖の象徴としての役割が軽減されすぎていることから、この総合的な「ゴジラ」の造形には、ひときわ批判が巻き起こった。
日本でも、その後東宝で撮られた『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』で、「アメリカにもゴジラに酷似した巨大生物が出現したが、日本の学者は同類と認めてない」と皮肉られ、『ゴジラ FINAL WARS』では、「ジラ」という名前で、怪獣の一体として出現するが、本家のゴジラに瞬殺されるというギャグに使われている。
“GODZILLA”から”GOD”を取り去った”ZILLA(ジラ)”という表現は、まさにエメリッヒ版のゴジラの本質を言い当てているように思える。

私が何よりも気になったのは、このエメリッヒ版では、フランスのポリネシアでの核実験が問題にされていることだ。ゴジラはその影響でトカゲから怪獣に変異したことになっている。
ジャン・レノ演じるフランス人の登場人物は、作品の中で、ゴジラ出現の原因になってしまった国の責任を感じて、寂しい後ろ姿を見せて去っていく。
たしかに、1990年代に核実験禁止協定条約が締結され、規制がかかったなかで核実験を停止したアメリカにとって、フランスの核実験というのは批判すべきものだったろうが、そもそも歴史上、核実験を最も行ってきたのは、圧倒的にアメリカとロシアであって、とくにアメリカは、第二次大戦において、広島や長崎の一般市民に対し核兵器を使用し、太平洋を水爆実験で汚染し、近隣の島国の人々や漁船の乗組員を被ばくさせている。その被害にあった「第五福竜丸事件」こそが、まさに日本の『ゴジラ』誕生の契機なのである。
それにも関わらず、フランスの核実験をことさら批判するのは、身勝手で無責任な姿勢だと思われても仕方がない。
アメリカで「ゴジラ」を制作するというのは、まずアメリカ政府の過去の原子力政策への内省が問われるということが、この映画では浮き彫りになったように思う。そうでなければ、核や放射能への恐怖などを風刺できるはずもない。

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このように、「ゴジラ」という存在への、これまでのアメリカ人の理解が薄かったというのは、公開時から二年後にアメリカで公開された、東宝の国外版「ゴジラ」、”Godzilla King of The Monsters”が、アメリカの核実験や放射能の被害に関わる描写などを大幅にカットしたものだったという事情があるためだろう。
つまり、マニアを除くアメリカ人の多くは基本的に、アメリカの核実験を批判した本来の『ゴジラ』第一作に触れていないということになる。

今回のギャレス・エドワーズ監督による『GODZILLA ゴジラ』は、渡辺謙演じる「芹沢博士」が、日本風に「ゴジラ」と発音し、アーロン・テイラー=ジョンソンが演じる、アメリカ人の主人公、フォード・ブロディ大尉は、その言葉に対して「モンスターだ」と感想を漏らす。
渡辺謙の日本風発音は、現場での彼の発案によるものだといわれるが、これはまさしく、日本の「ゴジラ」と「King of The Monsters」という、ゴジラという存在の日米の認識の違いというのを、作中ではっきり明示しているように感じられる。つまり本作では、東宝作品としての「ゴジラ」を研究し、その差異に対して自覚的に、作品に取り組んでいるということが分かるのである。
本作の邦題、『GODZILLA ゴジラ』は、アメリカ的な視点のみを与えられたエメリッヒ版の『GODZILLA』ではなく、日米の感覚をミックスしていることを表す意味で、正しい表現であると思う。

『GODZILLA ゴジラ』の脚本の完成までの過程は、非常に複雑で面白い。
デヴィッド・キャラハム(『エクスペンダブルズ』)の第一稿を デヴィッド・ゴイヤー(『ダークナイト』)が直し、新進の脚本家(映画監督でもある)マックス・ボレンスタインが成立させる。さらにドリュー・ピアース(『アイアンマン3』)がブラッシュアップさせ、このように4人の脚本家たちが最終形として完成した脚本を、さらにフランク・ダラボンが改変したといわれる。
最終的に、脚本家としてクレジットされたのはボレンスタインだということから、おそらくは彼の執筆した部分が最も多く作品に反映しているのだろう。彼は東宝で撮られた全シリーズを鑑賞し、研究したといわれている。
少なくとも脚本家達は、アメリカ向けではないオリジナルの東宝第一作の『ゴジラ』を、しっかりと鑑賞して、本質部分をつかみとっているはずだ。そもそもオリジナルの『ゴジラ』は、「ゴジラは水爆そのもの」というセリフがあるくらい、反核テーマが誰の眼にも分かりやすく簡潔であるため、誤読の余地が少ない。
さらに、脚本執筆の現場に出演者の渡辺謙が通い、無償で様々なアドバイスを行ったという。
脚本の最後の改変を行ったというフランク・ダラボンは、彼自身のインタビューによると、いわゆる「初代ゴジラ原理主義者」で、エメリッヒ版はもちろん、東宝のその後のシリーズ全てを認めておらず、ゴジラ・シリーズは2作目以降から堕落の一途を辿ったと思っているということが分かる。
そして、完成した脚本を基にした映画からは、オリジナル版を、第五福竜丸に被害を与えた核実験、そしてその背後にあった、広島・長崎の原爆投下による、日本人の恐怖と悲しみの記憶が根底にあるということを理解した上で、今回の作品でも重要な要素と考えていることが伝わってくる。
1億6千万ドル(160億円以上)の予算をかけたアメリカの娯楽大作映画で、そのような内容が扱われているというのは、それだけでも相当驚くべきことだといえる。
しかしそれにも関わらず、本作の最終的な基本線は、「ゴジラ対××」のような、怪獣同士の対決を描いている。つまり、第一作でなく、その後の分かりやすく娯楽化された、東宝のゴジラシリーズの要素が中心になっているのである。
そのような怪獣の対決と同時に、オリジナルの『ゴジラ』の印象をも強く残そうとしているのだ。これは非常に難しい試みではないだろうか。
そのような試みが、果たして達成されているのか。作品の演出や場面を追っていきながら検証していこうと思う。

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オープニングは、実際の米軍による洋上の核実験映像を、ゴジラの姿を挿入したフェイク映像と並べて見せていくモンタージュ・シーンだ。スタッフのクレジットは、隠蔽を意味する黒塗りによって消されていく。
ゴジラの背びれが海中から現れるところで核爆発が起こり、画面はホワイトアウトし、チリのようなものが舞いながらタイトルが表示される。明らかに、核爆発後の放射能の影響についての描写だ。
東宝第一作の『ゴジラ』の発想の基となった、「第五福竜丸事件」では、核実験の直後に多量の灰が降ったことが確認されている。これは爆散したサンゴの灰が有毒物質とともに飛散したものだという見方がある。タイトルシーンは、おそらくそれを映像化したものだろう。
タイトルにこれが被さるということは、東宝第一作の『ゴジラ』へのリスペクトとともに、核汚染が本作の重要な要素になっていることが分かる。

日本の「ジャンジラ市」という架空の場所が、3部構成の一幕目の舞台となっている。ここは原子力発電所が隣接した町だ。
日本としてはあり得ない地名「ジャンジラ」とは、日本の一地域にダメージを与えないよう、どこの地名ともかぶらないように、配慮として考えられたものだろう。
しかし、ここが大事故を起こす展開から、これは間違いなく、「フクシマ」のことを言っていることも分かる。これが、2011年に実際に起こった「福島第一原子力発電所」の事故を表現していることは明白だ。この、架空と現実が入り混じったバランスは、かなり考えられた末のものだろう。

本作では、ジャンジラ原発の原因が、じつは怪獣の出現にあり、その秘密を隠しながらさらに、秘密裏に怪獣を隠して研究していたという描かれ方をしている。これは、どういう意味だろうか。
日本政府や東京電力は、現在も続く原発事故の収束に向けて、他国からの協力を拒否し、事故をとにかく内密に、過小に見せようとしていることは周知の通りだ。最近では、首相が「汚染は完全にブロックされている」と、世界に向け宣言している。
そのような態度は、諸外国から見ると、秘密主義的に感じるだろうし、懐疑や陰謀を感じても不思議ではない。
この「本当は大変なことになっているんだけど、ひた隠しにしているんじゃないか」という疑惑が、そのまま、ジャンジラ原発の描写になっていると考えると分かり易いのではないか。
この『GODZILLA ゴジラ』における秘密主義的な日本の描写は、この問題に対する、外部からの意識の反映だといえよう。監督自身、インタビューにおいて、「日本の問題を描いている」と発言している。
フランスの女優、ジュリエット・ビノシュが出演しているのも、おそらくたまたまではないだろう。彼女は原子力発電所の事故に巻き込まれる、主人公の母親の役を演じているが、エメリッヒ版で批判されていたように、フランスも原子力開発に積極的な国のひとつである。
ここでは、日本の姿勢のみでなく、フランスへの批判も言外に暗示されているように見える。ジャン・レノ同様、損な役柄を引き受けた彼女の判断は評価したい。

そのような「核への恐怖」を象徴するのが、新しく創造された怪獣、 M.U.T.O.(Massive Unidentified Terrestrial Organism:巨大未確認地球生命体 ムートー) である。
最近のアメリカ映画のクリーチャーのデザインを複合したイメージのように感じ、オリジナリティはそれほど感じないが、ちょっと愛らしい頭部と、下半身の気持ち悪さが同居したような姿は、カメラの様々な角度によって変化がついて、それなりに面白い。難点は、その複雑さが観客にしっかりとした印象を与えなかったことだろう。それなりに魅力はあるものの、東宝シリーズの人気怪獣ほどにはソリッドなものではなく、定番の怪獣になるような気はしない。
本作の主人公の子供時代、部屋に貼られていた怪獣対決映画のポスターによって、この映画がゴジラ単体のディザスター・ムーヴィーでなく、怪獣バウトものだということが、さりげなく示されている。
日本では一ジャンルとして確立されているものだが、アメリカの一般の観客は、こういうものに全く慣れていない。
アメリカのオタクでも、日本の怪獣映画に慣れ親しんでいる者は限られている。『パシフィック・リム』でも巨大ロボと怪獣の対決を目にしているとしても、これから始まるような怪獣同士の無秩序な「どつき合い」を初めて体験するアメリカの観客がほとんどだろうと思うと、彼らの反応が楽しみになってくる。ちなみに、アメリカの複数の劇場では、大盛り上がりで何度も拍手が起こっていたらしい。

ジャンジラ原発に隠されていた怪獣が、じつはゴジラではなかったということで、観客は不意を突かれる。
ここがうまいと感じるのは、観客がおそらく最も見たいだろうゴジラへの期待を一度味わわせておいて裏切るという点だ。
プレゼントの箱を開ける瞬間が一番ワクワクするように、怪獣が「来るぞ、来るぞ」と期待させる瞬間が最も観客を楽しませられる部分だということを、作り手側は知っている。ちなみに、ギャレス・エドワーズの最も評価しているという映画のひとつがスピルバーグの『ジョーズ』であり、そのスピルバーグは、『ジョーズ』のサスペンスフルな展開を、『ゴジラ』演出を下敷きにしているというつながりがある。
一部の観客は、用意されたプレゼントの中身が違う(ゴジラではない)ということに、ある程度の失望を覚えるかもしれない。
しかしそのことも十分に計算されていることが分かるのは、その後ハワイに舞台を移してのち、MUTO再出現後に連続して、ゴジラが突如現れるという展開だ。一度裏切った期待を、今度は不意にいきなり登場することで挽回してくれる。それはあたかも、誕生日を忘れたかに見せかけて、ひとり寂しく帰宅したら、大勢の友達がこっそり待っていて、「ハッピーバースデー!」と歓待するサプライズパーティーのようであり、いかにもアメリカ的接待だと思わせる。
だがなんと、ここではゴジラとMUTOの初対決の展開をほとんど見せず、劇中のTV画面でなんとなく確認できるだけにとどめている。
怪獣アクションがあまりにも少ないのではないかと思われるかもしれないが、クライマックスに用意されている対決シーンを含め、全体を通して見たときに、アメリカ映画の活劇としては、適当な分量であるとも思う。
香港のカンフー映画なんかと比べればよく分かるが、そもそもアメリカの観客は、そのような長々としたアクションシーンを嫌う傾向にあるようだ。それは今回の対決を終了させる、ふたつのフィニッシュの鮮やかさを見ても理解することが出来る。個人的にも、この淡白さやアクションの短さというのは緊迫感を高めていて、アメリカ映画として効果的だったように思う。

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それよりも特筆すべきは、ゴジラの登場を最大限にかっこ良く、美しく映そうという努力とこだわりが、尋常ではないということだ。前述の、「来るぞ、来るぞ」というワクワク感の醸成、また、登場してもラストまで全身をあらゆる方法で隠し、また人間の視点を意識した、下から見上げるような仰角を多用することで、全体像を出さないように、また同時に迫力を出すことに注力されている。
海面から見える背びれ、しっぽの一部分、闇と効果的な照明、あらゆるエフェクトによって、きわめて美しくフェティッシュにゴジラを捉えている。ここまでの美学の徹底は、今までのどのゴジラ作品にも無かっただろう。ゴジラの見せる体の一部分一部分が、それぞれ別個のキャラクターであるかのようだ。だから、画面がバラエティに富み、なかなか飽きさせることがない。
ジャンジラから逃走した一体のMUTOを追って、ゴジラがホノルルに上陸する初登場時、闇の空間に照明弾が発射され、それが地上に落下する間に、ゴジラの各部が真っ赤な光に照らされて、ほんの数秒で順々に紹介されていく演出は見事だ。
また、効果音の音量を、ゴジラが気配を見せるところから次第に上げていくことで、接近感を最大限に盛り上げる演出法もとられている。
あらゆるアイディアを総動員させ、ストイック、洗練、美学的とも感じるゴジラの効果的な見せ方というのを、カルト的な魅力を持つほど印象付けているのだ。それだけに、映画作品に多くの楽しめる要素を期待する観客には、本作の徹底というのは、一面的で退屈だと感じるかもしれない。だが、あえて他の要素の印象を薄くしてまで、ヴィジュアル的にほとんどこのひとつの美点のみを強調したというのは、作り手として作品に対し誠実に向き合った結果であるだろう。
矛盾するようだが、潤沢な予算が投入された怪獣映画でありながら、怪獣を「見せない」ことによって盛り上げるという手法において、まさに低予算の怪獣映画『モンスターズ/地球外生命体』を撮り上げている、ギャレス・エドワーズ監督の最も得意とする演出能力が、効果的に発揮されている部分だろう。
さらにその演出を下支えするのが、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのジム・ライジールによるVFX、『マトリックス』3部作の美術を担当したオーウェン・パターソンによるクールなヴィジュアル・センスであり、エッヂの立った画面設計でもあるだろう。
例えば、暗闇から突如現れる、炎上する列車。米軍特命チームの命がけの都市への降下。サンフランシスコの中華街から見上げた怪獣たちのミステリアスな佇まい。ゴジラに極限まで接近しながら米軍の軍艦たちを俯瞰で捉えた、まさにゴジラ艦隊といえる光景は、「こんなに接近してちゃ危ないじゃないか」と思わせながらも、かっこよい絵を撮るためなら、もう論理性などどうでもいいという信念をも感じさせる。
これらが、意図的に画面ごとに色数が絞られ、それぞれに美しくカラーコーディネイトされた状態で提示されていく。
この、はっきりと見せない演出の成功と、研ぎ澄まされて美学的な絵のイメージの相乗は、それだけでクラシックと呼べるような価値を担保し、総合芸術にまで昇華しているように思う。

とくにサンフランシスコで、高層ビルが倒壊する際の粉塵とともにMUTOのオスとメス邂逅するヴィジュアルは、本作の白眉だ。
我々は、ニューヨークの貿易センタービルが倒壊した「911」のニュース映像で、高層ビルが崩れ落ちるときは、ここまで噴煙、粉塵が巻き起こることを知った。
ここで思い出されるのは、東宝第一作の『ゴジラ』で、広島・長崎や、東京大空襲の後の光景を、ゴジラの被害というかたちで、そっくりそのまま映像化したようなことと、同じことをやっているということだ。
ラストで野球場に被災者が集まる光景が用意されているが、これも、子供達が放射能検査を受けていた、東宝第一作同様に、放射能怪獣襲来の後はただじゃすまないということをしっかり表している。
エメリッヒ版のように、怪獣を倒してみんなで「YEAH!!!!」と拳を振り上げて、何も考えてないかのように無邪気に歓声を上げるような、呆れるようなくだらなさというのは無い。
ちなみに、本作はエメリッヒ版同様、フルCGにてゴジラの動きを表現しているが、単純にCGアニメーターが動きを振付けたわけでなく、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのゴラム役や、『キング・コング』のコング役などで、CGを駆使しながらもモーション・キャプチャーによってリアリティと重みのある身体表現を行っていたアンディ・サーキスが、本作でも「中の人」として活躍している。
CGに、東宝シリーズの着ぐるみ感をハイブリッドしたようなゴジラの身体表現と、そこから感じる感情は、ゴジラを表現する上で、現状最も合理的で効果的なものだろう。

さて、MUTOが、人間の生み出した核汚染の恐怖だとすれば、それを追い滅ぼそうとするゴジラとは何の象徴であるのか。
「怪獣王ゴジラは人類の味方か!?」と作中でメディアが表現したように、たしかに人類の脅威であったMUTOを殲滅しようとするところは、大怪獣ガメラのように「人類の味方」だと言える。だがゴジラ出現時に、津波が発生し、大波が人々を襲ったシーンを思い返すと、そうとばかりはいえないことが分かる。
ここで思い起こされるのは、やはり「東日本大震災」であろう。津波が海沿いの町や村に襲い掛かり、人や家や車を絶大な力で飲み込んでいく映像は、もちろんアメリカでもショッキングなものとして連日報道され映像が流されていた。
この震災被害によって、世界から多くの援助や義援金が集まったように、多くの国から同情の念を寄せられたことは言うまでも無い。
だが、その後の原発事故と、その原因をめぐる報道によって、同情一辺倒の論調に翳りが生まれた。地震や津波は天変地異なので、人間の力ではどうしようもないけれども、原発の事故というのは、ちょっと話が違わないか?という考え方だ。
自然災害は、甚大な被害を与えたとしても、それが恒常的に続くことはないが、原発の深刻な事故となると、広く海洋や土地を長期間汚染し、住民や野生生物などの健康に大きなリスクを与える。
つまり、今回の災害はふたつに分けられる。ひとつは自然災害、もうひとつは人災。そのふたつは根本的に異なるという理解である。これを「ゴジラ」と「MUTO」という、ふたつの怪獣によって象徴したということだろう。
そして、ゴジラがMUTOを付け狙うのは、人間の生み出した汚染を中和しようとする、畏怖すべき自然の力の戦いだということになる。
さらに、MUTOがオスとメスに分かれており、オスが原子力発電所で生まれ、メスが核廃棄物処理施設で生まれたのを見ると、原子力発電における汚染の問題というのを、非常に明確に指摘していることが分かる。
核廃棄物処理施設が、日本でなく、過去に928回もの大規模核実験が繰り返されたネヴァダにあったというのは、核の汚染が日本だけの罪でない、アメリカにもあるということを示す、バランスのとれた設定だ。
もちろんこのような描写は、東宝第一作の『ゴジラ』とはいささか異なる。「ゴジラは水爆そのもの」というセリフがあるように、ゴジラこそが核の象徴であったからである。
だが同時に、ゴジラは有史以前の古生物だとする設定もあった。志村喬が演じた古生物学者・山根博士によると、核実験によってゴジラは生活環境を奪われ、人間の生活圏に現れたのだという。だから、人間がゴジラを滅ぼすことにためらう部分もあるし、芹沢博士と対峙するクライマックスが悲劇的に見えるのだろう。
本作では、できるだけゴジラにポジティヴな面を残し、MUTOにネガティヴな面を背負わせている。この再定義によって、作品自体は東宝第一作の『ゴジラ』の印象に近く、帳尻を合わせていることになる。

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ギャレス・エドワーズ監督自身が選考したという、「IMAX ゴジラ ファンアート・コンテスト」で受賞したポスター作品を見て欲しい。
これは、ジャンジラ原発から太平洋に拡散した汚染物質が、ゴジラのようなかたちをとって、アメリカを襲っているという風刺的な図である。
このようなポスターが評価を受けていることを見ても、日本から大量に排出された汚染水が迫って来るという不安というのは、一般的なアメリカ人にとっての、正直で率直な感覚であることが分かる。

ここで大事なのは、ギャレス・エドワーズ監督や脚本家達は、必ずしもこのような日本の問題をもって日本そのものを責めている、いわゆる「反日」姿勢をとっているわけではないということだ。
事故を意図的に過小評価し、原発政策を推し進めているのはあくまで現在の日本政府や一部の企業であって、日本人すべての総意ではないはずだ。アメリカ政府も同じ罪を犯していることを、作品内で内省しているし、核兵器を人間に対して使用したのはアメリカなのだということにも、映画の中で多からず言及している。
この映画が問題にしているのは、日本への批判というよりは、核の脅威と、それに頼り破滅に向かう、日本やアメリカを含めた世界中の人間の愚かさであろう。
東宝第一作の芹沢博士という登場人物は、「オキシジェン・デストロイヤー」を開発し、その使用に苦悩したり、ラストに偉業を成し遂げることで、物語のなかでゴジラと同等か、それに次ぐ存在であったが、本作において同名で登場する、渡辺謙演じる「芹沢博士」は、怪獣研究を通し、市民を守ろうとするアメリカ軍にいろいろとアドバイスをするのみで、「両者を戦わせてみたらどうですか」という、とくに発明でも何でもない、非常にアバウトな説を提唱するだけなのには、だいぶ拍子抜けしてしまう。
だが、「MUTOとゴジラ、どちらも殺す」というステンツ提督に対し、そうではなく自然の力に任せ、調和をするべきだと説く芹沢博士の思想というのは、自然を克服しコントロール下に置こうとする西洋のスタンダードな自然観に比べて、自然そのものから意志を感じ取り尊重するような、日本を含めた東洋思想の、アニミズム的な畏怖心を、最大限に尊重しているのである。

劇中の米軍の説明によると、米軍はMUTO出現以前から、怪獣の存在を認知していたという。世界最初の原子力潜水艦の航行中に、初めて海底に生息するゴジラを発見したらしい。
ここで本作のオープニングの意味が分かるのだが、なんとビキニ環礁などでの米軍の核実験というのは、じつはゴジラ殲滅作戦だったことが明かされるのだ。だが、放射能はゴジラの食料でもあるため、どうやら作戦はただゴジラの力をより強化する結果に終わってしまったようだ。このアイディアは、ギャレス・エドワーズ監督自身によるものらしい。
例えばマイケル・ベイのトランスフォーマー映画などでも、歴史的なイベントの真相をでっち上げてエンターテインメントに奉仕するようなシナリオが見られるが、このような描写は、作品を現実の問題から遠ざけ混乱を与える要因になるため、避けるべきだろう。ことに本作は、それこそが作品のテーマに深く関係しているため、ここはテーマをスポイルしていると指摘されても仕方が無い部分だ。

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渡辺謙演じる芹沢博士が、父親の形見の時計をステンツ提督に見せて、核爆弾投下を思いとどまらせようとする場面は印象的だ。
その時計は、ある時間を指して止まっているのだが、ステンツはこれが広島への核爆弾投下の時刻を示していることに気づき、「ヒロシマか…」とつぶやく。
結局、米軍はゴジラに向け、過去の爆弾をはるかに超えた規模の巨大核兵器を使用してしまうのだが、芹沢は核爆弾投下によって起こる悲劇を説明して、爆撃を中止するよう説得を試みたはずだ。
じつは、このシーンは本来もっと長く、編集によってカットされた、芹沢が父親に起こった悲劇を語る部分が用意されていたらしい。
そもそも、広島の原爆投下の際に父親が死んだのであれば、どう見積もっても渡辺謙の年齢は若過ぎる。
これらのことを併せて考えると、おそらく芹沢博士の父親は、原爆投下後も生き残り、被ばく者として長く後遺症に苦しみながら死んだのではないだろうか。
芹沢が頑なに核兵器の使用に反対したのは、その苦しみを誰にも味わって欲しくなかったからかもしれない。

東宝第一作の『ゴジラ』が、第五福竜丸事件を基にしていることは既に述べた。
この事件は、ビキニ環礁で使用された水爆が、予想を超えた威力で放射性降下物(爆散したサンゴの灰といわれる)を広範囲にまき散らし、付近で操業する船の乗組員や、近隣の島の住民を合わせ、およそ2万人を被ばくさせたといわれている。
アメリカ政府は、第五福竜丸の乗組員達に多額の賠償金を支払ったが、これによる健康被害と放射能の因果関係を認めようとはしなかった。
被ばくした久保山愛吉無線長は、苦しみながら病院で亡くなったという。彼の遺言は、「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」というものだった。
この事件を思い出しながら、『GODZILLA ゴジラ』の作り手達が、芹沢博士に父の物語を通して語らせたかったのは、この久保山無線長の無念だったような気がしてならない。
ギャレス・エドワーズ監督はインタビューでこう語っている。
「広島の歴史について語る場面では、僕自身、慎重に演出しましたし、俳優たちとは後悔の念が感じられるようなシーンにしようと確認し合いました。こういう作品でシリアスなことを描けたことを、僕は誇りに思っています」

ギャレス・エドワーズ監督はイギリス出身だが、それに関わらず、アメリカ映画で原爆投下についてネガティブな印象を与える作品は少ない。
だから、例えばトニー・スコット監督の『クリムゾン・タイド』のように、広島・長崎を例に出して、核兵器使用の是非についての軍人が議論するような作品には意義がある。
普通の神経であれば、煙たがられたりビジネス上のリスクをしょってまで、このような描写を入れる必要はないだろう。作り手に、作品のために戦うという強い気持ちがあるのだ。
ギャレス・エドワーズ監督にとって本作は、映画人としての今後を決定づける、おそらくこれを逃すと二度と訪れない、人生最大のチャンスであっただろう。
もし自分が彼の立場だったらと妄想してみるが、その場合、私は多分反核テーマや戦争責任などの要素を加えたいとは思っても、スタジオや配給会社にリスクを与え、また自分の立場を危うくしてまでそのような描写を入れるようなことはしないだろうと思う。
そのような逃げ腰では、おそらく本作のような、ヒロシマの悲劇を匂わせるような短いシーンすら残すことは不可能だったかもしれない。

投下された核爆弾は、ゴジラに致命傷を与えることができず、またしてもゴジラに力を与えることになってしまった。
芹沢博士は、核兵器に負けず、海に帰って行くゴジラの後ろ姿を見送りながら笑顔を見せていた。苦しんで死んだ父親の無念をゴジラに重ね合わせ、立ち上がる姿に救いを見出したのだろう。
そこに希望を見出したのは芹沢博士ばかりではない。多くの傷ついた市民達も、ゴジラが歩き、咆哮する様子に励まされている。
日本では東日本大震災があったが、アメリカも911の悲劇や、ハリケーン・カトリーナなど、様々な被害に直面している。
ゴジラが元気に甦る本作のラストシーンは、そのような悲しみに抗う力を与えようとしていて、素晴らしいものになっている。

だが本作の『GODZILLA ゴジラ』は、そのような深刻なテーマばかりで固められているわけでもない。
MUTOを絶命させた、ゴジラの新必殺技、口移しディープキス放射熱線のえげつなさは、東宝がかつて試したゴジラの名場面、水平飛行飛び蹴りや、勝利の「シェー」のポーズなどと同様、ゴジラ映画に新しく伝説を作ろうという創意を感じ、作り手のゴジラへの多面的な理解に驚かされるのである。

 





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