『イコライザー』に隠された「王殺し」の意味を探る。

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「人生で最も大事な日は二日ある。生まれた日と、生きる意味を見つけた日だ」
という、マーク・トウェインのことばから映画は始まる。
このことばは「二つの誕生」を示しているように聞こえる。ひとつは肉体の誕生であり、もう一つは精神の誕生である。
何故、単純明快であるべきB級アクション作品で、このような重々しい大げさな表現が必要なのだろうか。
また、90分を少し超えるくらいで収めるのがふさわしいはずの、勧善懲悪な探偵アクション作なのに、132分もの時間を割いて、本筋に関係のないような凝った内省的な映像がいくつも差し挟まれるのは何故なのか。
最も不可解なのは、主人公がホームセンターの防火シャワーが降り注ぐ中で、悪に制裁を加える瞬間を、ねっとりとスローモーションで捉えたシーンであろう。見せ場とは言いながら、あまりにも冗長だ。
アクション・エンターテインメントとして、その明快さとハードボイルドな雰囲気を評価する観客も多い本作だが、一方で内容に対する、この上映時間の長さのアンバランスさに対する不満の声というのも、同時に耳にする。
だが、『トレーニング デイ』、『ザ・シューター 極大射程』が素晴らしく、それなりにキャリアを積んできたアントワン・フークワ監督が、この単純なドラマに、これだけ時間をかけてしまうというのは、少々手際が悪過ぎるのではないだろうか。
もしかして、単純明快だと思っているのは観客側の思い込みに過ぎず、実際は、複雑なストーリーが裏側で進行しているのではないだろうか。
不自然な演出には、それなりの理由があるはずである。この記事では、その隠された理由について、解き明かしていきたい。

本作『イコライザー』の基になっているのは、1984年からアメリカで放映されたTVドラマ、「ザ・シークレット・ハンター(別タイトル「クライム・シティ」)」(The Equalizer)だ。
法律や社会というものは、善き民衆にとって不完全であり、不公平で正義が成されないこともある。とくに犯罪の被害者が受ける理不尽さに対し、司法や警察などの公的な機関が役に立たないことはしばしばであろう。
そこで登場する「真に公平に裁き直す」ヒーローが、「イコライザー」(等しくするもの)である。
また、「イコライザー」には、「銃」というスラングもある。つまり、「銃によって公平をもたらす者」というイメージを、このヒーローは纏うことになる。
元CIAエージェント、ロバート・マッコールが私立探偵として、困っている人々から電話を受け、公権力が執行できない裁きを、凶悪犯罪者たちに下していくのである。

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私はこのシリーズを何作か見てみたが、TVドラマとしてはちょっとおかしいくらいに陰惨なストーリーが多く、画面も陰影が深い。TVの枠を超えた、乾いたハードボイルドの印象を与えられる。
おそらく、同じようにニューヨークで凶悪犯罪と戦うチャールズ・ブロンソン主演の『狼よさらば』に大きく影響を受けてるのだろう。
だが「ザ・シークレット・ハンター」は、あくまで私怨ではなく、悪を倒すことでより社会をつくるという方向に向けられている。『狼よさらば』(デス・ウィッシュ)ほど、死を望み無茶に突き進んでいくような破滅願望も無い。
もちろん、TVシリーズの枠でそのような性格設定をすると長続きするはずもないので、そのスケールに沿って、ロバートは社会の理不尽を粛々と正していくのである。

さて、これをリメイクした本作、『イコライザー』では、舞台がニューヨークではなく、ボストンへと変わっている。
デンゼル・ワシントン演じる、平凡な労働者風の男・ロバート・マッコールが、エドワード・ホッパーの絵を想起させられる、深夜のダイナーでヘミングウェイの「老人と海」を読んでいる。
このダイナーは、話の起点となる重要な場所なので、かなり丁寧に画面が設計され、照明も美しい。店が街の角にあるのも、必然的である。
ロバートは、昼は大型ホームセンターで働き、夜は不眠症から、遅い時間にダイナーで読書をするのが日課になっていた。亡くなった妻が読もうとしていた、名作文学100冊を、自分も読もうと思い立ってから、もう90冊を超えている。
この不眠症が、ロバート自身の満たされぬ内面の感情から来ているということを、彼はまだ知らない。

どう見ても少女に見える年若い娼婦が、ロバートが読んでいる本が「老人と海」だということに気づき、魚は釣れたのかと男にたずねる。
彼女は、物語の結末は知らずとも、その中身が、老いた漁師と大魚との闘いを描いた物語だということを、なんとなく知っていたのだろう。
だが彼女はべつに、結末について本当に知りたかったわけではなく、娼婦としての仕事をさせられる前の憂鬱な時間、誰かと何か関係のない日常的な話をして、気を紛らわせたかったのだろう。読書する初老の男は、思慮深く慎ましやかで、無害そうに見えた。

「魚は釣れたの?」
「ああ、彼は釣ったよ」
「じゃあハッピーエンドね」
「いや、そう単純じゃない。彼は釣った魚を船にくくりつけて港まで運んだが、途中で魚をサメに喰われてしまうんだ」
「じゃあ無駄骨ってわけ」
「そうとも言えない、彼は闘うべき相手と出会うことが出来たんだ」

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この「老人と海」にまつわる会話が、『イコライザー』そのものの内容をも示していることは、誰の目にも明らかだろう。
老人とは、ロバートのことであり、大魚とはロシアからの刺客ニコライ(通称テディ)のことである。彼らは互いに、戦うべき相手と出会う。
ここでは、本作がただ表面的で単純な物語でなく、作品のテーマを、登場するものが暗示するタイプの映画であることが理解できる。

ロシアン・マフィアの売春組織の酷使に疲れきって嫌気がさした少女は、上客を殴りつけたことで、組織の男たちによってひどく殴打され、入院してしまう。
それを見たロバートは、単身、裏で売春を行っているというロシアン・レストランへ向かう。
そこで彼は、自分の財産と引き換えに女を解放するよう説得するが、相手にされないことが分かると、リンチに関わったマフィア達数人を、見事な体術・殺傷術で、二十秒以内に皆殺しにしてしまう。
ロバートは、かつてCIAのエージェントとして、数々の危険な任務をこなしてきた人物なのであった。
だが、彼は殺害したあとに「すまない…」と呟いていた。おそらく、もう二度と人殺しはしないと、亡くなった妻と約束していたのだろう。

この事件がロシア本国の組織に伝わると、「テディ」と呼ばれる、凄腕の殺し屋ニコライが派遣されてきた。
後にロバートは知ることとなるが、ニコライは軍あがりの精鋭であり、人殺しをすることに何の罪悪感も持たない、頭のネジの吹っ飛んだ危険な男であった。
ニコライは、暴力によってボストンの組織やその他の人間を威圧しながら、事件の真相に迫ってゆく。

ここから、ロバートの生活と、ニコライの捜査が交互に描写されてゆく。
観客の多くは、ここでまだるっこしい気持ちになるだろう。何故なら、ニコライの捜査の先にロバートがいることは既に知らされており、その上でこの捜査に付き合わなければならないからである。にも関わらず、ニコライの探求は、時間を割いて続いていく。
ニコライの凶暴性の紹介と、知らず知らずロバートが追い詰められていくことにハラハラさせられるとはいえ、やはり、一連の描写は本当に必要なのかと思わせる。
ここで、おかしなことに気づかないだろうか。本作品は、私立探偵ロバート・マッコールを主人公とした、「ザ・シークレット・ハンター」を基にしているはずなのだ。なのに、捜査するのはロバートではなく、敵であるニコライの方なのである。
この、本来の立場が逆転しているということを、よく覚えていて欲しい。

さて、ニコライと地元の汚職警察官が加わっているロシアン・マフィアによる地道な捜査によって、売春グループ殺害事件の犯人がロバートであることを突き止められてしまう。
だが捜査の過程で、自分に疑いがかけられていることを察知したロバートは、マフィアに連行されそうになるが、すんでのところで回避することができた。
その足で、彼は昔の元上司に会いに行き、組織の情報やニコライの過去を調査してもらい、また、政府に頼らない単身でのマフィア壊滅作戦の許可を得る。このあたりから、話は一気にエスカレートする。
ロバートは、マフィアの一員になっていた警察官を利用し、麻薬流通施設を急襲、マフィア達を全員監禁して、警察に通報した。
そして、ロシアとの輸送連絡船である大型タンカーを爆破し、大破させることに成功する。
ここらへんの描写は呆気に取られるというか、映画の冒頭で、地味な労働者の生活を時間をかけ描いていたことで、とんでもない落差を感じ、笑ってしまう。
この後半は、どんどんリアリティが欠如していくのが、とても楽しい。

ロバートによる怒涛の反撃によって窮地に立たされたニコライは、ロバートの勤務先の従業員を、彼らの職場であるホームセンターの中に拉致し、彼らを人質として、ロバートをおびき寄せる作戦に出る。
ロバートは仕事仲間を助けるべくホームセンターに侵入すると、見回っている武装マフィアをひとりひとり、ホームセンターの道具(ワイヤー、ガス缶、ライターなど)をうまく組み合わせ利用しながら、バラエティーに富んだ方法で殺害していく。

ここは、クリント・イーストウッド監督・主演作、『ペイルライダー』のパロディーになっているだろう。ある意味コメディーのように、敵が次々にあっさりとやられていく。
何故、ここまで敵を圧倒できるのかというと、『ペイルライダー』がそうであったように、ここでのロバートは、人智を超えた、人間ではない存在に近づいていたためであろう。
映画の世界のなかで、ロバートが正義の主役として、唯一無二の存在になっていっていることが、メタフィジカルに提示されているのである。
だが、唯一無二の存在とはいえ、彼はニコライの機銃に被弾したり、大男との肉弾戦に苦戦したりと、『ペイルライダー』ほどの絶対者にまではなっていないということも、同時に分かるだろう。
だが彼が、唯一の絶対者になる瞬間というのが、じつは映画で示されているのだ。それが、防火シャワーの雨が降るなかで、ニコライに制裁を加える場面なのである。

私が本作を観て、奇妙に思ったきっかけは、ふたつの印象的なシーンである。
ひとつは、ニコライが半裸の状態で寝そべる耽美的なシーンであり、もう一つは前述の、シャワーの雨を浴びながらニコライが撃たれるシーンだ。
このふたつは、作品のなかでも、きわめて粘着的にフェティッシュに撮られている。全体のバランスを崩すかのように。

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ニコライの刺青だらけの身体が画面に対してさかさまの姿になりながら、そこにボストンのビル街の遠景がクロスフェード(ディゾルブ)されていくシーン。これは、悪魔が街を支配するような禍々しさを感じさせるのと同時に、神々しいイメージをも纏っているように感じる。それはこれが、キリストの磔刑のイメージにも見えてしまうからだろう。
この解釈はどちらでも構わないが、ここで発生する疑問は、ニコライという男が、たとえ強敵だとしても、ここまで重々しく、もったいぶって描く必要があるだろうかということである。
だが間違いなく、この時点において、ニコライという人物は演出上、主人公であるロバートよりも重要なものであるかのように扱われるのである。そして実際に、ここからのニコライの捜査が、物語の主軸になってゆく。まるで、探偵アクション映画である『イコライザー』の主役が、ニコライに取って代わられたようだ。
つまり実質的に、ニコライはここでは、絶対に殺されない絶対者としての資格を有しているといえよう。

ところで、「ニコライ」という名前から、どうしても想起させられるのが、ロマノフ王朝最後の皇帝、「ニコライ2世」である。
二十世紀初頭のロシアは、専制君主制が近代化の足を引っ張り、格差が労働者の怒りを買い、革命によってニコライの家族は処刑されてしまう。
ニコライという名前の男が、「イコライザー(平等をもたらす者)」によって殺されるというのは、象徴的であるように思える。
麻薬工場において、ロバートが女工たちに現金を分け与えるシーンも、格差を是正する、ある意味での「イコライジング」である。

殺し屋ニコライの権勢に翳りが見え始めるのが、ロバートが夕食中に、ふいに彼の前に現れ、挑発するシーンだ。
ロバートは、ニコライの少年時代に起きた事件について、調査したことを語り出す。ニコライは「お前なぞ何とも思ってない」と言っていたのに、段々と動揺を隠せなくなってしまう。
ロバートが「イコライザー」として調査を始め、動き出した。これはメタフィジカルな意味において、ニコライの座が揺るがされる瞬間である。
ニコライに重ねられたものが、前述したようなイメージ、キリスト=絶対者であったとするならば、彼が食べていたのは、最後の晩餐のイメージに重なってゆく。ここで彼が敗北する未来が暗示されたのだ。

こう考えると、映画というのは、現実とは違なるルールによって動いていくものだということを、改めて再認識させられる。
劇映画の脚本、演出というものは、伏線や演出の暗示によって、登場する人物たちの運命を予言することができる。
そしてそれを見ている我々や演出家の目の反射が、それを予め意識する脚本家の指先を動かし、また登場人物を演じる役者の演技となって表れることがあるのである。
それは、運命のように、用意された美しい物語へと合流していく。まるで、神の見えざる手が、映画を神話に近づけていくように。

私にこのような話をひらめかせた直接的な原因は、ロバートがニコライを殺す瞬間の、防火シャワーによる雨のイメージだ。
この最大限に印象的に撮られた、「殺し」と「雨のイメージ」を見て想起させられるのは、フランシス・フォード・コッポラ監督の『地獄の黙示録』である。
『地獄の黙示録』は、米軍を脱走し、ベトナムの奥地で王国を築いた狂った上官を、軍の命令を受けた部下が暗殺しに、川を遡っていく物語の超大作映画である。
あまりにも有名な作品なので、このクライマックスを行きがかり上話してしまうのをご了承いただきたいが、この部下は、奥地にまでたどり着き、雨の中で上官を殺害することになる。
すると何故か、上官を王と崇めていた王国の住民達は、王を殺した部下を新しい王として崇め出すのである。
どうしてそういうことになるのかというと、それは『地獄の黙示録』の基となった書物のひとつである、「金枝篇」を読めば分かる。

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「金枝篇」とは、英国の社会人類学者、ジェームズ・フレイザーが著した、未開社会における風習・信仰・伝承などの情報を集め、イタリアのネミの村に伝承される「王殺し」(祭司殺し)の真意について考察した、探求の書である。
イタリアのネミの村には、聖なる木と、それに寄生するヤドリギが在った。この聖地を守るのは、「森の王」と呼ばれる祭司である。
「森の王」は代々引き継がれるものであるが、新任者が「森の王」になるには、前任者を殺害することが絶対条件となる。『地獄の黙示録』で、王を殺した者が新たな王として崇められたのは、このルールが下敷きになっているためである。
そして、上官が殺害されるときに、激しく雨が降り出すことも見逃してはならない。「金枝篇」によると未開社会では、作物の不作や、天候不順のときなどに、責任を取らされ退位させられたり、殴られたり、殺されることがあるという。
つまり、激しい雨という舞台装置が、この場合、「王殺し」の場面の説得力を強化していることになる。

ここまで言えば、『イコライザー』の解釈における、私の意図が了解いただけたと思う。
「絶対者」として人々を殺害してきたニコライは、新たな「絶対者」に殺害されることで、人々を捜査し、また殺害するという任をロバートに引き継ぐことになったということだ。無論、これは表面上の物語などでなく、第二の意味たるサブテキストと、画面の演出上のこと、または無意識下における第三の意味においてである。ただしロバートは、ニコライと同じ意味での「絶対者」になったわけではない。
ニコライを倒し、生きる意味を見つけた日、彼は本当の意味で生まれ変わったのである。あたかもキリストが「再誕」したように。強者を栄えさせるためでなく、弱者を救う絶対者、「イコライザー」として。

 


 

今回、本論を書くにあたって思ったのは、この考えが正しいかどうかに限らず、「読書」をするというのは大事だなあ…ということだった。
これを書くために、一応フレイザーの「金枝篇」を読んでみたのだが(ほんの一部しか使用していないが)、ある種の映画を「読む」ためには、映画だけを大量に観ているだけでは難しい。
複数の角度で映画を見るための視点を獲得するには、ロバートのように、深夜のダイナーでコーヒーを飲みながら、静かに読書するような時間を持つことも必要なのだろう。

 



 

6 thoughts on “『イコライザー』に隠された「王殺し」の意味を探る。

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