『シャッター アイランド』 消極的コンビネーションのうま味

「閉ざされた島」が主人公となるべきではありそうなタイトルなのだが、映画を観終わっても、いまいち島の全貌が把握できていない。
隔離施設のA棟、B棟、C棟。そして教会、岩礁、森、灯台などで構成されたこの島は、それらのパーツそれぞれが、地理的なインテリジェンスに乏しく、少なくともフィルムの中では、あまりにも観念的にしか存在し得ない。
つまり、この島を擬人化すると、魅惑的なヒロインの顔やバスト、ヒップなどの各部のクロース・アップは見られるものの、それぞれのつながりがよく分からないわけで、わざわざ狭く設定されているはずの、島についての全体のサイズさえ不明瞭に感じられ、意味が半減しているように感じられる。
そのようなバランスを欠いた近視眼的姿勢では、もはや島を舞台とする必然性は無く、この映画そのものの存在価値まで揺らいでしまいそうに感じるかもしれない。
映像が観念的に過ぎるということは、このタイトルに限っては、プラスに作用しそうな気もするが、それでも、それが作品に寄与しているような具体的な点を発見することは難しく感じるだろう。

また通常、本作のようなミステリー映画に最も重要だと思われる脚本においても、具体例を挙げるのはできるだけ避けるが、ストーリー展開やラストのどんでん返しに説得力が無く、破綻が散見されるため、感動に包まれるはずの結末をも充分に楽しむことができないのも、紛れも無く失敗といえるだろう。
「衝撃の真実」が、あまりにもありきたりであるという指摘ももっともだ。
また、登場人物の名前のアナグラムなど、どうでも良すぎる謎について、ポカンとさせられた観客は多いと思われる。

そして、各所に見られる美麗な幻想シーンについても、それなりに豊かではあるものの、例えばデヴィッド・リンチのような、一貫性のある研ぎ澄まされたスタイルが見られないために、やはり凡庸な印象が拭えない。

だが、もはや自らが意欲的でないということに諦念すら感じさせる『シャッター アイランド』は、それでもプログラム・ピクチャーとして、充分にチャーミングに感じられる。
無論それは、日本の配給会社が仕掛けた、「様々な謎を観客自身が解き明かしていく」ような種類のものではない。
むしろ表向きは、ハリウッドの古風なミステリー劇として、いささかパロディーの要素さえ感じられるつくりになっているのだが、これを、例えばタランティーノがやるように、あからさまな引用を加え新たなものを創出するわけではなく、愚直なまでに真摯な態度で、自然に演出が行われている…そのような時代錯誤に満ちた保守的な態度に、逆に新鮮な感動を与えられるのだ。
あたかも、英国からハリウッドに渡り、『レベッカ』を撮った直後の、まだある種のモダンさを獲得していないヒッチコックが、そのまま現代にタイム・スリップして、不出来な脚本を下敷きに、ゴシック・ホラーを演出し続けている…そんな雰囲気すら感じさせる珍品として仕上がっている。その異様さが凄まじく楽しいのだ。

と同時に、この映画は、前述したようなふれこみの謎解き映画ではなく、どちらかといえば、宝島で宝を捜索するようなアドヴェンチャーにも近いといえる。
こちらの感受するチャンネルを切り替え、島の名勝地と精神世界を交互に辿っていくようような、「地獄巡り」として楽しむこともできる。
そういった意味で、デヴィッド・リンチを想起させられたのは、この『シャッター アイランド』の構造が『マルホランド・ドライブ』にも似ているからでもあるだろう。
つまり、「衝撃の結末」を理解したうえで再構築された記憶も、本作品の実態のひとつであり、それが『マルホランド・ドライブ』ほどアーティスティックではないにしても、ある程度の矛盾を抱えながら、表向きのミステリーと絡まりあって、どちらの面でもエンターテイメントとしての立場を獲得できているところは、評価されるべき点といえる。

マーティン・スコセッシは、近年はレオナルド・ディカプリオを主演に作品を撮りつづけている。それは何故か。
『ギルバート・グレイプ』や『バスケットボール・ダイアリーズ』のようなセンシティヴな少年、または『ロミオ&ジュリエット』や『セレブリティー』のような美青年の頃の彼と比べると、コロコロと太り、7割がたおっさん化した中途半端な子役のようなその風貌は、核と言えるような自らのスタイルを確立できず、鈍く中庸的な、茫漠とした職人としての能力を誇示することしかできなくなってしまった現在のスコセッシと、奇妙な類似を見せている。
個性の薄い監督は往々にして、出演者の演技力に、演出の不十分さを埋めるべく依存してしまうものだが、あくまで堂々と見える演出を見せる現在のスコセッシと、その分身ともいうべき存在の、あくまで演技力のある現在のディカプリオは、確かに互いの巧拙を曖昧に埋め合う、消極的なコンビネーションを見せ、その作品は結果として、商業的にも、内容的にも充分な健闘をしている。

ところで今回、前述したようなふれこみによる「観客自らが解いてゆく謎解き映画」というのはそもそも、存在し得るのかというのを、本作とはほぼ何の関係も無く、考えさせられてしまった。
インターミッション(コマーシャル)が多く挿入され、視聴者同士がどうのこうの会話しながら、設定された謎を解くことを楽しむようなTVドラマ、例えば「刑事コロンボ」のような作品は別として、観客が能動的に作中の謎を指摘させるような試みは、会話をすることが難しい劇場内では、おそらく無理だろう。
さらに、そのような問題を乗り越え、「謎解き映画」が成り立つとして、それは果たして面白いといえるのだろうか。
『殺人ゲームへの招待』という、複数の犯人と結末を用意した映画があったが、それは、「脚本にはいくらでもこじつけが可能である」という、自虐的な事実を指摘したものだった。
結末が意外であればあるほど、ドラマに説得力が無くなり、作品の価値や普遍性が削がれる。
逆に、ドラマに説得力を持たせ、力を入れた作劇をすればするほど、観客の、映画への能動的参加を拒むことになるだろう。

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