『母なる証明』 ギドクを抹殺し得るジュノの驚異的才能

台風の目となって世界の映画の未来を担っていくのは、韓国のキム・ギドク、そしてパク・チャヌクであるはずだった。

2004年度のカンヌ国際映画祭では、不可解にも『華氏911』が最高賞となったが、パク・チャヌクの『オールド・ボーイ』は、明らかにパルム・ドールに相応しい、迫力に満ちた出来だった。
さらにキム・ギドクの、ベルリン銀熊賞受賞作である『サマリア』の、観るものの魂を切り裂き、愛撫するような感覚と、その完成度はあまりにも凄まじく、これだけで彼は実質的に、世界の映画文化の趨勢図を大きく塗り替えてしまったように思える。
これと比べてしまうと、同じく援助交際を扱った原田眞人監督の『バウンス ko GALS』など、恥ずかしくて誰にも観せられない。

両者の作品の素晴らしさは、何よりも、度を超えたパワフルさにある。
それは、この両者のみに限られたものではなく、現在の韓国映画全体にもいえることだ。
かつての、鈴木則文『まむしの兄弟 恐喝三億円』で菅原文太が、銭湯で板切れを振り回し、撲殺しようと暴れまわるメチャクチャさ、野田幸男『0課の女 赤い手錠』で、警察がガスバーナーで被告を拷問する不謹慎ないい加減さ、神代辰巳『悶絶!!どんでん返し』のオリジナリティーあふれる圧倒感。このような日本の混乱期が、ちょうど数年前より韓国に訪れているのではないかと想像される。
韓国映画の、異常な熱気に包まれた現在の状況というのは、率直にうらやましく感じる。
この「386世代」とも呼ばれる監督達の世代以降は、言うまでも無いが、日本において彼らに効し得る才能が、全く生まれていない。
彼らふたりを評価する際、日本の監督を比較対象とするならば、現役の作家では不足だろう。例えば、成瀬や小津を持ち出してこなければならないかもしれない。
ちなみに、アジア3国の監督が撮ったオムニバス、『美しい夜、残酷な朝』でも、パク・チャヌクと、香港のフルーツ・チャンに挟まれた日本代表の三池崇史監督は、ひとりだけ低レベルでいたたまれなかった。

キム・ギドク作品で最も人気があり、評価が高いのは、おそらく、寓話性と耽美的な映像が高次元で結びついた『うつせみ』である。
『春夏秋冬、そして春』においても顕著であるが、キム・ギドクは、寓話性、神話性を突き詰め、よりシンプルに収斂させたテーマを、劇中において何度もしつこくしつこく反復することにおいて、作品の強度を高めていくというメソッドを追求し、また、現代におけるコミニュケーション不全の問題を、修復するような方向に持っていかず、逆に推し進めてしまうことによって、何らかの結論まで突っ走ってしまうという、白痴的ともいえるエキセントリックさを発揮した。
この作品により、実質的に世界の頂点に立ったかに見える、その自らの芸術性について、文字通り「勝利宣言」をしたのが、彼の次作、『弓』劇中においてだった。
「いつまでもピンと張った弓の弦のようでありたい」
最後に挿入された彼のメッセージは、「私は『うつせみ』で、ギリギリまでに精神性をつきつめたことにより、作品を上位のステージに引き上げた。それは、12作品目にあたるこの『弓』においても同じだ。この緊張感をいつまでも維持し、作品を撮り続けていこう」…というように解釈していいかと思う。
この挑発的ともいえる勝利宣言は、彼の、作品への真摯な姿勢と共に、ある程度の増長を感じさせるものであった。
しかし、しっかりとした内容を伴っている以上、この挑発への批判は誰も出来ないし、何よりも、「この調子で撮り続けて欲しい」という気持ちは、多くの観客達も同じである。
映画を未来へ進ませる鍵は、パク・チャヌクとともに、『うつせみ』の成功により、とくにこのキム・ギドクに与えられたように見えた。
そう、あの『グエムル』が公開されるまでは…。

錬金術を究めたかのように見えた、彼の自信を、完膚なきまでに粉砕したのは、アメリカ映画でもない、フランス映画でもない、『殺人の追憶』を撮り、キム・ギドクのすぐ後ろに迫っていた国内の監督、ポン・ジュノだったのだ。
それは、不用意な勝利宣言の代償でもあったのだが、ギドクのことを責めるわけにはいかないだろう。ギドク以外の誰も、ポン・ジュノという、トリックスターによる、素晴らしい『殺人の追憶』からの、さらに大きなジャンプを予想できなかったのだから。
寡作とはいえ、劇場長編わずか3作にしてこの完成度である。これは、映画史上でも例を見ない快挙といえる。
何故か極東の一国に、これほどのタレントが同時に生まれてしまったことは、世界の頂点に立とうとするギドクにとって、突発事故というか、とにかく一気に深刻な状況に陥ってしまうことになったと言わざるを得ないだろう。

『グエムル』は、ヒッチコックの『鳥』のように、エンターテイメントとして、誰もが面白く観ることのできる作品として、充分すぎるほどのボリュームを持っている。しかしながら、『ほえる犬は噛まない』から引き続き継承されている、ヌーヴェルバーグを始めとした、世界古今の映画的記憶を自由闊達に引用し、さらにそれを、作品本体に完璧に従属させてもいる。
いくら液体を吸収しても、まだまだ飽和量に達しない、ハイテク素材のような驚くべき作品だ。
この成功は、多くの観客や映画人にとって完全に想定外の、キム・ギドク以上にユニークすぎる新しい才能の登場を意味していた。
この自在さと余裕、豊かさを目の当たりにすると、キム・ギドクが限界まで引き上げたその精神が、やせぎすの鶏ガラのように思えてくるほどだ。

『ワイルド・アニマル』や『悪い男』にみられるドラマ性、臭みや上澄みをきれいに掬い取ってしまった、『うつせみ』以降のギドクにしてみれば、作品の強度とは、贅肉を限りなくそぎ落とし、純粋な結晶をむき出しにしてこそ得られるものだという認識だっただろう。
もちろんそれ自体は間違いではないし、だからこそ、彼は病的とまでいえる、肥大した自己の妄想を映像化してきたのだ。
『弓』が象徴するように、『うつせみ』以後の彼の作品は、矢の軌道のような、一点を突破しようとする意思によって支えられているように見える。
しかし、尋常ではない熱量は感じても、どう見てもギドクほど必死でない、一見、鼻歌混じりにさえ感じられるパロディ的姿勢で、『グエムル』の、例えば、クライマックスで噴射される毒の煙幕の異常なまでの美しさは、『うつせみ』のクライマックス同様のレベルで、これ以上ない美しさを放っている。
つまり、多方向のベクトルに力が分散されているにも関わらず、一点突破をしようとするギドク同様の強度を保ちつつ、さらには彼が捨ててきてしまったはずの豊かな映画的贅肉まで有し、おまけに興行的に大成功までしているのである。
ギドクによる『グエムル』への、理不尽ないいがかりのように見える批判は、このような、彼が嫉妬に狂わざるを得ないような、必然的背景があったのだと想像している。

作品で感じるとおり、もともと病的であったギドクは、『グエムル』によって、劇的な精神的疲弊を加えられなければならなくなった。
それが垣間見えるのが、『ブレス』や『悲夢』でのコメディ表現の失敗ではないだろうか。
とくに『ブレス』においては、彼の中で、奇跡であり神聖でなければならないはずのクライマックスが、幼稚な組体操じみた表現になってしまっていたのが、その混乱の深刻さを表しているように感じられた。
何故、ギドクは、ドラマ性を残した『サマリア』ではなく、『春夏秋冬、そして春』に代表されるような性質の、寓話一辺倒のスタイルで作品を撮り続ける状況に突入したのかというと、べつに本人がそうしたかったわけではなく、そうしなければならない立場に、ポン・ジュノによって追いやられてしまったからではないか。

さて、意識的か無意識的なのかは判然としないが、キム・ギドクを『グエムル』によって叩き潰してしまうことになったポン・ジュノの新作が、『母なる証明』である。
原作は同名の小説だが、この映画作品は、前述したような諸々の魅力的な386韓国映画の要素が次々にフィーチャーされ、それは無謀にも、それら全てを総括してしまおうとしているように見えるほどだ。
『サマリア』、『復讐者に憐れみを』、そして自身の『殺人の追憶』、『ほえる犬は噛まない』、またチョン・ユンチョル監督の『マラソン』など、どこかで観た場面がつるべ打ちのように展開されていく。
ポン・ジュノは『グエムル』で飽き足らず、さらにこのような様々な贅肉を身に纏うのである。
その試みの異常さのために、この作品は、非常に不穏で、不気味な質感さえ帯びているように感じられる。

これはさすがに意識してるのかもしれない。彼は過去10年程の韓国映画の決定版を提出し、瀕死のギドクにさらなる致命傷を与え、完全に葬り去ろうとしてるのではないかと、私には思えるのだ。
事実、『母なる証明』は、それが充分に可能であるほどに、脚本、演出、撮影と、完璧なダイヤモンドのような、ほぼ非の打ち所の無い作品として完成してしまっている。
脚本について、クライマックスの謎解きの部分が少々都合の良い気がするが、それ以外は、あらゆる面で何もケチがつけられないだろう。

これはポン・ジュノの特長のひとつだが、とにかく登場人物のキャラクターが、あきれるほどにいちいち魅力的である。
まず、主演のキム・ヘジャは、国内のTVドラマのお母さん役でおなじみの、「韓国の母」という異名を持つほどで、原題の「マド(”MOTHER”)」そのものの、アイコンになるに相応しい女優だ。
ポン・ジュノは、この「韓国の母」を、考えうる限り様々に残酷な方法で、しかし、いくらかのユーモアを持っていじめまくる。
最高なのは、自宅の便器を掃除してたら、頭に便器のふたが落下してくるシーンだ。
練馬の大根で脳天を殴られた大女優というのがいたが、便器のふたというのはあまりにもひどすぎる。ひどいけれど、同時にそんなものを真摯に見つめてくれるカメラの優しさが、非常にほほえましく感じる一場面であった。

さらに、息子の悪友の、脇役としては必要以上に複雑でミステリアスな内面も愛らしいし、その男に殴られまくって鼻血を出し、少女の幻影を見る少年達、セパタクローの足技を駆使して、容疑者を威嚇しまくる刑事、携帯電話改造業を営む女子高生、カラオケのマイクを使って大音量で話す尊大な弁護士などなど、市井のなんでもないはずの人々のチャームを、これ以上は無理なほど最大限に膨張させている。
これは、最近のギドクに見られるような、作品を解体し、描くものをストイックに絞ることによって彼岸へと向かう破滅的姿勢とは逆の、あえて「386」の本流に停滞することによって、その力の発揮を狙うという、ある意味で勇敢なものであるかもしれない。
しかし、その選択をしようがしまいが、何にしても水準を大きく超えることができるだろうと、その作品内の中だけでも感じさせてくれるのが本作なのだ。

テオ・アンゲロプロスを想起させるような、荒れ野原での静謐な映像、ベッドから垂れた手の指の先に向けて、ペットボトルからこぼれ出る水が、ゼリーのようにずんすんと侵食してくるサスペンスシーン、バス亭前で排尿しながら、同時に母親に薬を飲ませてもらう表情と、その尿の流れを頭上から捉えた奇跡的に感じるショットなど、一本の映画の中でひとつあれば嬉しいようなクォリティの演出が、惜しげもなく無尽蔵に繰り出される映画的愉悦に、ポン・ジュノのオールラウンダーな才能を、誰であれ認めざるを得ないだろう。
そして、韓国の文化であるらしい「ダンスフロアになってしまうバス車内」で踊りまくるおばさん達を、望遠で夕日とともにとらえたラストシーン、ラリラリのアメリカン・ニューシネマ風に、突然転調してしまうものすごさ。
また中盤で、知恵遅れであるはずの息子から、最も忌避していたはずの記憶を掘り返され絶叫するシーンの、作品自体を軋ませるインパクト。
ところどころ作品は軋む。でも、映画は壊れない。

本当に驚くべきは、このような印象的なあれこれが、脚本によって要請された最良の表現として選ばれた演出のように思える、ということだ。
通常は、感覚的だったり、現実離れしているような演出は、映像的な訴求効果はあっても、脚本の進行を妨げてしまうものだし、実際にほとんどの映画作品がその相克と戦うものである…といのが常識的な考え方であるが、『母なる証明』では、その両者が相乗効果を発揮しているように思える。
この魔法の源泉はどこからくるのか、本当のところは、私には分からない。ただ、ある程度は推理することはできる。

まず、脚本の制作時間を多く取り、同時進行で、不完全な状況ながら絵コンテも切ってしまう。
そして片方が完成した時点で、もう片方を、矛盾の無いように、しかもアイディアをどんどん加えながら、書き変えてしまう。
このプロセスを何度も何度も繰り返すとういう、地味な練り上げ作業の反復が、圧倒的な作品の強度を獲得することにつながっているのではないだろうか。
つまり、脚本が優れた演出を要求し、演出が優れた脚本を要求する、そして両者が飴状に融解して結合するという境地まで、昇華させてしまうのである。
これは、ポン・ジュノが漫画を良く読んでいるということからも、考えられることだ。

ポン・ジュノ作品を観ることによって感じてしまうキム・ギドクに感じる不満は、そういった練り上げの不足から来る脆弱さではないだろうか。
それは、『ワイルド・アニマル』での主人公たちの処遇に感じるような適当さ、良い意味で言えば無軌道さを見れば、よく分かると思う。
もちろんそのようなスタイルは、ギドクの天才を表しているし、美点にもなり得るのだが、その調子で、自身の創作の井戸から水を汲み上げていくことによる枯渇はまぬがれないのではないかと想像されるのだ。

この素晴らしい『母なる証明』が、ギドクをさらに駄目にするのか、それとも、新しい表現に挑戦させるカンフル剤になるのかは、今後、ぜひとも見ていきたい関心事だ。
そしてそのギドクを、さらなる傑作で抹殺するだろうポン・ジュノの新作が、何よりも待ち遠しい。

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