『風立ちぬ』人生の美しき罠

友だちっていうのは、毎日ご飯を一緒に食べたりとか、そういうレベルのもんじゃない。本当の友だちっていうのは、離れていたっていい、会わなくったっていいんだよ。まったく知らなくてもいい。そういうものだよ。
「細野晴臣のぶんぶく茶釜『友だち。』より」

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風の吹く美しい草原の中にいる、少年・二郎。そこには、少年の憧れる飛行機が大挙して飛んでいる。学校の教師が貸してくれた、イタリアの雑誌に載っていた機体達だ。二郎はこの場所が夢の世界であることに気づく。そこで二郎は、飛行機製作に燃える、不敵な笑みをたたえた男・カプローニ伯爵と邂逅する。
このジョヴァンニ・バッチスタ・ジャンニ・カプローニ伯爵というのは、実在の人物であり、第一次大戦中に爆撃機や輸送機の生産で名を馳せたイタリアの革新的天才設計家である。
「ここは私の夢の中の筈だが…」「僕の夢でもあります」「そうすると、夢と夢がくっついたというのか」
この草原は、「自分の力で空を飛びたい」という夢を共有する、時空を超えた場所だというのである。だから彼らはそこで会話をすることができる。あるいは、二郎がそのように思い込みたいだけなのかもしれない。
いまや飛行機設計技術の先端にいるカプローニは、それが理想化された幻影であれ、ともかくもこの日本の少年を激励する。パイロットだけが空を飛ぶのではない、設計家こそが空を飛ぶことをかたちにするのだと。
鳥のような翼を持つ一人乗りの飛行機が、醜悪な巨大戦闘機の攻撃を受け撃墜される、本作の冒頭で表現されたもうひとつの夢。これは、二郎が「近視」である不安から、空を飛ぶことが不可能なのではないかという不安の表れであった。
「飛行機は戦争の道具でも商売の手立てでもない!」「はい!!」力強い励ましに、力強く応える二郎。
この場面の動画は凄まじい。二人の人物が会話しているだけの描写を、ここまでドラマティックに表すことが出来るというのは驚異的だ。人物の顔が、背景が、有機的に動く。観客に迫ってくる。アニメーションにしか到達し得ない、狂気をはらんだ感動的場面である。
自分の夢を叶える道を示された二郎は、「僕は飛行機の設計家になります!」と母親に宣言し、翌朝、学校への通学路を、一歩一歩踏みしめて歩いていく。この後二郎は、東京帝国大学工学部航空学科に入学するのだが、そこまでの描写は全てカットされている。だが彼がそのために猛勉強しただろうことは容易に想像出来る。
そして二郎は、人生の道程の中で時折現れる、この草原とカプローニの幻影に激励され、達成の確認をしていくことになる。

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少年・二郎は、のちに九六式艦上戦闘機や、第二次大戦の一時期において、世界最強とも言われた零式艦上戦闘機、通称「ゼロ戦」の設計者である実際の人物、堀越二郎であった。
この、ひとりの男の一代記を通して、大正から昭和の戦争まで激動の時代を描き、本作のタイトルとしても使用された、堀辰雄の名作文学「風立ちぬ」の内容を添加したのが、本作『風立ちぬ』である。
飛行機設計士の人生と時代の変遷、サナトリウム文学。宮崎駿作品としては、少年少女の冒険や、魔法使いの戦いなど、ファンタジー世界を描いてきた他の映画と比較すると、表面的にはおそろしく地味であることは間違いない。

観客の不満
 

上映が終わると、おそらくジブリファンが多くつめかけているであろう初日の観客席は、重苦しい雰囲気に包まれていた。「なんだか良く分からない」という、不満の声も聞こえてきた。
今までの、幅広い年齢層の多くの観客達に、最低限の明るいカタルシスと爽快感を与えていたスタジオジブリ作品、とりわけ宮崎駿監督作品の持つ大衆性とは異なり、ジブリの第一回作品となった『天空の城ラピュタ』の、極端なまでにアニメーションの明解な高揚感を追求した作風とはかなり隔たりがあるような質感を感じたのは事実だ。
しかし、では『天空の城ラピュタ』を象徴するキャッチコピー、「血湧き 肉踊る 漫画映画」が、『風立ちぬ』には適用されないのかというと、そんなことはない。地味な題材を、狂気を感じるほどにアニメーションの特性を最大限に活かしているのは、前述の動画表現などからも理解できる。
ピクサー映画などの機械の擬人化まではいかないものの、空気抵抗に歪み、きしみ、震え、ときに破裂する飛行機の有機的な動き、エンジン音などを人の声で表現した、まるで飛行機が「生きている」ような演出は、十分にファンタジックであり、アニメーションの根源的な魅力をしっかりと拾っている。
ディズニースタジオの初期からの偉大なアニメーター、ウォード・キンボールによると、ディズニースタジオ創始者のウォルト・ディズニーは、「ミッキーがピアノを乱暴に叩いたらピアノはどう感じるだろう」と言う位、アニメの中で全ての物体に感情を持たせようとしたという。
「生命を吹き込む魔法」とも表現されるが、宮崎駿は飛行機に、またそれを美しく運動させることで、愛情を持って魔法のように生命を吹き込んでいくのが分かる。

それでは何故この「漫画映画」に不満が多く集まったのだろうか。それは、大きく分けてふたつ原因があったように思う。
ひとつは単純に、設計家の人生、そして二郎のキャラクターについて共感しづらいということ。
ここでは、海軍が審査する軍用試作飛行機のテスト飛行が物語のクライマックスになっており、そのために、例えば一時的に揚力を上げるスプリットフラップや、空気抵抗を減らすための引っ込み脚と沈頭鋲の採用を思案したり(しかも、機体が重くなるので見送る装備・機能などもマニアックに紹介されている)、またドイツに飛行機を見学しに行き、旅客機G-38を改造した軍用機に試乗するというエピソード(格納庫から悠然と姿を現す場面は、宮崎監督のTV版ルパン三世「死の翼アルバトロス」と全く同じ演出である)を、ひとつひとつ感動を持って享受することができるかといえば、難しいかもしれない。
これに拍車をかけているのは、主人公が飄々として感情を露にしない人物に設定されている点であろう。ここに、声優経験の無い庵野秀明の声があてられているのも影響して、感情移入が難しく、ドラマが平坦で単調に見えてしまうのである。
このキャラクター設定は、堀辰雄の原作小説「風立ちぬ」から来ているはずで、小説同様、このような性質を持った作品の場合、観客の側が能動的に「作品を読む」努力が必要とされる。そのために、この映画の真価に触れるところまでいかなかった観客が多いだろうことは想像できる。

不満のもうひとつの原因は、それら「設計家の人生」と「サナトリウム文学」が結びついたものが、何を指し示しているのかが見えづらいという点にある。そのあたりの筋が通らなければ、作品への低評価も致し方ないだろう。
芸術品のような戦闘試作機を完成させた二郎。命を投げ出して女の本懐を遂げた、彼の妻・里見菜穂子。この寂しくも感動的で、あまりにもささやかな「勝利」が、分かりやすいカタルシスの無いビターなものであり、またその後のラストシーンの夢の解釈がとらえづらいことも確かではある(これについては後述する)。そしてこの問題も、作品を素直な目で丁寧に見ていくことによって解決されるはずだと思われる。
私は初日から一週間以上過ぎてからまた鑑賞したのだが、主観では二回目の方が、観客の反応や、上映後の劇場の雰囲気が良かった。過大な期待や熱狂から離れ、落ち着いた目で見ることで、この作品は真価を発揮していくのではないか。
私自身も、初回は腑に落ちない部分もいくつかあったのだが、物語の概要を把握した上で見直したら、脚本が非常に良く出来ていることに気づくことができた。
おそらくは時間の経過と共に『風立ちぬ』の評価は徐々に上がっていくものと思われる。

 

幻想の草原の煉獄と堀越二郎の戦争責任
 

さて、二郎の夢に何度も出てくる草原とは何であったか。
カプローニは、自分が夢の中にいることを認め、さらに「この世は夢」と合点していたが、本作においてこの場所は、死者や生者が交信することのできる時空を超えた草原であり、また同時に、夢見がちな二郎の頭の中の妄想にも見えてしまう。このせいで理解しづらくなっているのかもしれないが、このバランスは宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」における、親友との銀河の星めぐりに近いイメージ…妄想と現実と異界との混合世界だと思われる。
そして、やはりその複雑なバランスで倒立する世界を、単純な理屈や政治思想を通し理解するのでなく、自らの感性を総動員して、二郎の目を通し「体験」する必要がある。
そしてその意味において、『風立ちぬ』を見ること自体が、宮沢賢治の謎めいた童話に触れるような、高度で複雑な経験になっているといえるだろう。

初めてカプローニが出てくる夢では、彼は遠くへ飛行していく自作爆撃機の編隊を指しながら「街を焼きに行くんだ、この半分も戻るまい」と説明する。
だから少年時代の二郎は、ただ無垢に飛行機の美しい面に魅せられるだけではなく、先進技術が戦争・暴力に利用され、人の命を奪う危険性があるということも、一応は見て知識としては理解しているということになる。
ここで気になるのは、それを知っていながら軍用機を設計し続けた、劇中の堀越二郎という人物をどう理解したらいいだろうという部分だ。

堀越二郎は作品の中で、いじめられている下級生を助けてケンカをしたり、また関東大震災において難儀している女性を献身的に助けたりするくらい、正義感のある人間としても描かれるが、その一方で、自分の夢を叶えることに執着し、周囲の話を聞かないような人物としても描かれている。
会議で人の意見を受け流すだけで乗り切るところもそうだし、海軍からの依頼書を読みふけり、設計課長の服部の呼びかけも聴こえていない部分もそう。また菜穂子の父親を交えて彼女に求婚する際も、父親の制止を意に介さないし、さらに喀血した菜穂子を見舞うときも、嫁の実家である里見邸に庭から入るという無作法(これは堀辰雄「風立ちぬ」からとられている)を、全く気にしていないようである。
その二郎の常識の無さや、一種の非人間性は、劇中では上司の黒川に「お前も人間だったか」と揶揄されもするし、婚礼の儀においては、「鈍感愚物のおのこ(男)なり」と紹介させることで強調されている。食事など日常の生活にもあまり興味が無く、学生時代からさば味噌定食ばかり食べていて、友人の設計仲間・本庄(実在の人物がモデル)からは「マンネリズムだ」と指摘される。自分の生きる目的に対し、誠実でがむしゃらでありながら、自分の生活や周囲への対応はおざなりになってしまう。思えば、少年時代に外国の雑誌に熱中するあまり、「笹取りに行きましょう」という妹の誘いを無視するところから(本作ではことごとく妹はほっておかれている)、その描写は始まっている。
唯一、飛行機以外に彼の心を動かしたのが里見菜穂子という存在だが、彼女が重い結核にかかり、残された時間が少ないという状況においてでさえ、それでもやはり飛行機を作る夢を優先させてしまう。さらに日本が世界を敵に回し、戦況が悪化すること予期しながらも、二郎は絶対にその手を休めることはない。
「男は仕事をしてこそのものだ」と里見氏がフォローするのも分からなくはないが、この飛行機へののめり込み具合は、さすがに少し異常とも思える。

『風立ちぬ』には実際の戦争の描写が無いが、ラストの草原のシークエンスに移行する前に、ワンカットだけ、空襲され大量の黒煙が湧く街の遠景が挿入され、第二次大戦における日本の敗戦が表現されている。
もちろん、敗戦が堀越二郎個人の責任とは思わないが、二郎が研究と設計にのめりこんだ結果、のちにゼロ戦などの戦闘機が生まれ、最終的には、それが敵・味方を含め、多くの人命を奪うことにつながってしまったことは事実だ。
少年時代に夢見た美しい草原、カプローニとの邂逅、そして彼の激励は、ある意味では地獄のような場所=煉獄(天国に行けなかった罪ある者の世界)の光景であり、悪魔のささやきでもあったともいえるだろう。二郎は知らぬうちに「地獄のような場所」への道を、「力を尽くして」歩いていたのである。

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アメリカは、堀越二郎がのちにつくり出した零戦について、徹底的な軽量化による軽快な運動性と、優れた上昇性能を高く評価した。
この極めて高い運動性能は、一対一の「格闘戦」における圧倒的な有利を意味していたし、実際にアメリカ軍パイロットは、零戦とのドッグファイトを避ける指示が与えられていた。
航続距離も長く、様々な作戦に対応でき、また格闘戦において世界最強とも謳われた零戦のコンセプトと設計は、当時の日本の技術力、経済力の中では、戦闘を有利に進めるために、ある意味でベストといえる選択であっただろう。
だが零戦には、防弾装備が全く無いという致命的欠陥があった。また航続距離を伸ばすために、機体にいくつも燃料タンクを備えていたため、非常に燃えやすかったという。
一発でも弾丸が機体のどこかに当たるだけで、簡単にこれを撃破することができた。誰が呼んだか、一発で火が点くという意味から、零戦には「ワンショットライター」との異名もあるのである。(※注:コメント欄におきまして、「ワンショットライター」の呼称は一式陸上攻撃機へのものであるというご指摘を受けました)
この機体の欠点によって、優秀なパイロットを多数亡くしたことで、日本は次第に劣勢になっていく。
量産される機体に乗っては、もろともに死んでいくパイロット達…。当時の日本の新聞は、「もっと前線に零戦を!」と書き立てた。

最後の夢のシークエンスに登場したパイロット達は、言うまでもなく零戦の戦死者達である。
成長したとしても決して家に帰り着くことが無い彼らの姿は、爆弾を抱え敵の空母などに機体ごと突っ込む「特攻作戦」を暗示しているように思われる。
特攻とは、上官が部下に「死んで来い」と命令する作戦である。戦争で兵士に100%死ぬ作戦行動を命ずる国家というのは、歴史上でも例を見ないらしい。
上級生から下級生を守る二郎の正義感を描いたのは、まさにこの事実から逆算して考えられたものだろう。
皇軍の名のもとに、上官からパイロットに押し付けられた理不尽な作戦に、零戦と若いパイロット達の命が使われたのである。はっきりと感情が示されないものの、二郎がこの事態に耐え難いほどの衝撃を受けただろうことは、それまでの描写から、想像に難くないところである。
だから、二郎の夢には零戦とパイロットが現れる。この先も繰り返し、この美しく残酷な幻影を、二郎は死ぬまでに何度も何度も見続けることになるかもしれない。

「日本の航空技術の進歩への貢献」を無視して、「人命の尊重」という社会的視点から見たときに、二郎は何もしないほうが良かったか、飛行機設計をあきらめた方が良かったかというと、それはそうだと思う。
だが、美しい飛行機を作る夢を持った人間の前に、最新鋭、高速の飛行機を作ることを求められるという、これ以上無いほど都合の良いレールが敷かれてしまったのである。
漫画版「風立ちぬ」では、当時の日本の国家予算における軍事予算の割合は、1932年(七試製作時)に35.9%、1934年(九試製作時)に43.6%、1936年(十二試製作時)に69.5%ということが示され、「まことにメチャクチャな時代である…」とコメントされている。
「日本の全ての子供達にシベリヤと天丼を食わせることができる」くらいの、国民の税金による予算をつぎ込んだ戦争特需によって、設計家として目的を達することのできる好餌が目の前に置かれているのである。このおそろしい誘惑に、人間は抗することができるだろうか。
ここは、堀越二郎を演じた庵野秀明が監督した、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』と共通する葛藤を見出せる部分である。やはり宮崎と庵野は、『風の谷のナウシカ』以来の、同じ問題を共有した作家であることを思い出させる。
宮崎駿は企画書において、「美しすぎるものへの憧れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少なくない。二郎はズタズタにひきさかれ、挫折し、設計者人生をたちきられる。」と書いている。
憧れが罠であること。宮崎駿はそれを幻想の箇所と現実パート両面の描写によって、周到に外堀を埋めながら中心の空洞を表現するように、丁寧にその恐怖を暗示してゆく。
通常なら必要であっただろう戦闘シーンを、『風立ちぬ』では描いてない。そして国民の尊崇を集めていた天皇と軍部の戦争責任についても、意識的に除外している。だから見ようによってはこのドラマは「戦争の美化」にも見えるかもしれない。
しかし、二郎の人間性と、罠に落ちた人生を描いた映画全体が、戦争の恐怖と危険性を表しているのは、注意深く作品の表現を追っていけば理解できる。これは、表面的に戦争反対のセリフを言わせたり、直接的な恐怖を描くよりも、より自然で高度な試みだったといえるだろう。
とはいえ、特定の批判対象を持たない『風立ちぬ』は、とくに日本の戦争責任について追求している映画ではないと思われる。なので映画全体が曖昧な印象を与えてしまうのだろうが、ここではもっと普遍的な枠組みで、どの国家にも陥る可能性のある、戦争そのものの暴力性を弾劾しているのだろう。その点は『天空の城ラピュタ』や、『ハウルの動く城』での姿勢と変わらない。

 

投げること、受け止めること
 

帰省先から東京に帰ってきた大学生の二郎が、少女の菜穂子に初めて出会ったのは、機関車の連結部分にあるデッキだった。

突風が吹き、二郎の帽子が宙に舞い上がり、それをキャッチする菜穂子。ふたりの出会いは、風が運んできた。
七試艦上戦闘機のテスト飛行に失敗し、失意にあった二郎は、休養のために滞在している、軽井沢の丘にて彼女と再開することになるが、そこでも突風が吹き、今度は二郎の側が、彼女の日除けパラソルを「ナイスキャッチ!」することでお互いを認識する。
その後も軽井沢のホテルにて、紙飛行機を飛ばしキャッチし合うシーンがあるのだが、このしつこいまでの物体のやり取り・運動は、互いの恋愛感情が深まっていく視覚的表現として、言葉よりも明快でスマートに観客に提示される。

映画評論家の蓮實重彦は、ジョン・フォード監督の映画において頻出する、物を投げ合うシーンに着目したテキストを書き、「ジョン・フォードと『投げること』」という講演も行っている。
その要旨は、投げ出されたものの空中での動き、またそれを投げ受け止めるという演者の行為に、サイレント映画のような、映像表現における根源的な感動があるという指摘である。
宮崎駿監督の作品を見ていると、アメリカの海軍航空隊を描いた『荒鷲の翼』や、炭鉱町の風景や文化が『天空の城ラピュタ』の意匠に使われただろう『わが谷は緑なりき』など、ジョン・フォード作品の強い影響下にあることはすぐに分かる。
二郎と菜穂子による物の投げ合いは、このジョン・フォード映画の視覚性を意識した、映像表現の追求を意図したものであるだろう。二人の愛情の深まりを、短い時間にて納得させられることから、この、過去の映画演出の再構築をする試みは、成功しているといえる。

 

「人間なんて滅びたってかまわない」生への衝動と死への衝動
 

機関車のデッキで、少女の菜穂子は、ポール・ヴァレリーの詩を口ずさむ。そしてそれを二郎は反芻する。「風が立つ、生きようと試みなければならない」。
堀辰雄とは異なるかたちで、この詩をわざわざ訳し直している。原作小説にある、有名な「生きめやも」という表現には反語的な意味があり、「生きようと試みなければならない」という、本来に近い訳とは異なってしまっているという。ここでは、「生きようと試みなければならない」という意味を、正しく言い換えてまでしっかりと印象づけようとする。
「風が立つ、生きようと試みなければならない」。これは、風という存在が、人間が生きようとする意志を後押ししているように聞こえる。風が「生への衝動」の象徴になっているのである。
菜穂子は「ナウシカ」を想起させるように、劇中において風とともにある存在である。風は菜穂子であり、菜穂子は二郎に生きる衝動を与える存在となる。七試艦上戦闘機がテスト飛行に失敗し、悲嘆にくれていた二郎に、再び活力を取り戻させるエピソードからも、それは明らかである。しかし前述したように、それは同時に、美しい「罠」に、二郎をもう一度誘い込むことを意味している。

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庵野秀明によると、彼が『風の谷のナウシカ』のスタッフの一員であったときに、当時の打ち上げの場で若い女の子のスタッフが「人間が滅びるようなもの作っていいんですか!?」と宮崎監督に食ってかかるのを横で見てて、監督が「人間なんて滅びたっていいんですよ!」と怒鳴り返してて、「すごい…」と思った、ということがあったらしい。
映画版『風の谷のナウシカ』の世界観は、人類による最終戦争によって放射能で汚染された大地を、人体にとっては有害な腐海と呼ばれる森が浄化し、その森を巨大な蟲達が守る、その相克を描いたものである。
もし人類が大地に存在しなければ、このような汚染はあり得なかったし、さらにその後継たるナウシカ達、後の人類が存在しなければ、大地は腐海に飲み込まれて、そこは蟲達の楽園になっていただろう。そして、その方が、間違いなく大地にとっては「良きこと」であっただろう。つまり、「人間なんて滅びたっていい」ということになる。
これは、現実の世界でも同じことである。古来より人間は、生き物を殺し、森林を焼き払い、地球のあらゆるものを簒奪し消費してきた。工場や乗用車など排気ガスによる大気汚染と、大気中の二酸化炭素の割合の上昇、それにともなう地球温暖化、核兵器や原発による大地や海洋の汚染などは、その最たるものであろう。私も個人的に、そのように環境を酷使し破壊してまで、人類が生きる理由などないように思える。
だが、現実には人類は存続しているし、自分自身もできれば自殺などしたくない。毎日何らかの経済活動をすれば地球の資源を消費し、汚染し、生き物の命を奪いながら、生きながらえている。
もちろんそれは宮崎駿もそうで、本当に彼が地球のことを考えているのであれば、アニメーション製作など辞めた方が良かっただろうし、排気ガスを大量に排出する、趣味のクラシックカーになど乗らずに、せめてエコカーに乗って欲しいものである。
環境を破壊しながら、環境保全を訴える。それは、宮崎駿にとっての矛盾であり、また我々にとっての矛盾でもある。
人間が自らの欲望を抑えきれないのであれば、人間にとっての「生」とは、即ち「他を殺すこと」であり、人間にとっての「死」とは、「他を生かすこと」である。
そして、飛行機の設計が人生の目標となった堀越二郎によっても、生きることは他者を殺すことであった。

ズタズタにひきさかれ汚れてしまった、惨憺たる二郎の悪夢のなかで、カプローニは「君を待っていた人がいる」と、草原の中の菜穂子の存在を教えてくれる。
敗戦国家の技術者として、結果的に大勢の命を奪うことになってしまう、「何もしない方が良かった」二郎に向け、彼女はそれでも「あなた、生きて…」と告げ、風に運ばれて消えてゆく。
「死への衝動」に支配された二郎が、もう一度「生への衝動」へと引き寄せられる。風が凪いで下降していく飛行機に、また「風が立って」浮かび上がるように。
「ありがとう、ありがとう…」と、二郎は人前で初めて感情を激しく露にする。戦死した人々への罪悪感に打ちひしがれても、世界中の誰にも理解されなくとも、自分自身が自分の人生や夢に失望しても、二郎は心のなかの片隅で、そっと自分の夢を許すことができたという瞬間が、この描写であろう。
「いいワインがあるんだ」とカプローニが二郎を促し、草原のなかに消えていくふたり。ただただ純粋な夢を見ていた二郎は、ここではじめてカプローニの経験した苦しみを理解し、本当の友人になれたのだろう。ここで二郎の夢は終わる。
短いシークエンスだが、この作品世界のテーマをイメージとして凝縮して、極めて映像的に表現した演出の華麗さに驚嘆させられる箇所である。
重要なのは、漫画版のナウシカや『天空の城ラピュタ』における、内容的には複雑ではあるが説明セリフによる単純なテーマの伝え方とは異なり、「体感」させるという上位の脚本・演出方法に置換されているということである。
優れて研ぎ澄まされた映像表現と、深い人生への理解。たぎる情熱と裏腹にあるテーマのおそろしさ。『風立ちぬ』は、紛れも無く宮崎駿最良の一作であろう。

 

カストルプは何者だったか、忘れられる歴史
 

軽井沢のホテルで大量のクレソンをたいらげていた、また、トーマス・マンのサナトリウム文学、「魔の山」を引用し、ミュージカル映画『会議は踊る』の曲を歌いピアノを弾く、特高警察に追われる謎のドイツ人・カストルプとは何者であったか。
おそらく彼は、ドイツ国籍でありながら、日本において諜報活動を行っていたソヴィエト連邦のスパイ、リヒャルト・ゾルゲをモデルにした人物だろう。
ゾルゲは学生時代から共産主義的思想に傾倒し、その後ソヴィエト連邦に忠誠を誓い、ナチス党員を装ってスパイ活動を行っていた。「もし平和であったなら、私は諜報員でなく学者になっていただろう」と語る共産主義者の知識人に、宮崎駿がシンパシーを感じるのは道理ではある。
彼はまた、本作の堀越二郎が、堀辰雄とのダブルイメージであるように、ゾルゲと、「魔の山」の主人公カストルプのダブルイメージである。

二郎にシンパシーを覚えたカストルプは、本音を漏らす。ここは下界・浮世事からはなれた「魔の山」であり、ここにいる人間は全てを忘れていくのだと。
「中国と戦争する、忘れる。満州国つくる、忘れる。国連脱退する、忘れる。世界を敵にまわす、忘れる」
そして日本は、ならず者の集まりであるナチスドイツとともに「破裂」すると言う。
外部の人間であるカストルプによるこの鋭い指摘は、当時の世界情勢への批判でもあり、また、時代が戦争から少し離れただけで、忘れ去られていく悲劇と過ちでもある。

関東大震災は忘れ去られ、日本がアジア諸国を軍事力によって征服したことも、国連を脱退し世界を敵に回したことも、アメリカとの戦争に突入した狂気も、自国の子供達を飢えさせた失政も、若者に特攻を命じた国家の罪も、少しずつ忘却されていっている。
もう一度「破裂」を迎えないように、凄惨な歴史を忘れることがあってはならない。カストルプの言を通し、このような理念が同時に語られている。

 


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