『ジャンゴ 繋がれざる者』 SIDE-B 捨て去られるポストモダン

『ジャンゴ 繋がれざる者』の黒人奴隷問題についての取り組みは、「『ジャンゴ 繋がれざる者』 SIDE-A 奴隷描写は正しいか」で述べたので、今回は「SIDE-B」として、本作におけるメタフィジックな面からの作品理解と技術上の取り組みについて述べたい。

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本作のタイトルと主題歌、主人公の名前は、マカロニ・ウェスタンの代表的監督のひとりであるセルジオ・コルブッチの『続・荒野の用心棒』(“Django”)からきている。
「続」なんて言ってるので、邦題ではセルジオ・レオーネ監督による『荒野の用心棒』の続編のように思ってしまうが、実際は設定が少し似ているだけで、『荒野の用心棒』とは何も関係が無い。そしてこの”Django”自体も、異なった俳優や異なった監督で、『皆殺しのジャンゴ』、『血斗のジャンゴ』と、正統な流れがよく分からないまま、乱暴にタイトルがつけられていた。
アメリカでの公開時にもやはり同じ状況が起きていて、英題でも”Django”と名のつく、関係のないマカロニ・ウェスタンが数作ある。
であれば、もはや”Django”を標榜するのに、法律上はともかく、道義上についていまさら気を使う必要はないのかもしれない。またこれに対してタランティーノは、『続・荒野の用心棒』の主役であったフランコ・ネロを劇中に登場させるユーモアによって緩和策をとっている。
そういう意味で、三池崇史監督がマカロニ同様、無国籍ウェスタンとして撮った『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』(2007年)は、そのような脆弱な部分をついた企画だといえよう。これは、ゲストとして三池監督の友人であるタランティーノも出演してるのだが、トラッシュ(ゴミ)映画の乱雑な雰囲気を狙ったのかどうか知らないが、たとえそうだとしも、この作品のクォリティは異様に低過ぎた。『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』に対する、タランティーノの不満が、『ジャンゴ 繋がれざる者』制作の動機にもつながっているように思える。
『続・荒野の用心棒』では『レザボア・ドッグス』のアイコンともいえる「耳切り」拷問のシーンがあるし、『キル・ビル Vol.2 』で生き埋めにされた主人公のブライドが墓から手を出すシーンが『皆殺しのジャンゴ』のオマージュであったように、”Django”に対するタランティーノの思い入れは周知のところである。
『続・荒野の用心棒』は美術が美しい作品だが、アメリカ西部の乾燥した気候の、アメリカ産「西部劇」とは異なり、異常なまでに足場が泥まみれなのが面白い。とにかくそこらの地面が泥水だらけで、そこで戦うガンマンももちろん泥まみれになる。
そのあたりは『ジャンゴ 繋がれざる者』でもいくらかは踏襲してある。アメリカ南部は湿潤で湿地帯も多いので、これはいくらか好都合であったかもしれない。
『ジャンゴ 繋がれざる者』の、いかにもB級かつエネルギッシュに感じる撮影は、素早いズームの多用が、その醸成に寄与してるだろう。またこれは、タランティーノやジョン・ウーの尊敬する石井輝男の常套的な演出でもあった。

『ジャンゴ 繋がれざる者』は、タランティーノ監督にとって、アメリカでの最大のヒット作ともなったということもあり、やはりエンターテイメント作品としての完成度は高い。
上記のような「B級作品」として観てもそれなりに面白いし、レンズフレアを発生させていたりなど胸にせまるもののがあるものの、では例えば『続・荒野の用心棒』で描かれている本来のB級的な面白さとは明らかに本質的な意味で異なるし、比べてしまうと、なんとなくパワーダウンしているように思えてならない。
その大きな原因は、やはりガン・アクションの魅力においてである。機関銃での敵掃討や、クライマックスでのアクロバティックな銃撃など、アクションとしての派手な見せ場、つまり必殺技や難度の高いアクションのようなものが、『ジャンゴ 繋がれざる者』には無いのだ。
確かに、南部の商売人の邸宅で、『続・荒野の用心棒』ほどのアクロバティックな銃撃戦が繰り広げられるわけがない。タランティーノはここで、よりリアリティを重視した演出を選択しているともいえるが、そもそもマカロニ・ウェスタンの荒唐無稽さを再現したいのであれば、その魅力をあえて捨て去る必要はないように思える。
躍動的な魅力よりも、スローモーションを多用した形式的な美的表現だったり、またスプラッター描写の誇張に傾き過ぎているところを見ると、タランティーノはガン・アクションの本質的な面白さ、即ち純粋なアクションの運動や曲芸的な興奮自体に、あまり興味が無いのではないかと思わせるのだ。
だから、『ジャンゴ 繋がれざる者』から感じとれる面白さというのは、「『ジャンゴ 繋がれざる者』 SIDE-A 奴隷描写は正しいか」に書いたような、「黒人差別を描いた西部劇」というエッヂの立った試み以外には、依然としてタランティーノ映画特有の、ユーモアのある緊迫した会話劇や、郷愁的で知的な美学の表現に限られることになる。そこには独創たろうとする信念を感じはするものの、以前ほどのフレッシュな印象が薄れてしまっていることは否めないだろう。

ここで、クエンティン・タランティーノ監督による、今までの作品における映画への関わり方を振り返ってみたい。
タランティーノが「時代の寵児」とまで呼ばれ注目されたのは、『パルプ・フィクション』においてである。アカデミー賞では脚本賞を受賞し、カンヌ国際映画祭ではパルム・ドールを獲得した、大きなインパクトのあった作品だが、ここでの評価はその先進性に多くを負っているだろう。
その先進性とは、極めて自覚的に「ポストモダン」的な取り組みを、エンターテイメントの分野に軸足を置いたままで成し遂げたことにある。
創作文化におけるポストモダン的作品の特徴とは、例えば「衒学的であること」、「記号的であること」、「模倣的であること」、「時間軸が無秩序的であること」などが挙げられる。そしてそれらがタランティーノの作家性にそのまま合致することは言うまでもない。

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そもそもポストモダン的取り組みが映画において行われ大きくブレイクしたのは、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』であろう。「ポスト・モダニズム」という言葉が使用される以前の作品である。そこでは、無秩序的にカメラが動き、時間は省略され、アクションやサスペンスが本来の意味としては無効化されていることに気づくだろう。ここでは、映画がつくりものであるという事実を、逆に印象付けるような演出がとられている。
1930年代までに、ささやかな隆盛を見せた「芸術映画」が衰退し、大筋の流れでは演劇的なリアリティを追求してきた、現在まで続く「映画シーン」において、この、映画における保守的な文法を解体し提示するような挑戦的作品の発表は、映画史の一大事件と呼んでも差し支えないだろう。これは『大人は判ってくれない』で成功し、より広い評価を得たフランソワ・トリュフォーの時代的な先進性を、さらに過激に超え、映画表現の進化を一足飛びに加速させるものだった。
タランティーノは、この知性的に特権的であるゴダールのメソッドを自作に取り入れる。彼がゴダールを信奉していることは、自身が経営する映画製作会社、”A Band Apart”が、ゴダール監督作『はなればなれに(Bande à part)』を引用していることからも明らかである。
しかしタランティーノの作品がとくにユニークであり新鮮だったのは、彼がレンタルヴィデオ・ショップで働いていた当時見まくっていたマカロニ・ウェスタンをはじめ、ブラック・エクスプロイテーション、香港のカンフー映画、日本のヤクザ映画などの、「大衆映画」の要素をそのまま、芸術的なメソッドのなかで利用したという点に尽きる。タランティーノ作品がきわめて大衆的なのに、どこかハイソな雰囲気がつきまとう理由はこういうことなのだろう。
『パルプ・フィクション』というタイトルは、作品の冒頭でも説明があるように、安っぽい紙の冊子に扇情的な読みものが印刷された、大衆誌のことである。
ここでタランティーノは、パルプ雑誌からもたらされる印象を抽出、解体し、ポストモダン的メソッドでそれらを配置していく。それはあたかも美術の分野で、ピカソやブラックが、印刷物をキャンバスに貼りつけて、既存のものを別の意味として表現し直した、「コラージュ」技法のようにも見える。
つまりは、『パルプ・フィクション』とは、映画という媒体に、パルプ雑誌の印象を切り貼りし、芸術作品として生まれ変わらせたコラージュ作品、と表現することができる。

美術の分野において、既存のものに新たな意味を見出だし、美術作品として発表することを、美術用語で「レディ・メイド(既製品)」ともいう。
それを知らしめた最も有名な作品は、マルセル・デュシャンの発表した、トイレに設置される既製物を、そのまま手を加えず展示した「泉」であろう。
さらにその後、アンディ・ウォーホルがキャンベル・スープ缶のような、ありふれた工業製品をシルクスクリーン作品の題材にしたことで、その大胆な試みとポップな魅力は一般大衆にまで認知されたのも有名である。
アンディ・ウォーホルは、他にもエルヴィス・プレスリーやマリリン・モンローなど、アメリカのポップアイコンをも題材とした。それは、人々の概念に固定化し表面化された意味性を解体し抜き出す行為であり、集合的な意味において、その題材がもともと持っていた「本質」が変質していくという事実を指し示してもいる。
タランティーノの映画は、ブラック・エクスプロイテーション風の演出であれ、カンフー・アクションであれ、確かに既視的なものである。だがやはり観客の前に提示されたそれらは、元の作品の持つ「本質」を表してはいない、あくまで表面的なイメージに変質されてしまっているということになる。

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「グラインドハウス」は、タランティーノがロバート・ロドリゲス監督とともに、安っぽいエクスプロイテーション映画を上映していた当時の劇場を再現するという試みの上映であった。
擦り切れたフィルムをわざと再現するため傷だらけにしたり、途中でフィルムが切断されてしまって継ぎ合わされていることを示すためにシーンがジャンプしている、また実在しないグラインド映画の予告編(のちに数作が実際に製作された)を挿入したりなど、パロディ的な「お遊び」をやってるように見えるものの、これもきわめて意識的に、今度は作品の外側においても、今までのメソッドを利用していることが分かる。
ここに至っては、もはやその公開自体がある種のパフォーミングアートとして機能している、ひどく先進的な挑戦ということになるだろう。
タランティーノによる『デス・プルーフ in グラインドハウス』は驚異的な傑作だ。それは、ポストモダン的取り組みが極度に洗練され、作品内外にまで波及するポップさが、唯一無二のところまで到達しているからである。その意味においてタランティーノは、同じような取り組みをするフォロワー監督達をはるかに乗り越えてしまったといえる。
ただし、「グラインドハウス」は興行的に惨敗してしまった。

『ジャンゴ 繋がれざる者』は、アメリカではタランティーノ監督作として最大のヒットを記録し、その前のタイトル『イングロリアス・バスターズ』とともに、商業的に成功している。
それは、ブラッド・ピットやレオナルド・ディカプリオなどのスター俳優を出演させたということも大きいだろうが、何か今までの作品とは、本質的に変化しているような印象も与えられる。
『イングロリアス・バスターズ』や『ジャンゴ 繋がれざる者』は、確かに今までの作品のようなパロディ、オマージュなど引用は健在であるものの、それが、元作品の持つ「本質」が変質するところまで昇華されていないように感じられるのである。
例えば、『イングロリアス・バスターズ』で引用される戦争映画の「緊迫するシーン」はそのまま緊迫するシーンとして引用され、『ジャンゴ 繋がれざる者』のマカロニウェスタンの引用は、そのままマカロニ的な魅力のまま、きわめてストレートに表現されてしまっている。
極端に例えると、それはマルセル・デュシャンがトイレをトイレとして発表し、アンディ・ウォーホルがマリリン・モンローの肖像を、彼女のファン向けにピンナップとして販売してるようなものであり、『パルプ・フィクション』は、そのまま「パルプ雑誌」的価値観のものとして発表されるようなことになってしまう。
何故そういうことになったかというと、おそらくひとつは前述のような興行的な失敗による危機感があるだろうし、企画を通すときの具体的な「保守的要請」があったかもしれない。つまり、『デス・プルーフ in グラインドハウス』のような実験性を、この二作においては捨てることを選択しているということである。
そしてもうひとつは、タランティーノが作家として、自分が影響を受けてきた映画作品と同じようなものを作りたいというような、「本格」への挑戦心が生まれているということもあるのだろう。『キル・ビル』で、既にその萌芽は見られていた。

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そこで問題になるのは、それではタランティーノが、今まで引用してきたようなジャンル映画をそのまま撮る才覚があるのか、ということである。
『ジャンゴ 繋がれざる者』撮影は美しく力強い。しかし我々は他の映画においてこれ以上の西部の風景を目の当たりにしている。もっと馬の実体感を深く体験しているし、華麗なガン・アクションも知っている。ジャンゴにおいて際立つのは、やはり会話劇に限られてしまう。
これが傑作といえるような本格のジャンル映画になっているかというと、アクションの描写や演出スタイルの錬度という点でシビアに見た場合、セルジオ・コルブッチの『続・荒野の用心棒』と比べても、やはり一歩弱い。
それでも私は『ジャンゴ 繋がれざる者』が、『続・荒野の用心棒』に比べ総合的には劣っていないように思うのだが、それはあくまで、黒人奴隷描写の新鮮さや会話劇の面白さなど、二次的な要素が豊かであるからである。そしてそのために映画がいささか冗長になってしまっている面も否めない。
少なくとも、今までタランティーノが持っていた圧倒的な強さ、他の追随を許さない先進性は殺されていることは間違いない。より普通の映画に近づいたことで、「本格」の魅力と大衆的な娯楽性が新しく備わったものの、従来の映画の枠に行儀よく収まってしまい、独自性も、映画史的な価値観も低いものになってしまっているように感じられる。
タランティーノがアートという高踏的なステージから、娯楽映画という群雄割拠の渦中に飛び込んだことはチャレンジングだといえる。だからこそ冷静な目で慎重に評価したいと思う。
だから私は、現時点で挑戦の過渡期だといえる『ジャンゴ 繋がれざる者』がタランティーノの「最高傑作」だとする意見には賛同できないし、そう評する言説は、タランティーノ映画への無理解から生まれているのではないかという疑念を持っている。
『パルプ・フィクション』や『ジャッキー・ブラウン』、『デス・プルーフ』のような、「本格」ではないからこそ、ある種の魅力を発散していたタランティーノの、本質的に映画に関わりたい、しかし今まで関わることができなかったという作家としての心理的葛藤を、『ジャンゴ 繋がれざる者』から読み取ることが出来る。

 



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