『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』は「サイコー!」なのか?

アメコミの映画化作品として業界の中心的存在となっているマーベル・スタジオズが制作し、ウォルト・ディズニー・スタジオが配給した、銀河のはみ出し者たちを主人公としたヒーロー作品だ。
マーベルコミックのなかでも、これはほとんど知られてない原作らしく、1969年発表当時の主人公達(初代ガーディアンズ)は、ヨンドゥ・ウドンタ(矢を使うネイティブアメリカン風の男)以外は、今回の映画版に登場しておらず、映画版ガーディアンズは、2008年に発表されたコミックに描かれたチームを採用している。
こんなに知られていない原作を使用するというのは、さすがにマーベル作品も映画化のネタが無くなってきたのか?とも思えるが、同時にそのような原作でも、コミック原作映画の企画が成立するようになってきた、つまり原作の知名度に頼らなくても良くなってきたという状況の証左であるともいえるだろう。

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だがそれよりも、この企画の最大の驚きは、このように巨大化した、マーベルやディズニーのビッグ・バジェット映画に、かつて、Z級映画(超低予算のトラッシュ作品)を手がけるインディペンデント制作会社「トロマ・エンターテインメント」で、映画の脚本を150ドルの報酬で書いたり演出を行っていたジェームズ・ガンが抜擢され、脚本と演出を担当したということだ。
トロマ映画で数作仕事をした後、ジェームズ・ガンは、『スクービー・ドゥー』や『ドーン・オブ・ザ・デッド』の脚本で、メジャー作品制作への転進に成功する。
ジェームズ・ガン監督の脚本・演出長編作品としては、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の前作にあたる『スーパー!』がある。この作品はなかなか素晴らしいので、是非観てみて欲しい。
冴えない民間人がスーパーヒーローの真似事をして悪党と戦うという、『キック・アス』と設定が酷似しながら、ヴァイオレンス&セックスを描く上で、はるかに過激で異常性をはらんでいて、甘い成長物語だけで終わらせず、さらに深いオタクの精神世界の闇にまで到達しながら希望を感じさせるものになっている。
オタク文化の愛らしい点を認めながらも、批判精神を持って描くことが出来るというバランス感覚があるので、オタクだけが喜ぶような身勝手な着地でなく、普遍的な力を獲得していると思う。

『スーパー!』から感じられるジェームズ・ガン監督の持ち味というのは、普通のメジャー作家であれば躊躇してしまうような、暴力や性的な描写におそれず突っ込んで行けるというところだろう。これは、彼がトロマ映画出身だからこそ発揮できる魅力であるはずだ。彼はメジャー作品の価値観の逆を行くことで、メジャー作品としてエッヂを立てることに成功したといえる。
その意味において本作、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』が退屈だと感じるのは、彼のそういった持ち味が、ほとんどスポイルされてしまっている点だ。
本作は、マーベル映画でありディズニー配給映画であって、MPAAによるPG-13(実質的には13歳に満たなくとも観られる)指定の、子供でも楽しめるように作られた、甘い味付けのメジャー作品なのである。
もちろん、甘い味付けのメジャー作品自体が悪いというわけではなく、その領域はジェームズ・ガンが得意としていた部分がほとんど生かせないようなフィールドだということだ。
もちろん、ジェームズ・ガンの長所はそればかりではない。脚本における彼独特の小ネタやシュールな感性は、過激さを失いつつも、それなりに『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』にも生きているといえるだろう。
だが客観的に見ても、その一点で満足させるほどの、例えばデヴィッド・リンチやクエンティン・タランティーノが持っているような圧倒的に独創性なセンスがあるというわけではない『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』は、やはり印象が弱く焦点がボケたものになっている。

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本作の特徴の一つは、SFアクション映画にも関わらず、「ウガチャカ、ウガウガ」でおなじみのBLUE SWEDEの”Hooked on a Feeling”や、10ccの”I’M NOT IN LOVE”など、70年代の音楽を中心に、懐かしいヒット曲が、劇中でふんだんにかかっているという点である。
今はこの世にいない母親から、少年時代にもらったカセットテープ「最強ミックス(Awesome Mix Vol.1)」を、主人公・ピーター・クイル(スター・ロード)は古い型のウォークマンでしばしば聴いていて、その曲がひとつずつBGMとして紹介されていくのである。この選曲が本作のアイコンになっていて、ムードを作り出しているといえる。
結局、選曲のセンスが良い、悪いというのは、個々人の体験や文化的興味に左右され、どうしても主観的にならざるを得ないところがあるので、ここでその是非を一般化して問うのは難しい。だが、個人的にはやはり違和感が大きい。
例えば、”Hooked on a Feeling”はタランティーノ監督の『レザボア・ドッグス』で使用されたことで有名で、もうすでに色がついてしまっているし、ジャクソン5の”I Want You Back”や、ザ・ランナウェイズ”Cherry Bomb”あたりに至っては、あまりに有名過ぎて劇中曲として聴くのが難しい。ラストで流れるマーヴィン・ゲイのデュエット・ソング、”Ain’t No Mountain High Enough”は、作品の主題歌のような扱いになっているが、もうこれも相当に知られている曲のため、無理やり感が強い。
ジェームズ・ガン監督は70年代のヒット曲を、当時のヒットチャートを確認しながら、「有名過ぎない曲」で、さらに歌詞が本作の場面に合ったものを選定したらしい。
確かにこれらは、NO.1ヒットにはなっていない曲が多いのかもしれないけれど、さすがにセールスの上位に食い込んでいる商業的なヒット曲ばかりなので、ほとんどどこかで聴いたことのある、馴染みのあるものが並んでしまっていて、タランティーノのような、それほど知られていない古い曲を、別の意味合いとして再生させるような、キュレーター的な優れたセンスや、何らかの個人的な情熱や思い入れをあまり感じないのだ。それはやはり、「ヒットチャート」という、商業的なデータを基に選定しているというところに原因があるのではないだろうか。
また、ある個人の趣向が反映しているような感じがしないというのは、これが「主人公の母親の趣味」であるという設定を考えると、その意味では、さらにうまくないということになってしまう。
趣味というよりは、彼女の青春時代の、一番いい時代にかかっていた曲、ということなのかもしれないが、それを子供にわざわざ聴かせるというのは、「親の愛」として認識していいのかどうか、ビミョーなところだろう。だから、劇中で流れている曲が、なんとなくこちらの感情にうまく繋がらないまま進んでいくのである。

スター・ロードが、少年時代からずっと開けていなかった母親からのプレゼントを開けるというのは、彼が少年時代に、死の間際の母親の手を握ることが出来なかったという後悔が、母親のように信じ合うことができる仲間達と手を握ることで克服することが出来たということなのだろう。
成長物語として、それなりにうまく出来ているかもしれないが、そのプレゼントというのが、「最強ミックス2(Awesome Mix Vol.2)」だったというのは、テーマがブレていると感じた箇所だ。やっと母離れが出来たと思ったのに、またマザコンに戻ってしまうような展開になってしまっている。

ついでに言うと、スター・ロードが未開の惑星のような場所でオーブを盗み出す『レイダース』のような展開の、主人公が観客に紹介される前半のシークエンスも、かなりまずいと感じる。
彼は惑星に降り立って、オーブに向かう途中、ウォークマンを聴いて踊りながら進んでいくのである。私はこのシーンを見て、「惑星の探査にでも来たのかな?」と思った。
だが実際は、オーブを盗み出すという危険なミッションの最中だったのが、この後のアクションシーンで分かるのだ。
考えてみて欲しいのだが、見つかったら殺される可能性のある不法行為をしている最中に、音楽を聴くことで聴覚を鈍らせながら踊りまくるなんてことをするだろうか。もしそういうことをする人がいるとしても、そういった行為に感情移入するのは困難ではないだろうか。少なくとも、私は非常に気になった箇所である。

私が考える、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』が決定的に退屈だと感じる理由は、創造力があまりに貧困で図式的であって、あまりにも単純だという点である。
SF作品なので、グリーンバックを使っての撮影や、屋内セット撮影が主となっているのは分かるが、役者をセットの中央に立たせ演技をさせることで、映画というより舞台作品を見ているような、スケールの小さな印象を与えられてしまう。セットやCG背景が豪華な書き割りの意味にしかなっておらず、登場人物が作品世界の中に存在するように見えないのだ。
本作は『スター・ウォーズ』シリーズへの愛情が生かされていると監督は語るが、『スター・ウォーズ』が素晴らしい点のひとつに、作品内のリアリティーを高めるセットの使い方というのがある。
例えば、宇宙船の廊下の繋ぎ目だとかダクトの横みたいな良く分からない場所をセットとして作って、そこで重要な出来事だったりアクションが展開することが多い。それらは印象的な場所でもなく、説明もしにくいような場所だが、それだけに観客は、その外にも世界が広がっているような錯覚を与えられるのである。
何故そのようなことが可能になるかというと、おそらく『スター・ウォーズ』シリーズは、実際に画面に映らなかった部分を含めて、細かな設計図やマップを用意しているからであろう。だから、そのような場所を舞台に設定できるのである。

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の設定にリアリティーが欠けているというのは、例えば、悪役のロナン・ジ・アキューザーと黒幕サノスが会話をしている、あの宇宙空間に浮かんだ岩場というのが、それを象徴していると思う。
彼らは何やら重要な会議をしていたようだが、あの辺鄙(へんぴ)な場所を選んで、みんなであそこに集まるという理屈が、非常に納得しづらい。何やらヴィデオ・ゲームの最終ステージようなあの場所は、会議に向いているのだろうか?宇宙船で参加者をピックアップして、船内で話した方がいいのではいいのではないだろうか。
そしてロナンはあそこで意見の違う仲間を殺しているが、会議中に仲間を突然殺害したロナンは、サノスから何のお咎めも無いのだろうか。
ロナンという男はどんなパーソナリティなのか、サノスという黒幕はどんな生活をしているのか、とくに謎めいた存在でもなく、ハッキリと画面に映っているにも関わらず、その片鱗すら感じさせない。これで思い出すのは、椅子に座りながら延々待っているところしか想像させない、RPGの悪の大ボスである。
そう感じさせるというのは、画面に映っている以外の部分について、制作者側があまり考えていないし、たいして興味もないからだろう。
だからこの作品において、「悪」とは具体性のない漠然とした、倒されるべき純粋悪に過ぎず、主人公であるガーディアンズ側の内面も、これに対峙することで際立つことはない。

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それでも主要5人のガーディアンズは、比較的豊かな設定を与えられている。
ガーディアンズのリーダー、ピーター・クイル(スター・ロード)は、宇宙の窃盗団に育てられた地球出身の女たらしで、母親からもらったカセットテープ「最強MIX」を古い型のウォークマンで聴いているのが大好きな、にくめない男。
ガモーラは暗殺者として育てられ、緑色の肌をした抜け目のない女で、頼りないメンバーに、ときに辟易しながらツッコミを入れる。
ロケットは遺伝子操作された知能の高いアライグマで、戦闘技術やメカに詳しい頼りになるメンバーだが、突然キレて自分をコントロールすることができなくなる。
グルート(ヴィン・ディーゼルが声とオーション・キャプチャーを務める)は、全身が木で出来ていて滅法強いし、切られた部分も再生出来る驚異の回復能力を持っているが、「アイ・アム・グルート」としか言わず、意志の疎通が難しい。
ドラックスは、家族を殺されたうらみに燃える怪力を持った戦士だが、例えばなしやジョークがまるで通じず、そのまま受け取ってしまうという特徴がある。
ちなみに私は、ヴィン・ディーゼルも、ドラックスを演じたデイヴ・バウティスタ(勝新太郎に似ているから)も好きなので、彼らのことは眺めているだけでも楽しい。

だが、これだけ主要5人のキャラを立てようと腐心しているにも関わらず、その他の役やモブ・キャラクターの描写には愛情をほとんど感じられず、彼ら以外には感情移入できるような存在がいないのは事実だ。
ジョン・C・ライリー、グレン・クローズ、ベニチオ・デル・トロという、個性的な名優を脇に揃えているにも関わらず、彼らの魅力は非常に希薄である。彼らも、CG背景と同じように、豪華な書き割りの役割以上の意味を持たせられていないと感じる。
ストーリー上も、グレン・クローズ率いる惑星側と、はみ出しもののガーディアンズや悪名高い窃盗団達が、ほとんど衝突することもなく、ロナン征伐のためにすんなり協力するという部分は非常に物足りない。
劇中で、惑星の人々を守るために、警備隊はロナンの船を止めようとドッキングして対抗するが、相手の推進力に敗れ、次々に爆死していく。
このシーンを見て驚いたのは、本作が、かなり明るいテイストで演出されているにも関わらず、正義のために命を賭けた立派な人々が次々に死んでいくという点だ。このような展開にしてしまったら、「ああ良かった良かった」とラストを迎えられないじゃないか。娯楽作で善良な人々が大量死するような描写は避けるべきだし、作中で主人公達がそのことについてとくに自責の念も何も感じてないように見えるのは冷たすぎる。
本作は、暴力性がスポイルされていると述べたが、こんなところで無駄にそれを発揮しなくても良いだろう。いろいろと、ちぐはぐなことになっていると思う。

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また本作はアクション作品として、バトルシーンが相当に退屈だと感じる。『スーパー!』でジェームズ・ガンが考えた、おそろしくリアリティのある、銃や鈍器を使ったヴァイオレンスとばかばかしさに満ちたアクションシーンに比べても、魅力は明らかに弱いだろう。
例えば、『スター・ウォーズ』シリーズの戦いというのは、敵と味方が、数・腕力・特技・天候・運・知性・地勢・装備・体調など、様々な状況が絡み合って勝敗が決するという複雑さが感じられ、非常にハラハラさせられる。味方がどれだけ強かろうと、状況によってあっけなく殺される可能性に満ちているように感じるからである。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の主要5人の、非常に観念的で大雑把なアクション、そして彼らが特別扱いされていることが良く分かる単純な絵作りからは、そのような不安を感じることが無いため、バトルが、ただ主人公達の活躍を盛り上げる意味としてしか機能しない。CGを駆使して、いかに豪華に戦いを盛り上げようとしたところで、その本質的な問題は解消されるはずもないだろう。
予定調和以上の展開が起きるような気が全くせず、「いま自分は映画を観ているんだ」という、醒めた感覚でアクションを鑑賞することになってしまう。

さらに、莫大な制作費をかけているにも関わらず、『スーパー!』と比べても、映像の美しさをあまり感じないというのは、どういうことだろうか。映像の印象が平板に感じられ、映画独特の深みが与えられていないのである。
おそらくこれは、グリーンバックを背景に、数台のカメラを同時に回しながら演技をさせる撮影スタイルを主にしたからではないだろうか。このやり方だと、どうしても照明が、ひとつのカメラに対して最良の働きをすることができない。
高額な制作費をかけたハリウッドのスタジオ・システムと、CGへの依存によって、映像のクォリティーが逆に落ちてしまうというひとつのパターンにはまってしまっている。これは、ジェームズ・ガンがこの手の撮影に慣れていないからかもしれない。
それでも冒頭の病院のシーンが例外的に美しいというのは、おそらく従来の撮影方法で、照明にこだわった結果であるように思われる。

このように、本作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』 は、あまりにも問題が多く、お世辞にも「良い作品である」とは言い難い。
通常ならば、「あんまり良い映画じゃなかったなあ」とつぶやいて済むはずなのだが、引っかかるのは、この作品が何故か一部で非常に評価が高く、「最高!」という声も多く、それが個人的に理解し難いからだ。
『スーパー!』が最高だと言うのなら、私にもよく理解が出来る。だが、ジェームズ・ガンの持ち味が最大限に発揮できず、SF作品としてもアクション映画としても娯楽大作としても成長物語としても美学的映像としても大きな欠陥がある本作が、最高であるとはとても思えない。
もちろん、映画をどう判断しようと個人の勝手だと思うし、楽しんでいる人がいるのにわざわざ水を差すようなことを言うのもどうかと思う。でもこのブログは本当にどうかしてるので、ここに疑問をぶつけておきたいのである。

以下は、どうしてそのような状況が起こったかというのを、私が勝手に分析した仮説である。もちろん仮説であると断ってるので、間違っていてもとくに責任は取らない。
ひとつはジェームズ・ガンや、オタクカルチャーのファンがハッスルしてるということ。
人間は、自分達の大事にしている文化が大勢の目に触れたときに異様にハッスルする生き物である。
アニメオタクの少年が、家族で見ているゴールデン枠のTV番組で、自分の好きなアニメの話題に触れたとき、頼まれてもいないのに、ものすごい勢いで説明を始め、それを必要以上に絶賛するようなハッスルを見せる。
俺達のジェームズ・ガンが、超ビッグ・バジェットの映画を撮った!という事実は、このメジャー・ハッスルに相当するのではないだろうか。

もうひとつは、サム・ライミやクリストファー・ノーランの作ったような、リアリティーを重視した苦悩する路線が増えたアメコミ映画への反発である。
アメコミ映画が現代の西部劇だとするなら、サム・ライミやクリストファー・ノーランの作風はジンネマンの『真昼の決闘』のような、リアリスティックなものであり、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』は、それのカウンターとして放ったお気楽西部劇の『リオ・ブラボー』が生まれた状況の再現になっているということだ。
アメコミ本来の明るさや単純さに立ち戻るという流れだろう。

また本作の内容を評価するポイントは、キャラクターの魅力と、そこここに配置された小ネタの面白さであるだろう。だがそれを保ったままで、もっともっと良いものを作ることは絶対にできると、私は思う。

 


本サイトの続編記事「『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』は本当に“サイコー!”なのか?」もお読みください。


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