マカロニの幻影に死す。『アメリカン・スナイパー』

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「人間は羊、狼、番犬(牧羊犬)に分けられる。俺は狼は許さない。羊を育てるつもりもない」
本作の主人公クリス・カイルとその弟の少年時代、彼らの父親は、弱い人々を守る番犬のような「強い男」になることを二人の息子に強要する。その父親の考え方は、クリス・カイルの人格形成において、彼のなかの正義感や功名心と結びついていく。
成長したクリスは、ビンラディン主導によるタンザニア、ケニアのアメリカ大使館同時爆破事件のニュースをTVで見るや、すぐに米軍へ入隊する。しかも、米軍の中でもとくに過酷かつ危険な訓練や作戦を強いられる海軍特殊部隊(ネイビー・シールズ)の選抜試験を受けることを選ぶ。
彼自身が言及するようにその原動力となったのは、彼のアメリカへの「愛国心」である。そしてそれは、彼が弟をいじめっ子から腕ずくで救ったように、善良な羊たるアメリカ国民を、国家の番犬として、狼たるテロリストの群れから救おうとする考えが根底にあるのだろう。
彼のなかでは、身近な人間を救うという対象範囲を拡大し、身内であるアメリカ国民を殺害したり危害を加えるような敵を殺すということは、矛盾なく正義であったはずだ。
クリス・カイルは、 アメリカ大使館同時爆破事件を契機に、狙撃手としてイラクへと派遣される。自分の結婚式にて召集の命令を受けた彼の新郎衣装の上着の下には、ネイビー・シールであることを表す、鷲とトライデント(三又の鉾)のエンブレムが輝いていた。

映画では描写されないが、イラク侵攻を開始したのは、タカ派と結びつき帝国主義的な外交を行った、当時のアメリカ大統領ジョージ・ブッシュである。ジョージ・ブッシュは大統領就任前にテキサス州知事を務めているが、クリス・カイルも伝統的に保守的な土壌であるテキサスで生まれ育ち、少年時代からカウボーイか軍人を志望するという、ある意味で典型的な「愛国者」になっていったことは想像できる。
しかし19世紀のようにキャトル・ドライブの必要もない現代において、カウボーイとして男を上げるためには、地元のロデオ大会で腕を競うくらいしか方法がない。
正義のカウボーイなどというものは実際に存在しない幻影だということは、旧き良き西部劇的世界の時代錯誤性や陳腐さを表現した『ブロンコ・ビリー』のなかで、イーストウッド自身が、すでに自嘲的に体現している。
アメリカ映画におけるカウボーイのガンマンは、悪漢を撃ち倒すヒーローである。そして軍人も同様に銃を扱い、国家の敵を撃ち倒す役割を担っている。
映画の解釈では、テキサスでのロデオから軍人への移行を描くことによって、西部で悪漢を撃つというイメージと、イラクで戦闘員を撃つイメージは、おそらくクリス・カイルにとって近しいものだったのだろうと描いている。つまり彼は、番犬であろうとする幼少期からの信念を守り、アメリカン・ヒーローになるという自己実現を目指していたのだろう。
劇中、彼は狙撃による援護で遠くから無防備の敵を狙うのではなく、至近距離で敵に対峙する位置での任務にあたるチームに帯同したいと願い出るが、これも正面から正々堂々と悪漢を成敗したいというヒーロー願望の発露を表したものであるはずだ。
クリス・カイルはイラクに4回派遣され、イラク軍やアルカイダ系武装組織の戦闘員などを160人以上殺害し、味方からは「レジェンド(伝説)」、敵側からは「悪魔」と呼ばれ、懸賞金がかけられる。西部劇でいう「賞金首」である。これらを聞いたクリスは、まんざらでない表情を見せる。

しかし、そのようなクリスの精神的余裕は次第に崩れてゆく。
イラク派遣の回数を重ねるたび、戦闘・殺害行為が、彼の心身に負の影響を与え始めるのだ。戦場では可能な限り、五感をフルに活用して絶えず周囲の異変を察知し、極度の緊張状態を維持していなければならない。油断は即、死につながる。
戦場での日々が日常と化していくに従って、イラクとアメリカでの生活の境目が曖昧になってゆく。周囲の物音におびえ、病院で大声を出し、飼い犬に暴力を振るいそうになるクリスは、単純で気のいい男から、粗暴で神経質な男に変貌していく。
多くの敵を殺害したクリス・カイルに、命を助けられたとお礼を述べる、脚を負傷した若い帰還兵が現れる。彼は、クリスの幼い息子に、「パパはヒーローなんだよ」と語りかける。
クリス・カイルは念願どおりアメリカン・ヒーローになったのだ。だが、表情を見ると、その実感は彼にはないようだ。少なくとも、映画ではそう演出されている。
それは、軍人としてのイラクでの戦闘行為が、彼が想い描いていた英雄的行為とは異なるものであったからだろう。

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以前、イーストウッド監督の過去作『許されざる者』について書いた文章(「『許されざる者』の保安官は何故家を建てているのか?」)で述べたが、そこでは人を殺すことがある種の呪いとなって殺人者自身を絶えず苦しめることが描かれていた。退役軍人が戦闘行為の恐怖や罪悪感を思い出し発症するPTSDという現代的リアリティを、西部劇の世界に持ち込んだのである。
その結果、『許されざる者』は、銃撃の度に後味の苦い、ほとんど爽快感に欠ける重苦しい作品となった。銃による暴力を内省するというのは、ある意味で、西部劇の価値を自ら否定しているようなものだ。
イーストウッド監督はそれを了解した上で、『許されざる者』を、おそらく「最後の西部劇」として撮ったということになる。

このような、西部劇に持ち込まれた戦争映画的リアリティは、そのまま戦争映画である、『アメリカン・スナイパー』や硫黄島二作などにも適用されている。
劇中でクリス・カイルは、罪悪感を感じているかと問う精神分析医に対して、「俺が殺したのは野蛮人だ。自分のやったことは神に説明できる」と答えた。
しかしその自信とは裏腹に、女や子供まで容赦なく殺害した罪悪感と神への背徳は、無意識のレベルで彼を苦しめており、心身の異常の度合いを深めていたように思われる。
彼が殺人の正当性の拠り所とした「野蛮人」とは、実際のクリス・カイル自身の表現でもあるが、これはおそらく、9.11テロを受けた、ジョージ・ブッシュの演説での、「世界は、文明と善とともにあるか、野蛮と悪とともにあるかを選ばなければならない」という発言を受けたものだと考えられる。
アメリカの兵士たちは、イラクの反米勢力は「野蛮な悪」であるということを無邪気に信じ、もしくは信じる努力をして戦闘に臨んだのだろう。
日本が第二次大戦において、アメリカやイギリス人を「鬼畜米英」と呼んだように、「悪い野蛮人は殺しても構わない」という考えを真実だと思い込むことで、アメリカ人兵士達は、人間性を逸脱した残忍な所業におよび、結果として、心や体に重篤な傷が残ったのだ。
「野蛮人」というセリフと、退役軍人達の問題を強調することによって、『アメリカン・スナイパー』は、イラク戦争そのものと、ブッシュ政権の判断や、その背景にあるネオ・コンサヴァティヴ(新保守主義)による帝国主義的な考え方を批判し、それによって自国の兵士達が不幸になっている現状を訴えたかったということになるだろう。

四度目の派遣を終えアメリカに帰国したクリスは、すぐに自宅に帰れないほど精神的に混乱をきたしていて、帰宅後も退役軍人の会にいる時間が多くなるなど、家族とは疎遠になってしまう。
それでも、妻の献身的な心のケアによって、少しずつイラク派遣以前のクリスの表情が戻るようになってきた。
映画では最終的に、クリスが西部劇のガンマンの衣装を着て拳銃を持ちながらふざけている様子を描いている。
これは、映画冒頭のロデオ大会同様の「西部劇ごっこ」を意味し、元の「単純で気のいいバカなクリス・カイル」に戻りつつあることを示しているのだろう。だが、ふざけてとはいえ家族に銃口を向けようとするあたり、不気味さを感じることは確かではある。
このささやかな希望を示すシーンの後、クリスは退役軍人の仲間と射撃訓練に出掛け、PTSDを患った仲間に銃撃され殺害されることになる。
これは実際に起きた事件だが、映画ではその殺害場面は描かれず、クリスが外出する様子を、妻が家の中から見送る様子までを描写している。あたかも西部劇のワンシーンであるかのように。

このクリス・カイルを含む二人の退役軍人が殺害されるという実際の事件は、本作の製作準備期間中の出来事であり、おそらく脚本など作品自体に小さくない影響を与えているだろう。
その最も大きな箇所は、実際のクリス・カイルの葬儀の模様がラストに挿入されているという部分である。
そしてその場面の死者へのレクイエムとして、イタリア製西部劇『続・荒野の1ドル銀貨』で使用された、エンニオ・モリコーネ作曲の葬送曲が流されている。

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クリント・イーストウッド自身、イタリア製西部劇(マカロニ・ウェスタン)の世界で地位を確立してきたキャリアを持っていることは知られている。
マカロニ・ウェスタンのヒーローとは、アメリカで作られた本場の「西部劇」の、シェーンのような清廉潔白な人物像とは異なり、フランコ・ネロのジャンゴや、イーストウッドの用心棒などに代表されるような、よりダーティな魅力を持った清濁併せ持つものが多い。
クリス・カイルの死に際してマカロニ・ウェスタンの曲を贈るというのは、彼がテキサスのヒーローというよりは、海を渡り、悪の側面を持った、マカロニ・ウェスタンのダーク・ヒーローであるという解釈を、イーストウッド自身が愛情と親しみを持って表現したということだろう。
もちろん、マカロニ・ウェスタンの無国籍世界は、幻影であるアメリカ製西部劇よりもさらに足場の危うい、かげろうのようなものである。クリス・カイルは、そのような幻影のなかで生き、幻影のなかで生涯を閉じた。
葬送曲は、反面ではそう表しているように感じさえもするのである。

さて、クリント・イーストウッド監督の大意はおそらく以上のようなものだとして、『アメリカン・スナイパー』は、とくにアメリカ本国で、政治的にリベラルな立場の人々から多くの批判にさらされており、イデオロギーを巡って議論を巻き起こした。
確かに私個人も、いくつかの箇所で、誤解を生むような問題点が散見されると感じた。ここから、本作の問題について考察していきたい。

私が最も大きく感じた違和感は、これが戦争の後遺症の問題を扱ったドラマであると同時に、娯楽アクション作品であるという点である。
本作がマカロニ・ウェスタンの性質をまとっていることは前述したとおりだが、その西部劇的娯楽性がそのまま再現されていることを見逃してはならない。
子供だろうと容赦なく電動ドリルで惨殺しまくる「虐殺者(ブッチャー)」、元射撃オリンピック選手の凄腕スナイパー「ムスタファ」という敵側のキャラクターは、それぞれモデルにした人物はいるらしいが、物語を盛り上げるため、彼らの劇中での行動はほぼ創作であるということだ。つまり彼らはほぼ「創作された人物」と言っていい。
そして、頭部に銃弾を受けたことによって失明した後死亡した実在の兵士のエピソードを利用して、クリス・カイルにその仇討ちをさせるという、カタルシスを与える展開をも、わざわざ創作しているのである。

ここでの問題は、そのような面白おかしくエピソードを再構築し創作した娯楽性と、クリス・カイルが実際に経験したリアリティある描写がミックスされ、どれが事実の再現で、どれが全くの虚構であるかが、よく分からなくなっているということだ。
これがクリス・カイルの真の姿を追った伝記映画だとするなら、このような創作はあまりに不真面目に過ぎるだろうし、マカロニ・ウェスタン的娯楽作品として見るには、実話の部分が邪魔だと感じてしまう。
であれば、「ある部分では娯楽アクションとして愉しみ、ある部分では真面目に戦争後遺症について考える」というような見方をしなければならないのだろうか。そのような複雑な見方を観客に強いるのはナンセンスだ。
そもそも、どこが娯楽的な嘘でどこが事実の表現なのか事前に知らされていない我々にとっては、それを類推しながら観なければならないし、さらにクリスの著書を確認して映画的な創作部分を確認しなければならないということになってしまう。
これは、同じように戦争の後遺症について扱った『ディア・ハンター』とは訳が違う。『アメリカン・スナイパー』は、クリス・カイルという実在の人物の物語として制作されているのである。
本作を観て、バックグラウンドを調べない観客のかなりの数が、「全てクリスの証言を基に再現しているのだ」と勘違いしたとしても仕方ないのではないだろうか。ラストシーンで実際の葬儀の映像を挿入したものだから、尚更である。
『アメリカン・スナイパー』が、このような致命的な構造の欠陥を持っている理由の原因については想像する他ないが、おそらくは企画段階での資金獲得のため、創作部分を多く取り入れ、本格アクション映画にするという方向で進めざるを得なかったのかもしれない。

このことで生じる最も大きな弊害は、クリス・カイルが劇中で言っていた「野蛮人」というセリフを、実際に劇中の虐殺者が裏付けてしまっているように感じることである。
本作において、虐殺者が電動ドリルで泣き叫ぶ少年を殺害するシーンを見て、「なんて野蛮な奴だ」と実際に感じる観客は多いだろう。しかし、その行為を行った人物は実在しないのだ。

私は、この描写が気になって、イラク戦争において電動ドリルが使用されたケースがあったのかを調べてみた。
すると、意外にもふたつの報道・取材に突き当たった。

■「米CIA、銃やドリルで殺害示唆 アルカイダ容疑者の尋問で 米紙報道」(http://www.afpbb.com/articles/-/2633111
CIAが拘束中のアルカイダのメンバーから情報を得るために、拳銃や電動ドリルなどを使って殺害を示唆する尋問手法を用いていたことが分かったと、米ワシントン・ポスト紙が報道。

■「反米勢力と戦うイラク人殺害集団をアメリカは訓練しているのか」(http://www.democracynow.org/2005/12/1/is_the_u_s_training_iraqi
アメリカに与したシーア派イラク人民兵がアルカイダ含む何百人ものスンニ派を暗殺し、拷問しているというレポートがアメリカで増えていること、一部のスンニ派の男性が、彼らの寺院で、弾痕と酸による皮膚の火傷、体に電動ドリルによる穴が空けられた状態の死体で発見されたことを当時の国防長官ドナルド・ラムズフェルドにインタビューした内容。

アルカイダ指導者オサマ・ビンラディンは、ある声明のなかで、「スンニ派が電動ドリルで拷問され殺害されている」ことを批難したこともある。
つまり、イラクにおいて電動ドリルで拷問を受けたのは、むしろアルカイダ側なのである。
私が無知なだけで、もしかしたらアルカイダ側も、日常的に電動ドリルを拷問で使用していたのかもしれない。だが、CIAが電動ドリルを使用し、アメリカ軍に協力したシーア派民兵が電動ドリルを使用したのではという報道がある以上、少なくともアルカイダだけが電動ドリルを使用しているような誤解を生む描写をすることは、明らかに問題である。
『アメリカン・スナイパー』の観客の多くは、本作を観たことによって、このような報道の真逆の印象を持ったのではないだろうか。

また、虐殺者のような野蛮人以外にも、虐殺者の情報を漏らすことで金銭を要求するイラク人や、大量の銃を隠し持って一般市民を装っている怪しげな男、対戦車グレネードを持って戦車に突っ込んでくる母子など、「野蛮人」というクリスの言葉を否定してくれるような、イラク人側のキャラクターが全然出てこない。
何故この母子は、命を捨て戦車に向かって攻撃を仕掛けるような自殺行為に及んだのか。少し想像力を働かせれば、おそらく彼らの父や夫が米軍に殺され、その復讐をしていたのだろうと理解できる。
しかし、その人物がどのように米軍に殺害されたか、それはこの作品では描かれず、劇中でイラク戦争について内省的だったマーク・リーのセリフによって、ただ消極的に暗示されるだけに過ぎない。虐殺者が、小さな少年をドリルで惨殺する様子を家族に見せつけるという「蛮行」の方は丁寧に描いているにも関わらず。

クリント・イーストウッドの過去の戦争映画『父親たちの星条旗』が心を打つのは、硫黄島での米軍兵士たちの心情や、機関銃や火炎放射器での掃討の光景を丹念に見せるなど、当時全米で英雄行為と賞賛されたアメリカの偶像を失墜あるいは陳腐化し、兵士達を等身大の人間として描いたからである。
『アメリカン・スナイパー』は、それに比べると、アメリカ軍やクリス・カイルに対してかなり遠慮しているように、どうしても感じられてしまう。
それは、この戦争が終結間もないものであること、そしてクリスが急逝したことが影響しているのかもしれない。だが、そのような遠慮を取り去ることがイーストウッドにどうしてもできなかったのならば、手を出すべきではなかった題材なのかもしれない。

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イラク市民への強姦、惨殺、スパイ容疑者に対するリンチや拷問など、現実の米軍の「蛮行」はすでに明らかになっており、実際に報道されたり告発されているのは周知の事実だ。
もちろん、『アメリカン・スナイパー』がクリス・カイルという一兵士の目を通した物語であり、とくにアメリカ軍の罪を告発しようとしている作品でないことは理解できる。だが、彼が目にして「語らなかったこと」もあるはずだ。
一方の蛮行は描き、もう一方の蛮行、つまり米軍の行為はセリフなどで暗示されるだけというシナリオは、作品の意図を超え、観客にイスラム過激組織の側の狂信性や暴力性、残虐的イメージを比較的強く刷り込みかねず、結果として、大きな流れとしては戦争への否定的なメッセージを盛り込みながらも、皮肉にもイラク戦争の正当性を印象付け、アメリカのイラク戦争支持者にこの映画が好意的に受け止められることになってしまっている。
『アメリカン・スナイパー』は、マイケル・ムーアをはじめリベラルなアメリカの映画人たちへの反発を買ったのは事実だ。
この問題について、「イーストウッド監督は反戦的描写をしているのだから、リベラルの批判は的はずれだ」とする言説も見受けられる。
もちろん、前述したようなアメリカの傲慢や狂気、戦争の後遺症の問題は確かに描かれているだろう。しかし、アメリカ軍が行ったとされている蛮行だけは、その事実が現実に報道されているのに、排除されてしまっている。とくにその点について疑問を持つ人が多いということではないだろうか。

米英軍によるイラクへの空爆、劣化ウラン弾の使用、イラクの市民及び米軍兵士自身の被ばく、グァンタナモ米軍基地 · アブグレイブ刑務所における米兵士やCIAらによる捕虜虐待。これらのアメリカ軍について都合の悪い報道は、もちろんクリス・カイル自身も目にしただろう、正義に背く残虐行為である。
他の大勢のアメリカ人同様に、この報道を目にしたとき、彼は何を思ったのだろうか。また、イラクに大量破壊兵器が存在せず、アメリカがイラク戦争を始めた大義が根底から揺らいだとき、彼は何を思ったのだろうか。本作でその描写をすることもできたはずだ。
クリス・カイルは、アメリカが犠牲となったテロ事件の報道はしっかりと目にするが、アメリカが都合の悪い報道だけは、たまたま目にしなかったとでも言うのだろうか。
クリス・カイルが、ショックを受けるにしろ、逆に全くそのような報道を相手にしなかったにしろ、その部分は重要だっただろうし、イーストウッドの立場も明確になったのではないだろうか。

近年、『アウトロー』や『許されざる者』で描かれた、他民族との結束や、行き過ぎた自衛による暴力、『ミスティック・リバー』で描かれた、イラク戦争を想起させるような、確固たる証拠なしに突っ走る危うさなど、近年のイーストウッド作品は、政治的に保守的な位置にいながら、逆にあまりに過激に進んでいた共和党を批判するものになっていたはずだ。
そのような立場から、絶妙のバランス感覚で暴力を冷静に、かつ慎重に表現してきたイーストウッドだけに、今回かなり脇が甘くなってしまったというのは、個人的には失望している部分もある。
もちろん映画の評価において、政治的に偏っているということが、ダイレクトに映画の価値の否定につながってしまうということは忌避するべきである。
ただ、本作におけるイーストウッドのイラク戦争に対する立場が、前述のような要素によって曖昧なものになってしまっているのは確かだ。

「クリス・カイル個人をフォーカスした作品なので、政治的立場は明確でなくてもよい」と考える人もいるかもしれない。だが、実在の人物による実際の戦争の体験を映像化した本作において、その態度はさすがに無責任に過ぎるように感じてしまう。
もしも、ありのままの戦争の様子を観客に体験させて、判断を観客自身に委ねるという目論見があるのだとしても、前述したようなアンフェアな創作をしてしまった時点でアウトだ。

同じくイラク戦争を描いたキャスリン・ビグロー監督の『ハート・ロッカー』も同様の問題をはらんでいる。
ビグロー監督自身は、イーストウッド同様、イラク戦争自体については不支持のはずだ。
そして映画の中で基本的には戦争の非人間性を消極的に告発もするが、同時に現場の兵士ひとりひとりの命をかけた仕事には尊敬を持って描いている。
そのバランス感覚、もしくは表現の不徹底な部分が、見ようによっては「イラク戦争礼賛」の部分としてとらえられてしまうし、イラク戦争支持者に利用されてもしまう。
これは、映像作家の主義主張が作品にしっかりと反映できてないという言い方ができるだろう。
大事なのは、映画という媒体は、監督の意図をそのまま映してくれる鏡ではないということだ。一回完成してしまうと、作品は作り手の手をはなれ独り歩きしてしまう。だからこそ、ひとつひとつを丁寧に描写し、誤解が生まれないよう慎重に構成しなければならないはずだ。

イーストウッド作品は過去に『父親たちの星条旗』や『硫黄島からの手紙』の脚本を担当したポール・ハギス、そして『ブラッド・ワーク』『ミスティック・リバー』の脚本を担当したブライアン・ヘルゲランドのような優れた脚本家達が手がけているが、今回彼らが不在だったというのは大きかったのではないだろうか。彼らはそれぞれ、『告発のとき』、『グリーン・ゾーン』という、イラク戦争についてのバランスの取れた見事な映画脚本を書いている。
政治的なバランス感覚のみでなく、ドラマとしての流れも、本作では単調で工夫が少ないというのも、他のイーストウッド作品に比べて、深みがないように感じてしまう原因ではないだろうか。
PTSDに関する描写も、犬を殴ろうとしたり産婦人科で大声を出したり、いかにも「異常な心理が働いている」という、我々が漠然と想像する演技や見せ方そのものなので、重要なシーンにも関わらず、貧困な印象を与えられる。
これらの描写を、ポール・ハギスやブライアン・ヘルゲランドのような名手が書いたらどうだっただろう。
個人的には、政治的なバランスの面においても、表現力の面においても、彼らが『アメリカン・スナイパー』を担当してくれていたら…と、思わざるを得ない。

細かい部分を指摘すると、劇中でクリス・カイルが赤ちゃんを抱くシーンでは、赤ちゃんの人形を代用で使用していることが、如実に分かってしまうのだが、このシーンは、撮影現場で急遽、赤ちゃんの出演者が用意できなくなったということで、現状のものになってしまったらしい。
ここでわざわざ撮り直しをしないという点を見ても、全体的に雑な映画だという印象を与えられてしまうことは確かではある。

 


 


 


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