『レスラー』 スーパーに肉を買いに来た悪魔の化身

ハリウッド・スターとして隆盛を極めたものの、ボクシングに挑戦してボロボロになって、役者としても落ちぶれ果ててしまったミッキー・ロークが、ほとんど自身そのものの境遇、「落ちぶれた往年の人気プロレスラー」という役柄に挑戦した。
そして、あの可憐な美貌を誇っていたマリサ・トメイまでも、場末のストリッパーを演じる。
この企画の底意地の悪さ、臆面の無さに、まず圧倒される。

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ダーレン・アロノフスキーという監督は、『レクイエム・フォー・ドリーム』に象徴されるように、人の一番見たくない、ほとんど嫌がらせのようなものを撮ることにかけては天才的なものがあり、その意味においても、また知性の面においても、例えば同じようにサディスティックな、ラース・フォン・トリアーやギャスパー・ノエをだいぶ引き離しているように見える。トッド・ソロンズにはさすがに及ばないけれど。
もちろん、『レスラー』においても、このような映画を撮るために生まれてきたような、ダーレン・アロノフスキーの残酷な手腕はちゃんと発揮されているのだが、そういう目で見たときに、ちょっと追い詰め方に物足りなさがあったことも事実で、「もうちょっと血みどろになっても良いんじゃないの」とか、「もっともっとクギやホチキスが体に突き刺さっても良かったんじゃないの」とか、「精神病や薬物中毒の描写を増やして、完全に狂った境地に突入しても良かったんじゃないの」みたいな感想を持ってしまった。
この不満はやはり、『レクイエム・フォー・ドリーム』があったからで、これと比較してしまうと、『レスラー』はちょっと凡庸というか、「普通の映画」という範疇に属してしまっているという印象は否めない。

この作品が「老年期に入る負け犬の屈折したナルシシズム」という、一般化されたつまらない物語の磁場にかろうじて吸収されてしまっているのは、それでも相当に残酷ではあるものの、ミッキー・ロークが主演であるが故の、徹底性の欠如と、あまりにも彼がハマリ役であったことからきているのではないかと思われる。
もちろん、この作品の中で、また意地悪く引用されている、メル・ギブソンの醜悪な『パッション』よりも、はるかに高尚で知的であることは間違いないのだが、前述した理由のせいで、神話的と呼ぶほどには昇華し得なかったように思われるのだ。
たしかに、ラストカットで空中必殺技”RAM JAM”を決めようと宙を舞うミッキー・ロークは、もうほとんど人間を超越し、神になっているように見える。
だが、この役が過不足なくミッキー・ロークであるがゆえに、主人公は神よりもミッキー・ローク自身の方に近づいてしまっているのである。これは、神を呼び出そうとしたように感じられる、ダーレン・アロノフスキー演出の誤算ではなかったか。
マリサ・トメイ演じるストリッパーや、エヴァン・レイチェル・ウッド演じる娘が、神になろうとするミッキー・ロークを、普通の男の地点まで引きずり下ろそうとする誘惑者として描かれていることが、この作品が宗教的であろうとする充分な証左であるだろう。

カート・コバーンについてチラリと本編で語られているところは、無視できぬ面白さで、振り乱れたブロンドのロングヘアーで顔が隠された男が、死に臨んでいるという光景は、もうカート・コバーンそのものである。

もう、こういったあたりは、『パッション』と『ラストデイズ』を経由、または依り代として、意識的にキリストの霊を呼び出そうという儀式を行ってるとしか思えない。
このフィルムから感じる、名状し難い狂気というのは、この儀式を行おうとして、失敗した名残りなのだろう。

その意味で、今回はラース・フォン・トリアーやギャスパー・ノエよりも後退してしまった、ということは、おそらく事実ではあるだろう。
観客を、暖かい気持ちで感動させている場合なのか。
このあたりは、監督が、出演者であるミッキー・ロークやマリサ・トメイの心情にちょっと接近しすぎてしまったきらいがあり、私としては、「らしくないじゃないか」と思うのである。

それはそれで、この映画は、例えばロバート・アルドリッチの『カリフォルニア・ドールズ』のような楽しみ方をすれば良いということになる。
それは、いまさらダーレン・アロノフスキーが撮るような題材なのかといえば、確かにクラシックすぎるという指摘は当てはまるだろう。
だが、おそらくそのおかげで、非常にコントロールされた、無害な残虐性というものがちょうどよく観客に消化され、結果として数々の映画賞を獲得することになったというのは皮肉な結果である。
失敗したおかげで、不幸にも非常に成功してしまったという珍事といえるのではないだろうか。

リングでの試合のシーンは考えられていて、『ロッキー』シリーズや、『カリフォルニア・ドールズ』などに見られる、普通のTV中継で使用されるようなカメラアングルは、この映画には意識的に登場させていない。
決まって、選手のすぐ近くの手持ちカメラで撮られるか、または観客のほとんどをフレームに含んだ遠景のみで構成されている。
この引き算の演出のおかげで、観客は「プロレス」という体験を新鮮に再確認することになる。
通常であれば、いろいろな構図を試したり、カメラのテクニックを誇示しがちなスペクタル・シーンを、このような態度で撮れるということが、この監督の明晰さが窺える部分なのだ。

残酷さが徹底していないとは書いたものの、「真に残酷なこととは何か」ということや、「人間のにとって精神的に一番キツいことは何か」といった問題をあくまでも追求していこうとする姿勢にはすごいものがある。
おそらく、残酷なエピソードをいくつも考え、さらにその残酷さを際立たせるために、ディスカッションを重ねたのではないかと思わせるくらい、イヤなものはしっかりと描けているといえよう。
私は、いくつかのシークエンスに、拍手したくなるほどに打ちのめされた。

例えば、プロレスファンがレスラーと握手をしたりサインをもらったりと交流ができるはずのファン感謝祭のシークエンス。
狭い部屋に往年の人気レスラー達が集い、色紙やグッズを用意して待ち構えるのだが、なんと、ほとんど誰も来ないのである!
このときのレスラー達の、「俺、一体なんでここにいるんだろう…」という、負のオーラはあまりにも凄まじく、憐憫を通り越して爆笑しそうになるショッキング映像だった。
このシーンまでに散々、お客のために肉体を酷使し、命の危機に瀕しているような描写をやっておいて、このエピソードにつなげるというところは、ある意味、天才の仕事といえるだろう。

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スーパーマーケット内の肉屋でミッキー・ロークが対面販売をするシークエンスは、それをさらに超えている。
昼の一番忙しい時間帯に現れた老婆のお客が、サラダをパックに詰め直すという行為を、ミッキー・ロークに何度も何度も求めるのである。
「ちょっと多いわ」「今度は少なすぎ」と、店員に1グラム単位の正確さを要求する老婆の残酷さというのは、もはや彼女自身を、人間ではないものにメタモルフォーゼさせてしまっている。
この、ミッキー・ロークと老婆との対峙というのは、神と悪魔の代理戦争に他ならないだろう、作中で最も圧倒される、神聖化された場面となっている。

『パッション』が全編「受難」を描いた映画であったのと同様、『レスラー』も、全てのシーンで「受難」を描いた映画であり、非常に明晰に計算された、宗教的傑作であると評価したい。
惜しむらくは、ミッキー・ロークが、ミッキー・ロークとして出演していて、それが素晴らしいものであったが故にキリストになり得ず、思いがけなく作品が分裂してしまった、その一点のみなのだと、私は考える。
『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』でトラン・アン・ユンが、木村拓哉にほとんど演技をさせず、顔に虫を這わせたように、出演者をクソムシのように扱ってこそたどり着けるという境地は、たしかに存在するのだ。

 


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