ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

ヱヴァンゲリヲン新劇場版の第2作目は、「昭和歌謡大全集」だった。
ピンキーとキラーズ、赤い鳥、森山良子、水前寺清子…
これらの有名なヒット歌謡が、劇中の重要な場面でふいに挿入されることに、強烈な違和感を感じたのは私だけではないだろう。
『太陽を盗んだ男』の挿入曲(本編でしつこく流れ、予告でも使用されたヤツ)の使い方は、なかなか面白かったけれども…
ヒット歌謡らの使用に違和感があり、『太陽を盗んだ男』挿入曲、または旧作で使用されたいくつかのクラシック音楽がそれほどでないと感じる原因は、それらの持つ抽象性の度合いからきているだろう。
つまり劇中で使われた昭和歌謡は、それ自身、あまりにメッセージ性が強いために、非常にあざとく感じてしまうのである。

たしかに、庵野秀明監督作には、昭和歌謡が挿入されているものがいくつかあり(TV版「新世紀エヴァンゲリオン」含む)、それはひとつのスタイルだといえるだろう。
だがここで問題なのは、「新劇場版」と名づけられた新シリーズのコンセプトがいまだ明確にされていない状況で(一応、所信表明は成されているのだが)、「序」があまりにオーソドックスな演出に終始していたことと、「破」の、歌謡曲メドレーのようだった状態を、合わせて考えたときのちぐはぐさにある。
例えば「キル・ビル」2作のように、オマージュやパロディを多用したシリーズだとするならば、何故「序」にも歌謡曲を多用しなかったのか。
逆に、「序」のようなストレートな雰囲気で押し通すのならば、何故「破」演出を、このような奇をてらったものにしてしまったのか。
このあたりの演出意図が観客にとって不明瞭なのは、シリーズ作として致命的だと考える。
何故なら、新シリーズ本来の演出スタイルというものが確立はおろか明示さえされていないのに、それを解体、変更するという行為の意味さえ伝わらない…こんな状況ではただ「デタラメをやっている」ようにしか判断できなく、結果的に、観客が能動的に作品世界を楽しむことを拒むことになってしまったからだ。
旧劇場版の一部に実写映像を使用するなどの演出がうまく感じられたのは、「エヴァンゲリオン」という作品の演出スタイルがすでに観客に浸透していたからだろう。
だがしかし、ストーリー自体は「序」をそのまま受け継いだ、ストレートな少年の成長物語であった。そのことがちぐはぐな演出をさらに顕在化させているといえる。

それよりも私がより深刻に感じたのは、旧劇場版に比べたときの、演出と設定における、本作品の普遍性の無さである。実も蓋もなく言い換えると、飛躍的に子供っぽい、またはオタクっぽい内容になっていた。
それを象徴するのが、本作で新しく登場した、語尾に「にゃ」をつけて話す、メガネ少女パイロット、マリだ。
「モード反転!裏コード、ザ・ビースト!」とかいう決めゼリフを吐いたり、「死ぬかと思ったにゃ~」みたいな、耳を疑うような言動を聞くたび、私は背筋が凍り付き、劇場から逃げ出したくなった。
「やばい、良い歳をした大人が、東映まんがまつりを観に来てしまった!」というショックを何度も味わった。
旧作のシリーズが、大人も充分に楽しめるものだったのに対し、新シリーズの対象年齢は、だいたい中学生くらいがジャストかな…という印象だ。
はて…、この新シリーズは、そもそも子供のためのものだったのだろうか。
ここで、庵野秀明が新シリーズにて何をやろうとしていたのかを、「序」公開時に監督自身が発表した、所信表明文を読んでおさらいしてみたい。

(リンク)原作/総監督 庵野秀明 所信表明文 「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」

上記のリンク先、「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」より以下を抜粋。

「閉じて停滞した現代には技術論ではなく、志を示すことが大切だと思います。本来アニメーションを支えるファン層であるべき中高生のアニメ離れが加速していく中、彼らに向けた作品が必要だと感じます。」

…やはり、中学生くらいを対象にした作品だった。
それはそれとして狙いは分かったけれども、それでは上述したように、歌謡ショーを取り入れた演出というのは一体何だったのか。
平成生まれの中高生に、昭和の歌謡曲をいろいろ紹介したかったのか。………何のために?

表明文では、さらに気になる部分があった。

「我々の仕事はサービス業でもあります。当然ながら、エヴァンゲリオンを知らない人たちが触れやすいよう、劇場用映画として面白さを凝縮し、世界観を再構築し、誰もが楽しめるエンターテイメント映像を目指します。」

言い換えると、「TV版・旧劇場版はコアな層には受けたが、誰もが楽しめる作品ではなかった。」「だから旧作品を知らない人、とくにアニメ離れが顕著な中高生に向けて、分かりやすいエンターテイメント作に仕上げる。」ということになるだろう。
だが、そうだとすれば、私は監督に事実の誤認があるのではないかと思う。

旧作(TV版・旧劇場版)がヒットしたのは、それが「誰もが楽しめる」作品だったからではないか。
「キリスト教やカバラ思想などを下敷きにした謎」、「コミュニケーションの不全を描いた今日的なテーマ」、「キャラクターの心理状態の視覚化」、「市川崑演出のような巨大明朝体レタリング文字」…。
このような、作品を構成するファクターが面白く、いわゆるアニメオタクの枠を超えて、一般の視聴者・観客までにも訴求力が及んだのだ。
つまりここでは、「普通のSFアニメでは無かった」ということが、プラスに作用しているのである。

それが行き着くところまで行ったのが、旧劇場版だったといえるだろう。
旧劇場版の25話「Air」では、主人公が、意識を失って胸をはだけているヒロインの横でマスターベーションにいそしむというシーンがあったが、さすがにこれは親子連れの観客には厳しかったかもしれないけれど、SFロボットアニメの主人公がそのようなことをした例は、かつてなかったはずで、これは観客にとって衝撃と興奮をもって受け入れられた。
監督は何故このようなシーンを映画の冒頭に挿入したのかというと、それはストーリーの一部としてももちろん、「俺はこれから自分の一番恥ずかしい部分をさらけ出す。そして自分の全てを表現し、人間の本当の姿を見せつけてやる!」という、気概の宣言だったのだろうと思う。
そして、実写映像にて「観客自身」の姿も見せつけることによって、監督のオナーニーショウに、観客自身も参加させるという、壮絶な演出も行った。
私はこのことを評価するし、こういう面があったからこそ、「エヴァンゲリオン」という作品は、「誰もが楽しめるエンターテイメント」足り得ていたのであったと思う。
逆に言うと、そういった要素も無く、「美少女が巨大ロボットを駆り、悪者とバトルを繰り広げる」類のSFアニメなんて、せいぜい中学生までか、上手く成長できなかった大人しか楽しめないのである。
だから、とくに旧劇場版は、SFアニメをほとんど見ない一般的な観客にしてみれば「普通に面白い映画」だと感じただろうし、本来SFアニメを日常的に見ているコア層からしてみれば、「普通ではないアニメ」と映ったはずだ。

残念ながら、今回の新シリーズには今のところ、旧作に見られたような、泥と血にまみれながら真実に到達しようとするような姿勢は見られない。
主人公は試練に遭いながらも、SFロボットアニメの主人公よろしく、それらを常に健康的に消化しようとしてゆく。
これは、旧作の主人公が常に後ろ向きな姿勢を見せながらも、わずかながら前進していた…まさに水前寺清子の唄のように…しかしそれはあくまで血肉をともなっていたのに対し、あまりにも対照的で、実感が薄く感じてしまう。
旧作の主人公の少年は、見る者にナイフを突き立ててきた。しかし、今回の少年は徒手空拳で抱きついてくるのである。私は少々気持ち悪くすら感じる。
これで新シリーズは、中高生のアニメ離れを食い止める要因足りえるのだろうか。逆に私は、一般の観客とオタクとの溝を顕在化させることになるのではないかと危惧をする。
庵野監督のいう、「志を示す」とは、一体何を指しているのだろうか。

「誰もが楽しめる」というのは、筋立ての面からも疑問符がつく。
ストーリー上の謎が多いのは、旧作同様なのだが、それらがこの新シリーズでは、ほとんど消化されることがない。
例えば、旧作において渚カヲルと呼ばれていた少年は、「序」から登場するにも関わらず何も分からないままだし、新キャラのマリの背景もほとんど描かれていない。
旧作で、「エヴァって何なの?」という疑問が何度も発せられていたのに対し、今回はそのあたりを無視して、戦闘シーンばかりが続く。
これは謎というよりは、ただの説明不足ではないか。
このあたりは、監督が「旧作を観ていた観客向け」としてストーリーを考えているようにしか思えない。
であるならば、「エヴァンゲリオンを知らない人たちが触れやすいよう…」と語っていたのは何だったのか。
何か、監督や製作現場に混乱でもあるのだろうか。

そのような混乱は、とくに日常シーンにおける作画の乱れにも表れている。
旧劇場版同様に、ガイナックスやプロダクションI.Gのスタッフを集結させているのに、戦闘シーンや敵の描写に見るべき部分は多いものの、その原画や動画のクォリティは、平均的に均すと、如実に落ちている。ヒロイン達の顔が、総じてブサイクに見えた。
登場人物たちが食事するシーンは、例えば宮崎駿の「ルパン三世」TVシリーズにおける、スキヤキを食べるシーンや、押井守の『ビューティフル・ドリーマー』でそうめんを食べるシーンなどに比べると、著しく稚拙に見える。

唯一の救いは、まだ続編が作られるということである。
新シリーズ2作にて、子供やオタクを山の上まで連れてきたとして、またラストで、後ろから突然背中を押して、断崖絶壁から突き落とすようなことをやってくれれば、まだ納得もできる。
もしそれをやれないのであれば、このシリーズは、アニメーションの復権という意味においては、ただ害悪にしかならないように感じる。
幾原邦彦を呼んで来て、監督をバトンタッチしてもらった方が、よほど良いだろう。


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