『ジャンゴ 繋がれざる者』 SIDE-A 奴隷描写は正しいか

「イーストウッドが西部劇を殺した」と言われるのは、彼の監督・主演作『許されざる者(92年)』において、「丸腰の敵を撃った」ことに起因する。
西部劇の世界では、いかなる理由があろうと、銃を持たない相手を撃ち殺せば、ヒーローはヒーローの資格を失う。そして、ヒーローのない西部劇は西部劇でなくなってしまう。
チャールズ・ブロンソン『狼よさらば』以降の現代的な犯罪映画に慣れた観客からするとなんでもないことのように思えるが、本格的な西部劇にこのような描写を加えたというのは、往年のウェスタン・ファンに大きなショックを与えるものであったのは間違いない。
しかし、確かにイーストウッドは、主人公ウィリアム・マニーの行為を、それでも倫理的にギリギリ正しいこととして描写している。
ジーン・ハックマンが演じた『許されざる者』の保安官は、強固な保守主義の持ち主で、リチャード・ハリス演じる鼻持ちならない英国人賞金稼ぎ(イングリッシュ・ボブ)を半殺しの目に遭わせ、さらにモーガン・フリーマン演じる賞金稼ぎをリンチし、死体をさらし者にした。
そのくせ保安官は、娼婦が無残にも切りつけられ目玉を抉り取られるという事件において、馬7頭分の賠償金を支払うことで犯人を許すなど、加害者に寛大な処置を取っている。
町を守る、国を守るという信念が、偏見、差別意識を持った思想による暴力的な圧力支配につながる。そこでは美名のもと、信条や宗教、民族や性差など、多様的価値観は迫害される。その歪んだ正義は、悪(ウィリアム・マニー)よりも、さらに強大なアメリカ社会の「内なる悪」なのである。
歪んだ正義を葬るのに、悪行・蛮行を持って駆逐してしまうという『許されざる者』の圧倒的リアリズムは、それまでの勧善懲悪の西部劇の価値観を、一気に陳腐化させてしまった。
これが西部劇というひとつの大きな、しかし死に瀕していた旧弊な、しかしある種魅力的でもあった価値観が死んだ顛末である。そしてその状況は現在まで続いている。

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これに対し、新鮮なアプローチで西部劇が息を吹き返す可能性を示唆したのが、クエンティン・タランティーノの『ジャンゴ 繋がれざる者』だ。
監督が趣向する、ヴァイオレンスの興奮をより増加させたイタリア製亜流西部劇であるマカロニ・ウェスタン(イーストウッドもマカロニのスター俳優であった)を手本に、いつものように大量の映画作品の引用をしつつ、それでもオーソドックスで本格的な西部劇を演出するように見えて、あえて「反西部劇」的な内容を、イーストウッドとは異なる角度からのくさびとして打ち込んだのである。それが、西部劇における「奴隷問題」の描写である。

そもそも西部劇は、移民のアメリカ入植から南北戦争後あたりまでの、カウボーイ、ならず者、保安官を取り巻く物語である。
南北戦争以前のアメリカでは、ヨーロッパ諸国におけるアフリカ諸国の支配から、奴隷貿易が行われていた。
それは、人種差別の行き着いた最悪の蛮行であり、言い直すと「人間の家畜化」である。裕福な事業家などは、最低の待遇で綿花畑を始めとする大農園(プランテーション)で働かせたり、家事雑事、性処理まで奴隷にさせていたという事実がある。
アメリカ全土で、このギリシャやローマ時代のような、時代錯誤の歴史的犯罪は行われていたが、ことに入植後、近代化・文明化が進まなかった南部では、この貿易は盛んに行われ、奴隷商人が暗躍し、多くの悲劇が起こっていた。
その中でも悪名高いのは、本作にも地獄の世界のように描かれているミシシッピー州である。ここでは驚くべきことに、1960年代になっても、南北戦争以前のような奴隷制まではいかないが、それに準ずる差別社会が営まれていた。これは近年『ヘルプ 〜心がつなぐストーリー〜』として映画化された、ベストセラー書籍によって明らかになった。
タランティーノはこの奴隷問題を、通常のように社会問題を題材にした映画としてではなく、「マカロニ・ウェスタン」風ジャンル映画の視点から描いたのだ。

ここでアメリカにおける黒人奴隷史とその問題を見直したい。
15世紀、スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダ、フランスを始めとするヨーロッパ人が、武力と経済力を行使し、マリなどのアフリカ諸国から、人間を「貿易品」として売買を始め、「黒人奴隷」という概念が生まれた。彼らは「黒い象牙」とも呼ばれ、高値で取引きされていたという。
18世紀になると、奴隷貿易は更なる発展を遂げた。イギリスの植民地であったアメリカでは、ヨーロッパ諸国同様、綿花の栽培の拡大など、大農場(プランテーション)における労働力確保などのために、各州で「黒人奴隷制度」を合法化し、大規模な貿易を始めた。それにともなって、アフリカ西岸では計画された奴隷狩りが頻繁に行われるようにもなった。
彼らは船の窮屈なスペースに押しこめられ輸送され、多くの奴隷が病気などで命を落とした。これはスティーヴン・スピルバーグ監督の『アミスタッド』でも描かれている。
アメリカ南部でとくに奴隷貿易が盛んだったのは、工業を中心に発展していた北部に対し、南部が綿花をはじめとする農業主体の産業が営まれていたことにもよる。ただ、農産物を加工するのが北部の工場であるので、北部も間接的に奴隷貿易で多くの利益を得ていたことは事実であろう。
アメリカ南北戦争後、北軍の勝利によって奴隷制度は廃止されるが、その後も、とくに南部では引き続き差別的な社会状況は続き、飲食店や乗り物に黒人が入れなかったり(「カラード」)など、人種隔離は各州の法律により、白人市民の権利として保障・維持された。
さらに敗れた南軍の将校達は秘密結社KKK(クー・クラックス・クラン)を結成。解放された黒人達を暴行し死に至らしめるという犯罪が横行したのである。
この差別社会に対し、暴力という手段で復讐を試みた黒人も少なくない。しかしそれはさらなる暴力と新たな偏見を生む結果になってしまう。このような状況はジョセフ・L.マンキーウィッツ監督の傑作『復讐鬼』のメインテーマでもあった。
しかしむしろ黒人指導者達による、演説や社会活動など、地道で根気強い公民権運動によって、アメリカ社会は少しずつ変化してきたといえるだろう。
1998年には、クリントン大統領が奴隷制度への正式謝罪を行ったが、アメリカはそれまでこの犯罪に対する、国家としての正式な謝罪を行ってこなかった。このときも多くの反対が寄せられたということから考えても、アメリカの人種差別問題は、現在も根深く残っているといえる。

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『ジャンゴ 繋がれざる者』の南部の差別意識や、黒人奴隷の悲惨な扱いなどの描写に強い影響を与えているのが、黒人問題を激烈な表現で書いた大衆小説を映画化した、リチャード・フライシャー監督の『マンディンゴ』だ。
「南部ゴシックホラー」とも呼ばれるが、これは当時の社会における差別問題、歴史的犯罪に深く踏み込み、人間の心にある歪んだ差別意識を暴き出した普遍的傑作である。
映画では、南部で「奴隷牧場」(ものすごいフレーズだ)を営む富豪家族による、黒人奴隷への強烈な差別的蛮行が描かれる。恒常的軟禁状態での苛烈な労働、性的奉仕、格闘(ローマ時代を想起させる格闘奴隷「マンディンゴ」同士の殺し合い)、鞭打ちや逆さ吊るしなどの拷問、宗教・教育の禁止、子供の虐待、増資のための出産などである。

『マンディンゴ』では、富豪の家族が食卓の会話の中で、給仕をしていたアフリカ系の使用人に、「なあ、お前らに魂なんて無いよな」と聞くと、「当たり前です、旦那様、私たち愚かな黒人に魂があるもんですか」と答える(もちろん、絶対的主従関係の上での返答だ)。
このシーンでの「黒人は魂が無いから奴隷として扱ってもよい」という考え方からは、当時の、南部における閉鎖的で歪んだ価値観を象ろうとしていることが読み取れる。
実際、南部では大学教授などの知識層が相次いで奴隷制を正当化する理論を発表していて、それは例えば、「黒人は元来自由には適さず、我々は彼らに衣食住を提供し保障している。聖書にも奴隷制度への批判は見られないことから、神が認めている制度である。」というような、あまりに身勝手な内容のものである。
驚くべきことに、「黒人劣等人種説」は、1930年代頃まで、一般的な説としてアメリカの多くの市民に信じられてきた。その中には、『ジャンゴ 繋がれざる者』で登場したような骨相学も含まれるだろう。
アメリカの白人達(ことに南部人)は、このような非科学的で論理性に欠ける考え方を、宗教のように信じ込み、集団で共有することによって、自らの差別意識や蛮行を、正義、正当な行為として置き換えてしまったのである。
だから、『マンディンゴ』や、『ジャンゴ 繋がれざる者』のレオナルド・ディカプリオが演じる、南部の富豪の行状は、彼らがひどい悪党だからというよりは、彼らが南部の思想を盲目的に信じている純朴さの現れだともいえなくもない。そして、それこそが真におそろしい。被差別者からすると、このような「社会常識」に侵されているアメリカ南部社会そのものが脅威なのである。
この最悪の地獄から逃げ出すには、比較的差別の軽い、「より良い地獄」である北部へと逃亡するしかない。当時はリベラルな活動家がこの逃亡を助けていたという。
それでは多くのアメリカ人が、悪いことをしている事実について自覚的でなかったかというと、それもまた違うと思う。
マイケル・ムーア監督の『ボーリング・フォー・コロンバイン』では、アメリカ社会に銃が蔓延している原因のひとつに、黒人達の暴動・襲撃を、白人達が潜在的に恐れているからだ、という鋭い指摘がされている。

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西部劇というのは、日本における封建社会を描いた、侍の活躍する時代劇と同じで、アクションや時代風俗を楽しむように作られている。
そこでは、現代の価値観において、『真昼の決闘』や『大いなる西部』のように、その封建性を批判するようなタイプと、逆にそれを懐古・賛美するタイプに別れる。
例えば、ナチスドイツから亡命したフリッツ・ラング監督の『地獄への逆襲』は、後者のタイプにあたり、当時の流れのひとつである、「南軍賛美」史観と保守的価値観の正当化を描いたものである。
このような映画は、「気のいい黒人」が出てきて、保守的な白人を味方したり、裁判で有罪になった犯罪者を市民が銃で助けて、「貧乏人の正義は銃だ」と言わせたりなど、田舎の純朴な保守層の価値観をすくい取ったものであり、反民主化を擁護するものだといえよう。
その背景には、近代的資本主義を推し進めようとする北側と、貧しい南側の経済格差の問題もある。
南部を正当化しようとする保守的な西部劇が一部支持され受け入れられるような反近代精神というのは、南部が北部から搾取され続けているという状況から生まれているともいえる。しかし、奴隷制度を正当化し守ろうとする悪魔的思考は、この純朴な南部の人民から発生していることも確かなのだ。
D.W.グリフィスの歴史的大作『國民の創生』は、KKKを英雄的に描いた問題作でもあるが、タランティーノは『ジャンゴ 繋がれざる者』にてその描写をギャグにして嘲笑している。
『國民の創生』にも描かれたように、見事に壮麗な登場を見せるKKK(当時結成されていないはずだから始祖のような存在として描かれている)は、純朴だが死ぬほどまぬけな奴らだったということを誇張してみせる。
ここでは、タランティーノの得意技である時系列の組み換え演出は、オーソドックスな本編において「オチ」として使用される。

また、本編ではサミュエル・L・ジャクソンが演じた役が最高に面白い。ひどい南部訛りでまくし立てる、下品かつ従順な、腰が曲がった老いぼれの召使いの演技は、志村けんをも髣髴とさせる、コメディアンによる誇張され過ぎたコント風だが、裏では背筋もシャキッとしてギャング風になる。この切り替えがまたコント的で、もう面白過ぎて笑うしかないのだが、この役柄の「二重に演じられた」表の顔が、いわゆる「気のいい黒人」である。
この召使は、もちろん黒人差別観を持っていないだろうが、逆にそのような社会状況を利用し、中間管理職に収まることによって、黒人奴隷制度をむしろ自分の権力の拠り所として、黒人の立場からそれを助長させていく。つまり、「黒人劣性論」なんか毛ほども信じちゃいないのに、立場の確保のために仲間を売るという、二重の意味で悪質な存在である。脚が悪いフリをすることで、おそらくは厳しい労務から逃れようとしていた狡猾な態度が、さらに彼の「偽れる姿」を強調する。
ジャンゴに殺される最後の悪人がこの邪悪な黒人であることは、近年のブラック・ムーヴィーの典型であるともいえよう。
『ゲット・オンザ・バス』などのスパイク・リー監督作品には、白人の価値観に迎合したり、黒人をスポイルしようとする黒人が出てきたり、また『悪党(ワル)にもラブソングを!』などのコメディにおいても、そのような「悪い黒人」の描写が見られる。
白人の横暴への批判に加え、自分達の中の差別、拝金主義、反民主性などを排除するという意志が描かれるようになったというのは、黒人指導者達の演説などで、地位向上のためには黒人側の理性をも必要であるとする思想にもよるものだろう。
また、一部のアフリカ系人種には、黄色人種などアジア人に対して差別を行う者もいる。地位向上を訴えるには、理性と内省もまた必要であろう。

日本人も、この問題に関して、他人事と言って無関心ではいられない。戦中、東アジア侵攻において虐殺や強制連行を行ったこと、そして現在も、アジア諸国に工場を建設して現地人を、日本の労働基準よりもはるかに安い賃金で働かせたり、東南アジア諸国から、老人介護をさせることを目的に人員を集めているのは周知の事実だ。経済格差を利用した国家間の搾取は、プランテーションと同質のものである。だから、当時の(または現在の)ヨーロッパ系の人達による差別意識への無関心というのは、「差別なんか無いよ」なんて言っている我々日本人のそれにもあてはまるといえる。
クリストフ・ヴァルツが演じる、流れ者の歯医者に扮した賞金稼ぎであるドクター・キング・シュルツが、本編において、妻と生き別れになったジャンゴに味方するきっかけとなったのが、その妻がゲルマン民族が信仰していた北欧神話に登場する「ブリュンヒルデ」に似た名前だったという民族的なものだったが、彼が白人でありながら、「非アメリカ人」であったという設定は、アメリカの異常性を外部の目にさらすということで客観性を持たせるという意味があったはずだ。
ある国家における社会通念の異常性に気づくためには、グローバルな視野や歴史的な知識を獲得しなければならない。
そのような意味で、『ジャンゴ 繋がれざる者』は、西部劇としては今までに無い徹底さで、最もリベラルな印象を受ける作品になっている。

このタランティーノの試みに異を唱えたのが、黒人差別問題の映画を撮り続けてきた監督、スパイク・リーだ。

 

彼のツイッターでの発言は、「アメリカの奴隷がされたことは、セルジオ・レオーネのスパゲティ・ウェスタン(マカロニ・ウェスタン)なんかじゃない。自分の先祖はアフリカから誘拐され虐殺された。彼らを誇りに思う」というもので、また、「『ジャンゴ 繋がれざる者』を観るつもりはない」とインタビューで語っている。
つまりは、奴隷問題をエンターテイメントの素材として使用するのが不謹慎だというわけである。
主演したアフリカ系の俳優、ジェイミー・フォックスはこれに対し、「スパイク・リー監督は、(差別問題で社会活動をしている)ウーピー・ゴールドバーグや、(黒人社会の問題について取り組む劇作家)タイラー・ペリーにも文句を言っている。彼は独特の道を進んでるのだろう」「映画を観ないで批判するのは無責任だ」とコメントした。
とはいえ、確かにスパイク・リーの意見には説得力がある。タランティーノは『イングロリアス・バスターズ』においても、ナチスによるユダヤ人虐殺を、「キル・ビル」よろしく復讐劇として描いたが、それら史実に存在する民族的な事件を、娯楽表現として提出するのは、当事者でない私が見ていても、確かにいくらかの抵抗を感じる箇所である。
デリケートな問題そのものをテーマにするのでなく、それを素材の一部にしてしまうという点で、『イングロリアス・バスターズ』は、『シンドラーのリスト』とは明らかに扱い方が違う。
確かに、ナチス党員が集団で殺害される復讐シーンや、ジャンゴが鞭を振るって、黒人を迫害する白人をしたたかに痛めつけるシーンは爽快だ。「スカッとすれば良い」「面白ければ良い」とする意見もあるが、『イングロリアス・バスターズ』や『ジャンゴ 繋がれざる者』を、本当に何も考えずそのまま楽しめる観客がいるとしたら、さすがに無邪気過ぎるように感じる。
この問題は、タランティーノの二作品において、小骨のように喉に引っかかる。またスパイク・リーのように露骨に不快感を示されてしまうケースがあったとしても、仕方が無いことではないか。
苛烈な奴隷状況を描いてしまった以上、本作は本質的な意味でマカロニ・ウェスタンとは性質が異なってしまった。
本編において、南部の邪悪な連中はジャンゴによって処刑され、カタルシスを得るようなつくりになっているのは、タランティーノが愛するようなブラック・エクスプロイテーション、『コフィー』や『フォクシー・ブラウン』のような復讐劇に置き換えているということが最も大きいように思われる。

そして、そこにやはり齟齬が生じているように思われる。現実に存在した差別を、暴力によって駆逐してしまうというのは、真剣に奴隷問題に向き合ったとき、やはり適当とは思われない。キング牧師など黒人指導者達が訴えた、偉大な「理性ある解放」に反する、暴動賛美のような印象を受けてしまう。
であれば、民衆により応援されたKKKの凶行を賛美してしまった『國民の創生』の理念とさして変わりないことになってしまわないだろうか。

『マンディンゴ』の主人公である牧場主の息子は、それでも比較的黒人奴隷には親切に振舞っていて、とくに性奴隷として選んだ黒人女性を優しく扱っていたのだが、妻がそのことへのあてつけのために格闘奴隷と性的関係に及んでいたことを知ると、その奴隷が関係を強制させられていたことを知りながら、彼にむごたらしい復讐をしようとする。
ここでは、白人優位社会にあぐらをかきながら、黒人奴隷から「いい人」だと思われようとする二重の下衆さを発揮する、南部の白人の根底にある差別意識を暴いている。つまり、いい白人も悪い白人も、この根源的差別意識から逃れられないのではという、強烈な問いが押し出されていることになる。この救いの無い徹底ぶりが、『マンディンゴ』を比類ない名作の位置に押し上げている要因だ。
黒人差別問題という観点から比較すると、ドクター・キング・シュルツというリベラリストに救われたり、ガン・アクションや白人への鞭打ちなどで溜飲を下げるように描かれてしまう『ジャンゴ 繋がれざる者』の無邪気さと足腰の弱さが際立ってしまうことになる。

しかし一方で、このことが不謹慎にもならないような社会だったら、どんなにいいだろうかとも思う。アメリカの犯罪を、白人の論理で美化しない映画が多く撮られていたら。アメリカの各国における政治的犯罪、戦争犯罪が、近年の『アルゴ』や『ゼロ・ダーク・サーティ』のような生ぬるいものでなく、徹底した批判精神にあふれた作品にあふれていたら。
そのような社会が達成されていれば、『ジャンゴ 繋がれざる者』は、ひとつのたわい無い「復讐劇」の表現であっただろう。そのようにチャレンジングでない映画をタランティーノが撮るかどうかは別として…。

ここでは、レコードの「A面、B面」にかけて、『ジャンゴ 繋がれざる者』の黒人奴隷問題についての取り組みを「SIDE-A」として述べた。
本作における他の取り組みについては、別途「SIDE-B 捨て去られるポストモダン」にて詳述したい。

 



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